今回の逸話集は以下の3本です。
「高山右近と蒲生氏郷と細川忠興のバーベキュー」
「竹中半兵衛と黒田官兵衛の子」
「大坂で信長の優れた状況判断と勇敢さを物語る逸話」
高山右近と蒲生氏郷と細川忠興のバーベキュー
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げに、北条氏の小田原城を包囲している時のこと。
当時キリスト教禁教令が下り、大名の地位を捨てて加賀の前田家の下で扶持を受けていた高山右近。
ある日のこと。
高山右近は日本ではまだ馴染みがなかった焼き肉を楽しんでいた。
そこに友達の蒲生氏郷と細川忠興が遊びに来た。
二人の訪問に喜んだ右近は、牛肉を焼いてもてなした。
慣れない牛肉に困惑した二人であったが、食べてみるとびっくり。
あまりの美味さにたらふく食べ、それから小田原城が降伏するまで何度も何度も右近の陣所を訪れてはバーベキューを楽しんだという。
はじめて焼き肉を目の当たりにして驚く蒲生氏郷と細川忠興の図
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竹中半兵衛と黒田官兵衛の子
羽柴秀吉の家臣に竹中重治(半兵衛)と黒田孝高(官兵衛)がいた。
二人は智略に非常に長けた人物である。
秀吉が信長の命で中国地方の攻略を進めている頃、摂津国(大阪府)で荒木村重が謀叛を起こした。
秀吉らは腹背に敵を抱えることになり、窮地に陥った。
そこで、荒木村重の説得に行ったのが黒田孝高である。
黒田は有岡城に赴き、旧知の中である荒木の説得を試みたが、面会を拒絶されたうえに地下牢に閉じ込められてしまった。
1か月たっても戻ってこないばかりか、連絡が途絶えたことを不審に思った織田信長。
信長は非常に黒田孝高のことを気に入っていたが、寝返って荒木村重の軍師になったと勘違いして、秀吉の長浜城(滋賀県)で人質となっていた息子の首を刎ねよと命じた。
(※信長は初対面で黒田孝高を気に入り、家宝の「へし切長谷部」を与えた)
信長の命令は絶対である。
秀吉は黒田孝高を信用していたため、非常に困惑した。
そこで名を挙げたのが竹中重治である。
黒田の子を自分の手で始末すると申し出て、秀吉はこれを許した。
その子を自身の所領である菩提山(岐阜県)に引き取り、首を刎ねたとウソをついて秀吉と信長に報告した。
~約1年後~
有岡城は荒木村重の逃亡により開城となった。
そこで裏切ったと思われていた黒田孝高がなんと地下牢から発見された。
このことはただちに信長に知らされたが、黒田の子を殺すように命じた自身の過ちを恥じ
「我、官兵衛に合わす顔なし」
とつぶやいたという。
それから間もなく竹中家の所領から黒田の子が出てきて、信長も秀吉も安堵したという。
信長の命令は絶対であったが、この時ばかりは竹中重治の背反の罪を不問にし、黒田孝高に謝罪した。
その子こそが徳川家康の養女を娶って関ケ原の戦いで勝利の原動力となり、福岡初代藩主となる黒田長政である。
なお、竹中重治は有岡城開城を待たずして病死した。
大坂で信長の優れた状況判断と勇敢さを物語る逸話
石山合戦が最も激しかった1576年。
天王寺の合戦では織田軍の苦戦が続いていた。
信長は意を決して石山本願寺攻めを決断するが、あまりに急な動員令だったので、すぐには兵が集まらなかった。
天王寺の砦は陥落寸前。
あと3~5日経てば数万の軍勢が集まるのだが、とても待ちきれないと信長は判断した。
信長は3000の兵で天王寺を取り囲む敵に突撃した。
対する本願寺側は紀州から雑賀孫市などの援軍も入れて1万5000である。
激しい戦闘の中、信長自身が本願寺勢の放った鉄砲を受けて足を負傷。
しかし、決死の織田軍はこれを打ち破ることに成功し、天王寺を守備する部隊と合流した。
この戦いは石山合戦の戦局を大きく変え、続く戦いにも劣勢で信長は本願寺勢を打ち破り、天王寺の合戦は織田軍の大勝利に終わった。
さすがは天下の覇者。
優れた状況判断と勇敢さで幾多の困難を乗り越えた人物である。