功に焦り!?信忠が信雄に宛てた書状の意味するものとは?

この記事は約6分で読めます。
【古文書講座】織田信忠が陣中から弟の信雄に宛てた書状を解読TOP
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
今回は信長の嫡男である「織田信忠が陣中より弟の信雄に宛てた書状」の解読をします。
織田信忠の書状自体、ネットではそう簡単には見つけられないくらいレアな代物です。
さあ今回はどのような面白いことが記されているでしょうか。

織田信忠が陣中から弟の信雄に宛てた書状(天正元年八月二十三日付け織田信忠書状)

原文

織田信忠が陣中から弟の信雄に宛てた書状(天正元年八月二十三日付け織田信忠書状)
天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状

釈文

(切封上書)
「(墨引) 虎御前山より
  御方        信重
    進覧        」

  猶々、浅井儀も幾
  程なく可申付候、

態飛脚を以て
申候、仍去廿日、義景
落所へ先手之者共
押詰、朝倉式部太輔
心違依て、則
生害候、頸早々
天下へ被上之由、申来候、
弥吉左右重可申候、
恐々謹言、

  八月廿三日  信重(花押)

  御方
    進覧

原文に釈文を記してみた

天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状+釈文
天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状+釈文

書き下し文

仍って去二十日、義景落ち所へ先手の者共押し詰め、
朝倉式部太輔心違いに依って、すなわち生害候。

首早々天下へ上げらるるの由、
申し来たり候。

いよいよ吉左右重ねて申すべく候。
恐々謹言

  八月二十三日  信重(花押)

  御方
    進覧

「(墨引) 虎御前山より
  御方        信重
    進覧        」

尚々、浅井儀も幾程なく申し付くべく候。
わざと飛脚をもって申候。

原文に書き下し文を入れてみた

天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状+書き下し文
天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状+書き下し文

現代語訳

 先日の20日、朝倉義景が落ち延びた先を攻めたところ、
朝倉景鏡が逆心を起こし、義景を自害させた。

義景の首は近々京都で晒されるであろうとのことだ。
追って吉報をまた知らせる。

  敬具

虎御前山より
  八月二十三日  信重(花押)

追伸)浅井長政の命運も程なく尽きるだろう。
重大なことゆえ、そなたに急ぎ飛脚をもって知らせる。

この書状の時代背景

 1573年7月18日。
織田信長は将軍・足利義昭を京より追放し、元号が元亀から天正へと改まった。
甲斐の武田信玄は既に病死しており、畿内も比較的平穏なことから、信長はついに浅井氏と朝倉氏の討滅に動き出す。

同年8月8日。
信長は3万の大軍を率いて岐阜を出陣。
浅井長政の籠る小谷山城を包囲した。

浅井家の同盟国である越前の朝倉義景は、これを聞き自ら兵を率いて出陣。
余呉・木ノ本に陣を敷いた。

ところが浅井方の有力部将である山本山城主・阿閉貞征(あつじさだゆき)が織田方に寝返る。
信長はこれを好機と捉え、小谷山城を守る上で重要な拠点・月ヶ瀬城や大嶽砦、丁野城などを嵐の中攻め落とす。

落城

ここで朝倉義景は不利を悟って越前への退却を決断する。

信長はこの好機も逃さず、猛追撃を敢行。
越前の刀根坂でついに朝倉軍の主力に追いつき、3000余の首を討ち取った。=刀根坂の合戦

織田軍はさらに追撃を続け、ついに越前平野へなだれ込む。
朝倉義景は甥の朝倉景鏡(かげあきら)の元へ落ち延びるが、そこで景鏡が逆心を起こして主君を自害させ、その首を信長に差し出した。

本状はその時のものである。
織田信忠はこのとき朝倉軍の追撃には加わらず、抑えとして小谷山城に睨みを利かせていた。

朝倉景鏡が信長の元に義景の首を差し出したのが8月24日のことなので、信長はその前に一刻も早く信忠に伝えたかったのであろう。
これを聞いた信忠も、すぐに飛脚を仕立てて弟の信雄に知らせたのである。

織田信忠は昨年元服したばかりの若武者

 織田信忠は元服した当初は「勘九郎信重」と名乗っていた。
昨年の元亀3年(1572)正月に元服し、同年7月に浅井攻めで初陣を果たす。

嫡男・信重(織田信忠)の初陣1
元亀3年(1572)織田勘九郎信重(信忠)の初陣

関連記事:織田信長の年表ちょっと詳しめ 織田信重(信忠)の初陣

本状は天正元年(1573)8月20日とあるので、織田信忠はこの時17歳ということになる。
父・信長は柴田勝家佐久間信盛丹羽長秀木下秀吉ら聞こえる勇士を引き連れて朝倉軍を猛追撃していたが、若き信忠は小谷山の抑えとして現地に留め置かれていた。
この当時の信忠が功に焦り、血気にはやっていたのかは不明だ。

尚々書(追而書)の部分が織田信忠の筆跡かもしれない

冒頭の
尚々、浅井儀も幾程なく申し付くべく候、わざと飛脚をもって申候
とあるのが尚々書(なおなおがき)である。

尚々書とは、現在でいう追伸にあたる。
追而書(おってがき)ともいう。

天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状+釈文
天正元年(1573)八月二十三日付け織田信忠書状+釈文

よく見ると尚々書の部分(猶々、浅井儀も幾程なく可申付候)は筆跡が少し違う気もする。
もしかするとこの部分は織田信忠自身が書き加えた可能性があるのではないか。

つまり、ここの部分が信忠の直筆。
信忠の貴重な筆跡かもしれない。

それにしても、追伸を冒頭に書くなよ・・・。
余白あるんだから最後に書けよw

難読な部分

  • 態・・・わざと=ここでは敢えてという感じの意味だと思う
  • 廿日・・・二十日
  • 落所・・・おちどころ=落ち延びた先(つまり朝倉景鏡の屋敷)
  • 心違・・・こころちがい=逆心
  • 則・・・すなわち
  • 生害・・・しょうがい=自害すること
  • 頸・・・くび=首
  • 被上之由・・・あげらるるのよし
  • 吉左右・・・きっそう=良い知らせ。あるいは良い知らせと悪い知らせ
  • 虎御前山・・・とらごぜやま=現在も湖北に存在する地名。
    小谷山城を攻略する上で非常に重要な拠点だった。

その他細かいこと

  • 宛名が「御方」とあるだけなので本当に弟の信雄に宛てたかは不明だが、研究者の渡辺氏が指摘する通り、同母弟で伊勢北畠氏の養子入りしていた北畠具豊(のちの織田信雄)の可能性が高い。

  • 弥吉左右重可申候
    少々難読だが、”いよいよ きっそう かさねて もうすべき そうろう”となり、恐らく大変めでたいので、吉報を追ってまた知らせるみたいな意味だと思う。

  • 墨引(すみびき)とは書状の封じ目のこと。
    墨引にある「ー  ー」という謎の記号については、後日詳しく記事にしたいと思う。

  • 進覧(しんらん)とは脇付にあたる。
    脇付(わきづけ)とは相手への礼儀と誠意を見せた書状とされている。
    宛所の左下脇に小さく書かれていることが多く、他にも「参(まいる)」や「進之候(しんじそうろう)」、「人々御中」、「御宿所(みしゅくしょ)」などがある。
左下脇
脇付について

関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

(2020.8.22追記)
この書状を参考に、墨引きの謎について記事にしました。
ご興味がございましたらご覧ください^^
関連記事:書状の封じ目 墨引きの謎の記号「ー ー」は何?①折り紙切封上書編

コメント

タイトルとURLをコピーしました