安土城下で宗教論争!? 織田信忠へ宛てた知られざる信長の直筆書状

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安土城下で宗教論争!? 織田信忠へ宛てた知られざる信長の直筆書状
らいそくちゃん
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今回は織田信長の数少ない直筆書状の一つで、嫡男織田信忠へ宛てた書状を解読します。
実はこの書状の後半部分は安土宗論(しゅうろん)に触れています。

本書状は、今回と次回の2回に分けて取り扱います。
とはいっても、書状自体は全然長い文章ではありません。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

今回は「書状の解読そのもの」と、「安土宗論の顛末」について、ある程度詳しく書いています。

次の記事では、「100貫文の送金を依頼した理由」と、本文に記されている「聟(むこ)とは一体誰なのか?」について書く予定です。

この書状の時代背景

 この書状には干支も日付も記されていませんが、内容と織田信忠の行動から時期を割り出すことができます。
恐らくこの書状を出した時期は、天正7年(1579)5月27日から6月18日の間でしょう。

この時期の織田信長は、広大な勢力と強い経済力を持っており、正二位しょうにい右大臣・右大将まで上り詰めた官位を手放しても、影響力を維持できるほどの権力を持っていました。

目下の敵は甲斐武田氏、毛利氏、越後上杉氏、そして本願寺一向宗でしたが、摂津一円を任せていた荒木村重が裏切り、その対応に追われている時期でした。

安土城

安土摠見寺跡の石段

天正7年(1579)5月には安土城の天主がついに完成し、安土の城下町はますます賑わっていきました。

そんな中、信長の築いた安土城下町で、厄介な宗教論争が沸き起こったのです。

信長が織田信忠に宛てた手紙を解読

 この宗教論争では、信長が指名した奉行の下で浄土宗と法華宗(日蓮宗)が舌戦を繰り広げました。
その結果、浄土宗側が勝利します。

そこで急ぎ現金が必要になったのか、信長は嫡男の織田信忠に安土への送金を求める書状を出しています。
それが今回ご紹介する「天正七年付織田信忠宛消息」です。

この宗論の発端と幕引きは後で述べるとして、まずは書状をご覧いただきましょう。

原文

安土宗論 織田信忠へ宛てた信長直筆の書状(原文)

天正7年付織田信忠宛消息
(大雲院文書)

釈文


其土蔵ニ一万六千貫、其外
可くれさと自の、公用た
王らニ可有之候、彼者ハ除、
六千貫内を万疋此者ニ
可被越候、就中浄土宗、
法花宗宗論、彼い多つら
ものまけ候、委事ハ
聟可申候也、かしく

    城介殿  信

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

原文に釈文を記してみた

安土宗論 織田信忠へ宛てた信長直筆の書状(釈文)

天正7年付織田信忠宛消息+釈文

補足

・まず、「可(べく・べき)」、「被(られ・らる)」、「有(ある・あり)」、「無(なし・なき)」、「以(もって)」、「於(おいて)」、「仍・依・自(よって)」などは返読文字になる場合が多いですので、その点は注意してください。

関連記事:古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明

・右から1行目の「其土蔵ニ」というのは、文脈から判断して「そちらの土蔵にある」という解釈で良いでしょう。
織田信忠はこの時、自らの居城である岐阜城にいたので、岐阜城の蔵という意味だと思います。

・4行目の「六千貫内を万疋まんびき」とは、お金のことです。
100疋=1貫文とする見解が一般的のようですが、地域や時代によってばらばらでした。

・5行目の「就中(なかんずく)」は、現在ではあまり聞かない表現ですが、その中でも・とりわけという意味です。

・7行目の「委事」は送り仮名をつけると「委わしき事」、つまり「詳しいこと」となります。
この時代でよく使う”委曲(いきょく)”、”委細”と同じ意味です。

・8行目の「むこ」は婿のことです。
信長の婿・・・。いったい誰なのでしょうか。
その謎は次回の記事で触れたいと思います。

・最後の行の「城介(じょうのすけ)」とは、信長の嫡男、織田信忠のことです。
信忠の秋田城介あきたじょうのすけという官職名から取り、「織田城介殿」などと呼ばれていました。

織田信忠肖像(総見寺蔵)

織田信忠肖像(総見寺蔵)


  織田信忠(信重) (1557~1582)

織田信長の嫡男。
父に従い各地を転戦し、やがて尾張・美濃の支配権を譲られ家督を継ぐ。
甲斐の武田氏からの侵攻を美濃明知あたりで食い止める一方、荒木村重討伐等で戦功を立てる。
天正10年(1582)には先陣として武田氏を滅亡させる大戦果を挙げたが、6月の本能寺の変において明智光秀の裏切りに遭い二条御所で自害した。

書き下し文


其の土蔵に一万六千貫、其の他かくれさとよりの公用たわらにこれ有るべく候。
かの物は除き、六千貫の内を万疋此の者に
さるべく候。
なかんずく浄土宗・法華宗宗論、かのいたずら者が負け候。
詳しき事は婿申すべく候なり。
かしく

    城介殿  信

原文に書き下し文を記してみた

安土宗論 織田信忠へ宛てた信長直筆の書状(書き下し文)

天正7年付織田信忠宛消息+書き下し文

現代語訳

 そなたの城(つまり岐阜城)の蔵に1万6000貫、その他隠れ里よりの公用俵米がある。
それらは除き、6000貫の内の万疋(100貫文?)をこちらに送り届けよ。
理由はいろいろあるが、取り立てて申すならば、安土城下で行われた浄土宗と法華宗の宗論で、何かと目障りな法華宗側が負けた。
詳しいいきさつについては婿殿が述べるだろうから、彼の口から聞いてくれ。

  織田信忠殿  のぶ

信長直筆なのは親しい間柄でのやり取りだから?

 実はこの書状は現存する信長の数少ない直筆書状とされています。
しかしながら、これは直筆だという証拠となる史料がありません。
同じく信長の直筆だとされる「細川忠興に宛てた感状」と、専門家による料紙や筆跡を比較鑑定した結果、本人直筆のものだと結論づけられました。

また、文の最後に「信」とある点にご注目ください。
当時織田家の当主として戦場でも活躍していた織田信忠(実権は信長)に、親し気に「信」と書ける人物は、信長以外に見あたらないというのも重要なポイントです。

天正五年十月二日付織田信長書状

軍功を立てた細川忠興への信長直筆の感状(永青文庫所蔵文書)

今回の文書には日付が記されていない点も、親しい間柄だからこそではないでしょうか。

安土宗論の事の発端は

 ここで出てくる
「就中(なかんずく)浄土宗・法華宗宗論、かのいたずら者が負け候。」
とは何か。

これは天正7年(1579)5月27日に安土城の城下町にある浄厳じょうごん院で行われた宗教論争のことを指します。
いわゆる「安土宗論しゅうろん」という出来事です。

事の発端は
天正7年(1579)5月中旬に、関東からはるばる上方へやってきて、安土城下で説法をしていた浄土宗の僧侶、霊誉玉念(れいよぎょくねん)に対し、法華宗(日蓮宗)門徒の建部紹智(たけべじょうち)と大脇伝介の両名が議論を仕掛けました。

霊誉は
「若輩の者に何を言っても聞く耳を持ちますまい。法華宗のしかるべき僧を出せば相手になりましょう」
と返答しました。

霊誉としては、上手くかわしたつもりだったのでしょうが、建部と大脇の両名は事の次第を京都の法華院に伝えます。
すると、法華宗は京都頂妙寺の日珖(にっこう)、常光院の日諦(にったい)、久遠院の日淵(にちえん)、妙国寺の普伝らが安土へと乗り込んできました。

ここで困ったのは織田信長です。
開いたばかりの安土の城下で、宗教論争をされたのでは迷惑千万。
安土のある近江国では浄土宗も法華宗も信徒が多かったので、信長としてはどちらかに肩入れしてしまうと、家臣領民からの信頼を落とすことになりかねなかったのです。

信長は事態の収拾を図ろうと、側近の長谷川秀一(竹)堀秀政(久太郎)菅屋長頼(九右衛門)矢部家定(康信)らを遣わして両者を和解させようとしました。

しかし、浄土宗サイドはこれに応じましたが、法華宗サイドはこれを拒絶。
あくまで舌戦で浄土宗を折伏しようと息巻いていました。

安土宗論の決着点

 その儀ならば致し方あるまいと信長は仲裁を諦め、長谷川、堀ら側近を奉行にして5月27日に安土城下にて宗論が執り行われました。

この問答の仔細は実は『信長公記』に記されています。
wikipediaの安土宗論の頁にも、意外と詳細な内容が記されていますが、論拠の大部分は信長公記の内容そのままですね。
今回の記事は信忠への書状がメインですので、舌戦のやりとりは省かせていただきます。

冒頭で述べた通り、結果的に法華宗(日蓮宗)側が敗北しました。
法華宗の者は審判をはじめ満座一堂から嘲笑を受け、袈裟を剥ぎ取られ、経文を破られました。
さらに、信長自ら法華宗僧侶と建部・大脇の両名を召し出します。

『信長公記』にはこのようなことが記されています。

「一国一郡を持つ身にてもこのようなことはしないのに、ましてやおまえのような町人風情が霊誉長老の宿に押し入って論戦を仕掛け、世間に騒ぎを起こした」
言語道断の行いであるとして建部と大脇の両名は斬首。

法華宗の高僧たちにも
「改宗して浄土宗の門徒になるか、さもなくば今後二度と他宗を誹謗しない。宗論を挑まない旨の起請文を書け」
と命じます。

法華宗の僧侶たちは起請文きしょうもんを書く方を選択しました。
これがその時の起請文です。

同起請文如此、並一行如此、
  敬白 起請文事

一、今度江州於浄厳院、浄土宗与宗論之儀、法花負申事、
一、向後対他宗、一切不可致法難事、
一、法花一分之儀可被立置之旨、忝奉存事、

 右条々偽於在之者、忝
 日本国中大小神祇、大乗妙典、殊ニハ三十番神、可罷蒙御罰者也、仍起請文如件、

  天正七年五月廿七日

 妙覚寺代 日諦(花押)
 頂妙寺前住 日珖(花押)
 久遠院 日雄(花押)
 本国寺代 日佑(花押)
 要法寺代 日周(花押)
 妙満寺代 日淳(花押)
 妙伝寺代 日請(花押)
 本能寺代 日幸(花押)
 立本寺代 日仙(花押)
 妙顕寺代 日休(花押)
 妙蓮寺代 日衆(花押)
 本隆寺代 日伝(花押)
 本禅寺代 日術(花押)

 菅屋九右衛門尉殿
 堀久太郎殿
 長谷川竹殿

今度当宗被立置之儀、忝存候、就其、向後他宗法難之儀、聊以異議不可有御座候、若猶自今以後、不届之儀於申出者、以此一行之旨、当衆悉可被成御成敗候、其時毛頭御恨不可申上候、此旨可預御披露候、恐々謹言、

  五月廿七日

 妙覚寺代 日諦(花押)
 頂妙寺前住 日珖(花押)
 久遠院 日雄(花押)

 菅屋九右衛門尉殿
 堀久太郎殿
 長谷川竹殿

実は信長公記にもこの時の起請文の内容が詳細に記されています。
その内容が、上記の内容とほぼ同じであることからも、この時代の公記の正確性が確認できます。

安土宗論のその後 信長に法華宗を潰す意図はなかった?

 こうして安土宗論は織田家の裁定の下で決着がつきました。
実はこの宗論自体、浄土宗側が勝利するように信長が仕組んだもの。
つまり、八百長的な行為をしたのだとされています。

もちろん信長公記にはここまで記されていないため推測の域はでませんが、そうである可能性は十分にあります。

なぜならば、信長としては領内の治安や秩序の悪化を防ぎたい。
事態が大ごとになる前に穏便に済めば幸いと考えていたところ、法華宗のみがあくまで宗論で相手を論破したいと強く主張したからです。

信長は為政者としての面目がつぶされた。
それならば、どんな手段を使ってでも法華宗に負けてもらわないと面目が立たないと考えたのは、決して飛躍した考えではないと思います。
この時代、武士の面目というものは現代人からは理解しがたいほど重要視されていたからです。

しかしながら、信長に法華宗を壊滅させる意図はなかったでしょう。
信長は以後も京都で宿泊するときは法華宗の妙覚寺を定宿としており、3年後に討たれるあの本能寺も法華宗の寺だからです。

他にも、法華宗を潰す意図がなかったと示す理由はあります。
下記の史料をご覧ください。

敗北した法華宗側の文書

 今度於安土法難巳後、宗儀各及迷惑候刻、信長貴寺後入魂之筋目故歟、仏法再興之事候、然者、一宗之大慶不過之候、猶尾濃之末寺衆、何も法花寺可有尊敬之旨、令申者也、恐々謹言、

  八月三日   日禎(花押)
   法花寺
     御同宿中

美濃法華寺宛本圀寺日禎書状『法華寺文書』

語訳)
このたび安土宗論の敗北により法難を迎えてしまった。
我々も困惑し、難儀している。
しかし、信長は貴寺とご昵懇の仲ゆえか、我ら宗派の再興は叶うだろう。
そうであれば、我々にとってはこの上なき喜び。
なお、尾張・美濃の末寺の者たちには、引き続き法華宗を尊敬して守り立ててもらいたい。 敬具
  1579年8月3日
   法花寺   日禎(花押)
     御同宿中

つまり、信長と美濃の法華寺とは昵懇の仲だから、信長も必要以上には我々を弾圧することはないであろうと言いたいのでしょう。

勝利した浄土宗側の文書

 ついでに勝利した浄土宗側の文書もご覧いただきましょう。

 今度於慈恩寺浄厳院、法華宗与宗論之儀申付候処、即遂問答、尤為勝、誠手柄無比類、弥宗旨之励簡要候也、

  五月廿八日
   教蓮社聖誉

近江西光寺聖誉貞安宛朱印状 『大雲院文書』『知恩院文書』『西福寺文書』

語訳)
このたび慈恩寺浄厳院にて法華宗と宗論するように申しつけたところ勝利した。
誠に手柄比類なし。
いよいよ浄土宗への励みが肝要である。

  1579年5月28日
   教蓮社聖誉貞安

今回はこのあたりで終わりたいと思います。
次回は文中にあった
「信忠に百貫文の送金を依頼した目的」
の一文と、
「委事(くわしきこと)は聟(むこ)申すべく候なり」
の部分にスポットを当てた記事となります。

信長の言う聟とは誰のことなのでしょうか。
候補は以下の10人です。

二条昭実あきざね万里小路充房までのこうじみつふさ、徳大寺実冬さねふゆ、徳川(松平)信康、蒲生賦秀やすひで(氏郷)、前田利勝(利長)、筒井定次、中川秀政、丹羽長重、水野忠胤ただたね

10人の婿
らいそくちゃん
らいそくちゃん

次回もぜひご覧ください。
お楽しみに!

参考文献:
小和田 哲男(2010)『戦国武将の手紙を読む』(中公新書)
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
池上裕子,池享,小和田哲男,黒川直則,小林清治,三木靖,峰岸純夫『クロニック戦国全史』(1995)講談社
太田牛一(1881)『信長公記.巻之下』甫喜山景雄
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
児玉幸多(1970)『くずし字解読辞典普及版』東京堂出版
など

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