こんばんはー。
今回は伊達政宗率いる大軍を、たった一騎の勇気ある若者が軍を引き上げさせたエピソードです。
関ケ原の合戦では石田三成らの西軍についた佐竹家。
関ケ原の合戦はわずか1日で決着がつき、徳川家康が大勝利。
佐竹は合戦には参加していないものの、その責任は免れませんでした。
結局父祖伝来の土地である常陸国(茨城県)を召し上げられ、代わりに秋田へと移封減封させられましたが、今回は佐竹義重、義宣父子が秋田へと向かう道中のお話です。
ソースは秋藩温古談という古文書
「秋藩温古談」とは名前からでも何となくわかるだろうが、秋田藩にまつわることを記した逸話集である。
今回紹介する話は秋藩温古談の「和田十二郎の敏才」という項目の部分だ。
もし興味があれば、国会図書館のweb版で見ることができるので、リンクを貼っておく。
これから書く文は上記の古文書を元にしているが、私が勝手に状況などを付け加えている点に注意していただきたい。
和田十二郎(じゅうにろう)の敏才
新領地の秋田へと向かった佐竹家
佐竹家が秋田へと出立し、奥州街道を北へと進んでいる時のことである。
川を挟んで大軍勢が佐竹家一行を待ち構えていた。
旗指物などから見るに、奥州の雄・伊達政宗の軍勢であった。
伊達政宗
何の魂胆かと不審に思った佐竹義重は、政宗の下へ馬を走らせて用向きを聞いて参れと命じた。
佐竹義重
しかし、皆恐れおののいて誰も進んでこの命を受けようとするものはいなかった。
すると、義重の小姓衆の中から和田十二郎という者が進み出た。
和田十二郎はこの時わずか16歳であった。
血縁の関係こそあれど、伊達家と佐竹家は因縁の間柄であった。
伊達政宗が家督を相続してからは、たびたび佐竹義重に苦しめられてきたこともあり、伊達家が報復しに来たと思ったのだ。
十二郎はただ一騎で馬を駆って、伊達の構える陣所へと向かった。
伊達政宗との対面
馬のまま伊達陣所の中へと乗り入れた和田十二郎。
政宗は目の前にいて床几に腰を下ろしていた。
伊達政宗が「うぬは何者じゃ。狼藉するなら容赦はせぬぞ。」
と咎めると、十二郎は急ぎ馬より飛び降り、政宗の前に跪いた。
和田十二郎「それがしは佐竹義重が家臣なり。
我が主が秋田に赴く道を遮り、多勢で待ち受けたるは何のためなりや。
野伏か追いはぎのような振る舞いをなされようとは、如何なる存念にござりましょうや。」
この言葉を受けて伊達政宗はこう返した。
伊達政宗「左にあらず。
義重公が旅の途中で、もし不慮の事あらば、政宗これを保護せんが為なり。
心安く通行されよ。」
和田十二郎「あなた様の保護を受けて我が主が秋田に赴いたと言われては、面目が立ち申さず。
これ、末世までの恥辱なり。
思召しの儀はかたじけなく存じますが、お手勢は速やかに引き上げて頂きたく存じます。
さもなくば、義重はこの道を通りません。
それではお互いの恨みを後の世に残すことと相成りましょう。」
政宗は思案した。
が、すぐに晴れやかな顔をしてこう言った。
伊達政宗「相分かった。
そこもとの顔を立てて我らは引き上げよう。
が、政宗に異心無き事は義重殿にお伝えあるべし。」
和田十二郎「承りましてござりまする。
しからば、御免。」
伊達政宗「あいや待たれよ。」
和田十二郎「はっ。」
伊達政宗「なんじは年若く見ゆるが、そなたの年で使いに来るとは奇特なことじゃ。
歳はいくつじゃ。」
和田十二郎「ははっ。それがしは和田安房守(昭為)が孫。
十二郎と申し、生年十八歳にござりまする。」
これを聞いた政宗は大いに感心し、自らの鎧を脱いで十二郎に与えた。
それから政宗はすぐさま軍を引き上げた。
十二郎はそれを見届け、鎧を肩にかけて馬に乗り、義重の下へと帰ったという。
和田十二郎、佐竹義重からも褒美を賜る
和田十二郎は事の仔細を主君に伝えた。
少年の物怖じしない勇気、機転による成果であった。
わずか一騎の使者が大軍の伊達政宗を追い返したのだから、義重は斜めならぬ上機嫌であった。
しかし、ふと疑問に感じたことを聞いた。
佐竹義重「そちの年は十六であろう。
なぜ十八と答えたのか。」
十二郎は、十六というのは口惜しく、舐められたくなかったから十八と答えたのだと返した。
義重は大笑いし、褒美を与えたという。
佐竹家と伊達家の関係
伊達政宗が家督を継いで以降、佐竹義重は奥州の諸豪族や会津蘆名家の盟主として伊達政宗と激しく戦った。
中でも人取橋の合戦は非常に有名である。
伊達家は代々奥州探題として奥州で一番の実力者。
佐竹家も新羅三郎義光の子孫として、源氏の血が流れる名家である。
佐竹義重の代になって、その武勇と智略、類まれなる人望によって、幾度も北条家の大軍から領地を守り抜いた。
佐竹家と伊達家は縁戚関係だった
実は佐竹義重の正室は、伊達晴宗の娘である。
伊達晴宗は伊達政宗の祖父なので、政宗からしたら義重の妻は大叔母となる。
奥州ではこうした政略結婚が網の目のように張り巡らされていた。
政宗もこの頃はある程度年を重ね、こうした血縁の大事さを認識するようになったとか。
長年の宿敵ながら、武勇が天下に聞こえた佐竹義重に挨拶したかったのかもしれない。
(豊臣秀吉存命時は伏見城や大坂城で会ってないわけはないと思うが)
その後、秋田へと着いた佐竹家一行は、佐竹義宣を初代秋田藩主として藩政改革を行う。
浪人上がりの若手官僚・渋江政光を重用するなど人事の刷新も行い、20万石から45万石にまで成長させた。
なかなか面白い逸話です。
この和田十二郎という人物は、佐竹家の家老である和田昭為の孫だそうです。
その名声は佐竹家だけにとどまらず、近隣の勢力なら知らないものはいなかったでしょう。
当然伊達政宗も知っています。
信長の野望にも和田昭為は登場してますw
ちなみに常陸から根こそぎ美女をかりだして秋田へ連れて行き、それが「秋田美人」の元となったとする説は、信憑性が乏しいですね。
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