こんばんは~。
今回の主役は伊達政宗です。
私は信長公のことばかりで、伊達政宗に関する知識は疎いのですが、古文書を読んでみるととても面白いことが記されていますね。
その中で特に面白いと感じたのが伊達政宗の一日のスケジュールです。
そこにはやたらとルーティンを大事にする政宗の姿が・・・。
政宗の一日を表にもしてみたので、ぜひご覧ください。
(政宗は大名なので、江戸表に詰めていることも多かったです。
そのため、江戸でも全く同じことはできなかったとは思います)
天下泰平の時代
これは徳川家康が大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後の、天下が泰平になった時代の話である。
皆さんは奥州の覇者・伊達政宗をご存じだろうか。
関連記事:佐竹義重が秋田へと旅立つ際、伊達政宗が大軍を率いて通せんぼ その理由は?
言わずと知れた初代仙台藩主の独眼竜政宗公だが、彼に忠義を尽くした家来で、政宗の日常を事細かに書き記した人物がいる。
そのうちの一人が、政宗の片腕として名高い猛将・伊達成実である。
伊達成実とは?
伊達成実 (だてしげざね) (1568~1646)
伊達政宗の従兄弟。
毛虫をかたどった兜を身に着け、数多くの戦場で活躍した伊達家きっての猛将。
片倉景綱とともに伊達家の双璧となるが、豊臣秀吉の時代に伊達家を出奔。
のちに帰参し、政宗記を記した。
徳川家光の前で奥州の軍談を語り、感銘を与えたこともあったという。
政宗記とは何か
政宗記とは、全12巻からなる伊達政宗の事績を伊達成実が記した古文書のこと。
成立年は巻一・二・四・五・六・七・九は寛永13年(1636)六月吉日、巻三・八・十一・十二は寛永19年(1643)六月吉日と、成実も政宗もすっかりおじいちゃんになった時期のものだ。
ちなみに、今回取り上げる政宗の1日のスケジュールは、同書の巻十「政宗一代之行儀」から7割ほど参照している。
伊達成実は政宗の小姓ではないので、以下の記述の大半は政宗の身の回りの世話をする小姓などから聞いたと思われる。
あまりにも詳しく記されているので、もしかしてストー(以下自粛)
・・・アスリートにもルーティンを非常に大事にする選手がいるが、政宗もそうしたことにうるさかったのではないか。
まあ、なかなか面白い内容なので、ひとまずご覧いただきたい。
「政宗一代之行儀」から伊達政宗の日課を見る
去程に、常々奥方抔のことをば争か存知候べき。
縦令ば表なりとも我と見ざること多かりけれ。
それは奥表ともに能ことも悪きことも家に隠れなき故に、見聞のこと粗爰に記し畢ぬ。
現代語訳)
さて、常日頃、奥方(ここでは政宗のこと)などのことを如何に伺い知ることができようか。
例え表向きのことであっても、見えないことが多いだろう。
それは政宗様が表裏ともに良し悪しを家中に隠すことがないので、見聞きしたことをかいつまんでここに記そう。
伊達政宗の朝のルーティン
先朝起給ふに床の上にて、髪を自身に一束に結び、手水を仕廻、又本(=元)の床へ直り給ひてたばこと望み給ふ。
煙草をつきて参らする者、奥表に定りけり。
扨煙草を聞召す(=聞こし召す)には、下に唐皮を敷、其上に一道具を置、たばこをつき、蝋燭を灯参らせけるに、三服か扨は五服か、何時も右の通定るなり。
現代語訳)
まず、朝起きると床の上で自身で髪を一束に結び、トイレを済ませ、元の床に戻ってタバコを望まれる。
タバコをつけて渡す者は、奥も表もそれぞれ決まっている。
さて、タバコを嗜まれる際は、下に虎の毛皮を敷き、その上に道具一式を置き、タバコにロウソクで火をつける。
三服かあるいは五服か。
いつもそのように決まっている。
吸いすぎィィィィー!
夫より表へ出給ひ、閑所へ入給ふ。
閑所は京間一間四方、内に三階の棚あり。
棚の上には硯・料紙・簡板・香炉、其外刀掛万ず結構にて、閑所に入給ふには、朝晩共に焼物なり。
現代語訳)
それから表に出てきて、 閑所 (閑所が書斎なのか便所なのか不明)にお入りになる。
閑所は京間一間四方(約2メートル×約2メートル)の広さで三段の棚がある。
棚の上にはズズリ、料紙、簡板(文字を書き記すのに用いた板)、香炉、そのほか刀掛けなどが置かれていて、そこにいらっしゃる時は朝晩とも香を焚かれる。
伊達政宗の入浴時のルーティン
而後行水屋(=風呂)へ入給ふとき、台所より朝の膳部(=献立表)を奥小姓、受取差上げるを、心に入ざる処をば直し給ひ、物書どもへ遣はし給ふを、清書して是を渡す。
扨行水に取付給ふに、刀掛に大小を納め、広蓋に鼻紙・印籠・巾着・帯・小袖を置給ふ迄も、常々少しも違わず。
或行水何程如何様にし給ひ、浴衣きせ参らせ身を拭迄も定りけり。
惣じて朝晩ともに両度の行水、旅は申すに及ばず、寒風嵐なりとも、右の行儀常の如し。
現代語訳)その後、風呂場に行くとき、台所より朝食の献立表を奥小姓から受け取り、気に入らない献立はお直しになり、書記(?)に言いつけたものを清書して渡す。
さて、入浴中は刀掛けに大小の刀を納め、脱衣箱に鼻紙、印籠、巾着、帯、小袖を置くのもいつものルーティン。
あるいは行水をどのようにし、浴衣を着せ、体を拭く作法も決まっている。
それは全て朝晩二度の旅行は言うにおよばず、寒い日や嵐の日であってもその習慣は変わらない。
献立をチェック(笑)
扨行水相過表の寝間へ入、朝奥より着給ひける小袖をば着替、常の居間へ出、髪を結せ給ふ。
此ときに至て左よりはき給ふ。
自然に緒などゆるみければ、幾度もはき直し給ふと云へり。
現代語訳)
さて、風呂を終えて寝間にはいり、朝に奥の間から着ていた小袖を着替え、いつもの居間に出て、髪を結う。
この時いつも左からお履きになる。
自然に緒などがゆるまれば、何度も履きなおされるという。
ここまで知ってるとかこいつまさか・・・!?
伊達政宗の食事
扨指立たる五節句には上下一双物、朔日 十五日 二十八日は、羽織に袴なり。
尓後表の座敷へ出給ひ、相伴衆と呼給ふ。
其とき当番の小姓頭両人の内、一人中坐して呼掛に、一人宛出けるを、自身左右の差図にて座敷相済、膳を出せと呼給へり。
現代語訳)
さて、取り立てて重要な五節句の際には上下色ぞろいの衣装、一日、十五日、二十八日には羽織に袴姿である。
その後座敷へ出られて「おい相伴衆(=側近)よ」とお呼びなさる。
そのとき当番の小姓頭(=主人の身の回りの世話をする側近)二人のうち、一人が座して呼びかけに、もう一人が呼び出しに行くのを、政宗様の指図にて座敷を整えられ「膳を出せ」とお呼びになる。
上りけるに相伴衆へ残りなく、膳ども渡りけるといなやに、膝を直し箸を取、食腕に手を掛給ふと同く、相伴衆も箸に取付。
其より二の膳引菜上りけるを、小姓頭陰に相詰、夫々を見合、段々上させけるなり。
食過酒のときは嗽をし給ひ、聞し召と云へり。
尓れども、其内親類衆の一人も加はりければ、左様にし給はず。
常は只大形酒をも聞召さず、何れもは気根次第と宣ふ。
現代語訳)
側近たちが参上すると、膳を配るや否や直ちに膝を直して箸を取り、政宗様が茶碗に手を掛けると、側近たちも同じく箸に手をつける。
そのあと二の膳の引菜(まびいた菜、つまみなのこと)が上がってくるのを、小姓頭が陰に控えていて、頃合いを見計らって少しずつ膳にお運びする。
食後、酒を嗜まれた時はうがいをなさるという。
しかし、親類衆が一人でも座にいればそのようにはしない。
普段は酒を嗜まれず、状況や体調次第ということだ。
慰のため取廻しなば、且は政宗も聞召んと、何れも中座にて、其方此方と取詰けるに、縦令ば手前は聞召さずとも、其理の済まさぬ間は何とき迄も待ち、埒の明を見給ひ、湯と望み給ふ。
扨膳下り茶菓子の上りけるを、座中へ廻し手水に立給ふと、相伴衆も次へ立手水相済、本座有て何れも本の如しと宣ふ。
其とき茶道床脇なる台子へ向ひ、茶を立、薄茶・菓子迄相済。
現代語訳)
政宗様を慰めようと(あるいは気を晴らさせようと)家臣たちが立ち上がってあちこちと興じるのを見ると、政宗様はその興が終わらぬ間はいつまでも待ち、興が終わるのを見計らって「湯をくれ」と所望される。
さて、膳が下げられ、茶菓子が上がってくるのを、その場にいる皆々に回し、トイレに御立ちになると、相伴衆も続いてトイレを済ませ、元の場に戻って「おまえたちも元の場に戻れ」とおっしゃる。
そのとき、茶道の床脇にある台子(だいす)へ向かい、茶をたて、薄茶と菓子などを楽しみ。
「家臣たちが立ち上がってあちこちと興じるのを見ると、政宗様はその興が終わらぬ間はいつまでも待ち」
ここ重要( ゚Д゚)b
伊達政宗の政務
茶道水覆を持立といなやに、相伴衆も次へ立、其より又役人ども入替、色々用どもを調ひ、八つの時計鳴ければ、其日の用は終て、暮の膳部上りけるを、朝のごとく直し給ひ、夫より奥へ入給ふ。
現代語訳)
茶の会が終わると(?自信なし)側近たちは次の間に下がり、役人を入れ替えていろいろと政務や会計を行い、午後二時を知らせる時計が鳴けば、その日の仕事は終わり。
夕飯の献立が上がってくるので、それを朝のように訂正という名の注文をつけ、そこから奥へ入られる。
政務終わるの早いな( ゚Д゚)
伊達政宗の夜のルーティンと日常
暮の膳は大形奥にて聞召し、其後閑所へ入り、晩の行水相済けり。
朝より終日の行儀先かくのごとし、其外色々細かなること際限なし。
されば奥方にても空く光陰を送り給ふことなしと云へり。
表などにて左様のことはし給はざれども、奥方の慰みには、見台に文書を置、常々見給ふとなり。
故に文字も大形手跡は天下に隠れ無く、詩作歌道も大身の伴、或は出家衆抔へ付合、詩歌の砌は能悪も夫々答を合せ給ふ。
現代語訳)
夕飯はたいてい奥の間でなされ、その後は閑所(トイレなのか書斎なのかわからない)に入り、夜の風呂を済まされる。
朝からの一日はこのような習慣になっている。
その他いろいろ細かな決まりはたくさんあって書ききれないほどだ。
また、奥の中にあっても虚しくぼんやりと過ごすことはないという。
表ではそのようなことはなされないが、奥での気晴らしには見台に本を置いて、読書をされているようだ。
だから文章も筆跡も天下に隠れなきほど素晴らしく、詩歌も他家の大大名や、教養の高い僧侶たちへ添削を頼み、詩歌の場合はその良し悪しをそれぞれ推敲された。
まして若年より軍合戦に戯給はで、学文などは大略ならん、詩作歌道も面に顕はれ僻給ふとはみへざれけれども、其頃都より兼如、其子の兼与、甥の兼益、其外兼也などと云、歌人をまねき造作を以て召抱、江戸仙台をかね、上下の奉公剰へ兼如の弟正益をば、家来の者の為なり抱ひ給ひ、妻子ともに引下し長時断らず在城に置給ふ。
或年兼与・兼益下されけるに、済家の和尚達を集め、詩歌抔とて慰み給ふ。
現代語訳)
若年の頃より合戦ばかりで、学問の才はあったにせよ、詩歌の道も特別目に見えて好んでいたようには見えなかったが、その頃京の都より兼如、その子・兼与、甥の兼益、そのほか兼也などという歌人を招き、召し抱えて江戸とも仙台にも参らせ、さらに兼如の弟・正益をも家臣として登用し、妻子共に城に住まわせた。
ある年、兼与と兼益が仙台に下向した際は、済家(臨済宗の寺)の和尚たちを城に招いて歌会などを開いて楽しんだ。
(歌人は猪苗代氏のようだが、詳しくは調べていないのでよくは知らない)
伊達政宗の一日を表にしてみた
伊達政宗の身の回りの世話をした小姓の一人に、木村宇右衛門という人物がいる。
後年彼は「木村宇右衛門覚書」という文書を書き記し、世に出した。
伊達成実が記した「政宗記」よりも詳細に政宗の一日が載っているので、そちらを基に表にしてみた。
タバコの時間多いなぁ!
ヤニ厨かな?(笑)
冒頭に書いた通り、江戸表に滞在中はその限りだとは思えないので、基本的には仙台の青葉城に在城中のことだと考えた方がいいかもしれない。
伊達成実が政宗の日常について小姓から聞くとき、「大殿は袴を右から履くの?それとも左から?」とか尋ねていたのかと思うと面白すぎる。
この「政宗一代之行儀」以外にも伊達成実の「政宗記」には、いろいろなことが記されている。
特に巻一から巻八までは政宗の家督相続から文禄4年(1595)までの政務・軍事行動が詳しく載っている。
ご興味があれば是非。
ご覧いただきありがとうございます。
成実が小姓にインタビューする際、
伊達成実「殿は食後はいつも何をされているのだ?」
小姓「食後は酒を嗜まれた時はうがいをしていますね。」
伊達成実「それはいつもそうなの?例外とかあるの?」
小姓「え・・・?(ドン引き)そうですね。親類衆のお方が一人でもいらっしゃるときはしないかもですね。」
・・・というやりとりがあったのかな?と想像すると面白くないですか?(笑)