伊勢の名門北畠氏の光と影 ~なぜ国司は滅んだのか~①

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伊勢の名門北畠氏の光と影 ~なぜ国司は滅んだのか~
らいそくちゃん
らいそくちゃん

お久しぶりです。
今回は伊勢国司として知られる戦国時代の北畠氏について紹介します。

謎に満ちた在国の国司・北畠氏

 混乱する南北朝期に流星の如く現れた北畠氏は、村上源氏中院家の流れを汲む名家です。
在国の公家として南伊勢に君臨し続け、最盛期には伊勢北部をはじめとして、志摩国、伊賀国、紀伊国南東部、そして大和国東部にまで影響を及ぼしました。

他方では、複数の一門の当主が常に「従三位じゅさんみ」前後の位階を維持し続け、その昇進スピードは他家の追随を許しません。

当サイトでは今回、そんな戦国北畠氏を今回の投稿から3回にかけて紹介し、我々を魅了し続ける謎に迫ります。

第1回目となる今回は、「戦国北畠氏の大まかな歴史」と、「それに従属する領主・家臣団」、さらには「北畠氏と覇を競った伊勢の勢力」について触れます。

第2回目は「北畠氏と伊勢神宮などの神領勢力」について、「国外における細川氏や松永久秀等の勢力との関係性」を。
そして「木造氏が突如造反した理由」についても触れるつもりです。

最終回となる第3回目には「国司兄弟合戦~木造氏が織田信長に降るまで降るまでの話」・「足利義昭を奉じる織田信長との大河内合戦」について、さまざまな史料を比較しながら検証する予定です。

残念ながら、北畠氏に関する一次史料(当事者自身がその時、その場で書いた史料)は、多く遺されてはいません。
そのため、当サイトでは『木造記』等の二次史料を、ためらいつつではありますが引用しております。
学説につきましては、大薮海氏をはじめ、西山克氏・伊藤裕偉氏・竹田憲治氏・山田雄司氏・矢田俊文氏の見解を踏襲しております。

少し前置きが長くなりましたが、早速北畠氏の謎を探っていきましょう。

戦国時代の北畠氏を語る主な史料

 北畠氏を物語る史料は必ずしも多くありません。
現存する一次史料として比較的多く遺されているのは伊勢神宮関連の文書、大湊の海運業者の文書、各社寺が保管している文書ですが、こちらは「〇〇の地を以前と同じく安堵する」といった判物の類がほとんどです。

北畠氏に従属した過去のある佐藤氏、澤氏等の領主が保管する史料は、数こそ少ないものの、当時の北畠当主とその奉行人が実際に発給した文書のため非常に重要です。

『御湯殿上日記』や『公卿補任』等の朝廷側の史料は、官位・官職の任官歴を知ることができます。

『言継卿記』や『多聞院日記』といった他国の公家や門跡の日記は、「~の由(とのことである)」といった伝聞による情報がほとんどではありますが、他の史料が乏しいため、重要な情報が隠されていることも少なくありません。

江戸期に編纂されたもので、北畠氏について多くの記述のあるものは『勢州軍記』『勢州四家記』『勢州兵乱記』『北畠物語』『木造記』です。
もっとも有名なものが『勢州軍記』ですが、こちらは『木造記(諸学聞書集本)』の記述と似通っており、そこから尾ひれを付けて菟角ドラマチックに物語が描かれる傾向にあります。

信長介入以前の伊勢国司家

南北朝の争乱と和睦

 鎌倉時代末期、『神皇正統記』を著したことで知られる公卿の北畠親房は後醍醐天皇を支え、息子とともに足利尊氏等と激戦を交わします。
中でも長男の顕家は類まれなる軍事的才覚の持ち主で、そのカリスマ性をもって畿内や東国で大きな活躍を見せました。

親房三男の顕能は伊勢国司に任ぜられ、玉丸城に本拠を構えて北朝勢と戦います。
しかし、北朝勢の勢いを削ぐことは容易ではなく、本拠の玉丸が陥落するなど、戦況は芳しくありませんでした。
以降、北畠氏は一志郡多紀谷に本拠を構え、雲出川以南の一志いちし郡・飯高郡・多気郡・度会わたらい郡を基本的な分国とします。

伊勢国国郡マップ01


「一、准后親房卿ノ三男北畠大納言顕能卿、伊勢ノ国司トシテ伊賀伊勢ノ間ニテ数年合戦ヲ営ミ、雲出川ノ南ヲ管領シ、一志郡多芸ニ城郭ヲカマヘ居住アル、故ニ多気ノ御所ト云也、」

  『木造記(聞書集本)』より


「顕能卿嫡子北畠大納言顕泰卿、後小松院ニ仕フマツリ、安堵ノ所領ヲ給リテ子孫繁昌也、其領知ハ先南伊勢一志郡・飯高郡・多気郡・度会郡、合五郡、其外大和国宇多郡、以上六郡也、凡侍九千人、内馬上千五百騎、歩行武者六千人、合一万五千ノ大将也、」

  『木造記(聞書集本)』より)

2度の挙兵と北畠教具の躍進

 その後北朝と南朝は和睦しますが、約定に反して皇位が北朝系によって独占され続けたため、顕能の孫にあたる満雅は二度にわたって挙兵します。(直接的には神三郡などをめぐる領地の問題)
これが応永の挙兵と正長の挙兵です。
しかし、守護の土岐持頼(世保家)や安濃郡の長野氏・雲林院氏、さらに北畠一族の木造氏らの激しい攻撃によって永享元年(1429)12月21日、当主満雅は安濃郡岩田の戦いで敢え無く討死。
これにより、北畠氏の支配領域は、一志・飯高の二郡のみと大きく勢力を減退させる結果となりました。
(※第2回目の記事で詳述

北畠満雅が討死した際、世継の教具のりともはまだ7歳の子供でした。
そのため、彼が成人して当主の座を継ぐまでの間、一族の大河内おかわち顕雅あきまさが国司として職務を代行します。

北畠氏が家運を盛り返したのは教具の執政期です。
足利幕府との関係を上手く維持した彼は応仁・文明の乱の中、初めて伊勢守護職に任ぜられます。
宿敵である土岐氏を打ち破り、本貫の一志・飯高のニ郡から神三郡(飯野・多気・度会郡)へと、大きく勢力を伸ばしました。
応仁2年(1468)7月には上箕田城の土岐政康(世保家)を撃破、文明11(1479)から翌年にかけて、安濃郡の長野政高と衝突します。
しかしながら、急速な拡張は多くの内部矛盾をも生むもので、特に神領への介入および軍事侵攻は、横領とも捉えることができるでしょう。

相克の果てに

 政郷まささと政具まさとも・政勝)・材親きちか具方ともかた)の代にも、断続的に伊勢守護職に任命されていますが、この時代は親子間の折り合いが悪く、家中に多くの問題が噴出して内紛状態が続きました。
とりわけ明応6年(1497)に発生した内紛は、一門の木造こづくり氏を当て馬にして材親(具方)に反発する家臣が少なくなく、父の政郷(政具・政勝)も木造氏を支援するするなど、家中が大きく乱れていた時期でした。

しかし、宿敵ともいえる長野氏が木造氏を支援してこの内訌に介入したことにより、危機感を持った隠居の政郷(政具・政勝)が事態の収拾に奔走し、長く続いた内戦は材親側の勝利でことが収まります。

なお、この頃畿内でも将軍が二つに割れて対立。
さらに、実力者の細川政元が暗殺され、その後継をめぐって細川家でも激しい戦闘が繰り広げられていた時期でした。

北畠最盛期へ

 両細川の乱で畿内が混乱している中、北畠家では材親の嫡男である晴具が家督を継ぎます。
彼は細川京兆けいちょう家の当主高国の娘を娶り、一人の男子を儲けます。
それがのちの北畠具教とものりです。
しかしその翌年、細川高国は畿内での戦いに敗れ、追い詰められた末に命を落としました。
その際、遺言として一首の歌を晴具へ贈っています。


絵に写し石を造りし海山を後の世までもめかれずぞ見む 御所様へ (細川高国)
 (絵に写し石を造りし海山を 後の世までもめかれずぞ見ん)

  『細川両家記』『陰徳太平記』

天文年間に入ると、晴具は勢力を一気に拡張させます。
神領の山田三方衆を始めとして、志摩・大和の宇陀郡・吉野郡、紀伊の牟婁むろ郡へ侵攻。
家督を譲った嫡男具教とともに安濃・奄芸あんき郡も攻め、具教の二男を長野氏の養子へ送り込むことに成功しました。

晴具は茶湯と和歌をよく嗜んだようで、細川高国との歌に関する逸話以外にこのような史料があります。
『多聞院日記』の天文12年(1543)2月14日の記述によると、


「一、今日國司古市幡州と参会、安清か宿ニテ在之云々、彼残雪を所望テ爲見ンカ也云々、」
 (一、今日、国司(北畠晴具)が古市播州(興福寺の衆徒で有力土豪)と参会。安清が宿にてこれありと云々。かの残月を見んがとして所望なりと云々。)

とあり、2日後の16日に帰っていったようです。
次代の具教は剣術に造詣が深いようで、名門権門としての風格を感じられます。

[コラム]北畠氏が多紀谷に本拠を置いた理由

 北畠家の当主は「御所様」「御本所様」「多紀(気)様」と呼ばれることが多く、隠居した前当主は「大御所様」などと呼ばれていました。
これは、歴代の北畠氏が在所とするところが一志郡多紀谷であるからでしょう。

北畠氏の本領は元来、多気・一志・飯高の3郡です。
そこから長い縮小期と停滞期を経て、しだいに大和の宇陀郡をはじめ、神領3郡、安濃、奄芸を加え、さらに紀州の牟婁郡へと勢力を拡張しました。

北畠氏が長らく本拠地とする多紀谷は、一見すると平野部からは遠く離れ、伊勢を統治するには不便な地に見えます。

伊勢国国郡マップ03

一志郡多紀谷を本拠とする北畠氏

しかしながら、この地を本拠とするにはいくつかの合理的な理由があったのです。

その1つが北畠氏が経験した敗戦による苦い記憶です。
と言いますのは、北畠氏が国司となった当初、南北朝争乱の際に本拠である多気郡の玉丸城が北朝勢によって陥落させらた過去があります。
そこから間もなく多紀谷に遷ったと見え、大規模な城郭を拵えて有事に備えました。

北畠氏館を尾根伝いに進むと、標高560mにのぼる霧山城があり、さらに支城として、これを守護する剣ヶ峯城・天峯矢蔵が聳え立ち、特に大和口からの侵攻に対し、高い防御力を持っていたことがわかります。
平成の中頃から現在に至るまで、十数度にわたる発掘調査が行われました。
こうしたことがわかるのは、恐らくその成果なのでしょう。

国司満雅は2度にわたる挙兵の末に敗死していますが、平野部を押さえられただけで多紀谷は落とされず、家名を存続させることに成功しています。

2つ目の理由は、多紀谷という地理的要因です。
ここは伊勢本街道沿いに位置し、当時朝廷が重視していた大和国の吉野地方~伊勢神宮へ続く節所として、古代期より用いられてきたルートです。
平野部ばかりが栄える車社会の現在こそ寂しい所ですが、当時の北畠氏はここに関を設け、通行料を徴していたことが史料からも窺えます。
なお、「伊勢本街道」という呼称は近世以降のもので、それ以前の呼称は不明です。

つまり、この山深い地に居を構えることは、軍事上・経済上合理的な選択だったのでしょう。
特に南北朝の争乱の際は、いつでも吉野にいる天皇を招けるようにしていたと考えられます。
他方で、北畠氏の本貫ではない伊勢神宮に近い海岸沿いでは、周囲の反発も大きかったのかもしれません。
詳しいことは後述しますが、神領や北部への進出は、分家の坂内氏・木造氏などが担い、本家がそれを遠回しに補佐していたようにも見えます。

北畠家臣団の構成要員

 続きまして、この項では北畠氏の主な家臣団についてご覧いただきましょう。
先述したように、当代国司を「御本所様」「御所様」あるいは「多紀(気)様」。
前国司を「大御所様」と呼ぶ傾向にありました。
同様に、北畠氏の血縁が色濃く入った分家の坂内(さかない)氏・大河内(おかわち)氏・木造(こづくり)氏・岩内氏といった有力一門もそれぞれ「○○御所」などと表現される傾向にあります。
彼等も国司の準一門として、朝廷から比較的高い官位・官職を賜っています。

本家の柱石・大河内氏

 大河内(おかわち)氏の興りは北畠顕雅あきまさです。
彼は皇位が北朝系によって独占されたことに憤慨して2度の挙兵を敢行した北畠満雅の舎弟です。
正長2年(1429)12月に満雅は敗死しますが、嫡男の教具はまだ幼少だったため、当時僧籍にあった顕雅が還俗げんぞくし、家政を代行しました。
「天下の義者」と称される三宝院門跡の満済、顕雅の娘を娶っていた赤松氏の取り成しもあり、幕府との和議が成立します。
その際に旧領の一志郡・飯高郡の返還が叶ったのは、彼の手腕によるところが大きかったでしょう。

満雅の忘れ形見である教具が元服すると、顕雅は引退します。
その後まもなく起きた嘉吉の変と、赤松一族による騒動は、御家の存亡を大きく左右させる一大事件でした。

顕雅の名跡を継ぎ、大河内家当主となったのは教具の舎弟である親文ちかふみでした。
明応6年(1497)の木造城戦で親文が討死した後、大河内家当主となったのは、国司北畠材親(具方)の舎弟である親忠です。
その後の系図については諸説ありますが、晴具舎弟の頼房(親泰・秀長)が大河内家の名跡を継ぎ、弘治3年(1557)に没するまで宗家を支えました。

『国史大系 第10巻 公卿補任中編』(後奈良 弘治三年条より)

『国史大系 第10巻 公卿補任中編』(後奈良 弘治三年条より)

 (※主に伊勢北畠氏の研究をされている小林秀氏は、
“『星合系図』などに見られる頼房は、国司政勝の子息で初め星合と号し、大永六年(一五二六)大河内親忠の出家により、大河内家を継承したとされている。しかし、没年から逆算した頼房の生年は永正七年(一五一〇)であるのに対し、北畠政勝(政郷・政具)は永正五年(一五〇八)に死去していることから、星合氏の初代としていることも含めてまったくの誤伝である。”
と述べられています。)

こうして見ると、大河内氏の系図は、初代顕雅から頼房に至るまで、全て北畠本家から養子を迎え入れていることになります。
これは中世の日本史から見ても、特異な例といえるでしょう。

『尊卑分脈』や『歴名土代』によると、その後大河内家を継いだのは「大河内源具良」。
彼は元亀3年(1572)従五位下左少将、翌年に左中将に昇進しているようですが、『公卿補任』には掲載されていません。
頼房との血縁関係も不明です。
これは永禄12年(1569)に織田信長の討伐を受けた後のことであり、元亀元年(1570)に北畠具教が正三位しょうさんみとして名を連ねて以降、北畠氏系の人物は同書からすっかり姿を消してしまっているのが気になるところです。

『国史大系 第10巻 公卿補任中編』(正親町 元亀元年条より)

『国史大系 第10巻 公卿補任中編』(正親町 元亀元年条より)

神三郡にも大きな利害をもった坂内氏

 坂内(さかない)氏の興りは木造俊通の子である雅俊です。
木造氏もまた北畠本家の子息から枝分かれした家ですので、そこからさらに分化したことになります。
しかしながら、坂内氏が系図以外の史料に登場するのはもう少し後ですので、その特定は困難です。

主に伊勢北畠氏の研究をされている小林秀氏によると

木造俊通―雅俊―具能=房郷―親能=具祐―
具信(具定)――顕昌
      └―亀寿丸

である可能性が高いようです。
さらに小林氏の研究によると、坂内氏の具体的な事蹟が明らかにできるのは、寛正6年(1465)10月、国司北畠教具の命で楠田・井上両氏討伐に赴いた時で、同族の岩内顕豊とともに武功を立てた坂内具能ともよし
『大乗寺寺社雑事記』の文明9年(1477)5月26日の記述には

「一、去十八日ヨリ廿一日マテ、於北方伊勢国司及合戦畢、国司方打勝、城二ヶ所被責落了、両方数十人手負打死、舎弟坂内手負引退」
 (一、去十八日より二十一日まで、北方に於いて伊勢国司合戦に及びおわんぬ。国司方が打ち勝ち、城二ヶ所を攻め落とされおわんぬ。両方数十人手負・討死。舎弟坂内も手負して引き退く。)

  『大乗院寺社雑事記(文明九年五月二十六日条より抜粋)』

これは、伊勢国守護職を得て、北伊勢への進出を図った北畠政勝(政郷=教具の子)と、前守護一色義直との合戦に関する記述です。(※この史料に関しては次回の記事で詳述
この「舎弟坂内」が坂内房郷のことで、国司政勝の舎弟。
坂内氏2代後の具祐ともすけは『公卿補任』に「父入道権大納言材親卿」とあり、やはり一門衆かそれに近い関係だったのだろう。と述べられています。

坂内氏も国司準一門として官位を賜り、具祐は参議、具信(具定)は永禄9年(1566)に従四位下じゅしいのげ左中将さちゅうじょうにまで昇進しています。
さらに、『御湯殿上日記』には元亀3年(1572)3月14日付で
「いせのさかない子けんふくとて、源顕昌、従五位下、同侍従の事申、ちよつきよ」
なる記述があり、恐らく具信(具定)の嫡男でしょう。

なお、この父子二人は後の三瀬の変で北畠具教ともども謀殺される憂き目に遭います。
彼のもう一人の子である亀寿丸は坂内御所を脱して亡命し、そこで信長と対抗する勢力と盛んに通交しました。

伊勢国国郡マップ02

北畠教具による神領三郡進出以降、坂内氏と岩内氏は伊勢神宮の人物との交流が増えていきます。
神職衆の中でもいろいろな立場や考えをもった人物がいたでしょうが、禰宜の荒木田氏とは早くから利害関係を持っていたことが窺えます。『荒木田氏経書状群』
特に坂内氏は、元々祭主領であった多気郡の笠服荘を知行していたようで、「笠木御所」として現在でもたびたび発掘調査が行われています。
ここは多気郡の端に位置し、神領である度会・飯野郡に近接していることから、何か有事が発生した場合、すぐさま介入する意図があったのかもしれません。

ここから、当初は北畠教具の横領ともいえる行為に反発していた神領の人々も、時代を経るにつれて持ちつ持たれつの関係になり、時には北畠氏の軍事力に期待を寄せていたのかもしれません。

一門でありながら独自色の強い木造氏

 北畠分家のうち、ずば抜けて高い家格を持つのが一志郡木造荘を本拠とする木造(こづくり)家です。
家の興りは北畠顕能次男の顕俊とされ、先述した二家よりも早くから分化しています。

『木造記(諸学聞書集本)』には家の興りと本領についての記述があり、なかなか興味深いものがあります。


「顕能卿次男正二位権大納言顕俊卿ト云、北伊勢ノ襲へトシテ一志郡木造ニ城郭ヲ構ヘテ、家号ヲ木造ト号シ、代々木造ノ御所ト云也、木造家領知ハ、一志郡ノ内、雲出七郷・七栗七郷・野辺・薗倉・木造・大仰・片野・牧・新家・戸木・石橋・川方、以上十二ヶ村也、」
(顕能卿次男正二位権大納言顕俊卿と云う。
北伊勢の抑えとして、一志郡木造に城郭を構えて、家号を木造と号し、代々木造の御所と云うなり。
木造家領地は、一志郡のうち、雲出七郷・七栗七郷・野辺・薗倉・木造・大仰・片野・牧・新家・戸木・石橋・川方、以上十二ヶ村なり。)



「木造御所権代納言顕俊卿ニ子息ナキニ依テ、舎弟正三位俊通卿ヲ猶子トシ、木造家ヲツガセ給ヒケル、家中侍六百人、内馬上百騎、小人四百人、合千ノ大将也、木造幕紋ハ梧桐割菱也、油ノ小路ト云也、」
(木造御所権代納言顕俊卿に子息無きによりて、舎弟正三位俊通卿を猶子とし、木造家を継がせ給ける。
家中の侍六百人、うち、馬上百騎、小人四百人、合わせて千の大将なり。
木造幕紋は五桐割菱なり。
油ノ小路と云うなり。)


  『木造記(諸学聞書集本)』より

所領や動員兵力については傍証が必要でしょうが、他に良質な史料が少ないのも事実です。
木造氏は早くから邸宅を京都に構え、国元よりももっぱら、京都での活動が目立ちます。
ある意味、在国の国司である本家よりも公家らしい生活を送っていたのかもしれません。
官職も国司本家と肩を並べるほどの高位であり、同族分家の大河内家・坂内家を大きく凌駕するほど格差があります。

その理由は判然としませんが、一つ考え得ることは、本家の北畠満雅が、皇位が北朝系によって独占されたことに憤慨して挙兵した際、これに同心しなかったことです。
本領も北朝側に属した長野氏・土岐氏らと隣接しており、北畠一門でありながら、もっとも調略を受けやすい家だったのかもしれません。
敗死した満雅や、朝廷工作にさほど熱心ではなかった材親(政具・具方=晴具の父)が公卿に列することができなかった際も、木造家当主は依然公卿のままでした。

時は流れ北畠具方(材親)の執政期となり、明応4年(1495)に家中で大きな内乱が起きた際、具方の弟である木造家当主の師茂が対抗馬として担ぎ出され、兄と戦っております。
この戦いでは外部勢力の長野氏も木造氏の後詰として介入し、事態は泥沼と化しました。
最終的にこの事件は具方(材親)が勝利を収めます。
抵抗した家臣団は悉く処断され、木造師茂も切腹して果てました。

国司本家と木造家は永正元年(1504)に一応の和睦を見ますが、恐らく両家の間ではわだかまりが残ったままだったのでしょう。

諸説ある「木造具康」と「木造具政」の関係性

 木造氏の系譜で、必ず議論の的となるのが木造具康と具政の関係性です。
まず、『木造家家譜』と『木造家系図』には、木造具政の子は長政であり、具康は具政の兄にあたる。
具康は天文9年(1540)4月10日に39歳で父の為に殺害されたとあります。

「wikipediaの木造具政」・「木造具康」の項には、具政は北畠晴具の次男、あるいは三男で、木造具康の養子として名跡を継いだ。
息子は長政であるとしています。

一方、『木造記』・『勢陽雑記』では木造具政の子として具康を記し、重大な矛盾点が浮かび上がります。

『伊勢国司北畠氏の研究(吉川弘文館)』によると、著者の一人である小林秀氏が『歴名土代』の情報を基に具康の死後に具政が養子として入ったとしているのに対し、もう一方の著者の一人である山田雄司氏は、二次史料の比較研究から『木造記』の記述がもっとも整合性が取れているのではないかとされていて、大変興味深いです。

そして『勢州軍記』には、具政の庶子として長正(具康)が登場し、ちょうど中間のような記し方をしています。
谷口克広氏著の『織田信長家臣人名辞典』も概ね『勢州軍記』の記述を採用されています。

このように、史料や専門家の先生方の間でも見解が大きく異なっていることがわかります。
あるいは混同の原因は、具康のいみな(本名)そのものにあるのかもしれません。
この辺りは織田信長による南勢討伐に大きく関わることですので、次々回で史料を用いて詳しく触れたいと考えております。

その他の有力与力

 他にも、被官の範疇では語れないのが、飯野郡あるいは多気郡を中心とした岩内氏で、北畠準一門として「岩内御所」を構え、独自の奉行人を持って神領の人物等とのやりとりが見られます。

南北朝以来の北畠氏古参として、宇陀三将と呼ばれる秋山氏・澤氏・芳野氏の存在も無視できません。
秋山氏は大和国における伊勢神宮領である宇陀神戸神社の被官。
澤氏は宇陀郡沢の沢に拠った国人。
芳野氏は宇陀郡東郷の芳野城に拠った国人です。

秋山氏は明応6年(1497)国司の北畠材親(政具・具方=晴具の父)と弟の木造師茂の間で合戦があった際は、国司方の秋山某が自害させられる事件が起きます。
また、後には秋山氏が三好の婿として独立する兆しがあったので、具教の討伐を受けた様子が『勢州軍記』に見えます。

澤氏は大和国宇陀郡以外にも、伊勢国飯高郡の神戸六郷・一志郡の八知九名・小阿射賀・飯野郡の黒部・多気郡の御糸・井口と広範囲に知行しており、存在感の大きさを窺い知ることができます。
しかし、澤氏は在地の武士のみならず、郷民等も織り交ぜて組織された家であり、指導者たる当主の権力が弱い傾向にありました。
そのため、家中は常に分裂の危機にあったことが史料等から窺えます。『沢氏文書』

特に弘治元年(1555)うるう10月15日付で北畠具教が澤氏へ宛てた書状には、新たに家督を継いだ沢太菊(房満の幼名)に服そうとしない澤家中の被官衆の存在が見られます。
以下の史料は、それから11年後となる永禄10年(1567)6月9日付で、北畠具教が澤親満(源五郎)に出した領知の安堵状です。

『沢氏文書(永禄十年六月九日付北畠具教安堵状)』  (国立公文書館内閣文庫所蔵)

『沢氏文書(永禄十年六月九日付北畠具教安堵状)』
 (国立公文書館内閣文庫所蔵)

釈文)

 (端裏ウハ書)
     「澤源五郎とのへ 具教」


就今度不慮之紛、雖本所
不審之儀候、覚悟無別義の通申
被處
、無異儀被聞召分、本領ホ
諸事、前々如判形筋目、不可有
別儀候、御書被遣之、珍重
候、
猶真柄宮内丞・稲生左衛門尉可申候也、
謹言
   永禄十
     六月九日  (北畠具教花押)


        澤源五郎とのへ

(書き下し文)

 (端裏ウハ書)
     「澤源五郎とのへ 具教」

この度不慮の紛れに就きて、本所(北畠具房)不審の儀候といえども、別儀無き覚悟の通り、申さるところに、異儀無く聞こし召さるるの分、本領等諸事、前々せんせんの如く判形はんぎょうの筋目、別儀有るべからず候。
御書これ遣わされ、珍重に候。
なお真柄宮内丞くないのじょう・稲生左衛門尉さえもんのじょう申すべく候なり。謹言
   永禄十(1567)
     六月九日  (北畠具教花押)

        澤源五郎(沢親満)とのへ

「不慮の儀」と「本所不審の儀」が何を指すのかは判然としません。
この書状には、国司の座を退いたと見られる北畠具教が、棟梁(本所)の北畠具房を補佐して政務を行う様子と、澤氏の不穏な動きを警戒する様子が見えてなかなか興味深いものがあります。

このように、宇陀三将は必ずしも一枚岩だったわけではなく、情勢次第ではどう転ぶかわからない不安定な国人土豪勢力でした。

『沢氏文書(永禄十年六月九日付北畠具教安堵状)』+釈文  (国立公文書館内閣文庫所蔵)

『沢氏文書(永禄十年六月九日付北畠具教安堵状)』+釈文
 (国立公文書館内閣文庫所蔵)

『沢氏文書(永禄十年六月九日付北畠具教安堵状)』+書き下し文  (国立公文書館内閣文庫所蔵)

『沢氏文書(永禄十年六月九日付北畠具教安堵状)』+書き下し文
 (国立公文書館内閣文庫所蔵)

北畠氏の有力被官と奉行人の傾向

 ここでは、史料から見える北畠本家の被官人と奉行人の傾向について探ってみましょう。
被官人とは武家や寺社の家臣・奉公人を指します。
歴史シュミレーションゲーム「信長の野望」シリーズでは、北畠氏の筆頭家老のような立ち位置で鳥屋尾満栄(とやのおみつひで)が登場しますが、実際はどうだったのでしょうか。

西山克氏の研究論文『<論説>戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から』を要約すると以下の考察がなされています。

  • 奉者(主君の外交取次を行う責任者)は南北朝期の中務大丞なかつかさのたいじょう兼顕かねあき以降、「兼」を通字とした山室氏が代々執り仕切っていること
  • 「鳥屋尾左京亮さきょうのすけ満栄」は北畠晴具執政期から活動が見られること
  • 鳥屋尾満栄(左京亮)・朴木ほおのき文躬(刑部丞ぎょうぶのじょう)は、大宮・方積・山崎・佐々木等の北畠一族・国人とともに、北畠氏奉行人集団を構成していたこと
  • 彼らは奉書(主君の意を汲んだ家臣が、主君に代行して発給する書状のこと)の奉者である山室氏とは明瞭に異なり、多気御所北畠氏と在地を疎通させる役割を果たしていたこと

つまり、権力者である北畠氏の命令は山室氏を通じて下達され、鳥屋尾氏たちは、それを下々たちに伝える潤滑油の役割を果たしていたとする考察です。
朴木氏は大和国宇陀郡の衆です。
では、鳥屋尾氏が筆頭家老のような立ち位置のように描かれているのは何なのか。
それは『勢州軍記』によるところが大きいのかもしれません。
本当に鳥屋尾満栄が北畠家の執政的な立ち位置であるならば、山室氏のように発給文書がもっと現存していても良いのではないか。
これほど保守的な傾向の強い国司北畠家で、満栄の父祖がそういった立場にはないという点も見逃せません。

史料から見える鳥屋尾氏は、特に大湊衆との書状のやり取りが多く遺されています。『三重県史 資料編 中世1(下)』『三重県史 資料編 近世1』
特に晩年期にあたる天正元年(1573)のものが多く、鳥屋尾氏が大湊と大きな利害関係にあったことが窺えます。

また、伊勢山田の自治を執り仕切る山田三方衆大年寄の幸福虎勝が5月17日付(年次不明 永正頃カ)で同名の大和守へ宛てた書状によれば、


「仍鳥屋尾神四郎殿、草津へ就御湯治、此國へ御下向候、

(中略)

内山にて小山田備中守殿も殊外御懇被成候、将又自湯御帰 (闕字)御屋形様へ御礼御申度之由、被仰候間、此之由申調、我々致同心御取合申候、」

 (仍って鳥屋尾神四郎殿、草津(上野国草津温泉)へ御湯治に就き、この国へ御下向に候。
(中略)
内山(信濃国佐久郡)にて小山田備中守殿(小山田昌行?)も殊の外に御懇ろに成され候。
はたまた、湯より御帰りに (闕字)御屋形(当時の甲斐武田氏当主カ)様へ御礼御申したきの由、仰せられ候間、この由申し調い、我々も同心致し御取り合わせ申し候。」


  『幸福大夫文書(年次不明五月十七日付幸福虎勝書状)』

とあり、この神四郎なる人物が、若年期の満栄である可能性を三重県史は指摘されています。
幸福氏による武田領下向の書状はいくつかありますが、鳥屋尾氏を示す史料はこれだけで、本当に満栄なのかは不明です。

しかしながら、『勢州軍記』も何の根拠もなく彼を執政のような立ち位置で描くとは考えられません。
恐らくその当時から、人々の記憶に残るような活躍と忠義の数々があったのでしょう。

※天正10年(1582)に大嶋内蔵頭が著した『伊勢国司御系図並諸士役付』には、鳥屋尾石見守が家老政所、朴木隼人佐が使番・軍奉行としていることから、『勢州軍記』はこの書を基にしたのかもしれない。
しかしながら、『伊勢国司御系図並諸士役付』には不明瞭な点も多い。

他にも『勢州軍記』等の二次史料で活躍した諸氏は
佐藤氏、古和氏、藤方氏、波瀬氏、奥山氏、豊田氏、日置氏、家城氏、大宮氏、天花寺氏、本田氏、五ヶ所氏、鳥羽氏などです。

中でも、北畠晴具執政期に起きた垂水鷺山合戦で勇名を馳せたのが家城之清・豊田五郎左衛門・垂見・釈迦房氏らであると記されています。

 一、長野輝伯事、
其頃長野輝伯者、長野家之末子也、
 
(中略)
天文末頃、長野輝伯率工藤勢、發向於南方也、國司勢、澤・秋山以下、出向於垂見鷺山而致合戦、工藤勢儲七備、分部・細野等一番攻蒐、一日中七度合鑓不決勝負而引退南北也、

 (中略)
於國司方者、家木主水祐・豊田五郎右衛門尉・垂見・釋迦房等、七度共抜群致高名云々、是鷺山合戦也、
   『勢州軍記 巻上』より

(書き下し文)
一、長野輝伯の事。
その頃、長野輝伯(藤定)は、長野家の末子なり。
 
(中略)
天文末頃、長野輝伯(藤定)は工藤勢を率い、南方に於いて発向なり。
国司(北畠晴具)勢、澤・秋山以下が出向、垂見鷺山に於いて合戦に至りて、工藤勢七備を設け、分部・細野等が一番に攻めかかる。
一日中、七度槍を合わすも、勝負は決せずにて、南北に引き退くなり。
 
(中略)
国司方に於いては、家木主水介・豊田五郎右衛門尉・垂見・釈迦房等、七度とも抜群の高名を致すと云々。
これ、鷺山さぎやま合戦なり。

また、永禄12年(1569)9月に織田信長が大軍を率いて北畠氏を攻めよせた際、最前線で戦ったのは天花寺氏です。
実際の史料として奈良興福寺多聞院門跡の英俊が著した『多聞院日記』永禄12年(1569)9月7日の条には

「一、去月廿日(九月二十日)、信長人數八万余騎にて勢州へ入、大略落居にて本所(北畠具房)ハヲカツツチノ城(大河内城)ニ御座、天源寺(天花寺)ノ城持云々、山田衆水入云々、」

とあり、内容が合致します。
公家の山科言継の著した『言継卿記』からは、永禄元年(1557)前後に稲生治部丞・稲生佐渡守・松田対馬守・馬場式部・垂水右衛門大夫といった北畠氏被官と交流をもっていた様子が窺えます。(永禄元年八月十九日条等)

その他の史料からは、鳥屋尾氏のように地域に属する奉行として活躍が見えるのは真柄氏・片穂氏です。
有名な柘植氏などは木造家の被官です。
こうした大きな分家にも、それぞれ独自の被官と奉行人を持ち、領内の統治や外交に当たっていました。

中勢で北畠氏と競った有力勢力

 ここでは、北畠氏と伊勢の覇権をめぐって争った有力者を見ていきましょう。
彼らは一体何を巡って100年以上も戦ったのか。
特に戦国期初頭は、南北朝の禍根が色濃く残る時代でした。

「国司」の存在意義を脅かし続けた土岐・一色氏

 そもそも北畠氏が天皇より南勢に派遣されたのは、北朝勢の勢いを抑えるためでした。
当時の北朝派で、北勢で勢力を奮っていたのが高氏と仁木氏です。
北朝勢の勢いは強く、本拠の多気城が落とされるなど、伊勢北畠氏の創成期は苦難の連続でした。

その後、足利氏内部で起きた観応の擾乱等で勢いを得た北畠氏は、京都をはじめとする上方を攻めるに至ります。
いつしか北畠氏は南朝勢の盟主として指導的な役割を果たしていました。
南北朝合一後も、北畠氏は伊勢守護職の土岐・一色氏らと断続的な戦闘を繰り返します。

以下は歴史学者の矢田俊文氏による『親基日記』や『吉田家日次記』の「儲」に関する研究です。
「儲」とは在京の貴人が熊野や伊勢神宮等を参詣する際、彼らを馳走し饗応する行いのことです。

周防の大内義弘を中心とした応永の乱(1399)が収束してつかの間の平和を取り戻した時代。
幕府は北畠氏の旧領を安堵し、関係改善の兆しを見せていました。

この頃の都では、貴族と幕府関係者の間で、紀州の熊野や伊勢の伊勢神宮へ参詣に赴くのがブームとなっていました。
これをもてなすため、参詣ルートを支配する守護大名などは、こぞって「儲」に力を入れ始めます。
彼らは小養・昼養・宿所・舟等の手配を抜かりなく行い、貴人が現地の御師のもとに至るまでリレー形式で馳走を行います。

応永9年(1402)の伊勢神宮参詣では土岐大膳大夫入道が安濃津で儲を行い、翌10年(1403)の足利義満の伊勢神宮参詣の際には平尾で国司北畠大納言入道が儲を行っています。

そこから北畠満雅の応永の挙兵(1414)を挟み、応永25年(1418)の足利義持の伊勢参詣では、近江草津で近江守護佐々木の六角某、近江水口では近江守護佐々木の京極加賀守、伊勢安濃津では伊勢守護土岐世保家が儲を行っています。

応永29年(1422)8月、足利義持夫人が伊勢神宮参詣をした際には、25日に新所で関左馬助・長野氏・加太(鹿伏兎?)氏・雲林院うじい氏が儲を。
同年9月の足利義持伊勢参詣の際には18日に近江草津で昼の儲を近江守護六角四郎兵衛尉持綱、近江水口で逗留の儲を近江守護京極三郎、19日に新所で昼の儲を北方一揆・関左馬助持盛・雲林院氏・加大平三郎(ママ)・長野右京亮満高が行っています。

『吉田家日次記』応永10年(1403)10月25日条を例にして矢田氏はこのように分析されています。
すなわち、応永9年(1402)の伊勢神宮参詣では安濃津を領内に持つ土岐大膳大夫入道が安濃津で儲を行ったが、北畠氏から訴訟があった結果、翌年の参詣の際は国司北畠大納言入道が平尾で儲を行った。
訴訟をしてまでも饗応を行うということは、饗応を行うことが、なんらかの利権を生む可能性があったからであろうと。

具体的にどのような利益があったのかまでは記述がありませんが、当代将軍と自身の所領内で実際に顔を合わせて酒を馳走するわけですから、内々の話をしていたことは想像に難くありません。
こうした根回しや口裏合わせも外交上必要と見え、のちに称光天皇が崩御した際、新たに将軍の地位に就いた足利義教が強引に北朝系の後花園天皇を即位させる工作を行います。
これに激怒して正長の挙兵(1428)を敢行した北畠満雅は、儲の上でも経済上でも対立関係にあった伊勢守護土岐持頼(土岐世保家)らに攻められ、永享元年(1429)12月21日に討死してしまいました。

(参考 wikipedia「伊勢国」より)

 歴代伊勢守護職(前後略)
仁木義員(1396年 – 1399年)
土岐康行(1400年 – 1404年)
土岐康政(1404年 – 1424年)
畠山満家(1424年 – 1428年)
土岐持頼(1428年 – 1440年)
一色教親(1440年 – 1451年)
一色義直(1451年 – 1467年)
土岐政康(1467年 – 不明)
北畠教具(不明 – 1471年)
北畠政郷(1471年 – 不明)
一色義春(1477年 – 1484年)
一色義直(1484年 – 1491年)
一色義秀(不明 – 1498年)
北畠材親(1508年 – 1511年)

その後、北畠氏は幕府より赦免され、伊勢神宮領の神三郡などをほぼ横領に近い形で支配して勢いを盛り返します。
伊勢神宮へ至る参宮路次も実効支配していたことにより、長享2年(1488)2月、幕府は北畠氏に対して数ヶ条の詰問状を送り付けます。

そのうちの一条に
「参宮路次支配関所共立之、雅意以外事(参宮路次の支配、関所ともにこれを立て、我意以てのほかの事)」
という一文があります。

この詰問に対して北畠氏は、
「畏入候、国司事小分限事候間、以関務内者共加扶持可奉公所存也、則此子細代々至御代経上意御許可、御教書拝領之由」
(畏み入り候。国司(北畠氏自身)の事、小分限(小勢力・小録)の事に候間、関を以て内者共の扶持を加え、奉公すべき所存なり。則ちこの子細は代々御代(幕府の歴代将軍のこと)に至り、御上意の御許可を経て、御教書みぎょうしょを拝領の由)
『大乗院寺社雑事記』(長享二年二月二十三日条)
と、ほぼ開き直りに近い返答をしています。
(※次回の記事で詳述します

以後も北畠氏やその分家は神領3郡への支配強化を推し進め、幕府の権力が低下する戦国時代に入ると、もはやそれを止める勢力は現れませんでした。

上方からも資金と軍事力を期待された関・長野の二大勢力

 伊勢国では北畠氏・土岐(世保家)の他にも大きな権力を持つ領主が存在しました。
特に鈴鹿・三重・河曲かわわの3郡を本貫とする関氏と安濃・奄芸あんきの2郡を本貫とする長野(工藤)氏は、北畠氏と同様に守護の権限を排除するいわゆる「守護使不入」の特権が許された領主でした。

平氏の流れを汲む関氏は、鎌倉幕府滅亡後に鈴鹿郡関谷に移り住んだ一族で、有力な分家に神戸(かんべ)・国府・鹿伏兎(かぶと)・峯氏がいます。
南北朝の争乱からたびたび北畠氏と行動を共にしますが、基本的には足利幕府の意に従う家柄でした。

藤原氏の流れを汲む工藤氏は鎌倉時代、地頭職として安濃・奄芸の2郡を賜り、長野に移り住みました。
そこで姓を「長野」と改め、分家の分部(わけべ)・細野・雲林院(うじい)氏とともに栄えます。
南北朝の抗争の際は北朝側に属し、その頃から北畠氏と断続的に戦います。


「応永廿二年乙未、伊勢国司北畠大納言満雅卿、足利義持公ニ対シ謀叛ノ事アリ、将軍近江六角家、伊賀仁木家、大和筒井・越知・十市・久世、当国長野・雲林院・神戸・関・峯・千草以下ノ軍兵ヲシテ是ヲ攻給ヒシカトモ、国司要害ヲ拵、南伊勢諸所ニテ防戦数日ヲ経ケルニヨリ、将軍国司ト和睦アツテ、無事ニ成給ヒヌ、」

(応永二十二年 (1415)乙未きのとひつじ、伊勢国司北畠大納言満雅卿、足利義持公に対し謀叛の事あり。
将軍近江六角家、伊賀仁木家、大和筒井・越智・十市・久世、当国長野・雲林院・神戸・関・峯・千草以下の軍兵をしてこれを攻め給いしかども、国司要害を拵え、南伊勢諸所にて防戦数日を経けるにより、将軍国司と和睦あって、無事に成り給いぬ。)


  『木造記(聞書集本)』より

これは、北畠満雅が応永の挙兵をした際の話です。
関・長野の両氏は、一族を従えて北畠氏と戦った様子が記されています。
一時は扱いとなり事なきを得ますが、満雅は再び正長の挙兵を起こします。
そこで長野氏は岩田川の戦いで満雅を討ち取った恩賞として一志いちし郡を賜った時期もありました。

伊勢国国郡マップ01

 還御時分参御所了、御対面、伊勢守護申長野恩賞事遅々不可然、早々可有御計条尤可目出之由、内々可申沙汰旨申之由申入候了、在所何乎之由、被仰談間、北畠国司知行二郡之内、一志郡自兼望申入キ、以此郡可有御計歟旨、伊勢守護申入間申入了、雖然、先可被仰談管領歟旨申候也、則以大館上総入道被仰談管領趣、伊勢守護幷長野恩賞事可有計御沙汰也、在所等可被計申入云々、管領御返事、早々御計尤珍重存候、於守護者関入道跡幷北畠知行二郡内飯高郡両所宜候、長野ニハ一志郡可然云々、則以此分両人被下御判、

 『満済准后日記』(正長二年六月十九日条)

(書き下し文)
帰る御時分、御所へ参りおわんぬ。
御対面し伊勢守護(土岐持頼)が申す。
長野恩賞の事、遅々然るべからず。
早々に御計い有るべきの条、もっともに目出るべきの由、内々に沙汰申すべきの旨、これを申す由に申し入れ候をば、在所いずこかの由、仰せ談ぜらるるの間、北畠国司知行二郡の内、一志郡はかねてより望み申し入れキ。
この郡を以て御計い有るべきかの旨、伊勢守護(土岐持頼)申し入るの間申し入れおわんぬ。
しかれども、まず管領(畠山満家)に仰せ談ぜらるべきかの旨申し候や。
則ち大館上総入道(大舘満信)を以て仰せ談ぜられ、管領(畠山満家)の趣き伊勢守護(土岐持頼)並びに長野恩賞の事、御沙汰計い有るべきや。
在所等計わらるべく申し入れ云々。
管領(畠山満家)御返事、早々に御計いもっとも珍重に存じ候。
守護に於いては関入道(当時の関家当主)跡、並びに北畠知行二郡の内、飯高郡両所が宜しく候。
長野(長野満藤)には一志郡が然るべく云々。
則ちこの分を以て両人に御判が下さるる。

これは、北畠満雅を討ち帰洛した守護の土岐持頼(世保家)が、将軍足利義教と対面を果たした時期のものです。
持頼は早々に論功行賞がなされるように醍醐寺三宝院の満済まんさいへ働きかけます。

満済はその取次役として将軍との間を取りもちます。
足利義教から恩賞の対象地について尋ねられた満済は、
「北畠国司知行二郡のうち、一志郡を長野氏に与えることを持頼は望んでいる。しかし、まずは管領職の畠山満家にお尋ねになってはいかがか」
と返したとあります。

結果、関氏の闕所地と北畠知行のうち、一志郡が長野氏に与えられる行賞が行われました。

一、畠山右衛門佐義就発向、蒙仰面々事、自光宣僧都方申給者也、
 管領御勢 
摂津国口  泉(ママ)両守護 和泉国口
 幡磨勢 
和州口 淡路勢 摂津国口
 伊勢国司 
宇治郡口 関 宇治郡口
 長野 
和州口 伊賀守護・国人 野崎口
 大和衆 
和州口 南都 和州口
 紀州・河内国人 被官中 
和州口
 玉置 
紀州口 湯川 和州口
 
山本奉公衆 紀州口 摂州・紀伊・河内寺社 高野・根来・粉川寺、各紀州口
 鵜飼 
野崎口 望月 野崎口、近江衆
 讃州・阿波勢 両佐々木軍勢用意事 
八幡口
 土岐同前 
八幡口

 就畠山右衛門佐下国、次郎可有入国候、打越国境可被致合力候、既堺・天王寺辺致放火之上者、無是非次第候、急可有進発之由、被仰出候、恐々謹言
   後九月三日            勝元 (判)



  成身院

これは長禄4年(1460)閏9月20日、朝敵となった畠山義就を、細川勝元をはじめとする幕府軍が包囲した時の書状です。
興味深いのは、この長禄4年の時期に軍事力として期待されている伊勢衆は、北畠・関・長野の3氏であるという点です。
このうち、先述した伊勢参詣の「儲」で登場したのは長野氏です。

関氏と長野氏は国司家同様、峠の入り口に複数の関を設け、大きな税収を得ていました。
特に北畠氏と長野氏は、互いに過去の遺恨を色濃く残しており、領地を接することで経済的にも大きな障壁となっていたことでしょう。

のちに長野氏は北畠具教の子が嗣子として家を継ぎますが、織田信長の影響力が強まるとあっさりと鞍替えしています。
恐らく長野家中における北畠派の影響力を十分に浸透させられなかったのでしょう。

その他の伊勢国諸氏

その他の伊勢国における諸豪族については、『勢州軍記』や『伊勢峯軍記』あたりが比較的詳しく記述しています。
以下は『勢州軍記 上』より一部抜粋したものです。

 北方諸侍事、
北方諸家者、源平以後、北條足利之代々給領之人々也、先三重郡千草家、是一千之大将也、同郡宇野部後藤家、是後藤兵衛實基之後胤也、同郡赤堀家、是
武蔵守俵藤太藤原秀郷之後胤也、同郡楠家、是五百人之大将也、奄藝郡稲生家、是守屋大連之後胤、幕紋丸中二鷹羽也、朝明郡南部家、幕紋藤丸、鶴丸也、同郡加用家、同郡梅津家、同郡富田家、是伊勢平氏富田進士家資之後胤也、同郡濱田家、員辨郡上木家、同郡白瀬家、同郡高松家、桑名郡持福家、同郡木俣家以下、北方諸侍在四十八家云々、各爲足利家之侍、一味同心者也、

(書き下し文)
北方諸侍の事。
北方諸家は、源平以後、北条・足利の代々給領の人々なり。


まず、三重郡千草家。
これ一千の大将なり。


同郡宇野部の後藤家。
これ後藤兵衛実基の後胤なり。


同郡赤堀家。
これ武蔵守藤原秀郷(俵藤太)の後胤なり。


同郡楠家。
これ五百人の大将なり。


奄芸郡稲生家。
これ守屋大連の後胤。
幕紋、丸中に鷹羽なり。


朝明郡南部家。
幕紋藤丸・鶴丸なり。


同郡加用家・同郡梅津家・同郡富田家。
これ伊勢平氏富田進士家資の後胤なり。


同郡濱田家・員弁郡上木家・同郡白瀬家・同郡高松家・桑名郡持福家・同郡木俣家以下、北方諸侍四十八家在り云々。
各々足利家の侍として、一味同心の者なり。

このうち、員弁いなべ郡には北方一揆が、朝明あさあけ郡には十ヶ所人数と呼ばれる幕府直属の奉公衆が守護不介入が許された勢力です。
彼らは足利氏(将軍)をはじめ、一色・土岐・関・長野・北畠・六角などと誼を通じて離合集散を繰り返していました。
同時代の史料は乏しいものの、奈良興福寺の大乗院門跡が著した『大乗院寺社雑事記』などには応仁・文明の乱の際に、彼ら伊勢の諸士が東軍・西軍に分かれて激しく争う様子が記されています。
乱の終盤あたりには、美濃の斎藤妙椿みょうちんが影響力を及ぼし、彼らを味方につけて長野氏を支援し、北畠氏と戦っています。

その後も足利義尚による六角氏征伐・明応の政変以後に起きた足利義材の帰洛運動・北畠氏内部でおきた国司兄弟合戦にも一枚かんでおり、織田信長に属するまでに紆余曲折があったことが窺えます。

 [コラム]なぜ陳腐化した「国司」を名乗ったのか

 なぜ歴代の伊勢北畠氏は「国司」を名乗り、「国司」と呼ばれたのでしょう。
ここでは、その謎について私の個人的な考えを述べたいと思います。

前述したように、北畠氏は南北朝の動乱の中で南勢に根付き、劣勢に立たされながらもいつしか南朝勢力の指導的な立場へと成長しました。
拠点を一志郡多紀谷に移して、南都である吉野地方と連絡を密にとります。
朝廷工作にも余念がなく、「伊勢国司」として不動の地位を築きました。
しかし、この頃になると古代の律令制度は完全に破綻しており、もはや国司は有名無実な存在でした。

一方、足利幕府は「伊勢守護職」を土岐(世保)氏や一色氏に任じます。
管領かんれいや守護職といったポストは幕府の下位機関にあたり、その裁量権は基本的に将軍自身にあります。
守護職とは基本的に、任命された国中の軍事指揮権や検断権、税を徴収する権利を有します。
しかしながら、「守護使不入」の特権を持つ家にだけは、そうしたことができない決まりがありました。
南北朝合一後に足利幕府が北畠氏を懐柔するために与えた特権のひとつが、これだったのです。

そのため、伊勢守護職と北畠氏は常に経済上・治政上で対立関係にあり、積年の遺恨も合わさって常に一触即発の状態でした。
また、伊勢参詣の「儲」の上でも北畠氏と土岐氏(世保家)が対立したことは先述の通りです。

私はこう考えます。
北畠氏は伊勢守護職ではないため、こうした自己矛盾にも似た葛藤を常に抱えていたのではあるまいか。
領内外の人心をなんとか繋ぎ止めるには、有名無実な役職でも名乗るべきである。
後醍醐天皇やその後に続く南朝側の天皇の為に、多くの犠牲を払ってきた名誉の結晶が「伊勢国司」だったのではないか。

とはいえ、北畠氏も自己矛盾を放置していたわけではありません。
一族の大河内顕雅の工作と北畠教具の躍進が功を奏し、北畠家は大きく躍進します。
幕府には恭順の姿勢を取り続け、その後断続的にではありますが、伊勢守護職に任ぜられました。
今回は詳しく触れませんでしたが、伊勢神宮の神領の者たちを納得させる方便としても「国司」は何かと都合が良かったのかもしれません。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

ご覧いただきありがとうございました。
次回は「北畠氏と伊勢神宮などの神領勢力」について、「大和国における北畠氏の行動」そして「北畠氏は応仁の乱をどのように切り抜けたのか」です。

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主要参考文献
西山克(1979)「<論説>戦国大名北畠氏の権力構造:特に大和宇陀郡内一揆との関係から」,『史学研究会 (京都大学文学部内)』, 62,215-250.
三重県(1999)『三重県史 資料編 中世1(下)』三重県
三重県(1999)『三重県史 資料編 近世1』三重県
経済雑誌社 (1899)『国史大系. 第10巻 公卿補任中編』経済雑誌社
藤田達生(2004)『伊勢国司北畠氏の研究』吉川弘文館
大薮海(2013)『室町幕府と地域権力』吉川弘文館
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書<東日本編〉』柏書房
辻善之助(1933)『大乗院寺社雑事記 第9巻,尋尊大僧正記 126-143』三教書院
塙保己一(1923)『続群書類従 第21輯ノ上 合戦部』続群書類従完成会
竹内理三(1978)『増補 續史料大成 第三十八巻(多聞院日記一)』臨川書店
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
戦国史研究会(2011)『織田権力の領域支配』岩田書店
久保田昌希(2003)『決定版 図説・戦国地図帳』学習研究社

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