「戦国時代の印象外交と政治的な大言壮語」織田信長の書状から見てみよう

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「戦国時代の印象外交と政治的な大言壮語」織田信長の書状から見てみよう
らいそくちゃん
らいそくちゃん

戦国大名も組織の代表者です。
現代と同じように、彼らも生き残りを賭けて外聞には非常に気を遣いました。
時には虚勢を張り、一のことを百のように話を盛ることもあったでしょう。
今回はそんな「政治的な大言壮語」を織田信長の書状から見ていきましょう。

現在と戦国時代の外交

 現代の国家間の外交は、親善・通商・安全保障・軍事協定などさまざまな目的で行われます。
両国間で条約が交わされるとしても、いきなり国家元首同士が顔を合わせることはほとんどありません。
多くの場合は、両国の外交官が妥協点を探り合い、大筋の取り決めを行ったのちに、国家元首が会談を行い、合意に至ります。

こうした流れは、戦国時代の外交にも当てはまります。
まず、取次とりつぎと呼ばれる外交担当者が詰めの協議を行ったのちに、大名同士が書状でやり取りをはじめます。
「この書状は当家中の総意である」と示すために、家老クラスの武将や大名側近が副状そえじょうを発給して信用性を持たせます。

イレギュラーなケースも多々ありますが、基本的にはこうした手順を踏んで交渉が行われていました。
従って、一国の大名といえども、有力家臣や国衆の同意なしでは効力を持ち得ませんでした。

戦国大名の印象外交

「御家中の体、仰せの如く外聞然るべからざる次第に候」

『(年次不明)六月二十二日付斎藤道三書状(熱田浅井家文書)』

とあるように、戦国時代の大名は非常に「外聞」を気にします。
それは、我々現代人には理解しがたいレベルかもしれません。

戦国時代の大名家はいわゆる組織です。
現在も大企業であるほど法令遵守(コンプライアンス)を重視する傾向にありますね。
つまらぬことで組織の印象を下げぬように、非常に外聞に気を遣います。

戦国時代に株価などはありませんが、外聞は経済に直結するとても重要な要素でした。
時には虚勢を張り、1のことを100のように話を盛り、合戦に敗れた際は勝利したと記すこともありました。

今回題材にする『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』も、そうした要素が多分に含まれているものです。
これは、織田信長が天正元年(1573)冬に出羽の伊達輝宗へ認めた返書となります。

この年は夏から秋にかけて、織田信長が将軍足利義昭を京から追放。
朝倉・浅井両氏を討ち果たすといったまさに激動の年でした。

織田信長が「大言壮語」している部分はどこなのか。
それを探しながら読んでみるのも面白いかもしれません。
少々前置きが長くなってしまいましたが、さっそく本文をご覧いただきましょう。

織田信長が伊達輝宗にした大言壮語

原文

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』フル

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状(仙台博物館所蔵))』

今回はやや長文のため、4分割にして解説いたします。

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』a

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状』a

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』b

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状』b

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』c

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状』c

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』d

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状』d

釈文

 (折封ウハ書)
「謹上 伊達殿  信長」

(a)

 去十月下旬之珍簡近日
到来、令拝被候、誠遼遠
示給候、本懐不浅候、殊
庭籠之鴘鷹一聯、同
巣主大小被相副候、希
有之至、歓悦不斜候、鷹之
儀、累年随身異于他之処、
執之送給候、別而自愛
此莭候、則構鳥屋可入置候、

(b)

秘蔵無他候、仍天下之儀、
如相聞候、公儀御入洛令
供奉、城都被遂御安座、数
年静謐之処、甲州武田、
越前朝倉已下諸侯之
佞人一両輩相語申、妨
公儀、被企御逆心候、無是
非題目、無念不少候、然間

(c)

為可及其断、上洛之處、
若公被渡置京都有御退
城、紀刕熊野邊流落之由候、
然而武田入道令病死候、朝倉
義景於江越境目、去八月遂
一戦、即时得大利、首三千余討
捕、直越国へ切入、義景刎首、

(d)

一国平均ニ申付候、其以来若狭、
能登、加賀、越中皆以為
分国、属存分候、五畿内之儀
不覃申、至中国任下知候
次㐧、不可有其隠候、来年甲州
令發向、関東之儀可成敗候、
其砌深重可申談候、御入魂専
要候、猶以芳問大慶候、必従是
可申展之条、抛筆候、恐々
謹言、


 十二月廿八日  信長(朱印)



 謹上 伊達殿

この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

補足

 ここでは難しい表現や紛らわしい字を、補足という形で解説いたします。
古文書解読に関心のある方はご覧ください。

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』a+釈文

1行目の「去十月下旬之珍簡近日到来、令拝被候、

本状は、天正元年(1573)10月下旬発信の伊達輝宗書状に対する返書です。
この「珍簡(ちんかん)」と信長が表現したことによって、本状が伊達氏に発給された最古のものであるとわかります。
珍簡ちんかん(珍翰・珍牘)」は相手からの書状という意味で、他にも”貴札きさつ“・”御札ぎょさつ“・”御状ごじょう“・”珍札ちんさつ“・”芳札ほうさつ“などがよく出る表現です。

例)

  • 貴札令拝見候(貴札拝見せしめ候)
     (十一月五日付小早川隆景書状)
  • 預御札、畏悦之至候(御札を預かり、畏悦の至りに候)
     (文禄二年二月十五日付宇喜多忠家書状)
  • 御状拝見申候(御状拝見申し候)
     (四月二十四日付小西行長書状)

こうした書き出しは返書の書き出しでよく用いられる表現ですので、覚えておくと便利です。

冒頭を読み下すと
去十月下旬の珍簡近日到来、拝被せしめ候。

すなわち
「去る十月下旬発信分のあなたからの御状が届き、拝読致しました。」
という文意になります。

2~3行目の「誠遼遠示給候、
この6文字はすべて教科書通りのくずしをしています。

「誠」は、ごんべんのくずしが基本形です。

「遼遠」はどちらもしんにょうがありますが、このように短く省略される傾向にあります。
しかし「遠」と”遣”はどちらも非常によく似たくずし方をしているため、注意が必要です。

「遠」と「遣」は似たくずしになる

「遠」と「遣」は似たくずし方をしている

「給」は原型をとどめていませんが、これが基本形です。
いとへんはこのようににょろにょろしたくずしが特徴的です。

いとへんのくずしの傾向
給のくずし方

3~5行目の「殊庭籠之鴘鷹一聯、同巣主大小被相副候、
鷹狩り関連の用語が出ます。
「庭籠(にわこ)」は鳥を飼うため庭に据え置く籠のこと。

「鴘鷹(へんたか)」は若い鷹のことです。
大陸の史書『春秋左氏伝』には以下のように記されています。


「蓋し鷹は鷙なり。故に司寇と為す。一歳を黄鷹と曰ひ、二歳を鴘鷹と曰ひ、三歳を鶬鷹と曰ふ。鴘は次赤なり。」

   『春秋左氏伝』より

「一聯(いちれん)」は鳥を数える単位のことで、「聯」は”連”の異体字です。
鷹のような猛禽類の数え方は少し特殊で、他にも”一足”・”一居”と数えることもあります。

鷹狩りで用いる鷹は、ひな鳥のうちに捕らえて育成することが良しとされていました。
鷹が営巣しやすいように、人の出入りを禁じた山を”巣山”と呼びます。
その巣山を警備・管理する人のことを「巣主」といいました。

「被相副候」
「被(ラレ)」はひらがなの”ら”に似たくずしが特徴的です。
「相(アイ)」はこれが基本のくずしです。
頻出する字なので、優先して覚えることをおすすめします。

読み下すと
殊に庭籠にわこ鴘鷹へんたか一連・同じく巣主大小を相添えられ候。

すなわち
「殊に庭籠に入った鴘鷹一連。また、巣主大小も添えてくださり」
といった文意になります。

5~6行目の「希有之至、
「希有(けう)」は稀なこと、珍しいという意味です。
「有」の字が原型をとどめていませんね。
大変難しいですが、実はこれが基本形のくずし方です。

「有」のくずし方

「有」のくずし方

「至」もこれが基本形。
旁に”リ(りっとう)”が入ると”到”となります。

7行目の「累年随身異于他之処、
“手”のように見える字は「年」です。
仮名文字でも”ね”を現す文字として頻出します。
「随身」は付き従うことを意味する場合が多いですが、ここでは”所持する”と解釈した方が良さそうです。

「于」は”~に”と読む助詞の役割をしています。

読み下すと
累年随身他に異なるのところ、

語訳するのは難しいですが、
「長年に渡り鷹をご愛蔵なされていたのに」
といった解釈で良いでしょう。

8~9行目の「別而自愛此莭候、
「別而(べっして)」の2字はどちらもこれが頻出する形です。
「而」はひらがなの”る”に似たくずしになるパターンもあります。
これは”~して”という助詞の役割を果たしています。

「莭」は”節”の旧字になります。
たけかんむりではなく、くさかんむりのくずしをしているのはそのためです。

別して自愛此の節に候。
つまり、「特別大事にします。」といった文意になります。

最後の行である「則構鳥屋可入置候、
「鳥屋」とは鷹を飼う小屋のことです。
「可(ベク)」は非常によく出るためか、このように大きくくずされる傾向にあります。

可のくずし字
くずし字「一」と「可」の違い

返読文字のため、あとで返って読みましょう。

読み下すと「則ち鳥屋を構えて、入れ置くべく候。」ですね。

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』b+釈文

2行目の「如相聞候、公儀御入洛令供奉、
ひらがなの”め”に似た字は「如」です。
“め”の字母が”女”のためなのか、このようなくずしになる傾向にあります。
「如」は返読文字ですので、「相聞こえ候如く」と読みましょう。

この時代の「公儀」は足利将軍家、あるいは将軍その人を指す場合が多いです。
つまり、室町幕府15代目将軍となった足利義昭のことです。

「入洛(じゅらく)」は京都に入ること。
上洛・入京と表現される場合もあります。

「供」の旁の部分はこれが基本形です。
にんべんが無い場合は「其(ソノ・ソレ)」も似たくずしをしているため、注意が必要です。

読み下すと
相聞こえ候如く、公儀御入洛に供奉せしめ、

すなわち
「お聞き及びのことでしょうが、私は義昭公の御上洛に供奉いたし、」
といった文意になります。

3行目の「城都被遂御安座、
ひらがなの”ら”に見える文字は「被(ラレ)」です。
現在は被害者などの意味で用いられますが、もとは受け身を現す返読文字でした。
日本語風に読めば被害者(がいせらるもの)となります。

「遂」はこれ一字で”ついに”、または”~を遂げ”と読みます。
今回の場合は、うしろに「御安座」がありますので後者です。

ひらがな”あ”に見える字は「安」です。
似た字をしているのは、字母がこの字のためです。

読み下すと
城都に御安座を遂げられ、

すなわち
「都に御安座なされて」
といった文意になります。

5行目の「越前朝倉已下
「前」のくずしは原型をとどめていませんが、これが一般的なくずし方となります。
“於(オイテ)”と誤読しないようにご注意ください。

「已下」は”以下”と同じ意味です。

6~7行目の「妨公儀、被企御逆心候、
「公儀」はさきほど説明した通り、足利義昭のことです。

「企」はやや字が掠れて読みづらいですね。
“止”の字がくずされてひらがなの”と”が生まれました。
そのため、このように記される場合もあります。
これも動詞のため返読します。

「御逆心」も慣れていないと読みづらいかもしれませが、いずれもこれが基本のくずし方です。

読み下すと
公儀を妨げ、御逆心を企てられ候。

すなわち
「公方様を篭絡し、我々に対して御逆心を企てられました。」
といった文意になります。

臣下の織田信長が「御逆心を企てられた」と表現するのはなかなか興味深いですね。
信長はこうした表現を、他にも毛利氏・上杉氏宛の書状にも使っています。

7~8行目の「無是非題目、無念不少候、
「無」が返読文字となりますので、是非無き題目と読みましょう。
事態の程度が甚だしく、言うまでもないことという意味です。

「不少候」
ひらがなの”ふ”に似た字は「不」です。
この字がくずされてひらがなの”ふ”が生まれました。
これも「無」と同じく、何かを否定する役割があります。
「少」は難読かもしれませんが、これがもっともよく出るパターンです。
「候」は読めたでしょうか。

候のくずし字

「候」いろいろ

頻出する字のためか、くずしもバリエーションに富んでいますね。
「不」と「少」どちらも返読文字ですので、少なからず候と読みましょう。

読み下すと
是非無き題目、無念少なからず候。

すなわち
「まことに口惜しく、残念で仕方ありません。」
といった文意になります。

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』c+釈文

1~2行目の「為可及其断、上洛之處、
「為(タメ)」・「可(ベキ)」・「及(オヨビ)」と3文字続けて返読文字です。
この場合は「其の断(ことわり)→及ぶ→可(べき)→為」と読みましょう。
「其」のくずしは他にも似た字がたくさんありますので、文脈から推察する必要があるでしょう。

「上洛」は京都に上ることで、さきほど登場した「御入洛(ごじゅらく)」と同じ意味です。
「處(トコロ)」は”処”の旧字です。
古文書にはこうした旧字・異体字も数多く登場しますので、少しずつ覚えていきましょう。

2~3行目の「若公被渡置、京都有御退城
「若」が難読かもしれませんね。
右隣の「為」と瓜二つのくずしです。
この場合、「為」のような灬(れんが)が入る文字は、終筆で一旦巻く傾向にあります。
一方「若」のような口(くち)で終筆する文字は、ひらがなの”ろ”のような形となる傾向にあります。

「若」と「為」の違い

「若」と「為」の違い

「渡」は偏と旁、どちらも頻出するパターンですので、覚えておくと便利かもしれません。

「有」はさきほど図で説明した通り、非常に難解なくずしをしていますね。

「有」のくずし方
「有御退城」 御退城有りて

「有」のくずし方

先の文章から読み下すと
その断り及ぶべき為、上洛のところに、若君を渡し置かれ、京都を御退城有りて、

すなわち
「どうにか道理を説こうと私が上洛しますと、公方様は若君を渡し置かれて、京都から御退城なされ」
といった文意になります。

もちろんこれは織田信長の方便であり、伊達輝宗に悪印象を与えまいとしてこのような文章になったと考えられます。
記事タイトルの「政治的な大言壮語」と関係の深いことですので、後ほど詳しく解説いたします。

「若公(君)」とは、昨年誕生したばかりの足利義昭嫡男です。
残念ながら幼名は伝わっていません。
彼はこの時、義昭が京都を去る際に人質として織田信長の手に渡りました。
この子を将軍の位に就けて、室町幕府再建を目指すプランもあったはずですが、結果的にはそうはなりませんでした。
なぜそれが実現しなかったのかについては、別の機会に書きたいと思います。

3行目の「紀刕熊野辺流落之由候、
「刕」は”州”の異体字です。
古代中国に倣い、行政区分にあたる国名を”〇州”と表現する風習がありました。
現在の「熊野」は三重県ですが、当時は紀伊国の中でした。
「野」のくずしは原型をとどめていません。

「野」のくずし方

「野」のくずし字

「邊」は”辺”の旧字です。
私は釈文でこう書きましたが、異体字にあたる”邉”としてもよいでしょう。

読み下すと
紀州熊野辺りに流落の由に候。

つまり
「公方様ご自身は紀州熊野辺りに御流落なされているとのことです。」
といった文意になります。

ここから信長は、歯切れの悪い将軍との戦いから話題を切り替えます。

4行目の「然而武田入道令病死候、朝倉義景於江越境目、
「然而」は”しかりて”、または”しかれども”と読みます。
龍の字に似た「然」はこれがもっとも頻出するパターン。
「而」はこのようなくずしの場合もあれば、ひらがな”る”に似たくずしになる場合もあります。

「而」のくずし方

而のくずし字

他の漢字にも”る”に似たものがありますので、誤読をしやすいポイントといえるでしょう。

「武田入道」は本年4月に病没した武田信玄です。
信玄の病死直後、程なくしてその噂は広まり、半年以上経ったこの時期には周知の事実となっていました。

「義」の字は究極にくずれると、このように横に伸びる場合もあります。
“戦”に非常に似ていますね。

ひらがなの”お”に似た字は「於」です。
似ているのはこの字が字母だからです。

「江越境目」とは、現在の滋賀県にあたる近江国と、福井県の大半にあたる越前国の国境という意味です。
美濃関ヶ原から分岐する北国脇往還を北上し、余呉・木ノ本を経た先に木ノ芽峠があります。
そこを抜けた先が越前国でした。

読み下すと
然りて、武田入道病死せしめ候。朝倉義景は江州ごうしゅう境目に於いて、
となります。

6~7行目の「即时得大利、首三千余討捕、
「时」は”時”の異体字です。
「得」と「利」は読みづらいでしょうが、これがもっとも基本のくずし方です。
「得」が返読しますので、大利を得と読みましょう。
大きな利益という意味ですが、よく合戦に勝利した時に用いられる表現です。
“太利”と記されている場合もあります。

「討捕」は”うちとり”と読みます。

読み下すと
即時に大利を得、首三千余り討ち取り、
となります。

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』d+釈文

3行目の「其以来若狭、能登、加賀、越中皆以為分国、属存分候、
「分」の字は難読かもしれませんが、これが最もよく出るパターンのくずしです。
頻出するので優先して覚えることをおすすめします。

読み下すと
それ以来、若狭・能登・加賀・越中皆以て分国と為し、存分に属し候。
若狭はともかく、天正元年(1573)12月時点で能登・加賀・越中を分国というのは事実ではありません。
信長は越後の上杉氏と連絡を密に取っていました。
織田氏が朝倉氏を討ち果たし、上杉氏は越中・加賀・能登の一向一揆勢を打ち破ったので、信長はこれで上杉氏と国境を接したと誤認した可能性もあるでしょう。
ここも信長による政治的な大言壮語にあたると思われますので、後ほど詳しく解説いたします。

4行目の「不覃申
「申すに→覃(およば)→不(ず)」。
同じく4行目の「至」は(a)の解説で述べた通り、これが基本形。
旁に”リ(りっとう)”が入ると”到”となります。
5行目の「㐧」は”第”の異体字。
6行目の「發」は”発”の旧字です。

6行目の「関東之儀、可成敗候、
「関東」が大変読みづらいですね。
もんがまえはこのように大きく省略される傾向にあります。

「簡要候」のくずし字

大きく簡略されるもんがまえ

「関東の儀」とは、当時甲斐武田氏と同盟関係にあった北条氏政を指します。
「可成敗候」で、”成敗すべく候”です。

8~9行目の「必従是可申展之条、抛筆候、
読む順としては
必ず→是(これ)→従(より)→申し→展(のぶ)→可(べき)→之→条、→筆を→抛(なげうち)→候。
です。

「必」が”無”のくずしとやや似ていますね。
「従」も”請”と似ているので注意です。
従(~ヨリ)が返読文字ですので、必ずこれよりと読みましょう。

「展(のぶ)」は述べると同じ意味。
「筆を抛ち候」はこれで文章を締めたいと思いますというニュアンスです。

読み下すと
必ずこれより申し述ぶべきの条、筆をなげうち候。

つまり
「以上のことを伝えた上で、この手紙の括りと致します。」
といった文意となります。

原文に釈文を記してみた

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』a+釈文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状a+釈文』

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』b+釈文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状b+釈文』

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』c+釈文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状c+釈文』

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』d+釈文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状d+釈文』

書き下し文

(a)

 去十月下旬の珍簡、近日到来、拝被せしめ候。
誠に遼遠を示し給い候。
本懐浅からず候。
殊に庭籠の鴘鷹一連・同じく巣主大小を相添えられ候。
稀有の至り、歓悦斜めならず候。
鷹の儀、累年随身他に異なるのところ、これを執り送り給い候。
別して自愛此の節に候。
即ち鳥屋を構え入れ置くべく候。

(b)

秘蔵他無く候。
仍って天下の儀、相聞こえ候如く、公儀御入洛に供奉せしめ、城都に御安座を遂げられ、数年静謐のところ、甲州武田、越前朝倉以下、諸侯の佞人一両輩相語らい申し、公儀を妨げ、御逆心を企てられ候。
是非無き題目、無念少なからず候。
然る間、

(c)

その断り及ぶべき為、上洛のところに、若君を渡し置かれ、京都を御退城ありて、紀州熊野辺りに流落の由に候。
然して、武田入道病死せしめ候。
朝倉義景は江州境目に於いて、去八月に一戦を遂げ、即時に大利を得、首三千余り討ち取り、直ちに越国へ切り入り、義景の首を刎ね、

(d)

一国平均に申し付け候。
それ以来、若狭・能登・加賀・越中皆以て分国と為し、存分に属し候。
五畿内の儀は申すに及ばず、中国に至りて下知に任せ候次第、その隠れ有るべからず候。
来年は甲州へ発向せしめ、関東の儀、成敗すべく候。
そのみぎり、深重に申し談ずべく候。
御昵懇専要に候。
なお以って芳問大慶に候。
必ずこれより申し述ぶべきの条、筆をなげうち候。恐々謹言

 十二月二十八日  信長(朱印)


 謹上 伊達殿

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

原文に書き下し文を記してみた

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』a+書き下し文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状a+書き下し文』

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』b+書き下し文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状b+書き下し文』

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』c+書き下し文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状c+書き下し文』

『十二月二十八日付織田信長朱印状(伊達家文書 一)』d+書き下し文

『(天正元年)十二月二十八日付織田信長朱印状d+書き下し文』

現代語訳

 去る10月下旬に発された伊達殿よりの書状が先日届きました。
はるばる遠くからの御音信、感謝いたします。
とりわけ、鴘鷹へんたか一連に加えて巣主までお贈りくださり、感悦の極みに存じます。
長年に渡り鷹をご愛蔵なされていたにも関わらず、大変貴重な贈り物をしてくださいました。
特別大事にいたします。
早速鳥屋を拵えて入れ置き、秘蔵の宝とする所存です。

さて、天下の儀はお聞き及びでしょうが、私は義昭公の御上洛に供奉いたし、都に御安座させて数年間は平穏でした。
しかしながら、甲州の武田信玄、越前の朝倉義景らの悪しき諸大名が義昭公を唆し、我々に御逆心を企てられました。
まことに口惜しく、残念で仕方ありません。
そのため、どうにか道理を説こうと私が上洛したところ、義昭公は若君を渡し置かれて京を去られました。
今は紀州の熊野辺りで流落なされているとのことです。

また、武田信玄入道は病死しました。
去る8月、近江の国境で朝倉義景勢と戦い、これを打ち破りました。
討ち取った首は三千にも上り、直ちに越前へと乱入して義景の首をね、一国を平定しました。
その後は若狭・能登・加賀・越中を分国と為し、思いの通りになりました。
五畿内は言うまでもなく、中国地方まで下知のままになったことは、隠れもない事実であります。

来年は甲斐武田領へ攻め入り、関東まで成敗する考えでいます。
その際は、是非とも伊達殿と深く話し合いたいので、今後とも御昵懇に願います。
御芳問くださったことは誠に嬉しい限りです。
以上のことを伝えた上で、この手紙の括りと致します。敬具

 (1573年)12月28日 信長


 謹上 伊達殿

政治的な大言壮語とは

 大言壮語とは実力以上のおおぼらを吹くこと。おおげさにいうことを指します。
戦国時代の書状には、少しでも多くの味方を募るためなのか、こうした壮語が頻繁に用いられました。

これは個人の見栄からでたものと考えるよりは、組織の代表者として見た方が適切かもしれません。
組織の代表者が公的な文書で、自家の利益のために用いる方便ならば、それは「政治的な大言壮語」と考えて良いでしょう。

では、今回織田信長が「大言壮語」した部分はどこでしょうか。
私は冒頭で「時には虚勢を張り、1のことを100のように話を盛り」と書きました。
戦国史に詳しい方なら、どの部分がそうなのか理解できたでしょうか。

この書状の文章構成

 本状の前半部分は、伊達輝宗から贈られた鷹への感謝を述べています。
「秘蔵他無く候」と、鷹好きの信長らしい非常に素直な反応です。

中盤の「仍って天下の儀、」からは、信長が足利義昭を奉じて上洛し、両者が仲違いをして「京都から御退城」なされる顛末を書いています。
それもどこか駆け足で、触れてほしくない傷でもあるかのような歯切れの悪さがあります。

ところが「然して、武田入道病死せしめ候。朝倉義景は江州境目に於いて・・・」以降、話を急転換させています。
それも、朝倉勢と国境で戦い、義景の首を刎ね、越前ほか4ヶ国を分国とし、さらに中国地方までも下知のままになった。
と自らの武威を誇り、いかに織田家に勢いがあるかを誇示しているかのようです。

最後は武田勝頼領と関東の成敗。
その際には伊達殿のお力を借りたいので、今後とも御昵懇に願いたいと結んでいます。

都合の悪い部分は言うまでもなく足利義昭と鉾楯を交えたことですが、そこは最小限の記述に留めてオブラートに包んでいます。

現在でも企業の文書でありがちな文章構成ですね。
次は、具体的にどの部分が「政治的な大言壮語」にあたるのかを探ってみましょう。

元亀4年における信長と義昭の動き

 「政治的な大言壮語」はどこなのか。
織田信長と足利義昭に関する出来事を、本文書に関係しそうな史料から抜粋します。

元亀4年(1573)
2月13日
足利義昭が反信長の旗幟を鮮明にする。『勝興寺文書』など

2月20日
信長、これを討伐するため、柴田勝家らに出陣を命じる。『信長公記』・『細川家記』

2月22日から4月にかけて
信長の使者として村井貞勝らが京都に到着し、朝山日乗とともに和睦を提案する。
信長から人質を出して起請文(誓紙)の提出を言上するも、悉く却下される『兼見卿記』など

3月25日
信長、岐阜を出陣。『信長公記』
その間も将軍と交渉を重ねるも決裂。『細川家文書』など

4月2日から
信長、洛外と上京を焼き討ちにし、二条御所を取り囲む。『兼見卿記』など

4月27日
織田信長・足利義昭との間で起請文の交換が行われ、正式に和議が成立する。『和簡礼経』

7月3日
足利義昭が再び挙兵。
家臣に二条御所を守備させ、自らは宇治槙島城に籠る。『兼見卿記』など

7月10日
織田勢の交渉により二条御所が開城。『兼見卿記』など

7月18日
織田勢の攻撃により足利義昭が降伏。
若君を人質に差し出して河内若江城へ護送される。『兼見卿記』など

その後、義昭は3年後の天正4年(1576)まで畿内に滞在し、11月9日に堺から紀州由良へ、最終的には鞆の浦へ移り小松寺に寄寓。

信長が「政治的な大言壮語」をした部分

 本文中盤にある「その断り及ぶべき為、上洛のところに」の部分を壮語だと考えた方は多いかもしれません。
足利義昭が挙兵した元亀4年(1573)2月から、信長はギリギリの和睦交渉を行っていました。
信長父子ともども頭を丸める旨。
さらに、人質を差し出すことを申し出ますが、義昭の決意は固く交渉は決裂。
その結果、洛外と上京を焼き払い、二条御所を取り囲むに至ります。
これは、道理を説くための一種の「御所巻きを行った」と見ることもでき、矛盾や壮語をしているとは言い切れません。

問題なのは次の一文です。
「若公を渡し置かれ、京都を御退城ありて、紀州熊野辺りに流落の由に候。」

話が3か月ほど飛んでいる上に、降伏してから紀州熊野へとかなり早足で説明していますね。
その後の事実を知っている現代人からすると、随分と歯切れの悪い印象を受けてしまいます。

実は、同時期に信長は、これと似た説明を毛利輝元と小早川隆景にも行っています。

「公儀槇島へ御移り候。
御逗留は不実の由に候き。
時宜に於いて相違無くんば、その隠れ有るべからざるの条、重説にあたわず候。」

『乃美文書(元亀四年九月七日付織田信長書状写)』『武家事紀』より抜粋

と、追放してそれなりに日が経っているにも関わらず、このようにとぼけて見せているのです。
(実際には改元されているにも関わらず、元亀の元号を用いているのも面白い)

なお、次の文には「仍って江州北郡の浅井、近年信長に対し、不儀を構え候・・・」と、これまた信長が朝倉・浅井氏を滅ぼした顛末を長々と書いています。
今回輝宗に宛てた書状と文章構成がそっくりですね。

信長による壮語はさらに続きます。
越前を平定した後の「若狭・能登・加賀・越中皆以て分国と為し、存分に属し候。」
さらに、「五畿内の儀は申すに及ばず、中国に至りて下知に任せ候次第、」
とした上で、「その隠れ有るべからず候(隠れもない事実であります)」と豪語しています。

もちろんこれは実説ではありません。
将軍が京から離れたはいえ、畿内はいまだ不安定な状況であり、特に丹波国は信長の影響力がいまだ浸透していない地域でした。
若狭はともかく、能登・加賀・越中は皆もって分国とするのも無理があります。
上杉謙信が越中・加賀・能登の一向一揆勢を打ち破り、信長が越前を平定したとはいえ、同地が信長に帰属する保障はありません。
即ち、これらのことは1のことを100とする「大言壮語」といえるでしょう。
事実を知るのに、地理的に時間のかかる東北勢だからこそ、ここまで話を盛ったのかもしれません。

「政治的な大言壮語」はどの大名も行っていた

 このような「政治的な大言壮語」は、なにも信長に限ったことではありません。
ここではいくつかの例を出してみることにいたしましょう。

足利義昭が京から追放された後の話です。
当時は信長打倒の檄に応じる大名が少なく、毛利氏もまた信長と義昭の間に立ち、仲裁に奔走していました。
そのような時期の中、義昭は天正3年(1575)の吉川元春宛ての書状に

「然らば信長、輝元に対し逆意、その隠れ無きの条(間違いない事)、先ず当国(備後国)に至り相越し候」

『吉川家文書』

と毛利氏と信長との関係を割くような虚説を吹聴し、毛利領である備後国に身を置きたいと伝えています。
同地には鞆の浦という将軍ゆかりの拠点がありました。

他にも元亀元年(1570)8月10日付の六角承禎じょうていが馬場兵部丞ひょうぶのじょうへ宛てた書状。
織田家臣である森可成よしなりの手勢を撃退した武功を称賛した上で

「越後長尾も合力の為、相働くべきの旨、厳重に使者を以て申し来たり候間」

『馬場寿子氏所蔵文書』

と伝えて安心させようとしています。
もちろんそのような事実はなく、むしろ越後長尾、すなわち上杉謙信は、信長と親密な関係を築いていました。
遠距離に位置する大大名の威を借りるのは、割とよくあるパターンかもしれませんね。

さらに甲斐武田氏の臣である山県昌景が、元亀3年(1572)11月27日付けで、奥平おくだいら氏(三河国長篠の国人)へ宛てた書状。

「岐越衆江北に於いて一戦を遂げ、濃尾者数多討死の由に申し候哉。
あまつさえ、大身の人二三輩、越前へ同意仕るの段、いよいよ以て然るべきに存じ候。
実儀に於いては聞こし召し届けられ、重ねて仰せ蒙るべく候。
(中略)
追って、ここもとへ申し来たり候。
日野の蒲生(賢秀)、越前へ同意の由候にて、このところ聞こし召し届けられ候。
実説待ち入り候。以上

『奥平家文書』

岐阜の織田勢と越前の朝倉勢が戦い、織田勢を大敗を喫したこと。
近江の国衆である蒲生氏が朝倉義景と内通しているとしています。
「実説待ち入り候」と不確定情報でありながらも、真実味があるような書き方をしているように見えますね。

当然ですが、これは真実ではありません。
織田勢と朝倉勢は江北において、長い対陣を続けていましたが、激戦には至らなかったようです。
近江日野の蒲生氏は、織田家の麾下に属して日が浅いとはいえ、嫡男の忠三郎賦秀は信長の覚えめでたく、娘を貰い受けているほどです。

このように「政治的な大言壮語」は、全国的に広く用いられていました。

それゆえ、書状を受け取った領主は、これが実説か虚説かを確かめるため、先方の使者の様子をじっくりと観察したことでしょう。
また、諜報活動もしっかりと行った上で、御家にとって最善の選択肢を選ぼうと努力したはずです。

織田家と伊達家のその後の関係

 織田家と伊達家のその後の関係はどうなったでしょうか。

本状の1行目に「去十月下旬の珍簡近日到来」とありましたね。
その「珍簡」なる書状が、織田・伊達両家の間で初めて取り交わされたものと見られています。
本状はその返書でしょう。
しかし、残念ですが輝宗が初めて送った「珍簡」は現存しません。

信長は元亀4年(1574)7月18日に将軍義昭を降伏させ、京都から追放しました。
続いて8月下旬に朝倉・浅井両氏を瞬く間に攻め滅ぼし、さらには9月に六角氏の籠もる近江鯰江城を攻略しています。
輝宗は、こうした信長の勢いを見て「珍簡」と希少な鷹を贈り、交誼を求めたものと考えられます。

実はこの「珍簡」がはじめてのやり取りであるとする裏付けは、伊達家側の史料に残されています。

伊達輝宗肖像(仙台市博物館所蔵)

伊達輝宗肖像(仙台市博物館所蔵)

 伊達輝宗(1544~1585)

伊達家16代目当主。
11歳の元服の際に、将軍足利義輝より一字を賜り輝宗と名乗る。
父晴宗や、その側近とたびたび対立するも、卓越した外交手腕で危機を乗り切り、奥羽11郡をほぼ支配するに至る。
身分に捉われない登用や教育に熱心であった。

それが輝宗自らが記した『天正二年御日日記』です。
この日記によると、信長が発給した本状は翌天正2年(1574)2月21日に米沢に到着。
輝宗はさっそく写しを作成し、同月26・27日に譜代家臣の桑折こおり親宗・亘理わたり元宗に披露しています。

信長が12月28日に発給した書状が、翌年2月21日の時差で届いたという点は興味深いですね。
北国の冬がいかに厳しいかが見える気もします。

その後は両家の書簡のやり取りが活発になり、やがて越後の上杉氏を共通の敵として持つに至ります。
新たに北陸方面の切り取りを担当した柴田勝家とも書簡のやり取りが始まり、両家の良好な関係は本能寺の変で信長が斃れるまで続きました。

最後に輝宗が贈った鷹の様子をご覧いただき、この記事を終えたいと思います。

(史料1)天正二年九月二日付織田信長書状

 (包紙)
「謹上 伊達次郎殿  信長」

去初冬芳墨遂拝閲、委曲及返答候シ、其後無音所存之外候、鷹于今堅固候、自愛過推察候、仍五種目録別冊有之進之候、雖不珍、音問之便候、如申旧候、自今以後別而可被相通之事、所希候、恐々謹言

 九月二日   信長(花押)


  謹上 伊達次郎殿

 目録

一 金襴  拾端
一 段子  拾端
一 褶   弐拾端
一 紅糸  拾斤
一 虎皮  参枚
 已上

  九月二日  信長(花押)


   伊達殿

『伊達家文書』

(書き下し文)
去初冬の芳墨拝閲を遂げ、委曲返答に及び候し。
その後無音所存のほかに候。
鷹、今に堅固に候。
自愛推察に過ぎ候。
仍って五種(目録は別冊にこれあり)これをまいらせ候。
珍しからず候といえども、音問の便りに候。
申しふり候如く、自今以後別して相通じらるべきの事、請い願う所にて候。恐々謹言(以下略)

戦国時代末期にもなると、大陸からの生糸と高級織物が多く流通するようになりました。
金襴緞子(段子)・繻子虎皮は恐らくいずれも大陸産でしょう。

鷹は今も元気であること。
自愛のほどはお察しくださいとしているあたりがほほえましいですね。

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参考文献
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書<東日本編〉』柏書房
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引』吉川弘文館
久野雅司(2019)『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版
久野雅司(2017)『足利義昭と織田信長 傀儡政権の虚像』戎光祥出版
村井祐樹(2009)『戦国遺文 佐々木六角氏編』東京堂出版
柴辻俊六,黒田基樹(2003)『戦国遺文武田氏編 第三巻』東京堂出版
丸島和洋(2013)『戦国大名の「外交」』講談社選書メチエ
渡邊大門(2019)『戦国古文書入門』東京堂出版
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
山科言継(1915)『言継卿記 第四』国書刊行会
長谷川成一(1981)「鷹・鷹献上と奥羽大名小論」,『本荘市史研究. 本荘市史編さん室』, 1,pp.27-44.
水谷憲二(2012)「北伊勢地域の戦国史研究に関する一試論(1)-近世に著された軍記・地誌の活用と展望-」,『佛教大学大学院紀要. 文学研究科篇』, 40,pp.19-36.
鈴木正人(2019)『戦国古文書用語辞典』東京堂出版
林英夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
など

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