戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(2)

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戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(2)

前回からの続きです。

来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
一つ詫びねばならぬことがあります。
このシリーズを当初は前編と後編の2つに分ける予定が、思いのほか書くことが多くて収めきれませんでした(^-^;

来世ちゃん
来世ちゃん

分家の細川幽斎(藤孝)と細川三斎(忠興)は今回は入っていませんので、ご了承ください。

来世ちゃん
来世ちゃん

前回は両細川の乱が始まり、細川高国により細川澄元と足利義澄が京を追われたところまで話が進みました。
さて、これから細川家はどのような経緯で乱を収束させ、三好長慶の時代へと移ったのでしょうか。

  この記事はこんな方にオススメです。

・戦国中期の武士の和歌が見たい
・細川家のごたごたした内紛を簡単に知りたい
・短歌が好き
・細川高国と細川澄元のバトルが好き
・大内義興・朝倉宗滴・六角定頼が好き
・細川晴元と三好元長について知りたい

細川高国の時代へ

 大内義興らの後援を受けて天下様になった細川高国

細川家家系図06
細川家家系図06

永正6年(1509)。
細川澄元が勢いを盛り返し京へと侵攻するが、周防の大内義興らの協力もあり、如意ヶ嶽の合戦でこれを破る。

船岡山の合戦でも大内義興の力によって高国が大勝利を収め、細川澄元が擁立していた足利義澄が病死したこともあり、高国の天下は盤石なものとなった。

・・・かに見えた。

最大の後ろ盾である大内義興の帰国

 永正8年(1511)12月。
洛西の西芳寺から雪の比叡山を眺めて富士の山にたとえて


かくばかり遠き吾妻の不二の根を今ぞみやこの雪の曙 (大内義興)
 (かくばかり 遠き吾妻(あずま)の 不二(富士)の根を 今ぞみやこの 雪の曙(あけぼの))

  大内氏実録

 たぶんこんな感じの意味
“今までこれほどまでに京の都の比叡山の曙(夜がほのぼのと明けるところ。明け方)が、はるか遠き吾妻(東国のこと)の富士の山に見えたことはあっただろうか。”

この歌は先の船岡山の合戦で大勝利を収めた約4ヶ月後に詠んだもの。
大内義興の活躍により足利義稙、細川高国が復権を果たし、束の間の平和を楽しんでいた。

しかし、中国地方で暴れまわる尼子経久や、その子分である安芸守護職の武田元繁への対応に迫られ、義興は永正15年(1518)に本国の周防国(山口県)に帰国。
再び上洛を果たすことなく、11年後に没した。

大内義興肖像
大内義興肖像 (山口県立山口博物館蔵)

 大内義興 (1477~1529)

西国最大の実力者。
大内家をさらに強くして勢力を拡大。
中国の明国との貿易で莫大な富を得た。
細川高国の招きに応じて大軍を率いて上洛。
高国陣営の主力として各地を転戦した。
一方、古今伝授を受けた教養人としても知られており、特に和歌への造詣は深かった。
尼子経久の勢力拡大に不安を感じて帰国。

余談だが、勢いに乗る安芸守護職の武田元繁を討ち取ったのは、弱冠二十歳の青年武将・毛利元就であった。

関連記事:毛利元就が厳島合戦で有名になるまでの生涯 本当に大器晩成なのか?

元就はこの大内義興に臣従し、父祖伝来の地を守り抜いた。

一方、敗れた細川澄元も粘り強く再起を図る。
大内義興が帰国した後、澄元は重臣の三好之長(ゆきなが)らを従えて摂津へと侵攻。
翌永正17年(1520)には京都まで奪い、細川高国は近江坂本まで逃れた。

細川高国の反撃 朝倉宗滴・六角定頼・土岐頼武らを味方につける

 ここで、これまで細川高国が支援し続けてきた将軍・足利義稙が細川澄元陣営に鞍替えしてしまう。
将軍を奉じて権勢をほしいままにしてきた高国は、大義名分まで失う結果となった。

しかし、高国は諦めていなかった。
ここでまたしても高国は類まれなる外交の才を発揮するのである。

越前国(福井県)最強の武将として名高い朝倉宗滴(そうてき=教景)。
南近江(滋賀県)の佐々木六角家の家督を継いで間もない六角定頼
美濃国(岐阜県)で朝倉氏の支援を受けて権力闘争で打ち勝った土岐頼武(よりたけ)。

彼らが中心となって細川高国を支援し、再び京都へ反撃した。
これにより、大逆転ホームランを放った高国は、細川澄元の主力として補佐してきた三好之長(ゆきなが=三好長慶の曽祖父または祖父)を自害に追い込み、澄元は再び敗走。

失意の細川澄元は永正17年(1520)6月10日に阿波勝瑞城にて病没した。
享年31歳。

以後、澄元の野心は子の細川晴元が引き継ぐこととなる。
細川澄元の和歌と列伝は前編をご参照いただきたい。

細川家家系図07
細川家家系図07

大物崩れ 澄元の子・細川晴元による仇討ち

 高国を裏切り立場を失った将軍・足利義稙は京を逃亡する。
高国は代わりに、これまで敵対していた亡き足利義澄の子である足利亀王丸を擁立。
亀王丸は元服して足利義晴と名乗った。

しかし、高国は自身の権威の妨げになる数名の重臣を謀殺したことにより、家臣や国人衆らの反発を招いた。
それに加え、澄元の子・細川晴元と之長の孫・三好元長(息子とする説もあり。三好長慶の実父)が挙兵し、再び窮地を迎えてしまった。

高国は将軍・足利義晴を連れて近江へ逃れ、朝倉宗滴の力を借りるなどして再び京を奪い返すが、最終的には頼みにしていた外部勢力の赤松家の裏切りに遭い、高国は戦に敗れる。=大物崩れ
現在の兵庫県尼崎駅の次の駅が大物だいもつ駅。
かつてはここにも城があった。”尼崎古城”である。

大坂古地図3D
左上が尼崎。当時海岸線は尼崎で、港町として発達していた。

関連記事:戦国時代の大坂(大阪)の地図をフリーソフトだけで作成する方法 3Dマップ編(2)

自身が得意とする外交によって足元を掬われる形となった細川高国
これまで権勢をほしいままにしてきた男は、ついに最期の時を迎え、尼崎の広徳寺で自刃。

48年の生涯を閉じた。
以下は全て辞世の句である。


なしと言ひ又ありと言ふ言の葉や法の誠の心なるらむ 徳様へ (細川高国)
 (なしと言ひ 又ありと言ふ 言の葉や 法(のり)の誠の 心なるらむ)

   細川両家記・陰徳太平記


絵に写し石を造りし海山を後の世までもめかれずぞ見む 御所様へ (細川高国)
 (絵に写し 石を造りし 海山を 後の世までも めかれずぞ見む)

  細川両家記・陰徳太平記

(これは伊勢国司・北畠晴具に送っている)


此浦の波より高く浮名のみ世々に絶えせず立ちぬべきかな 能登の姉上へ (細川高国)
 (此浦の 波より高く 浮名のみ 世々に絶えせず 立ちぬべきかな)

  細川両家記・陰徳太平記


犬追物今一度と思ひこしあらましはただいたづらにこそ 通様へ (細川高国)
 (犬追物(いぬおうもの) 今一度(ひとたび)と 思ひこし あらましはただ いたづらにこそ)

  細川両家記・陰徳太平記
犬追物の図
犬追物の参考画像(尾張名所図会より)

犬追物いぬおうものとは中世日本で流行った武芸の鍛錬の一種。
鷹狩りのように趣味として行われることもあれば、神事として見物客の前で披露することもあった。
逃げる犬に弓を射かけるものだが、矢は丸くて死ににくい仕様。
あくまで死ににくいということなので、風に乗って腕力のある射手ならば、骨折したり命を落とした犬もいただろう。

ちなみに画像には織田備後守とあるが、これは織田備後守信秀(信長の父)のことではなく、織田敏信だと考えられる。

この時、検死の三好一秀(山城守)は情けある人物で
「最後の望みあれば」
と言われ、高国は筆・硯を所望。
短冊数葉に辞世を書いたといわれている。

細川高国肖像
細川高国肖像 (東林院蔵)

 細川高国 (1484~1531)

細川政春の子。政元の養子。
長きにわたる細川家の権力闘争に勝利して天下を掌握。
しかし、いくさに勝ったり負けたりと安定はしなかった。
細川澄元の子・晴元と天王寺で戦い敗北。
最期は潜伏先の尼崎で自害した。


花咲かぬ今のき身も古も身のなるはては変わらざりける (若槻長澄)
 (花咲かぬ 今のき身も 古(いにしえ)も 身のなるはては 変わらざりける)

  応仁後記

「今のき身も」は「今の君も」を掛けているのかは不明。
この歌は源頼政の辞世の句
「埋もれ木の花咲くことも無かりしに身のなる果てぞ悲しかりける」
を思い出し詠んだものだと思われる。

若槻長澄(ながずみ):細川高国の武将・瓦林対馬守の家臣。
摂津越水城で最期の抵抗をし、細川澄元の阿波軍と戦った。
奮戦の末、城内にて自刃。

城が落ちるとき
「若槻伊豆守一人止まり、吾老い果て余命なし。
何の為に命を惜しんでこの城を落ち行かんやとて、扇を敷き居直りて、先祖源三位頼政の最期の昔や思出しけん。
辞世の歌を詠み置き、腹切って死失せけり。」
と叫んだ。

細川晴元と三好元長の対立

 応仁の乱からはじめた当記事だが、細川高国自刃の時まで既に64年の歳月が流れていた。

晴元はこれまで自らが奉じてきた足利義維(よしつな)を廃し、将軍・足利義晴と和睦。
これは細川京兆家(ほそかわけいちょうけ=詳しい解説は前編に)の家督と管領職を正式に襲名しようとしたための外交の方針転換だと思われる。

しかし、この外交路線の転換に一番の重臣である三好元長(長慶の父)が反対。
この時、高国討伐の最大の功労者である三好元長の影響力を警戒していた畿内の国人衆の多くが晴元の意見に同調した。


我が恋はまさきのかづら長き夜をあらむ限りの敷島の道 (細川晴元)
 (我が恋は まさきのかづら(柾木の葛) 長き夜を あらむ限りの 敷島の道)

  保坂家蔵短冊帖

柾木の葛まさきのかずらとは弦系の植物。
他の木に絡みついて長々と伸びるので、古来から何かに例えたりして歌に詠まれていた。
秋の季語。

敷島しきしまの道とは和歌の道。あるいは歌道の道のこと。

自分の恋は柾木の葛のように、長くしつこく執念深い。
いつ頃詠まれたのか不明だが、長く不遇だった時代(長き夜)を懐かしんで詠んだのだろうか。

享禄5年(1532)。
河内畠山氏の元家臣・木沢長政、摂津国人衆の茨木長隆を重用した細川晴元は、山科本願寺の法主・証如を動かして一向一揆の蜂起を扇動。

この時、河内飯盛山城を包囲して木沢長政を追い詰めていた三好元長は、10万を超えるともいわれる一向一揆勢に背後を突かれ、さらに元長の失脚を願う従叔父(いとこ)の三好政長(宗三)にも攻撃され、和泉国堺の顕本寺で非業の最期を遂げた。=天文の錯乱

 三好元長 享年32歳
自身の腹を掻き切り、臓物を天井へ投げつけたという逸話が残されている。

天下人・細川晴元

 細川家内部の反対派を排除したものの、畿内の動乱はとどまる所を知らなかった。
晴元がけしかけた一向一揆門徒衆の破壊行為が続いたからである。
実は一向門徒衆の親玉である本願寺証如ですらも収拾できないほどに一揆勢の勢いは膨れ上がっていた。

そこで晴元は、一向宗の最大のライバル宗派である法華宗、さらに細川高国陣営として長年晴元と対立していた南近江の六角定頼と手を組み、一向宗の総本山だった山科本願寺を焼き払ったのだ。

以後、証如は拠点を大坂に移し、現在の大阪城公園の場所に石山本願寺を築くのである。
細川晴元は一度、一向宗に敗れて淡路へ亡命するも、すぐに体勢を立て直して畿内に再進出。
本願寺証如の子・顕如に養女を娶らせることで一向宗と和睦し、今度は逆に比叡山延暦寺、六角定頼と共に法華宗を壊滅させた。=天文法華の乱


いつしかに春とは知りぬ鴬のさだかならねど今朝の初声 (細川晴元)
 (いつしかに 春とは知りぬ 鴬(うぐいす)の さだかならねど 今朝の初声)

  平瀬家蔵短冊手鑑

今朝だったか昨日だったか定かではないが、心地の良いウグイスの鳴く声で目が覚めた。
ああ、早いものでいつの間にか春になったんだなぁ。

ウグイスの写真1
写真は自然風の自然風だより様『木曽川水園の鳥達と風景~』から拝借しました。
ウグイスの写真2
写真は自然風の自然風だより様『木曽川水園の鳥達と風景~』から拝借しました。

天文6年(1537)には右京大夫うきょうのだいぶに任官され、名実共に晴元は管領かんれいとして、また京兆家当主として天下の覇権を握った。
かつて攻め滅ぼした三好元長の嫡子・千熊丸(のちの長慶)と和睦して家臣団の一員に組み入れたのもこの頃だった。

続きはpart3で。

次回は「晴元家臣・三好長慶の活躍」から始めます。
細川幽斎(藤孝)三斎(忠興)は最後に登場します。

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