林秀貞

織田家の筆頭家老・林秀貞に関する記事はコチラ。

通勝という名は通称ではなく、ただの誤りです。

しかし父の名は「通安」。弟の名も「通具」。

つまり、ヨクワカラン

織田信長が出した古文書

河尻秀隆はどこにいた?長島一向一揆戦から見える信長公記の信憑性

伊勢長島一向一揆勢の最後の戦いとなった天正2年(1574)夏。この時期に信長が河尻秀隆へ宛てた書状から、織田の諸将がどのように動いたのか。さらにこの時期の『信長公記』がどの程度信用の置ける史料なのかを探ります。当サイトは戦国時代の面白さを古文書から伝...
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 将軍・足利義昭がついに挙兵

信長の年表11回目です。今回の主な出来事は武田信玄が野田城を攻略、武田軍の快進撃が止まる、将軍・足利義昭が挙兵、細川藤孝の内通、石山・今堅田の戦い、和田惟長乱心、髙山友照・重友父子の暗殺を謀る、織田信長による洛外・上京焼き討ち、鯰江城の戦いと百済寺焼き討ち、武田信玄死去、足利義昭と織田信長間で和議成立などです。

4.織田信長家臣団

林秀貞 織田家宿老の生涯 信長との関係は案外よかった?

家臣団の9人目は「林秀貞」。織田信秀の代からの家老。一度は信長に欺いたものの、その後許されて帰参。主に外交で織田家家老として一番に署名するなど、信長にとって欠かせない家臣であった。そんな彼がなぜ突然追放されたのか。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表のちょっと詳しめ 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで

今回は織田信長の年表2回目です。天文23年(1554)11月から永禄3年5月までとなっております。この間の主な出来事は、叔父信光の死去、守山城の異変、長良川の戦い、弟信勝謀叛、稲生合戦、岩倉織田家のお家騒動、浮野合戦、信勝謀殺、将軍義輝との謁見、岩倉織田家滅亡です^^
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