こんばんは~。
今回は信長25歳の時の話、「浮野の戦い」を取り上げます。
時は永禄元年(1558)7月12日。
尾張上四郡を代々支配する岩倉織田家の内紛に付け込み、信長は清州を出陣。
味方に引き入れていた犬山城主・織田信清と共に、浮野で合戦に及んだ。
この合戦の詳細や、あの有名な一騎討ち、この合戦はのちにどういった影響を及ぼしたのか・・・。これからどのブログサイトよりも詳しく、且つわかりやすく説明しよう。
1558年北尾張付近の情勢(Googleマップより)
信長を取り巻く当時の情勢
弘治2年(1556)4月、信長にとって最も頼りになる存在である、舅の斎藤道三が子義龍と戦い敗死した。これを機に、尾張上四郡を支配する岩倉織田家の当主・織田信安が信長に反旗を翻す。清州の城下に攻め寄せ、火を放たれたこともあった。
同年、庶兄である信広が美濃の斎藤義龍と手を組み謀叛。清州城を乗っ取ろうをするが失敗し、詫びを入れ来た為赦免された。
そして同年8月・・・
実弟・信勝も反旗を翻す。
信勝付きの家臣・柴田勝家、信長付きの家老・林秀貞らが信勝側につき、織田家が割れてしまった。
しかし、信長が信勝勢を稲生原で撃破し、兄弟相克の戦いは信長の勝利に終わった。
このように、「斎藤道三の死」が織田家に大きな影響を与えたが、信長が困難を克服するにつれ、信長の権力地盤が確固たるものになっていくのであった。
降って湧いたような岩倉城の異変
兄弟相克の戦から2年後の永禄元年(1558)5月。思いもよらぬ事件が信長の元にもたらされた。
尾張上四郡の主・織田信安が、次男の信家を跡継ぎに据えようととしたため、嫡男の信賢に追放されたのだ。
「岩倉織田家の内紛」を好機と見た信長は、信賢との戦に備え、犬山城主の織田信清に目をつけた。自身の姉を信清へ嫁がせることで関係を深めることに成功。来るべく戦に備えるのであった。
岩倉織田家の織田信賢も、引き続き美濃の斎藤義龍と手を組み、尾張下四郡と尾張上四郡が対立する構図が出来上がった。
北尾張周辺の勢力図(Googleより)
浮野合戦の詳報
いざ決戦
同年、好機到来と見た信長は7月12日に清州城を出陣。2000の兵で真っすぐに岩倉へと進まず、「浮野へと兵を進める。」
浮野を戦場にした理由はよくわかっていないが、犬山からの援軍で、より挟撃しやすい位置だったのではあるまいか。
岩倉織田家も3000の手勢を率いて城から打って出た。
決戦はすぐに始まった。開始まもなく大激戦となり、2時間経っても一進一退の攻防が繰り広げられた。
変わった一騎討ちの伝説
ここで犬山城の織田信清の手勢1000が浮野に到着。敵の背後を突いた。
信長の臣・森可成の奮戦もあり、織田信賢の軍勢はたちまち総崩れとなり浮足立った。
ところで、岩倉織田家の家臣で、武勇の誉れが高い林弥七郎という者がいた。彼は弓の名手として有名であった。奇しくも先年の稲生合戦で、信長自らが討ち取った林美作守の縁者である。彼は信長への復讐心で燃え上がっていたに違いない。
彼を追ったのが、信長の鉄砲の師匠である橋本一巴。この橋本一巴と林弥七郎とは旧知の仲であったと伝わる。
弥七郎は弓で、一巴は鉄砲で互いに一騎討ちをした。普通一騎討ちは刀か槍かだと思うが、かなり異色な戦いですね(汗)
二人とも傷を深く負い、岩倉勢が撤退をしていたということで、次第に周りが信長の手勢ばかりとなった。
そこで、信長の小姓を務めていた佐脇良之(前田利家の弟)が、倒れこんだ弥七郎の首を取ろうと襲い掛かった。
弥七郎は最後の力を振り絞り、太刀を抜いて良之の左腕を切り落とした。
それでも良之は構わず弥七郎をねじ伏せ、見事に首級をあげたのだった。
永禄元年浮野合戦進軍図(Googleマップより)
敗走する岩倉勢
4時間もの激闘の末、岩倉勢は岩倉城へと逃げ帰った。
信長と信清の手勢は、岩倉城を包囲し、勝鬨を上げた。
両軍ともに死傷者多数のため、城攻めを断念。信長と信清はそれぞれの居城へ退却を開始した。
岩倉勢の反撃
しかし、この油断を岩倉勢は衝き、犬山城へと引き上げる織田信清の軍を追撃。
まさかの追撃に大混乱に陥った信清勢。一時はあわや討死かというところまで追い詰められた。
この報を聞いた信長は、軍を反転させて信清の救援に向かった。
戦場に到着した信長もまた岩倉勢の背後を突く形となり、織田信賢の手勢は多数の死傷者を出して岩倉城に撤退した。
清州城で首実検
明けて13日。清州城にて早速首実検が行われた。
なんと敵方の首級の数は1250にも上ったと歴史書には記されている。
(これが本当なら、首に化粧とかする女中などはトラウマもんやろうな^^;)
この戦は信長の大勝利に終わり、信長は尾張統一へと大きく前進したのであった。
考察
疑問その1 敵方の首級
1250の首を実検したとあるが、岩倉勢は3000の兵である。
むしろ兵3000というのも誇張かもしれず、実際はもう少し動員兵力は少なかったのかもしれない。
それを約半数である1250の首を取ったというのは、どう考えてもあり得ないのだ。恐らく大勝利であることには間違いないのであろうが。
この時代には勝利を誇張することや、討ち取った首の数を誇張することはよくあることだ。
例えば、元亀年間に発生した「姉川の戦い」でも浅井・朝倉家は大勝利して信長は敗走したとの書状が複数見つかっているくらいだ。
疑問その2 なぜ籠城しなかったのか
岩倉織田家は美濃の斎藤義龍の後援を頼りにしていた。
岩倉城に立て籠もり、籠城して時間稼ぎをしたならば、もしかしたら有利な展開へと運べたかもしれない。残念ながら、これは調べた限りでは見つからない。
立て籠もるのにはあまりに不向きだったのか、斎藤義龍が何らかの理由で救援には行けなかったのか、織田信賢が自信家で野戦を自ら望んだのか・・・。理由は分からないが、なかなか興味深いところではある。
甲斐の武田信玄であれば、斎藤義龍の足元に謀叛の種をまいて兵を出せなくし、その隙に岩倉勢を攻めたのであろうか。敵の敵は味方。これは信玄がよくやる常套手段である。
その後の信長
何にせよこの合戦で、岩倉織田家の命運は風前の灯火となり、翌年永禄2年(1559)に滅亡している。
その間、信長は弟の信勝を謀殺し、後顧の憂いを絶った。
意外と知られてはいないが、信長は可能な限り万全の態勢で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いへ臨んだのだ。
なお、一騎討ちで林弥七郎と戦った橋本一巴は、深手を負い、それが原因でほどなくして没した。信長にとっては思い出深い戦であっただろう。
この時代について信長公のちょっと詳しい年表つくってます。もしよろしければ下のリンクから
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