織田信長の清州城攻略戦 父をも成し得なかった大事件を「信長公記」から考える

織田信長の清州城攻略戦 父をも成し得なかった大事件を「信長公記」から考える
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。
織田信長による清州城攻略の様子を「信長公記」から抜粋し、皆さんにご紹介したいと思います。
当時は「清須」と表記していたようですが、便宜上今回は「清州」と統一させていただきます。

織田信長と織田信友、そして斯波義統の関係

 天文22年(1553)。
織田信長は家督を相続した直後の弱冠20歳であった。
父の死に乗じて、清州城を根城にする清州織田家が攻め寄せたが、萱津の合戦で破ったばかりの時期だ。

若き織田信長 イメージ
若き信長のイメージ (信長の野望大志より)

清州織田家というのは信長の本家筋である。

織田信秀・信長の家系
織田信秀・信長の家系

この図でいうと、信長は弾正忠家にあたり、本家である織田信友は清州織田家にあたる。
そして、清州城にて信友が崇め奉るのが、斯波家の当主だった斯波義統(よしむね)であった。

今回のキーパーソンはこの3人である。
彼らの動きを想像しながら、以下を読み進めていっていただきたい。

織田信長の謀略 主家の斯波義統を調略する


 一、さる程に、※1武衛様(ぶえいさま)の臣下に梁田弥次右衛門(やじえもん)とて、一僕の人あり。
面白き巧みにて知行過分に取り、大名になられ候仔細は、清州に那古野弥五郎とて十六、七、若年の、人数三百計り持ちたる人あり。

色々歎(なげ)き候て、若衆かたの知音を仕り、清州を引きわり、※2上総介(かずさのすけ)殿の御身方(味方)候て、御知行御取り候へと、時々宥(なだ)め申し、家老の者どもに申しきかせ、欲に耽り、尤(もっとも)と、各(おのおの)同じ事に候。

然る間、弥次右衛門、上総介殿へ参り、御忠節仕るべきの趣、内々申し上ぐるに付いて、御満足斜めならず。

或る時、上総介殿御人数(出陣)清州へ引き入れ、町を焼き拡ひ、生城に仕り候。
信長も御馬を寄せられ候へども、城中堅固に候間、御人数打ち納められ、武衛様も城中に御座候間、透(すき)を御覧じ、乗つ取られるべき御巧みの由、申すに付いて、清州の城外輪より城中を大事と用心、迷惑せられ候。

  信長公記首巻 梁田弥次右衛門御忠節の事より

※1 武衛様(ぶえいさま)とは尾張守護職の斯波義統(よしむね)のこと。
朝廷と幕府より正式に認められた斯波家は代々権威のある家柄であったが、この時期には権威が失墜し、家来の織田信友の庇護を受けて生活していた。

※2 上総介(かずさのすけ)とは那古野城主・織田信長のこと。
20代前半の織田家分家の若き当主であったが、既に主家にあたる清州織田家との戦いに勝利し、虎視眈々と清州城を狙っていた。
これはあまり知られていないことだが、彼こそが後に忝くも足利義昭公を京へ御連れし、天下様に御成りあさばされる人物である。

ここには信長の調略により、梁田弥次右衛門と那古野弥五郎の2名が信長に内通していたということ、信長が清州城の城下を焼き払って裸城にしたものの、城中の守りが固かったために兵を引き上げた様子が記されている。

なお、織田信長が斯波義統を誘った古文書は見つかっていない。
何に釣られて内通したのかも不明だ。

では、次をご覧いただこう。

斯波義統が織田信友に殺害される


 一、(1553年)七月十二日、※1若武衛様に御伴(おとも)申す※2究竟(くっきょう)の若侍、悉く川狩に罷(まか)り出でられ、内には、若者の仁体※3纔(ひたた)に少相残る。

誰々在之(ありの)と指折り、見申し、坂井大膳河尻佐馬丞織田三位(さんみ)談合究め、今こそ能き折節なりと、焜(こん)と四方より押し寄せ、御殿を取り巻く。
面広間の口にて、何あみと申す御同胞、是れは揺(唄)を能く仕り候仁にて候。
切つて出で働く事比類なし。
又、はざまの森刑部丞兄弟切つてまはり、余多に手を負はせ討死。
頸(首)は柴田角内二ツとるなり。

うらの口にては、柘植宗花と申す仁切つて出で、比類なき働きなり。
四方屋の上より弓の衆さし取り引きつめ、散に射立てられ、相叶わず、御殿に火を懸け、御一門数十人歴々御腹めされ、※4御上臈衆は堀へ飛び入り、渡り越し、たすかる人もあり。
水におぽれ死ぬるもあり、哀れなる有様なり。

(若)武衛様は川狩より、直ちにゆかたびらのしたてにて、信長を御憑(おたの)み候て、那古野へ御出で、すなわち弐百人扶持仰せ付けられ、天王坊に置き申され候。

主従とは申しながら、筋日なき御謀反おぼしめしたち、仏天の加護なく、か様に浅猿敷(あさましき)、無下と御果て候。
若君一人、毛利十郎生捕に仕り候て、那古野へ送り進上候ひしなり。

※5御自減と申しながら、天道恐ろしき次第なり、城中にて、日夜、武衛様へ用心機遣ひ仕り、粉骨の族(やから)どもも、一旦憤を散ずるといへども、我も人を小屋やかれ候て、兵粮(兵糧)、着の莢(さや)等に闕(欠)く難儀の仕合にて候なり。

  信長公記首巻 武衛様御生害の事より

※1 若武衛様とは尾張守護職・斯波義統嫡男の斯波義銀(よしかね)のこと。
血脈だけはサラブレッド。

※2 究竟 くっきょう=屈強

※3 纔 ひたた=わずかに

※4 御上臈衆 ごじょうろうしゅうと読み、身分の高い女のことをいう。
ここでは斯波義統の妻やそのお付きの者たちであろうか。

※5 御自減=御自滅

ここには斯波家の世継ぎである義銀が、屈強の侍らを連れて外出した隙を突き、織田信友の家来である坂井大膳らが斯波義統を襲い、殺害した経緯が詳細に記されている。

義銀は出先でそれを聞き、急ぎ那古野城へと走り、織田信長に庇護を求めたようだ。
普通に考えると義銀も討っておかないと、逆に敵に討伐の大義名分を与えてしまうはずなのだが・・・。
なぜ清州城内で諸共に始末しないのかわからない。

織田信友がなぜ主家である斯波義統を討ったのかについては後述するとして、さらに先を見てみよう。

主家である斯波家への弔い 安食村の合戦


一、七月十八日、※1柴田権六(ごんろく)清州へ出勢
あしがる衆我孫子右京亮(あびこうきょうのすけ)、藤江久蔵、※2太田又助、木村源五、芝崎孫三、山田七郎五郎、此れ等として、三王口にて取合ひ、追ひ入られ、乞食村にて相支ふること叶はず、誓願寺前にて答へ候へども、終に町口大堀の内へ追ひ入らる。

河尻左馬丞(さまのじょう)、織田三位、原殿、雑賀殿切つてかゝり、二、三間扣(ひかえ?)き立て候へども、敵の鑓(槍)は長く、こなたの鑓はみじかく、つき立てられ、然りと雖(いえど)も、一足去らずに討死の衆、河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理、原殿、八板、高北、古沢七郎左衛門、浅野久蔵、歴々三十騎討死。

武衛様の内、由宇喜一、未だ若年十七、八、※3明衣のしたてにて、みだれ入り、織田三位殿頸(首)を取る。
武衛様逆心おぼしめし立つると雖(いえど)も、譜代相伝の主君を殺し奉る其の因果、忽(たちま)ち歴然にて、七日日と印すに、各(おのおの)討死。
天道恐ろしき事どもなり。

  信長公記首巻 柴田権六、中市場合戦の事より

※1 柴田権六(ごんろく)とは柴田勝家のこと。
修理亮(しゅりのすけ)というのもまた彼の呼称である。
もう少し詳しく述べると、権六=仮名 修理亮=官途名。
戦国時代は朝廷の権威が失墜していたため、官途名や受領名は自称される場合もあった。
この時期の柴田勝家は信長の舎弟にあたる末森城主・織田信勝の家臣として活躍していた。

関連記事:柴田勝家 無類の強さを誇る歴戦の名将

※2 太田又助とはこの「信長公記」の著者・太田牛一のこと。
非常に客観的に自身のことを飾ることなく記していることから、太田牛一という人物の厳格な性格や謙虚さが窺える。
この当時の太田又助少年は、柴田勝家の配下だったようだ。

※3 明衣 「あかはとり」といい、神事に用いる神聖な衣服のこと。

ここには恐らく斯波義統が殺害された7日後の7月18日に柴田勝家を総大将とする軍勢が清州織田家を攻め、三王口で合戦となり、敵が退いたところの追撃戦で乞食村、誓願寺前でも戦ったとある。
現在では一般的にこの一連の戦いを「安食村の合戦」と呼ばれている。

7日後というのにも意味があり、それはやはり初七日に弔い合戦をして織田信長側に大義があると内外にアピールする狙いがあったのだろう。
織田信長自ら出陣しなかった理由はわからない。
信長ではなく、織田信勝による命の可能性もある。

この戦いで織田信友家臣の部将格である河尻左馬丞織田三位らが討死。
主力を相次いで失った織田信友はいよいよ窮地に立たされることとなった。

ここにきて清州織田家の織田信友は、最後の手段を取るのであった。

織田信長、ついに謀略で清州城を攻め奪う

明けて天文23年(1554)
今川義元の軍勢を村木城の戦いで打ち破った織田信長は、清州城の攻略に取り掛かる。


一、清州の城守護代、※1織田彦五郎殿とてこれあり、領在の※2坂井大膳は小守護なり。

坂井甚介、河尻左馬丞、織田三位、歴々討死にて、大膳一人しては抱えがたきの間、此の上は※3織田孫三郎殿を憑(たの)み入るの間、力を添へ候て、彦五郎殿と孫三郎殿、両守護代に御成り候へと、懇望申され候のところ、坂井大膳好みの如くとて、表裏あるまじきの旨、※4七枚起請を大膳かたへつかはし、相調(あいととの)へ候。


一、四月十九日、守山の織田孫三郎殿、清州の城南矢蔵へ御移り、表向は此の如くにて、ないしんは信長と仰せ談ぜられ、清州を宥め、取り進めらるべきの間、尾張下郡四郡の内に、於多井川とて、大かたは此の川を限つての事なり。
孫三郎殿へ渡し参らせられ候へと、御約諾の抜公事なり。

此の孫三郎殿と申すは、信長の伯父にて候。
川西、川東と云ふは、尾張半国の内、下郡二郡、二郡ツヽ(ずつ)との約束にて候なり。


一、四月廿(二十)日、坂井大膳御礼に、南やぐらへ御礼参り候はゞ(候わば)、御生害(ごしょうがい)なさるべしと、人数を伏せ置き、相待たるゝのところ、城中まで参り、冷じけきしきをみて、風をくり、逃げ去り候て、直ちに駿河へ罷(まか)り越し、今川義元を憑(たの)み、在国なり。

守護代織田彦五郎殿を推し寄せ、腹をきらせ、清州の城乗取り、上総介信長へ渡し進められ、孫三郎殿は那古野の城へ御移る。

其の年の霜月廿六日(十一月二十六日)、不慮の仕合せ出来して、孫三郎殿御遷化(せんげ)。
忽(たちま)ち誓紙の御罰。
天道恐ろしきかなと、申しならし候へき。
併せて、上総介政道御果報の故なり。

  信長公記首巻 織田喜六郎殿御生害の事より

※1 織田彦五郎殿とは織田彦五郎信友のこと。
本来なら信長の主家筋にあたり、信友は清州織田家として守護大名の斯波氏を支える家柄であった。

※2 坂井大膳とは織田信友が恐らく最も信頼を置いたであろう家老。
彼を小守護と名乗らせていたことからも、絶大な信頼を寄せていることが窺える。
彼の本名は不明。

※3 織田孫三郎とは信長の叔父・信光のこと。
武勇に秀で、小豆坂の合戦稲葉山城の戦いなど、信長の父を武の面でよく支えた。
なかなかの野心家だったと伝わる。

※4 七枚起請(しちまいきしょう)とは、熊野牛王の印の入った誓紙を7枚に継ぎ合わせたもの。
普通の起請文(誓紙)より強い意味があったのだろう。
起請文について詳しい記事を書いたことがあるので、もしよければ。

関連記事:戦国時代の起請文とは 意味や定番の書き方は

ここにはいよいよ進退窮まった織田信友とその配下・坂井大膳が、信長の叔父にあたる織田孫三郎信光を調略し、清州城へと招き入れたとある。
餌は尾張守護代の地位である。

織田信光があまりにも気前よく聞き入れたので、訝しく思ったのか、七枚起請を取らせて堅い約束までさせている。

しかしながら、実は織田信光は信長とも通じていて、尾張下四郡のうちの半分。
つまり信長の領国の内の約50%の土地をあげるという約束もしていた。

その年の4月20日。
坂井大膳が挨拶をしようと織田信光を訪ねたところ、にわかに殺気を感じて清州城を脱出し、そのまま駿河へと逃げ延びた。
信光は軍勢を率いて織田信友に迫り、腹を切らせて清州城は落城。

城をそっくり信長へ明け渡し、約束通り尾張下二郡の地と那古野城を賜った。
これを機に信長は那古野から清州に居城を移したのであった。

なお、坂井大膳のその後の行方は明らかではない。

織田信友が決起した理由について

 織田信友が主家である斯波義統の殺害へと至った動機は、信長が斯波義統を調略したためではないかと考える。

というのは、信長公記首巻の「梁田弥次右衛門御忠節の事」のすぐ次の話で斯波義統が殺害される話がくるからだ。
斯波氏を庇護していることで、我こそが織田家の惣領であり、清州城に住むことの正当性をアピールしてきた織田信友にとっては、許しがたい大事だったに違いない。

また、「柴田権六、中市場合戦の事」の項に
“武衛様逆心おぼしめし立つると雖(いえど)も、譜代相伝の主君を殺し奉る其の因果、忽(たちま)ち歴然にて”
とあるので、斯波義統の方から織田信友を放逐するための謀略を張り巡らせていたと考えるのが適当だと思う。

織田信光はなぜ裏切ったのか

 織田信光がなぜ裏切ったのか・・・。
同じ年の天文23年(1554)1月までは信長と信光の関係は良好のようで、ともに村木城の戦いで命を懸けて奮戦し、今川家を打ち破っている。

関連記事:激戦村木城の戦い 若き信長が男泣きをした理由とは

それから半年もせずして信光は坂井大膳の誘いを受けて清州城に入り、信長と対抗したのは不可解だ。
信長の策略で信光の方から清州方に内応を打診したのかもしれないが、何にせよ清州方が信光を信じた。
まさか七枚起請を反故にしてまで裏切ることはないだろうと考えたのかもしれない。

天正十年十月二十四日徳川家康発給起請文に釈文を入れてみた
天正十年十月二十四日徳川家康発給起請文+釈文

これが起請文の例。
裏に熊野牛王の印が入っている。
ここに神文と成約の内容を記すことによって、約束事を神々に誓うというのが習わしだった。

信光の裏切りにより、内より清州城を攻め崩した信長は、本拠を清州に移して、那古野城と広大な所領を織田信光に渡した。

しかし、どういうわけかそれから半年も経たぬ11月26日に織田信光は死去してしまった。
織田信光が突然の死を迎えた理由や、同時期に相次いで織田一族がなくなっている理由についてはまた別の記事で書きたいと思う。

最終的に大きな利を得たのは織田信長

 主家である清州織田家を攻め滅ぼし、さらにその主家である斯波氏をも傀儡化した織田信長。
織田信長は若くして稀代の謀略家だった。

信長の舅として隣の美濃国を支配していた斎藤道三
「すさまじき男。隣にはいや成人にて候よ」
と信長を評していたようだが、父以上に知勇に優れた武将だと恐れたのだろう。

しかしその後、斎藤道三の敗死により反信長勢力は勢いづき、信長にさらなる試練が押し寄せるのであった。

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧いただきありがとうございます。
信長初期の時代は史料に乏しいため、どうしても信長公記を頼る比率が高くなってしまいますね。
そのうち今の清州と昔の清州を比較した記事も書きたいです~。

来世ちゃん
来世ちゃん

この時期の織田信長の年表はこちらです。

 1. 誕生~叔父信光死去まで(1534~1555)

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