今回の記事は長島一向一揆との最後の戦いである天正2年(1574)に、織田信長が家臣の河尻秀隆へ宛てた書状を紹介します。
そこから話を広げ、当時の織田家の諸将がどのように動いたのか。
さらに、この時期の『信長公記』がどの程度信用の置ける史料なのかを探ります。
今回もいつものように書状の解読のほか、時代背景も合わせて解説します。
河尻秀隆と信長の関係性
河尻秀隆という人物は、信長よりも8つほど年上の大永7年(1527)生まれとされ、古くから織田家に仕えていました。
通称は与兵衛。
与四郎や鎮吉、肥前守の名乗りは一次史料(「そのとき」「その場で」「その人が」記した史料)からは確認できません。
『信長公記』によると永禄元年(1558)11月に信長の舎弟勘十郎信勝を誘殺したのが秀隆であったと記されています。
その後の秀隆は信長の親衛隊ともいえる馬廻衆として活躍。
美濃堂洞城攻めで戦功があり、同じ時期に黒母衣衆の筆頭に抜擢されるエリートでした。『高木文書・信長公記』
元亀元年(1570)の姉川の合戦以降、秀隆は佐和山城の磯野員昌を封じるためにしばらく丹羽長秀と行動しています。
佐和山城が降ったあとは、長秀とともに高宮左京亮を誘殺。『信長公記』
甲斐武田家との関係が険悪になった際は織田信広とともに東美濃に進駐し、一時岩村城を占拠するも、まもなく追い出されてしまいました。『河田重親宛上杉謙信書状写など』
長篠合戦図屏風の河尻秀隆(徳川美術館蔵)
これらのことから、信長の親衛隊として槍働きをしつつ、侍大将格の織田家重臣に臨時で付き、信長の意向を伝達する戦目付(軍監)的な役割であった可能性があります。
そうした実績があったからなのか、信長が岐阜城と濃尾大半の軍事指揮権を嫡男の信忠に譲った際、経験豊富な秀隆は信忠に付されています。
天正2年(1574)2月に武田勝頼が東美濃の明知城を陥れた後は、池田恒興とともに抑えの城将として入れ置かれました。
今回紹介する書状は、天正2年(1574)7月23日付けで織田信長が河尻秀隆に宛てて、伊勢長島一向一揆戦の様子を伝えたものです。
伊勢長島一向一揆戦とは何か、この時秀隆はどこにいたのか、信長公記との矛盾等の疑問点は、当史料の解読の後に述べることとします。
長島一向一揆戦の様子を秀隆へ伝えた書状
おおまかに述べますと、長島一向一揆戦とは戦国時代末期に尾張国長島を拠点とした一向一揆勢力と織田信長との軍事衝突のことを差し、元亀2年(1571)から天正2年(1574)の4年間で、実に3度信長直々の出兵が行われました。
3度目の出兵の際には、一向一揆勢が降伏を申し入れたにも関わらず、信長がそれを受け入れて彼らを砦から出した後、撫で斬りを敢行したと『信長公記』には記されています。
今回記事にしているのは、最後の出兵にあたる天正2年(1574)のものとなります。
原文
今回の書状はいわゆる写しですので比較的読みやすく、信長の朱印等は手書きっぽさがあります。
(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写(東京大学史料編纂所所蔵文書)『玉証艦 三』
やや文字数が多いので、画像を2つにわけて説明したいと思います。
(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写a
(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写b
釈文
(a)
先書ニ申ことく、此表之事、
弥存分ニ申付候、種々一揆共
懇望仕候へとも、此刻可根切
事候之間、不免其咎候、
仍其表之事、万事無心元候、
殊ニ小野之義、詮候間、聊無
由断、機遣簡要候、當城
之義も、普請已下少も無越度
(b)
様ニ、可被出精事㐧一候、此方ニ
候へとも、心ハ其方事のミ案
入候、其表詮候間、如此申届候
事候、近日可開陳之条、
心事期面談候、謹言
七月廿三日 信長(朱印写)
河尻与兵衛尉殿
この書状を朗読させてみました。
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補足
ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で説明させていただきます。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。
(a)
1行目の「先」・「此」・「事」、2行目の「分」・「共」、3行目の「懇望」は、どれもくずしが原型を留めていませんが、これが基本のくずし方になります。
いずれも頻出する字ですので、最優先で覚えることをおすすめします。
3~4行目の「此刻可根切事候之間、」
「此刻」は”この時”ではなく「このきざみ」と読みます。
「可(べき)」が返読文字となりますので、「このきざみ、根切るべき事に候の間」となります。
「根切る」とは撫で斬りにする、あるいは根絶やしにするいう意味です。
織田信長はしばしば残虐な主君として描かれがちですが、現在の価値観からこの時代を見るのは考えものです。
こうした残虐行為は政治的なデモンストレーションという側面を持ちますので、織田信長という個人の人格と、指導者としての性格は分けて考えた方が良いでしょう。
5行目の「無心元候、」
「心」が読めないかもしれません。
実はこれも基本的なくずしなのですが、”尤(もっとも)”とよく似た字なので注意が必要です。
「無」が返読文字ですので、「心元無く候」となります。
ここでは「元」としていますが、”心許”と記される場合もあります。
6~7行目の「殊ニ小野之義、詮候間、聊無由断、」
申し訳ありませんが、「小野」が何を指すのかわかりません。
「野」の字はこのように原型を留めないくずしをする場合が多いので、理屈抜きで覚えた方が良さそうです。
「義」という字は本来ならば「儀」です。
このように古文書では、相手に伝わり、かつ音さえ合っていれば、どの字を用いても誤りではなかったようです。
例:不思寄(不思議)など
同じ理屈で「詮」は本来ならば「専」となります。
すなわち、「殊に小野の儀、もっぱらに候間」と読む必要があるのです。
では次はどうでしょうか。
「聊無由断、」
この論理でいうと「由断」は「油断」となりますね。
「聊」はこれ一文字で”いささかも”と読みます。
「無」が返読文字ですので、「いささかも油断無く」と読みます。
この部分を読み下すと
「殊に小野の儀、もっぱらに候間、いささかも油断無く」
つまり
「ことに小野の件については専らだとする風説があるので、いささかも油断のないように」といった文意になります。
(河尻の正確な所在が不明、且つ小野が分からない以上、何が専らなのかわからない)
7行目の「機遣簡要候、」
これはどれも難しいですね。
先の当て字の論理でいえば、「機遣」は「気遣」となります。
「簡要」が1字でスペースを取りすぎていて、一見すると2文字に見えないかもしれませんね。
漢字を分解してみるとこのようになります。
「簡要候」のくずし字
たけかんむり、もんがまえ、日、女、候とどれも基本通りです。
なお、「簡要」は”肝要”と記される場合もあります。
4行目の「近日可開陳之条、」
「可(べき)」は返読文字ですので後で読みます。
「開陳(かいじん)」これは当て字となります。
正確な漢字は「開陣」です。
しかし、もともと古代中国から伝わった漢字は「陳」の方だったらしく、どうやらこの時代も「陳」と「陣」では明確な違いはなかったようです。
思えばコンビニなどの商品の”陳列”と、合戦の際に隊形を整える際の”陣列”に大きな差はないのかもしれません。
ここの部分を読み下すと
「近日開陣すべきの条、」
となります。すなわち
「近日中に決着をつけて陣を引き払うつもりであるが、」
といった文意になります。
5行目の「心事期面談候、」
「心事期」はどれも原形をとどめていませんが、基本通りのくずしです。
「期」の旁部分である”月(にくづき)”は、ひらがな”る”のようの下で一旦巻く傾向にあります。
今回はこの字が返読文字となりますので、あとで返って読みましょう。
なお、「心事」は心に思うことという意味です。
「期面談(めんだんをきす・めんだんをきし)」は古文書でよく登場するもので、直接お会いましょうという意味です。
読み下すと
「心事は面談を期し候。」すなわち
「この信長が心に思うことは、直接会って伝えよう」
といった文意になります。
もっと噛み砕いて「また会おう。」としても良いでしょう。
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原文に釈文を記してみた
(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写+釈文a
(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写+釈文b
書き下し文
(a)
先書に申すごとく、此の表の事、いよいよ存分に申し付け候。
種々一揆共懇望仕り候へども、此の刻み根切るべき事に候の間、その咎を免さず候。
仍って其の表の事、万事心元なく候。
殊に小野の儀、専らに候間、いささかも油断無く、気遣い肝要に候。
当城の儀も、普請以下少しも落度なきの
(b)
様に、精を出さるべき事第一に候。
こなたに候へども、心は其の方の事のみ案じ入り候。
其の表専らに候間、かくの如く申し届け候事に候。
近日開陣すべきの条、心事は面談を期し候。謹言
七月二十三日 信長(朱印写)
河尻与兵衛尉殿
原文に書き下し文を記してみた
(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写a+書き下し文
(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写b+書き下し文
現代語訳
先書で述べたように、こちらのことは存分に励むように申付けた。
一揆勢はいろいろと和議の申し入れをしてきたが、信長は彼らを根絶やしにする決意であるから、決して許容することはない。
心配なのはそなたの方面でのことだ。
ことに小野の件については専らだとする風説があるので、いささかも油断のないように気をつけることが肝要である。
そなたが詰める城も、普請に一切の手抜かりの無いように腐心せよ。
信長の身は長島にあっても、心はそなたのことのみを案じている。
こちらは近日中に決着をつけて陣を引き払うつもりである。
また会おう。敬具
(1574年)7月23日 信長
河尻秀隆殿
伊勢長島の特殊な地形
伊勢長島とは尾張国と伊勢国の国境のデルタ地帯にあり、戦国期にも大小さまざまな島から構成された特殊な地形でした。
長島に存在する願証寺を中心に、各島には砦や寺が築かれます。
また、島を丸ごと堤で囲んで水害から守る「輪中(わじゅう)」という独特の文化が生まれました。
江戸時代末期の長島付近の図
後に織田信長の側近を務めた太田牛一の『信長公記』にはこのように記されています。
そもそも尾張国河内長島と申すは、隠れ無き節所なり。濃州より流れ出る川あまたへ、岩手川・大瀧川・今洲川・眞木田川・市の瀬川・くんぜ川・山口川・飛騨川・木曾川・養老の滝このほか山々の谷水の流れ末にて落ち合い、大河となって長島の東北西五里三里の内、幾重ともなく引き回し、南は海上漫々として、四方の節所と申すは中々愚かなり。
これにより、隣国の侫人凶徒ら相集まり住宅し、当寺崇敬す。
本願寺念仏修行の道理をば本とせず、学問無智ゆえ栄華に誇り、朝夕乱舞に日を暮らし、俗儀数か所端城を拵え構えば、国方の儀を蔑む如くに・・・
『信長公記巻七 河内長嶋一篇に仰付けらるるの事』より抜粋
濃尾平野の西部は少しの起伏も含まない国内屈指の水平な地形となっているようです。
このあたりは古来から水害が多く、当地にある長島町輪中の郷博物館の展示には、天文3年(1534)から戦後の伊勢湾台風までの災害一覧表に80件ほどが列挙されています。
また、土地が海よりも低い海抜マイナス地帯ということもあり、一度水が入ったらなかなか引いてくれないという特徴があります。
長島一向一揆 信長が「根切り」を行った一つの説
実のところ、長島一向一揆戦は諸説あり、あまりよくわかっていません。
というのも、一次史料と信長公記・勢州軍記等との矛盾点が数多く存在するため、なかなか確定には至らないのが現状です。
そのため、現在でも学者先生の間でさまざまな議論を呼んでいます。
特に第一回目の出兵にあたる元亀2年(1571)の出陣では、織田信長が徳川家康と幕臣の大舘上総介へ宛てた書状の内容(一揆が詫言を申してきたので許して撤兵した)と、信長公記の記述(柴田勝家負傷、氏家ト全戦死など惨敗)とで大きな齟齬があります。
(史料1)
当家の儀に就きて示し給い候。
本望の至りに候。
彼の一揆原所々に立て籠るの間、攻め殺すべきの処、種々詫言せしむるにより、赦免せしめ候。
就中其の方の人数の事承り候。
御懇慮の趣き、少なからず候。
委細□□□申し含むるの条、僟に能わず候。恐々謹言
五月十六日 信長(花押)
大館上総介殿
進之候
(元亀二年)五月十六日付織田信長書状『牧田茂兵衛氏所蔵文書・尾張国遺存織田信長史料写真集』
このことから、中世日本ではありがちな指導者信長の政治上での大言壮語であった可能性が考えられます。
その一方で、もし両書状の内容が真実で、信長公記の記述も真実だと考えた場合、恭順講和の約定を成立させた後の5月16日に一揆側が背約し、突如織田陣所を急襲した結果の惨敗であった。
つまり、両書状はそれよりも前に出されたものである可能性もあります。『(元亀二年)五月十三日付織田信長書状写(徳川家康宛)』・『(元亀二年)五月十六日付織田信長書状(大舘上総介宛)』
もし仮りにそうであるならば、同年6月13日付けで信長が家臣の猪子高就に一向一揆の殺害を命じた書状、同月18日と20付けで猪子高就に一向一揆衆を始末した成果に感謝を述べた書状も理解できます。
さらに、最後の出兵となった天正2年(1574)の戦いで、信長が講和開城の約定を反故にして根切りしている事実を考えると、これは政治上の報復措置として考えることができ、一応の辻褄は合います。
しかしながら、これも推測による部分が多く、現段階では複数あるうちの一つの説に過ぎないでしょう。
この時河尻秀隆はどこにいたのか 信長公記から見える矛盾点
冒頭で河尻秀隆は軍監的な立場として、織田信忠の補佐役のような役割を果たしていた可能性があると述べました。
『信長公記』には天正2年(1574)7月14日の伊勢長島へ攻め込んだ面々の中に、河尻秀隆(河尻輿兵衛)の名があります。
しかしながら、今回記事にした史料の『(天正二年)七月二十三日付け織田信長朱印状写』では、河尻がその場にいなかったことは明らかでしょう。
その場にいたならば、あえて戦況の詳細を記す必要がないからです。
実は、数日後に信長は秀隆にもう一通書状を発しています。
(史料2)
河うち敵城共落居之躰、其方へ相聞候由候、慥其分候、男女悉撫斬ニ申付候、身をなけて死候者も多候由申候、願証寺これも落居程有間敷候、色々わひ候けにて候、中々取上ましき由、堅申付候間、可為根切候、其方無異儀之由可然候、弥城共番手事、不可有油断候、河うち討果候て、ふと其方可見廻候、越後より信州へ出張事も可為其分候、奥州より鷹共多上候、為可見一昨日岐阜へ越候、明日則可打帰候、陣取等事、丈夫ニ申付候次第ミせ度候、万端可心安候、謹言、
八月七日 信長(花押)
河尻与兵衛尉殿
(読み下し)
河うち敵城共落居の躰、其の方へ相聞こえ候由に候。
確かに其の分に候。
男女悉く撫で斬りに申し付け候。
身をなげて死候者も多く候由申し候。
願証寺これも落居程有るまじく候。
色々わび候げにて候。
中々取り上げましき由、堅く申し付け候間、根切りたるべく候。
其の方異議無きの由然るべく候。
いよいよ城共番手の事、油断あるべからず候。
河うち討ち果たし候て、ふと其の方を見廻るべく候。
越後より信州へ出張の事も其の分たるべく候。
奥州より鷹共多く上り候。
見るべきために一昨日岐阜へ越し候。
明日すなわち打ち帰るべく候。
陣取り等の事、丈夫に申し付け候次第、みせたく候。
万端心安かるべく候。謹言
(天正二年)八月七日 信長(花押)
河尻与兵衛尉殿
『(天正二年)八月七日付け織田信長書状』(富田仙助氏所蔵文書)
この書状を朗読させてみました。
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河うちとは大坂の河内国ではなく、伊勢長島の河内です。
ここには降伏を申し入れてきた一揆勢を根切りにする決意があると記されています。
越後より信州へ出張とあるのも興味深い点です。
というのは、この時期に信長は越後の上杉謙信から武田勝頼を攻めるよう催促を受けているからです。
勝頼はこの当時、遠江の徳川領を攻めており、これより少し前の2月には東美濃の明知城一帯を、5月には遠江の高天神城をいずれも調略を用いて陥れています。
信長は上杉謙信への返書として
- 上杉殿から武田勝頼を撃滅するために共同して攻めようと催促されたが、畿内・江北・越前方面のことで手一杯のため今は難しいこと。
- 四郎(勝頼)は若年だが、信玄の掟をよく守り、表裏あるから油断できないこと。
- 当国(武田領)への作戦は江・尾・濃・三・遠の軍勢で出陣するから、上方の作戦はさらに西国へは展開しないこと。
などを伝えています。『(天正二年)六月二十九日付け織田信長朱印状(上杉謙信宛)』(上杉家文書)・『(天正二年)七月一日付け武井夕庵副状(長景連宛)』
では、この時河尻秀隆はどこにいたのでしょうか。
本当に信長公記の記述は正しいのでしょうか。
ここで、一つの手がかりとなり得るのは佐久間信盛の行動です。
『信長公記』によると、佐久間信盛は7月13日前後に柴田勝家らとともに伊勢長島攻めに従軍しています。
その後は『公記』の記述ではありませんが、戦場を離れて9月9日に上洛。
14日に京都の東寺へ陣取りおよび兵の寄宿を禁止する旨の禁制を発給し、16日に河内国(大坂)へ出陣しています。
そして18日に明智光秀・長岡藤孝の軍と合流。
河内飯盛山で三好軍や一向一揆勢を打ち破り、翌19日に萱振砦を攻略する活躍を見せています。『年代記・東寺文書・細川家文書』
このことから、これまでの秀隆の実績を考慮すると、今回も河尻は軍監的な役割で侍大将クラスの佐久間信盛に帯同し、信長との連携を取り持っていたのではないかと推測することができます。
すなわち、『公記』には初期に出陣したメンバーは書いてあっても、途中で戦場を離れた諸将については書いていなかったのではないか・・・ということです。
あらゆる可能性を考慮すると、もともと上方方面にいた荒木村重や明智光秀・長岡藤孝らだけでは対処できないほど本願寺・三好勢の勢いが膨れ上がった。
戦況を巻き返すべく河尻秀隆は、佐久間信盛と同じく7月13日から23日の間に伊勢長島を離れて上方へ出兵したのかもしれません。
従って、『信長公記』の記述は必ずしも誤りではないものの、言葉足らずで完全ではないとも考えられます。
なお、この時期に明智光秀が摂津表の詳細な戦況を信長に報告しており、これを受けて信長は「書中具ニ候へハ、見る心地ニ候」と返すという光秀の几帳面さが垣間見える史料が遺されています。『(天正二年)七月二十九日付織田信長書状』(細川家文書)
天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆戦を時系列で追う
ここでは、最後の戦いとなった天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆戦を一次史料と『信長公記』から時系列で追っていきます。
次の章では「織田陣営で参戦した武将」を載せています。
そこからは、東の武田勝頼が驚異的な侵攻を進めていたにも関わらず、なぜ信長は討伐を先送りにしたのか。
先述したように、上杉謙信から出陣の催促があったにも関わらず、なぜお茶を濁したような返書を出したのかが見えてくるような気がします。
なお、天正2年(1574)に入ってから長島一向一揆戦に至るまでの『信長公記』の記述は下記のタブ内をご参照ください。
天正2年(1574)
1月1日 京都および近隣諸国の諸将たちが岐阜に参集し、各々に参賀の挨拶を受ける。
諸国衆たちが退出した後、御馬廻り衆たちのみの宴の席にて、昨年討ち果たした朝倉義景(左京太夫義景)の首、浅井久政(下野)の首、浅井長政(備前)の首、以上三つを薄濃にして御肴に出されて、御酒宴や謡、遊興で盛り上がり、信長公の御気分も斜めならぬ御様子であった。
1月19日 越前国守護代前波吉継(播磨)が一揆衆に攻め殺されたとの報せが信長の耳に届く。
越前の異変を鎮めるために、信長は羽柴秀吉(筑前守)、武藤舜秀(宇右衛門)、丹羽長秀(五郎左衛門)、不破光治(河内守)、同直光(彦三)、丸毛長照(兵庫)、同兼利(三郎兵衛)加えて若狭衆を敦賀へ派遣。『信長公記』
1月27日 甲斐の武田勝頼(四郎勝頼)が美濃へ侵攻。
明知城を取り囲む。『信長公記』
2月1日 信長、濃尾両国の諸将を後詰として派遣。『信長公記』
2月5日 信長・信忠父子も出陣。
御嵩(三たけ)に布陣。『信長公記』
2月6日 高野に兵を進めるも、飯羽間右衛門(いヽはさま右衛門)が武田方に降り明智城等が落城。『信長公記』
・信長、抑えの城として高野城に河尻秀隆(輿兵衛)、小里城に池田恒興(勝三郎)を定番として入れ置き城の普請を行う。『信長公記』
2月24日 信長父子、岐阜に帰城。『信長公記』
3月12日 信長、上洛のために岐阜を出発。
近江佐和山に入り2~3日間同地に滞在。『信長公記』
3月16日 近江永原泊。『信長公記』
3月17日 志賀より坂本へ渡海。『信長公記』
・信長上洛。
相国寺に泊まり、東大寺の蘭奢待切り取りの勅許をえるために参内。『信長公記』
3月26日 勅使として日野輝資、飛鳥井大納言が派遣され、東大寺へ勅命を伝える。『信長公記』
3月27日 信長、奈良多聞山城(多門)へ移り、蘭奢待切り取りの奉行として塙直政(九郎左衛門)、菅屋九右衛門(菅屋長頼)、佐久間信盛(右衛門)、柴田勝家(柴田修理)、丹羽長秀(五郎左衛門)、蜂屋頼隆(兵庫頭)、荒木村重(荒木摂津守)、武井夕庵(夕庵)、松井友閑(友閑)、そして津田坊が任ぜられた。『信長公記』
3月28日辰の刻 6尺の長持ちに納められていた蘭奢待を多聞山城へ運んで切り取り、馬廻の衆にも披露する。『信長公記』
4月3日 大坂で石山本願寺が兵を挙げる。
信長、軍勢を派遣して田畑作毛を刈り捨て、近辺を放火。『信長公記』
4月13日 近江石部城に籠城中の六角承禎(佐々木承禎)、夜雨に紛れて城を脱出。
佐久間信盛(右衛門)を入れ置く。『信長公記』
5月5日 信長は京都賀茂社の神事に競わせる馬を出してほしいとの要請を受け、歴戦の合戦を切り抜けてきた葦毛の馬と鹿毛の馬、その他馬廻の駿馬併せて20頭を提供。
さらに信長は20頭分の馬具を全て揃えさせた。
神事では黒装束の禰宜10人と赤装束の禰宜十人が二十頭の馬を走らせて競わせた。
その結果、信長の葦毛・鹿毛の馬がいずれも勝ち馬となった。
賀茂社の祭りは滞りなく終わる。
その後、信長は京都での政務を執り行う。『信長公記』
5月28日 信長、岐阜へ帰る。『信長公記』
6月14日 武田勝頼(四郎勝頼)、徳川方の遠江高天神城を攻撃。
この注進を聞いた信長は、嫡男信忠とともに岐阜を出陣。『信長公記』
6月17日 三河国吉田城に着陣。『信長公記』
6月19日 遠江今切の渡しへ差し掛かったところで、小笠原弥八郎が武田方に内応し、高天神城が陥落したことを聞く。
・信長、ひとまず吉田城へ退却。
徳川家康とも対面し、兵粮代として黄金入りの革袋二つを馬につないで贈る。『信長公記』
6月21日 信長父子、岐阜へ帰る。『信長公記』
7月13日 伊勢長島攻めのため、信長父子出陣。
その日は尾張津島に着陣。(河内長島御成敗)『信長公記』
東からは御嫡男信忠殿(菅九郎)が一江口を越え進み、織田信包(上野介)・津田秀成(半左衛門)・津田長利(又十郎)・津田信成(市介)・織田信次(津田孫十郎)・斎藤利治(新五)・簗田広正(左衛門太郎)・森長可(勝蔵)・坂井越中守・池田恒興(勝三郎)・長谷川輿次・山田三左衛門・梶原平次・和田新介・中島豊後守・関小十郎右衛門・佐藤六左衛門・市橋傳左衛門・塚本小大膳がそれに続く。『信長公記』
西の賀鳥口からは佐久間信盛(右衛門)・柴田勝家(修理亮)・稲葉一鉄(伊予守)・同貞通(右京助)・蜂屋頼隆(兵庫頭)松之木の渡りを渡河して対岸で防備を固めていた一揆勢を馬上より数多切り捨てる。『信長公記』
信長公は中筋の早尾口(はやを口)を進み、木下長秀(小一郎)・浅井新八・丹羽長秀(五郎左衛門)・氏家直通(左京助)・安藤守就(伊賀伊賀守)・飯沼勘平・不破光治(河内)・同勝光(彦三)・丸毛長照(兵庫)・同兼利(三郎兵衛)・佐々成政(蔵介)・市橋九郎左衛門・前田利家(又左衛門)・中条将監・河尻秀隆(輿兵衛)・津田信広(大隈守)・飯尾隠岐守が小木江村で敵を蹴散らす。『信長公記』
一揆勢はさらにこだみ崎の河口で防戦するも、丹羽長秀がこれを数多討ち取り突破する。
信長公はこの日五妙にて野営。『信長公記』
7月15日 九鬼嘉隆(右馬允)、滝川一益(左近)、伊藤三丞、水野監物らは安宅船に、島田秀満(所助)、林秀貞(佐渡守)は囲い舟から蟹江・荒子・熱田・大高・木多・寺本・大野・とこなべ・野間・内海・桑名・白子・平尾・高松・阿濃津・楠・ほそくみの兵を乗せて攻める。
また、国司北畠具豊(御茶筅殿)も垂水・鳥屋野尻・大東・小作・田丸・坂奈井の兵を大船に満載して参陣。
織田勢は諸口から攻め上り、追い詰められた一揆勢は妻子を引き連れて長島へ落ち延びる。『信長公記』
・信長父子、伊藤の屋敷近くに陣を構えて、自ら馬を駆け出して下知を出す。『信長公記』
・一向一揆勢が篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島の五所に立て籠もる。『信長公記』
・ここでは大鳥居攻めに佐久間信盛父子らが加わっている様子が記されている。『信長公記』
7月21日 前田利家が賀籐順盛に宛てて長島から来た女子を引き取る旨の書状を発す。(加藤景美氏所蔵文書)
7月23日 信長が河尻秀隆へ長島一向一揆根切りの意思を伝達(今回の書状)(玉証鑑)
同日 信長が荒木村重へ宛てて黒印状を発す。
・一戦に及んで敵を打ち破ったこと。
・少々味方が討死したけども、古今の習いなので仕方のないこと。
・まもなく長島一向一揆を制圧すること。
を伝える。(徳富猪一郎氏所蔵文書)
7月24日 信長が筒井順慶へ宛てて、まもなく長島一向一揆を制圧すること、近日上洛して申し伝えたいことがあることを伝える旨の黒印状を発す。(古文書集 三)
7月27日 明智光秀、上方の情勢を的確に記した書状を信長へ送付。
7月28日 信長が近江国多賀社神宮寺不動院へ宛てて黒印状を発す。
・牛王宝印や札、巻数などを受け取ったことに対しての返礼。
・長島の陣中見舞いへの礼(多賀神社文書)
7月29日 去る27日に光秀が送った書状を読んだ信長が、光秀へ返書を認める。
・光秀の書状に対し「書中具に候へば、見る心地に候」と称賛。
・長島一向一揆が籠る伊勢国篠橋・大鳥居両城の包囲と落城の見込みなど(細川家文書)
8月2日夜 大鳥居に籠城中の一揆勢が風雨に乗じて城の脱出を図るも、織田勢がこれを発見し、男女千人余りを討ち取る。『信長公記』
8月3日 信長、長岡藤孝へ黒印状を送付。
・(藤孝の報告によると)去る30日に河内国の三ヶ城が遊佐信教・三好康長らに攻められるも、撃退に成功したこと。
・引き続き油断のないようにすること。
・伊勢長島の戦況は、敵方の端氏の砦を追い散らし、長島の一か所に追い詰めたこと。
・近日中にこの戦いは終わるであろうこと。
・津田(信澄か)のことについて、上洛した際に相談したいこと。(細川家文書・寛永諸家系図伝)
8月5日 信長、長岡藤孝へ長島一向一揆が籠る大鳥居城落城を伝える旨の朱印状を送付。(細川家文書)
8月7日 信長、河尻秀隆へ書状を送付。
・伊勢長島の男女僧俗を撫で斬りに命じたこと。
・願証寺の落城は間近であること。
・降伏を申し出てきているが、根切する意思があること。
・この陣が終わると秀隆の陣中を見廻ること。
・上杉謙信が武田領の信州へ攻め入ることは当分ないであろうこと。
・奥州から鷹が送られてきたので一昨日岐阜に帰ったが、明日長島に戻ること。
・この堅固な陣地を秀隆に見せてやりたいこと。(富田仙助氏所蔵文書)
8月9日 信長、若狭の本郷信富へ陣中見舞いとして贈られた干鮭20尺への感謝する旨の黒印状を送付。(本郷文書 七・古文書)
8月12日 篠橋に籠城中の一揆勢、信長に忠節を約束して内応を申し出る。
信長、彼らの一命を助け、長島へ追い入れる。『信長公記』
8月17日 信長、長岡藤孝へ黒印状を送付。
・上方の戦闘のことで、事実であるならば出陣するのがよいこと。
・伊勢長島は江河一重のていたらくであること。
・色を変え様を変えて詫言を申し入れてきているが、火急に始末をつけねばならないので認めないこと。
・大坂の本願寺顕如(大坂坊主)は長島の一揆と関係があると言われて迷惑しているらしいとのこと。
・上方の戦略については明智光秀とよく相談すること。
・近日信長自ら上洛して摂津河内を片付けること(細川家文書)
9月22日 信長、長岡藤孝へ黒印状を送付。
・去る18日(実際は17日)に河内飯盛山で(佐久間信盛・明智光秀・長岡藤孝らが)一揆衆を討ち捕らえ、(信長の下に)首が届いたこと。
・近々信長が上洛し、彼らを討ち果たすこと。
・その際は馳走が専一であること。(細川家文書・寛永諸家系図伝)
9月24日 信長、長岡藤孝へ黒印状を送付。
・萱振で討ち取った首が到着し、検分を行ったこと。
・粉骨の働きをしてくれたことは感悦極まりないこと。(細川家文書・寛永諸家系図伝)
9月29日 籠城約三か月。兵糧が尽き、飢え果てた一揆衆が降伏を申し入れる。
降伏を許された一揆勢が、城から出て各々舟で退去しようとしたところ、織田勢が彼らに鉄砲を浴びせて総攻撃を行う。
織田勢の違背を知った一揆勢が死ぬ物狂いで織田勢へ襲いかかり、一門衆ら多数が討死する。
この失態をみた信長は、残る中江・屋長島の両砦に対しては柵を幾重にも巡らして、籠城中の一揆勢二万人余りを焼き殺す。『信長公記』
同日 信長、岐阜に帰陣。『信長公記』
9月30日 信長、某へ長島一向一揆開城の様子を伝えた黒印状を発給。(氷上町所蔵文書)
以上、天正2年(1574)伊勢長島一向一揆戦の一次史料と信長公記を合わせてみました。
こうして時系列で追っていくと、『公記』と一次史料に大きな差異がないように見受けられます。
次は別の観点から見てみましょう。
伊勢長島一向一揆戦 織田陣営で参戦した武将と信長公記の信憑性
この時期の『信長公記』にどこまでの信頼を置けるのか。
今度は織田家の主立った諸将の行動から探ってみましょう。
この時期の織田家は方々で戦いを繰り広げており、主要な武将のうち、羽柴秀吉、明智光秀らは長島の戦いに参陣していません。
また、先述したように佐久間信盛は途中から陣を離れて上方へ転戦しており、河尻秀隆もそれに帯同した可能性があります。
滝川一益
信長が長島陣のとき、滝川一益はこれに従軍。
北畠具豊(織田信雄)らとともに安宅船で海上から攻める様子が記されています。『信長公記』
のちの世の書物では、その後北伊勢5郡を与えられるという大戦功を挙げているようです。『当代記・甫庵信長記など』
柴田勝家
信長が長島陣のとき、柴田勝家はこれに従軍。
大和多聞山城の定番からそのまま伊勢へ出陣。
大鳥居城を佐久間信盛らとともに攻めています。『信長公記』
長島攻めが終った後、同年11月に河内(大坂)へ出陣し、高屋城を攻め、三好康長を降すといった主力級の活躍をしています。『信長公記』
関連記事:久秀敗北 信長が松永父子に突き付けた降伏の条件とは
丹羽長秀
信長が長島陣のとき、丹羽長秀はこれに従軍。
信長とともに早尾口から攻撃に参加。
篠橋での戦闘では、丹羽長秀の攻撃により一揆勢が崩れ立ち、同じ日に前ヶ洲・海老江島・加路戸・いくいら島などの砦が陥落したとの記述があります。『信長公記』
羽柴秀吉
信長が長島陣のとき、羽柴秀吉と菅屋長頼は越前に逗留していたと考えられます。『(天正二年)七月二十日付羽柴秀吉副状(越前法雲寺ほか3氏宛)』(法雲寺文書)
恐らく同年一月に守護代桂田長俊(前波吉継)が富田長繁に殺害され、それに乗じて一向一揆が蜂起した際、秀吉は鎮圧に赴いたものの、もはや手が付けられる状態ではなく、峠を挟んだ敦賀郡を死守していたのではないかと推察。
この時期に樋口直房の捕縛を命じた信長の書状からも、長島へは参陣していなかったでしょう。『(天正二年)八月二十二日付け織田信長朱印状』(賜廬文庫文書)
荒木村重
信長が長島陣のとき、荒木村重、高山友祥(右近)らは石山本願寺の出城である摂津中嶋城攻めを行っていました。
その結果、7月20日に同城は陥落。
信長はこの日の戦況を伊勢長島で入手し、23日に返書をしたためています。『(天正二年)七月二十三日付織田信長黒印状(荒木村重宛)』(徳富猪一郎氏所蔵文書)
戦国時代の大坂古地図中嶋城の位置(推定)
明智光秀・細川藤孝
信長が長島陣のとき、明智光秀・細川藤孝はこれに従軍せず、摂津方面の抑えとして鳥羽付近に在陣していたものと思われます。『細川家文書』
同年7月27日付けで明智光秀が、摂津表の詳細な戦況を信長に報告。
これを受けて信長は「書中具ニ候へハ、見る心地ニ候」と褒め称える書状を発給しています。『(天正二年)七月二十九日付織田信長書状』(細川家文書)
佐久間信盛
信長が長島陣のとき、佐久間信盛はこれに従軍。『信長公記』
しかし、陣中にあった9月9日に上洛し、その後14日に京都の東寺へ陣取りおよび兵の寄宿を禁止する旨の禁制を発給。『東寺文書』
16日に河内(大坂)へ出陣。
18日には明智光秀・長岡藤孝とともに河内飯盛山で三好軍や一揆勢を撃破。
19日に萱振砦を攻略する活躍を見せています。『年代記・東寺文書・細川家文書』
信長公記の信憑性
『信長公記』について歴史学者谷口克広氏の研究によれば、元亀2年(1571)の長島出陣(1回目)が収録されている巻四は誤りが少ない。
天正元年(1573)の出陣(2回目)が収録されている巻六は記述に誤りや矛盾点が多い。
最後に天正2年(1574)の出陣(3回目)が収録されている巻七も全幅の信頼を寄せるにはほど遠い。
と結論づけています。
しかしながら、今回第3回目の伊勢長島一向一揆戦に絞って見てみると、信長公記の記述と一次史料の内容にさほどの矛盾点は感じられません。
なぜならば、この戦いが終わったのが9月29日であること。
一向一揆勢が籠城する大鳥居砦の様子を記した一次史料との一致点。(敵が夜中の風雨に紛れて城を抜け出そうとしたのを発見し、撫で斬りにしたというもの)
7月29日付で信長が明智光秀に宛てた書状での、篠橋・大鳥居両城の陥落が間近であること。
敵が長島・屋長島・中江に逃げ込み、長期の包囲で大半が餓死状態であること。
8月5日付で信長が長岡藤孝に宛てた書状での、去る3日に大鳥井(大鳥居)が陥落した旨を伝えたもの。
さらに、8月7日付で信長が河尻秀隆に宛てた書状での、願証寺の落居が間近であることに加え、一揆を根切りにする決意を伝えたもの。
これらの記述は『信長公記』とかなり近いといえるからです。
しかしながら、矛盾点が全くないわけでもありません。
例えば、『公記』には佐久間信盛が7月13日あたりに柴田勝家・稲葉良通・蜂屋頼隆らとともに香取口松木渡りを攻め、活躍する様子が描かれています。
その後、一次史料では9月9日に上洛し、14日に東寺へ禁制を発給。
16日に河内(大坂)へ出陣。
18日に明智光秀・細川藤孝と合流して河内飯盛山で三好軍および一揆勢を撃破したことになります。
一方、河尻秀隆は『公記』の7月13日前後に早尾口から進軍した信長の先陣にその名が入っています。
ところが秀隆は、7月23日付と8月7日付で信長からの書状を受け取っているので、本当に『公記』の記述が正しいのであれば、少なくとも7月13日から23日の間に、上方への応援として慌ただしく転戦したことになります。
帰趨の見えない合戦初期の段階で、果たして兵力を割く余裕があったのでしょうか。
信長が上方ではなく、長島を攻撃対象に選んだのも、遠江に進撃中の武田勝頼に対して、いつでも出陣できるスタンスをとっていたからではないかとも思います。
これらの要素を考慮しますと、この時期の『信長公記』の記述は概ね信用に値するものではないか。
一次史料と同等の価値とまでは言えないまでも、少なくとも天正2年の長島一向一揆の項に限っていえば、ある程度は信用してよいのではないかと私は考えます。
まとめ
今回はやや長い記事となってしまい申し訳ありません。
はじめは河尻秀隆と織田信長の友情を思わせるエモい記事を書くつもりでいたのですが・・・(^^;)
その上、この当時の河尻秀隆がどこに所在していたのかを明確にすることができませんでした。
これも推測でしかないのですが、今回の書状にある
「仍って其の表の事、」とは、荒木村重と高山友祥(右近)らが一揆勢の籠る摂津中嶋城を7月20日に攻略したことを差し、「当城」は中嶋城防衛のための付城普請を指すと思うのですがね。
それにしても「心ハ其方事のミ案入候、」は面白いですね(^-^
参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2016)『織田信長の古文書』柏書房
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
水谷憲二(2012)「北伊勢地域の戦国史研究に関する一試論(1)-近世に著された軍記・地誌の活用と展望-」,『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』, 40,pp.19-36.
伊藤重信(1976)「長島輪中地域の水害と新田開発の歴史地理(災害の歴史地理)」,『歴史地理学紀要』,18,pp.139-158.
渡邊大門(2019)『戦国古文書入門』東京堂出版
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
羽下徳彦,阿部洋輔,金子達(2008)『別本歴代古案 第1』八木書店
羽下徳彦,阿部洋輔,金子達(2010)『別本歴代古案 第2』八木書店
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
乃至政彦(2016)『戦国の陣形』講談社現代新書
林英夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
など