こんばんはー。
すみません。少し日が開いてしまいました(^-^;
今回は蒲生氏郷と細川忠興の人生を簡単に比較します。
二人は若年の頃から織田信長に仕え、千利休の弟子として茶の湯を学び、豊臣秀吉の下で大出世を遂げたことなど、多くの共通点があります。
なかなか面白い二人なので、逸話も交えてご紹介します。
蒲生氏郷(がもううじさと)
生没年:弘治2年(1556)~文禄4年(1595)
享年:40歳
幼名と仮名:鶴千代、忠三郎
最盛期の所領:会津92万石
辞世の句:限りあれば吹かねど花は散るものをこころみじかき春の山風
細川忠興(ほそかわただおき)
生没年:永禄6年(1563)~正保2年(1646)
享年:83歳
幼名と仮名:熊千代、与一郎
最盛期の所領:豊前小倉33万9000石+豊後杵築6万石
辞世の句:皆共が忠義戦場が恋しきぞいづれも稀な者どもぞ
二人の生い立ち
蒲生氏郷と細川忠興は6つも年が離れている。
蒲生氏郷の生い立ち
蒲生氏郷は佐々木六角家の重臣で、近江日野城主の蒲生賢秀の三男として生まれた。
幼名は鶴千代。
このまま平穏無事に育てば、やがて鶴千代も六角家で重きをなした武将になっていたであろう。
永禄11年(1568)。
織田信長が大軍を率いて六角家を攻めた際、父である蒲生賢秀は日野城に立て籠もる。
しかし、主君の六角義賢・義治父子が観音寺城を捨てて逃亡。
蒲生家は織田家に降り、その際に鶴千代(のちの蒲生氏郷)を人質に差し出した。
鶴千代を一目見た信長は
「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。我婿にせん」
(蒲生の子は他のものとは目つきが違う。こやつは器量者に相違ない。わしの婿にしよう)
と語ったという。
鶴千代は人質として岐阜城に留め置かれたと思われるが、面白い逸話が残されている。
美濃三人衆として名高い稲葉一鉄は、岐阜城で毎夜の軍談(という名の自慢話?)をしていた。
多くの小姓衆や近侍らが呆れて眠りこける中、鶴千代だけは熱心に聞き入っていたようだ。
稲葉一鉄はこのとき「蒲生の子は器量人だ。必ずや大軍を動かす将に成長するだろう」と予言したとある。
他にも僧侶から儒教や仏教を学んだり、斎藤利三の薦めで武芸を磨いて研鑽を積んだ。
細川忠興の生い立ち
細川忠興は戦国のサラブレッド・細川(長岡)藤孝の嫡男として生まれた。
幼名は熊千代。
彼は名門の嫡男(正室との間に生まれた最初の男子)として生まれながら、ちょっと悲惨な幼少時代を過ごした武将だ。
それが後の彼の人格形成に大きな影響を及ぼしたのかもしれない。
というのも、熊千代が3歳の時に永禄の変が起きた。
三好三人衆と松永久秀・久通父子が足利13代将軍・足利義輝を殺害したのだ。
この直後、危機を脱した父の藤孝は、子の熊千代を京都の町屋に隠し、平民に紛れ込ませた。
藤孝自身は後の15代将軍となる足利義昭を幽閉先の寺から救出し、近江の六角氏を頼った。
ここまで大きなことをしているのだから、志半ばで自分は死ぬ可能性が高い。
血が絶えぬように、熊千代を生かそうとして町家に紛れ込ませたのだろう。
そこから数年間藤孝は帰ってこなかった。
そればかりか、熊千代の生母も藤孝は呼び寄せ、熊千代は家来と乳母を除けば一人ぼっちになってしまった。
この時藤孝は六角家を去り、足利義昭を奉じて上洛へと導いてくれる大名を探していたのだ。
父が去ってから4年後の永禄11年(1568)。
織田信長が大軍を率いて上洛。
細川藤孝も足利義昭とともに上洛し、ようやく二人は再会した。
しかし、父は全く知らぬ赤ん坊を連れてきた。
その子がのちの細川興元。
忠興の実弟である。
元服、初陣、結婚
蒲生氏郷の元服は永禄12年(1569)
細川忠興の元服は天正5年(1577)
蒲生氏郷の元服、初陣、結婚
永禄12年(1569)。
鶴千代は岐阜城で元服した。
その際、信長自らが烏帽子親(えぼしおや)となり、自身の官名である弾正忠から「忠」の一字を授け、「忠三郎賦秀(やすひで)」と名乗らせた。
同年、南伊勢の国司・北畠氏の大河内城攻めで初陣を飾る。
この時忠三郎は蒲生家臣の目から離れて行方不明となってしまった。
あわや忠三郎討死かと現場が騒然としたところ、賦秀は敵の兜首を取って戻ってきた。
これを聞いた信長は大いに感激。
戦後、信長は自身の娘を賦秀に娶らせ、さらに人質の処遇をやめて日野城に帰した。
氏郷は生涯側室を持たなかった武将として知られている。
その後、妻との間には二男二女をもうけた。
(妻の名が冬姫というのは誤読らしい)
忠三郎は織田家の中核として大いに活躍し、軍功を重ねていった。
細川忠興の元服、初陣、結婚
天正5年(1577)。
15歳の時に紀州征伐で初陣を飾る。
元服については不明だが、恐らくは初陣の直前だろう。
次いで松永久秀討伐の際、父とその親友・明智光秀とともに大和片岡城を攻め落とす。
この戦いで一番乗りの大戦功を挙げ、感激した信長が珍しく直筆で忠興を褒める感状を送っている。
いよゝ働之事に候 油断無く馳走候べく候
織田信長が若き細川忠興に宛てた片岡城一番乗りを讃える感状
詳しい古文書の解読記事は後日にさせてもらうが、これを受け取った忠興はさぞかし嬉しかったに違いない。
ちなみに細川忠興の有名な「額に傷跡」は、この時に投石で受けた傷である。
翌年、信長の嫡男である織田信忠から偏諱を賜り、「与一郎忠興」と名乗った。
また同じ年、主君・織田信長の仲介により、明智光秀の三女・玉子と結婚する。
この時、信長の命により家紋を九曜とし、これが細川家代々の家紋となった。
以前に忠興が、信長の脇差の柄にあった九曜の柄を大変気に入っていたようで、信長がそれを覚えていたためだと言われている。
忠興と玉子の夫婦仲は奇妙な関係だった。
結婚当初こそ普通の夫婦だったものの、本能寺の変により大きく環境が変わる。
しかし、離縁はせずに側に置き続けた。
その後、与一郎は織田家の中核として大いに活躍し、明智光秀の与力として軍功を重ねていった。
本能寺の変 二人の行動は
天正10年(1582)本能寺の変で織田信長、信忠父子は、家臣の明智光秀の謀叛で非業の最期を遂げる。
この事件によって多くの人々の人生が変わった。
本能寺の変 蒲生氏郷の行動
天正10年(1582)6月2日。
明智光秀が突如謀叛を起こして織田信長、信忠父子が横死。
畿内の情勢は一変した。
その日のうちに忠三郎のいる近江(滋賀県)にも伝わり、混乱状態となった。
忠三郎は安土城にいた父・賢秀とともに、信長の一族や側室らを保護し、居城である日野城で匿った。
明智光秀から再三味方になるように誘われるが、蒲生家は城を固く閉ざして徹底抗戦の構えを見せた。
この時、近江の衆で明智光秀に従わなかったのは蒲生家と瀬田城を根城とする山岡家だけである。
本能寺の変 細川忠興の行動
父の大親友であり、自身の舅である明智光秀の謀叛に細川家は大いに当惑した。
当時細川家は丹後(兵庫県の山陰側)にいたが、再三にわたる明智光秀からの誘いを一切無視した。
これを機に細川藤孝は隠居を宣言。
家督を忠興に譲り、幽斎と名乗る。
やがて中国地方から驚きの速さで舞い戻ってきた羽柴秀吉が明智光秀を倒し、天下統一に名乗りを上げた。
二人の性格
蒲生氏郷の性格
さまざまなエピソードや古文書の内容から見るに、蒲生氏郷は自分にも他人にも厳しい人のように思える。
例えば、武勇に優れた氏郷お気に入りの武者である福満治郎兵衛を、隊列が乱れたという(馬の沓を直してた)理由で斬ったり、部下が指図の位置から離れていたので所定の位置にいるよう注意した。
ところが、帰りに見るとまた別の場所に位置を変えていたのでその部下を手討ちにしたなど、非常に全軍の士気を乱すようなことを嫌う性格だったのかもしれない。
そういう点では織田信長と似ている。
しかしながら、普段の氏郷は物静かで穏やかな人物だったようだ。
いつ頃の時期なのかは判然としないのだが、月に一度家臣を集めて会議を開くのが蒲生家の常であった。
その場でだけは氏郷を罵るような発言も許される「怨まず、怒らず」が約束事となっており、禄の小さな者でも自由に発言できたという。
しかも、会議後は氏郷自ら風呂を沸かし、料理を作って皆に振る舞ったという逸話が残されている。
キリスト教宣教師のオルガンティノはローマ教皇に
「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」
と報告している。
趣味は武芸と茶と和歌。
話好きだったという。
細川忠興の性格
彼は非常に短気な人物として有名だ。
軍記物だけではなく、茶道書にまで
「忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷である」
とあるほどだ。
忠興が若い頃、明智光秀に無闇に降伏する者を斬ってはならぬと諭されている。
その短気さがゆえに一族との衝突が絶えなかったが、それはのちに述べるとしよう。
忠興は多趣味な人物で、茶や武具、和歌、絵画、能楽、さらに徳川家康からの影響なのか、医学にまで興味を示している。
千利休の弟子という共通点
二人は千利休の弟子として非常に有名だ。
細川忠興は若い頃、いつも氏郷の悪口を言っていたそうだ。
ある時、千利休の前で
「蒲生氏郷は数寄者ぶっておりますが、裏口には乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっています。あれでは数寄者とは呼べません」
と言うと
「それでもよろしいでしょう。数寄さえしているのなら、私はそれで構わないと思います」
と返された。
すると氏郷が
「誰かが私の悪口を言っているようであるが、その者が恥をかくのはうれしいことだ」
と言って勝手の障子を開けて姿を見せた。
氏郷は「ある者が私の悪口を言っている奴がいると、すぐに告げ口してくれたのだ」
と言って大笑いしたというお茶目な二人の逸話が残されている。
千利休からもっとも茶の才能があると評されていたのは氏郷で、最も気に入られたのは忠興だという。
豊臣秀吉の晩年、利休が切腹をさせられた前日、多くの弟子が秀吉の目を憚って利休の前に姿を見せなかった。
この時、大名の中で見舞いに訪れたのは忠興と古田織部だけであった。
氏郷はこのことを深く後悔していたようで、秀吉に願い出て利休の子・千少庵を一年半ほど庇護した。
その後、氏郷は徳川家康と共に秀吉にとりなして、千少庵は赦されて京に戻った。
少庵はその後まもなく千家(京千家)を興した。
氏郷は利休の筆跡を真似て自分の癖にするほど尊敬していたようだ。
蒲生氏郷愛用の茶器は、利休から拝領したという赤楽早船、自作の竹花生など数点。
細川忠興愛用の茶器は、利休が愛用していた品で、関ケ原の合戦で徳川家から褒美として賜った唐物尻膨茶入、利休が死の前日に忠興に授けた銘(ゆがみ)など多数。
夫婦仲や家族との関係
蒲生氏郷
氏郷は織田信長の次女を娶って二男二女をもうけたと先に述べたが、夫婦仲は極めて良好で、氏郷は生涯側室を持たなかった。
美人の聞こえが高い嫁で、氏郷没後に秀吉が側室に持とうと狙っていたとする説もあるほどだ。
一族とは目だった争いはない。
父の蒲生賢秀とも良好な関係だった。
氏郷の子・蒲生秀行は生来病弱であったため、父から京都の寺に入れられ、修行させて武将としてふさわしくなったら家に戻して世継ぎにし、耐えられないなら僧として過ごさせると戒めていたという。
のちに秀行は秀吉から所領の97%を没収されたり、徳川家康の娘を娶って関ケ原の勝ち馬に乗るなど、浮き沈みの激しい人生を送った。
氏郷が側室を持たず、二人の男子及び孫達も早逝してしまったことが蒲生家断絶の原因となってしまった。
細川忠興
忠興の夫婦仲に関しては奇怪そのものだった。
明智光秀の娘の玉子を信長の仲介で娶ったと先に述べたが、本能寺の変で明智光秀が敵になっても離縁はしなかった。
忠興は玉子を幽閉して累の及ぶことを避けている。
玉子もまた美しい女性だったようだ。
しかし、時が流れ豊臣秀吉の時代となると、夫婦仲が微妙な感じへと変化する。
忠興は玉子へ辛く当たることもだんだん増えていったようだ。
玉子は子どもが病弱なのを気に病んでいた時期で、夫の変貌ぶりに悩み、どういうわけかキリシタンとなった。
しかも、洗礼までして「ガラシャ」という名を授かるほど熱心な切支丹となった。
九州征伐が終わった天正15年(1587)頃、切支丹である乳母の些細な過ちに怒り、耳や鼻を削いで追放したという逸話が残されている。
ガラシャは離縁を決意したが、結局はしなかったという。
朝鮮出兵中、忠興は玉子に何通もの手紙を書いているが、その内容は
「秀吉の誘惑に乗らないように」
というものだったという。
ガラシャは関ケ原の合戦の数か月前、石田三成に人質になる様に迫られた際、
「自分が人質になってしまっては、内府様(徳川家康)と共に出陣中の夫や息子が満足に働けない。我が首を打って三成殿にお届けあれ」
と家臣に命じて世を去った。
これを東国で知った忠興は大いに悲しみ、怒り狂ったという。
妻の葬儀は教会で行い、自ら参列している。
忠興は家族との関係においては恵まれなかった。
幼少時代の辛い生い立ちに加え、実妹に殺されかけたり、父や弟と反目したり、嫡男の忠隆を廃嫡にして追放したり、次男の興秋に出奔されて大坂の陣で豊臣方につかれ、戦後、切腹を命じたりと、とにかく家族との衝突が絶えなかった。
鼻に残る大きな傷は、妹に斬りつけられたものである。
合戦スタイル
蒲生氏郷の合戦スタイル
氏郷の合戦スタイルは、若いころから晩年まで一貫して、自らが先頭に立って敵陣へ突っ込む感じだった。
新しく配下になったばかりの者に
「銀の鯰尾の兜をかぶり、先陣するものがいれば、そいつに負けぬように働け」
と激励したという逸話が残されている。
さらに、豊臣秀吉が
「蒲生氏郷10万の兵と、織田信長5000の兵が戦えば、勝利するのは織田軍である。
氏郷が織田勢4000の首を取っても、信長は必ず脱出するが、逆に織田側が5人も討ち取れば、その中には必ず氏郷の首が含まれているからだ」
と語ったという。
極端な話だが、それほど氏郷は大身になっても、敵陣に自ら先陣を切って切り込むスタイルだったのだろう。
自分が先頭に立つから部下の士気が鼓舞され、十分な働きができるのだと考えていたのかもしれない。
徳川家臣の井伊直政のスタイルと似ているかもしれない。
兜は黒漆塗燕尾形兜(銀鯰尾兜)を愛用していたことで有名。
細川忠興の合戦スタイル
細川忠興も、初陣で弟と共に大和片岡城一番乗りを果たすほど勇猛果敢であった。
歳を重ねてからの合戦スタイルはいまひとつ判然としないが、あれほど血気にはやる人物なら危なっかしい御大将だったのかもしれない。
忠興は茶器や連歌に造詣が深い一方、武具も自作するほど好んでいた。
幾度の合戦を経験し、独自の考案を凝らして「三斎流具足(三斎は忠興の別名)」を考案。
刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道のわび・さびの感覚が反映されている点が大きな特徴である。
実に多趣味な人である。
忠興は正保2年(1646)83歳で亡くなっているが、臨終の際には
「皆共が忠義戦場が恋しきぞいづれも稀な者どもぞ」
という辞世の句を残しており、昔の戦友たちは皆死んでしまった。
最後まで武将としての心を持っていたいという思いが強かったのかもしれない。
この句の詳しい解説はのちほど。
切支丹仲間
二人の共通点はまだある。
切支丹(キリシタン)という点でも同じだ。
当初、蒲生氏郷は高山重友(右近)にしつこくキリスト教を説かれ、興味が無かったので右近を避けていた。
右近が牧村政治を連れてきて説教をしたところ、氏郷は心を打たれてキリスト教に改宗した。
しかも洗礼を受けて「レオン」という名まで授かっている。
細川忠興も妻の玉(ガラシャ)が切支丹で、右近のしつこい誘いで、ある程度まではキリスト教に理解をしてしていたと思われる。
若いころはライバル意識が強く、氏郷と忠興の仲は悪かったが、忠興が年を重ねると二人はいつしか大親友となったようだ。
小田原の陣中で蒲生氏郷と細川忠興が高山右近の陣所に訪れ、日本ではまだ珍しかった焼き肉を楽しんだという逸話が残されている。
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氏郷が臨終の際、高山右近は息絶えるまで側に付き添い、聖像を掲げ、コンチリサンを行い、臨終正念にパライゾの快楽にいたるべきことを諭した。
氏郷は肯いて懺悔の誠を現し、瞳を聖像に向け息を引取ったというエピソードがある。
最後に二人の辞世の句を
蒲生氏郷の辞世の句
限りあれば吹かねど花は散るものをこころみじかき春の山風
限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころみじかき 春の山風
【だいたいの意味】
風など吹かなくても花はやがて散っていくものだが、それを春の山風は何故こんなにも短気に花を散らしてしまうのか・・・
自身の早逝を嘆いた秀逸な句だと思う。
細川忠興の辞世の句
皆共が忠義戦場が恋しきぞいづれも稀な者どもぞ
皆共が 忠義戦場が恋しきぞ いづれも稀な 者どもぞ
【だいたいの意味】
戦友や忠義に燃えていた家来たちもみんなあの世へ行ってしまった。
もはやそうした経験を持つ者はこの世には稀な存在だ。(享年が西暦1646年なので)
自由律な感じの句。
忠興は和歌の達人なのだが、もしかしたらこれは句ではなく、ストレートにこの言葉を使いたかったのかもしれない。
ご覧いただきありがとうございました!
仲の悪かった氏郷と忠興。
時を経るにつれて互いを理解し合える関係に。
なかなか重要なことだと思います。