久秀敗北 信長が松永父子に突き付けた降伏の条件とは

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久秀敗北 信長が松永父子に突き付けた降伏の条件とは
らいそくちゃん
らいそくちゃん
 

足利義昭陣営につき、奈良で兵を挙げた松永久秀久通父子でしたが、織田勢の攻撃に抗しきれず天正元年(1573)秋に降伏します。
その時、降伏の条件として信長が佐久間信盛へ宛てたのが今回の書状です。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

今回もいつものように書状の解読のほか、時代背景も合わせて解説します。

松永久秀は将軍側に付くも、敗れて信長に降伏を申し出る

 元亀4年(1573)7月。
将軍足利義昭は、防御の固い宇治槙島城に移り、織田信長に対して2度目の挙兵を行います。

この将軍挙兵に際し、河内若江城主の三好義継や、大和多聞山たもんやま城主の松永久秀久通父子らはこれに同調する動きを見せます。
一方、摂津有岡城主の荒木村重、幕臣の細川藤孝らは織田陣営として戦い、畿内は混乱状態となりました。

しかし、信長はすぐさま兵を繰り出し、歴戦の将兵たちが我先にと宇治川を渡って城へ攻めかかります。
織田軍の猛攻に耐えかねた足利義昭は敢え無く降伏。
嫡子を人質に差し出し、やがて京都から追放されてしまいます。『信長公記・兼見卿記・二条宴乗記・年代記など』

この年の11月。
信長の矛先は若江城主の三好義継に向かいます。
織田方の宿将佐久間信盛の調略により、義継の老臣だった池田教正、野間長前、多羅尾常陸介らが相次いで寝返り、11月16日に義継は自刃。
若江城は陥落しました。『信長公記など』

これを見て形勢の不利を悟った松永久秀・久通父子はたまらず信長へ降伏を申し出ます。

この時信長が同月29日に降伏を認める条件として提示した書状が、今回ご紹介する佐久間信盛へ宛てた『十一月二十九日付織田信長朱印状』という史料です。

そこにはどのような条件が記されているのでしょうか。
詳しい外交の経緯は後で述べるとして、まずは書状の内容をご覧いただきましょう。

信長が突き付けた降伏の条件とは

 今回の書状には前文があるはずなのですが、残念ながらその部分は消失しています。
また、字が掠れて見えづらくなっている部分を、私が画像に補正を加えている部分があります。
これは古文書解読の学習に役立てたいという意図で、他意はありません。
何卒ご了承のほどよろしくお願い申し上げます。

原文

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状(大阪銀装文明堂文書)

画質の都合上、今回は3つに区切ってご説明します。
また、かすれてどうしても見えない部分は、他の史料と照合して判読している部分もあります。

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状a

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状(大阪銀装文明堂文書)a

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状b

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状(大阪銀装文明堂文書)+b

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状c

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状(大阪銀装文明堂文書)+c

釈文

(a)

仍松永申分之事、
徒らにくき子細ニ候へ共、
只今被申越候ことく、
多門を此方へ直ニ渡、
右衛門佐ハ信貴へ入候て、
山城ハなき分ニ可然候、

(b)

右衛門佐覚悟にて、何
方ニも参候ハんハ不及
是非候、知行方之事ハ、
令分別可申付候、さ候ハゝ、
右衛門佐惣領子を人
質ニ出し、右之筋目ニ
王比候ハん奈らハ、

(c)

可赦免候、此段少も
違候ての申やうニ候ハゝ、
重而被申ましく候、
恐々謹言、

十一月廿九日 信長(朱印)



(折封ウハ書)
(墨引)

  右衛門尉殿 信長

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

補足

 ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で説明させていただきます。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。

(a)

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文a

1行目の「仍松永申分之事、
読み下すと「仍(よ)って松永申し分の事、」となります。
この1文が文章の書き出しとしては不自然なため、前文があるのではないかとの推測が成り立つわけです。

「仍」の旁の部分はひらがなの”の”に似ていますね。
それは、”乃”の字がくずされた結果、ひらがなの”の”が出来たからです。
このように、もし読めないくずし字があった場合でも、漢字を分解して考えてみると、正解にたどり着ける可能性があります。

「申」は文字が掠れて見えにくいですが、アルファベットの”P”に似た文字と覚えると便利です。

2行目の「徒らにくき子細ニ候へ共、
「徒」は”と”と読んでしまいそうですが、これは仮名文字の「つ」です。
私たちが普段使うひらがなの”つ”は、漢字の”川”、または”州”がくずされたものです。
この時代には”つ”を表現する文字として、他にも”津”・”都”そして”徒”が使われていました。
「この字の後にはこの字を使わなければならない」というような決まりは特に無く、音さえ合っていれば微妙に違った字を用いることさえありました。

例)於徒畿み=お月見  不思寄=不思議 など

明治時代に幾度となく教育改正が行われた結果、「つ」をあらわす文字はひらがなとカタカナの2つに絞られます。
こうして現在は用いられなくなった文字のことを「変体仮名」といいます。

「は」の文字いろいろ

「は」を表す仮名文字いろいろ

3行目の「」・「
「被」は大きくくずされるとひらがなの”ら”によく似た文字になる場合が多いです。
しかし、これが字源かというとそうではなく、”ら”の字源は”良”です。

「候」は大きくくずされるとチョンと点を打っただけの文字になります。
頻出する文字のため覚えやすくて便利な反面、”て”や”之”などの字と非常によく似ているので注意が必要です。

4行目の「多門を此方へ直ニ渡、
「多門」とは奈良県奈良市にある多聞山(たもんやま)城のことを指します。
やや漢字が違いますが、この時代の書状は音が同じで、相手に通じるのであれば問題なく使う場合もありました。
「多」の字は2行目の「細」によく似ているので注意が必要です。

「此方」は”こなた”と読み、こちら、当方という意味です。

つまり、多聞山城を信長に差し出せという文意になります。

5行目の「右衛門佐ハ信貴へ入候て、
「右衛門佐(うえもんのすけ)」とは官職名のことです。
ここでは松永久秀の嫡男松永久通のことを指します。
人物名は非常に大きく崩される傾向にあるため、理屈抜きで覚えた方が楽です。
特に「右」と「左」の違いについてはしっかりと把握しておいた方が良いでしょう。

「信貴」とは奈良県生駒郡にある信貴山(しぎさん)城のことを指します。

つまり、松永久通は信貴山の所領は安堵するという意味となります。

最後の行の「山城ハ・・・
さきほどひらがなの”ら”に似た文字は”被”の場合が多いと説明しましたが、ここでは「山」という漢字になります。
次の字が「城」→「ハ」と続くので、文脈から判断しましょう。

ここでの山城とは京都を指すのでなく、山城守(やましろのかみ)の受領名ずりょうめいを名乗るという人物名。
松永久秀のことです。

「なき分ニ可然候、」は字が掠れて私には読めなかったため、他の史料から引用しました。

読み下すと「山城(守)は無き分に然るべく候
すなわち「松永久秀の所領は没収する。」という意味です。
もっと噛み砕いた語訳をすると、
「松永の多聞山城一帯の所領を没収する。松永久通には信貴山城は安堵する。しかし、久秀の所領は全て没収する。これを機に久秀は家督を息子に譲り隠居せよ」
と解釈してよいでしょう。

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文b

1~2行目の「覚悟にて何方ニも
「何方」は「いずかた」と読み、どちらへもという意味です。
文字が掠れていて読みにくいですが、「方」はこのように一旦巻いてから下へ降りるのが基本的なくずしです。
“事”の字も似たくずしをしているので注意が必要です。

2~3行目の「不及是非候、
「不」と「及」が返読文字となりますので、「是非に及ばず候」と読みましょう。
是非を論ずるまでもない、申すまでも無いという意味です。

つまり、松永久通が再び謀叛した場合は、申すまでも無い(今度は許さない)といった文意になります。

5~6行目の「惣領子を人質ニ出し、」
「惣領子」とは一家の惣領たる当主の嫡男という意味です。
ここでは人質と書いていますが、文書によっては「質物しちぶつ」と表現されているものもあります。

最後の行の「王比候ハん奈らハ、
最後だけなぜか仮名文字をゴリ押ししてきている感がありますね。
「王」は仮名文字で「わ」と読みます。
“尓(に)”とよく似た字ですので注意が必要です。

次の「比」も”以(い)”かと誤読してしまいそうですが、これでは意味が通じません。
「ひ」と読みましょう。

「わひ候ハん」
ここまでの文脈から少し想像力を働かせて、「詫び候はん」と答えを導きだしましょう。

「奈らハ」
「奈(な)」も仮名文字です。
実は「ら」も”良”をくずしてこのような文字になったので、”奈良は”となってしまいますね。
もちろんここでは地名を指すものではなく、~ならばという意味です。

語訳すると
「松永久通の嫡子を人質として差し出すならば」
と信長は条件を突き付けているわけです。

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文c

1行目の「可赦免候、
ここまでで何度か出てきた「可(べく)」ですが、今回が一番よく出るパターンのくずし方です。
「一、」と箇条書きのように見えなくもないのでご注意ください。
「可」も返読文字ですので、「赦免す可(べく)候」と読みます。

くずし字「一」と「可」の違い

くずし字「一」と「可」の違い

同じく1行目の「此段(このだん)
これは古文書では非常によく登場するもので、この件についてといった意味です。
「段」は難読かもしれませんが、実はこれがもっとも基本的なくずし方です。
その次の「少」もこれが基本のくずしで頻出するため、優先して覚えておいた方が何かと便利です。

五行目の「十一月廿九日
「廿」は「二十」です。
広島県に馴染みの深い方はもしかすると慣れっこかもしれませんね。
ちなみに”卅”・”丗”で”三十”です。

最後の宛名にある「右衛門尉殿」とは織田信長の老臣佐久間信盛のことです。
彼はこの当時、大和国をはじめとする畿内に大きな利害関係を持っていました。
今回の書状で松永父子に降伏を呼びかけ、信長との間を取り持ったのはもしかすると彼なのかもしれません。

墨引きの謎については過去に実践記事を書いたことがありますので、ご興味のある方は是非ご覧ください。

関連記事:書状の封じ目 墨引きの謎の記号「ー ー」は何?①折り紙切封上書編

原文に釈文を記してみた

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文a

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文a

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文b

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文b

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文c

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+釈文c

書き下し文

(a)

仍って松永申し分の事、つら憎き子細に候へども、ただいま申し越され候ごとく、多聞(多聞山城)を此方へ直に渡し、右衛門佐うえもんのすけ(松永久通)は信貴(信貴山城)へ入り候て、山城(松永久秀)は無き分に然るべく候。

(b)

右衛門佐(松永久通)覚悟にて何方いずかたにも参りそうらはんは、是非に及ばず候。
知行方の事は、分別せしめ申し付くべく候。
左候はば、右衛門佐(松永久通)惣領子を人質に出し、右の筋目に詫び候はんならば、

(c)

赦免すべく候。
此の段、少しも違い候ての申しように候はば、重ねて申さるまじく候。
恐々謹言きょうきょうきんげん
十一月二十九日 信長(朱印)

(折封ウハ書)
(墨引)

  右衛門尉うえもんのじょう殿(佐久間信盛) 信長

原文に書き下し文を記してみた

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+書き下し文a

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+書き下し文a

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+書き下し文b

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+書き下し文b

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+書き下し文c

(天正元年)十一月二十九日付織田信長朱印状+書き下し文c

現代語訳

 従って松永の申し条、遺恨や腑に落ちぬ点はあるけれど、ただいま申し渡した通りに多聞山城をこちらへ引き渡し、松永久通は信貴山城へ移ること。
また、久秀の所領は全て没収すること。
もし、久通が再び叛意を示したならば、もはや議論の余地はない。
知行のことは弁えよ。
そういうわけなので、久通の嫡子を人質として差し出し、
くの通りに詫びを入れるならば降伏を差し許そう。
もし少しでもこれらの条件を破るようなことがあるならば、お前に次はないぞ。敬具

1573年11月29日 信長(朱印)
   佐久間信盛殿

久秀の隠居と多聞山城のその後

 今回ご紹介した書状が発されたのは天正元年(1573)11月29日のこと。
12月26日には約束通りに多聞山たもんやま城は明け渡され、信長に接収されました。
接収された多聞山城には、その後山岡景佐かげすけ、明智光秀、長岡藤孝、柴田勝家らが交代で城番として入れ置かれ、時にはそこで歌会も催されたようです。『尋憲記・二条宴乗記・多聞院日記など』

多聞山城は松永久秀の大和入府以来、10年以上に渡って整備が施され、訪れた宣教師も驚きをもって本国に伝えたほど意匠が凝らされた城として有名でした。

歴史学者の谷口克広氏はご自身の著書に

「本丸(詰の丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、庭園、金工の太阿弥の引手などの内装や狩野派絵師の絵画、座敷の違い棚や茶室の落天井等の造作など、西日本随一の豪華な城郭であり、有数の至宝である絵や茶道具も集められていた。」

と記述されています。

信貴山城へと移された松永氏ですが、久秀は約定の通りに隠居。
当主は久通となります。

久秀は翌年正月に岐阜へ参上し、信長に赦免の礼を行い、同年冬に剃髪して道意と号しました。

天正4年(1576)5月に石山合戦最大の激戦と名高い天王寺合戦に松永父子は従軍します。
石山本願寺とのにらみ合いはその後も続き、松永氏はしばらく天王寺砦に在番していたものと考えられます。

さて、信長に接収された多聞山城のその後はというと、翌天正5年(1577)6月頃に信長の命により破却されてしまいます。
天守部分の建材は京都の二条御所へと移され、久秀が精魂を込めて築き上げた夢の城はその役目を終えました。

松永父子が再び信長に反旗を翻したのはそれから約2ヶ月後のことです。
通説では足利義昭の呼びかけのもとに毛利や本願寺、上杉家と通じての決断であったといわれていますが、真偽のほどは定かではありません。

父子は密かに天王寺砦を抜け出して信貴山城に立て籠もり、再三にわたる信長からの降伏の呼びかけに応じることなく自害して果てました。
時に天正5年(1577)10月10日のことでした。

まとめ

 申し訳ありませんが、私は松永氏に関しては不勉強なため、この程度の情報では満足できないという方もいらっしゃるかと思います。

そこで、信長に降伏後の松永父子に関する重大な出来事を抜粋し、簡潔にまとめることに致しました。
個人的な見解は述べませんが、何かのお役に立てましたら幸いです。

天正2年(1574)

正月
久秀は岐阜へ参上し、信長に赦免の礼を行う。『尋憲記・興福寺年代記』

3月27日
織田信長、自ら奈良へ下向し多聞山城を検分。
翌日、正倉院に伝わる蘭奢待の切り取りを行い、多聞山城へ運ぶ。『信長公記』

12月24日
久秀は剃髪して道意と号す。『多聞院日記』

天正3年(1575)

3月23日
大和守護に塙直政が任命される。
松永はその麾下に属す。『信長公記』

4月27日
「松永」に十市郷の三分の一が与えられる。松永久通か。『多聞院日記』

7月
松永久通は十市遠成の後室「御ナへ」と再婚。
彼女の居城竜王寺山へ移る。『多聞院日記』

11月
久通、妻の一族である十市常陸介(遠長)を攻める。『多聞院日記』

天正4年(1576)

2月10日
興福寺で薪(たきぎ)能が催され、これに守護の塙直政をはじめ、松永久通、筒井順慶らも参加。『多聞院日記』

3月5日
久通、再び十市城を攻め、同月21日に攻略。
常陸介を河内国へ逐う。『多聞院日記』

4月
信長、石山本願寺を攻める。
松永久通もこれに従軍。『信長公記』

5月3日
塙直政、本願寺の支城三津寺を攻めるも敗北し討死。
久通をこれに従軍しており、一時は死亡説も流れる『信長公記・多聞院日記』

この頃、織田勢苦戦の報を受けてなのか、松永久秀は久々に戦場に呼び戻される。
そこで新たに佐久間信盛の麾下に属して天王寺砦へ入れ置かれる。

5月7日
天王寺合戦。
信長自らが重傷を負いながらも奮戦し、本願寺の大軍を打ち破る。『信長公記』

天正5年(1577)

6月頃
多聞山城は破却され、建材は二条御所に移される。『当代記』

8月
松永父子、密かに天王寺砦を抜けて信貴山城に立て籠もる。
これに大和片岡城の森・海老名氏が同心。『信長公記』

10月1日
片岡城の戦い。明智光秀、長岡藤孝、筒井順慶らが攻める。『多聞院日記・信長公記』

10月10日
松永父子自刃。信貴山城陥落。『信長公記』

参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2016)『織田信長の古文書』柏書房
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
加藤友康, 由井正臣(2000)『日本史文献解題辞典』吉川弘文館
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
林英夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
鈴木正人,小和田哲男(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
など

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