こんばんは~。
戦国時代好きだし、応仁の乱を勉強してみるか~。
でも、こいつら味方になったり敵に回ったり死んだりしてややこしい!と思って投げだしたことはありませんか?
実は私もその一人です(笑)
今回はそんなややこしい応仁の乱とその後の中央政権を、焦点を細川(京兆)家に絞って取り上げ、難しい話を極力避けて、和歌の視点からご紹介します。
難しく感じるのは、その人物への愛が足りないからですw
“こいつが主人公”みたいな感じで見れば、案外頭に入りやすいものです^^
・中世の和歌の例句が見たい
・細川家のごたごたした内紛を簡単に知りたい
・短歌が好き
・応仁・文明の乱とその後の畿内の情勢が知りたい
・死ぬほど和歌が好き
・大内義興がどのように中央に介入したのかが知りたい
・だから早く句を見せろって言ってんだろ!
前編と後編の2回に分けてご紹介いたします。
細川京兆家とは
なんだか高級料亭のような名前だが、これは「けいちょうけ」と読み、細川家が代々、右京大夫(うきょうのだいぶ)という官位に任ぜられていたことから、その唐名(中国名)である「京兆尹(けいちょういん)」から取ったもの。
当時の日本では官位を唐名(中国名)で呼ぶことがしばしばあった。
他の例では
- 内裏(だいり)→禁中(きんちゅう)
- 摂政(せっしょう)→家宰(かさい)
- 関白(かんぱく)→太閤(たいこう)
- 摂政関白(せっしょうかんぱく)→執政(しっせい)
- 近衛大将(このえだいしょう)→幕府(ばくふ)
- 兵衛府(ひょうえふ)→武衛(ぶえい)
- 馬頭(うまのかみ)→典厩(てんきゅう)
など。
ちなみに時代劇でおなじみの水戸黄門(徳川光圀)は、水戸が地名で、中納言の唐名が黄門にあたる。
つまり、水戸中納言という意味だ。
応仁の乱勃発 細川勝元とその後見役となった細川持賢・政国の歌
まず応仁の乱の主人公の一人として細川勝元を挙げる方も多いだろう。
細川京兆(けいちょう)家を調べる上で、彼を起点に考えるのが分かりやすいかもしれない。
あまり詳しいことは書かないが、細川勝元は父の死後、叔父の細川持賢に後見されて13歳で家督を継承する。
細川勝元 (1430~1473)
応仁の乱の際に山名宗全と全面対決。
勝元は将軍・足利義政側の主力として京都を中心に争う。
戦いが膠着状態の中、山名宗全の病死で優位になったのも束の間、勝元も後を追うように病死した。
和歌に絵画、芸術、鷹狩り、犬追物、医術、料理、禅と実に多趣味な人物で、どれも達人級の腕前だったと伝わる。
平瀬家蔵短冊手鑑
たえだえの岩根の水に影見えてうら紫のすみれ咲くなり (細川勝元)
(たえだえの 岩根の水に 影見えて うら紫の すみれ咲くなり)
これはいつ頃詠まれたのか不明だが、色の澄んだ歌である。
「たえだえの岩根の水に影」とあるので、家の行く末を思って詠んだのだろうか。
どういった心境で詠んだのか気になるところだ。
以前に斎藤妙椿(みょうちん)と東常緑(とうつねより)のやりとりを記事にしたが、今回の記事はそれと同時期か、あるいはそれよりも後の時代の話ということになる。
関連記事:「刀でするばかりがいくさではない 歌のバトルで城を奪還したお話」
ついでに述べると妙椿は山名宗全率いる西軍陣営に、常緑は足利義政家臣の関係上、細川勝元の東軍陣営に属していた。
さて、次は細川勝元の後見役をした細川持賢の歌を見てみよう。
月はなほあかぬものかな萩に露尾花に風のなびく夕暮れ (細川持賢)(月はなほ あ(飽)かぬものかな 萩に露 尾花に風の なびく夕暮れ)
道賢法師自歌集
一度聞いただけで情景がパーっと浮かんでくる素晴らしい歌だと思う。
月の名残惜しさを詠んだ秋の物悲しい句である。
これもまたいつ頃詠まれたのか不明な歌だ。
細川持賢(もちかた)は細川一族の主力として多くの争いに介入し、応仁の乱でも東軍として土佐勢を率いて参陣。
その翌年に病没した。
養子として分家から政国を迎えた。
(細川道賢十三回忌品経和歌)
朽ちぬ名は巡り来にけり十年余り三つの車の跡慕ふ世に (細川政国)
(朽ちぬ名は 巡り来にけり 十年余り 三つの車の 跡慕ふ世に)
これも不明。
三つの車が何を意味するのかも謎である。
細川政国は分家である持賢の養子である。
父の死後跡を継ぎ、細川勝元を補佐。
勝元の子・政元が家督を相続すると、その後見役となった。
応仁・文明の乱収束 細川政元の時代
山名宗全と細川勝元が相次いで亡くなり、11年間続いた応仁・文明の乱は終結した。
細川勝元の後を継いだのが、嫡男・細川政元である。
細川政元 (1466~1507)
勝元の嫡男として細川京兆家を相続。
8代将軍・足利義政、9代将軍・足利義尚と良好な関係を維持し、政権の実権を掌握する。
足利義材(よしき)が10代将軍に就任すると、しだいに幕府と距離を置き始める。
足利義政の妻である日野富子らと組み、明応の政変を引き起こして復権を果たし、細川京兆政治を確立させた。
(朗照集)
眺めつつえやは帰らむ夕暮れの家路へだつる花の白雲 (細川政元)
(眺めつつ え(得)やは帰らむ 夕暮れの 家路へだつる 花の白雲)
えやは帰らむとは、副詞「得(う)」の連体形で、反語の係助詞「やは」を合わせて不可能の意味を表している。
恐らく「帰ることができない」という意味だろう。
これもいつ頃詠まれたのかは不明。
細川政元は優れた人物ではあったが、周囲と衝突の絶えない人物であった。
この人物に子ができなかったため、関白九条政基の子・澄之(すみゆき)を養子にする。
また、分家の細川義春の子・澄元と、同じく分家である細川政春の子・高国も養子となった。
(地下歌合)
逢坂や関路の月に空晴れて伊吹に移る風の浮雲 (細川義春)
(逢坂や 関路の月に 空晴れて 伊吹に移る 風の浮雲)
逢坂(おうさか)とは近江国(滋賀県)と京都をつなぐ峠である。
逢坂の関という関所があり、百人一首でも「知るも知らぬも逢坂の関~」と古くから詠まれている。
伊吹とは江北にある伊吹山である。現在ではスキー場として知られている。
細川義春:讃岐国の守護で応仁の乱の東軍の武将・成之の子。澄元の実父。
細川政元を嫌う将軍・足利義材(義稙)から対抗馬として重用され、政元との対立構造が出来上がった。
これが明応の政変の一因となったとする説がある。
27歳で病死。
(春日社法楽詩歌)
織女の織るてふ糸のふしもあへずおさなくるまの別れ悲しも (細川政春)
(織女(おりひめ)の 織るてふ(ちょう)糸の ふしもあへず おさなくるまの 別れ悲しも)
細川政春:淡路国の守護で細川野州家4代当主。
明応の政変が起きるとすぐさま足利義材(義稙)の陣を離れて政元のもとに駆けつける。
以後は政元の片腕として細川京兆家を支え続けた。
高国の実父。
しかし、政元は大和の寺々や比叡山の焼き討ち、空を飛び天狗の術を得ようと怪しげな修行へ熱中したり、突然諸国放浪の旅に出るなどの奇行が目立つようになり、次第に人心が離れていった。
(細川両家記)
辞世
冥途には能若衆のありければ思ひ立ちぬる旅衣かな (薬師寺元一)
(冥途には 能(よき)若衆(我が主)の ありければ 思ひ立ちぬる 旅衣かな)
この歌はいわゆる掛詞(かけことば)になっている。
「我が主」とするならば、冥途にいる良き主のもとへ旅立つ歌となるが、
「若衆」とするならば、冥途にも良い若衆がいて、細川政元にとっても居心地がよいぞと不敵な誘いをする歌とも読める。
彼は細川政元と男色関係だったとする説もある。
薬師寺元一:細川政元の家臣。
九条関白家から澄之を養子に斡旋した人物。
その後、政元の奇行(飯綱の妖術に凝るなど)を案じ、細川家の行く末を思い、政元の排斥を画策。
淀城で挙兵するも、政元に攻められ自刃する。
元一は自分が建てた一元院に移り
「我は一文字好みにて、名乗りも元一、この寺も一元院、されば腹をも一文字に切るべし」
と言って切腹した。
細川京兆家の複雑な養子関係が同家の内紛の大きな要因となった。
畿内中央でそうした政権を巡っての激しい権力闘争が繰り広げられる中、細川京兆家当主の細川政元は、澄之を押す臣下の香西元長らによって暗殺された。
政元 享年41歳。
(細川大心院記)
黒髪の乱れたる世の秋の霜はらふにつけてぬるる袖かな (下村宗福)
(黒髪の 乱れたる世の 秋の霜 はらふにつけて ぬるる袖かな)
(細川大心院記)
ながらへてかかる乱れの世の憂さに命だにこそかこたれにけれ (下村宗福)
(ながらへて かかる乱れの 世の憂さに 命だにこそ かこたれにけれ)
下村宗福は主君・細川政元の死に際し、遅れを取ったのを悲しみ剃髪(ていはつ=髪を剃り、仏門に入る事)。
これは大平山城守に「如何にも良き僧になり候」と書き送ったときの歌。
細川政元死後の内紛 永正の錯乱と両細川の乱
細川政元が暗殺されると、すぐに京兆家の家督を巡って泥沼の三つ巴の争いが始まった。
「永正の錯乱」のはじまりである。
掻い摘んで説明すると、よそから来た澄之だけは除いておこうということで、高国・澄元陣営が手を組み、澄之の排除に乗り出した。
河内高屋城の畠山氏らをもこれに加わり、畿内近辺の勢力に攻められ、たまらず澄之は近江へと逃れた。
澄之は近江衆の力を得て勢力を盛り返し、巻き返しに京へと攻め込むが、敗れて自害。
澄之は自害するときに実父母に遺書を書き、ぴんの髪を添えて次の辞世を送った。
(細川両家記、陰徳太平記)
辞世
梓弓張りて心は強けれど引く手すくなき身とぞなりぬる (細川澄之)
(梓弓 張りて心は 強けれど 引く手すくなき 身とぞなりぬる)
梓弓(あずさゆみ)とは神事などで用いられる梓の木で作られた弓のこと。
志はあれど武運拙く、腹を切る覚悟を決めたという意味なのだろう。
澄之が最期のとき、このような逸話が残されている。
元は公家の子である澄之が、側近の伯耆(ほうき)に
「我未だ腹切るようを知らず」と言えば
「それ自害と申すは十方仏土と申せども、先ず西へ向かひ十念し、お腰の物をぬぎ、左の脇にさし立て、かへす刀にて御心もとにさし立てて、袴の着ぎわへおしおろし候」
と答えた。
澄之は覚悟を決めてその通りにして切腹。
伯耆も涙と共に介錯し、自らも追い腹をして果てた。
澄之 19歳の若さであった。
澄之の排除ということで結託し、目的を果たした細川高国と細川澄元。
しかし争いは終わらなかった。
澄之の自害後すぐに将軍に拝謁し、細川京兆家の家督を継いだのは細川澄元であった。
されどそれを良しとしない高国は巻き返し工作を策す。
熾烈な外交バトルが展開された結果、高国は周防国の大内義興、足利義尹(のちの足利義稙)、さらに伊丹元扶や内藤貞正ら摂津、丹波の国人衆らを味方に引き入れることに成功。
不利を悟った細川澄元と将軍・足利義澄は近江へと逃れ、今度は高国が細川京兆家を継ぎ、実権を掌握した。
この時、前将軍である足利義尹が再び将軍職に返り咲いている。
しかし、以後も細川澄元、足利義澄は復権を狙い、畿内は不安定な情勢が続くのであった。
これが世にいう「両細川の乱」である。
(続武家百人一首)
たちさわぐ四方の浪風荒きをもいつか静かに住の江の浜 (細川澄元)
(たちさわぐ 四方(よも)の浪風 荒きをも いつか静かに 住の江の浜)
住の江の浜とは現在の大阪市にある住之江のこと。
住吉大社があることで有名。
当時は住吉大社のあたりまで海が広がっており、現在のようなコバルトグリーンの海ではなかった。
関連記事:戦国時代の大坂(大阪)の地図をフリーソフトだけで作成する方法
細川澄元 (1489~1520)
細川義春の子で政元の養子。
政元の死後、細川澄之、高国と争う。
管領に就任し、一時政権を樹立するも、外交の根回しで高国陣営に後れを取り政権は崩壊。
管領と細川京兆家当主の座も奪われた。
その後、幾度となく巻き返しを図るが、西国最強の大内義興らによって志を果たせず、25歳で病死。
澄元の野望は子の晴元が引き継いだ。
続きは(2)で。
次回は「時代は細川高国の時代へ」からです。
コメント
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however it just seems like the first 10 to 15 minutes
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to begin. Any ideas or tips? Many thanks!