織田信秀が足利将軍家へ宛てた書状 そこから見えてくるものとは!?

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【古文書講座】織田信秀が足利将軍家へ宛てた書状 そこから見えてくるものとは
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんはー。
現存する織田信秀の書状はあまり多くはないです。
そんな信秀が足利義晴に対して送った書状を紹介します。
今回はどのようなことが記されているでしょうか。

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織田信秀が足利将軍家へ宛てた書状(天文十四年五月二日付け織田信秀書状)

原文

天文14年(1545)5月2日付け 織田信秀書状原文
天文14年(1545)5月2日付け 織田信秀書状原文

釈文

去年十月之貴札致
拝見候、仍 上意様
為御使、進士修理進殿
就東国御下向之儀
示預候、此国路次等之
儀申付候、是式事雖
何時候、蒙仰不可存
疎意候、猶自是可申
入候、可得御意候、
恐惶謹言、

   五月二日 信秀(花押)

 大舘左衛門佐殿
       参 御報

原文に釈文を記してみた

天文十四年五月二日付け織田信秀書状+釈文
天文十四年五月二日付け織田信秀書状+釈文

書き下し文

昨年十月の貴札、
拝見致し候。
仍って、上意様
御使として、進士修理進殿
東国御下向の儀に就き、
示し預かり候。
此国路次等の儀、
申し付け候。是れ式の事、
何時候といえども、仰せを蒙り、
疎意を存ずべからず候。
なお是れより申し入れるべく候。
恐惶謹言。

   五月二日 信秀(花押)

 大舘左衛門佐殿
       参 御報

原文に書き下し文を記してみた

天文十四年五月二日付け織田信秀書状+書き下し文
天文14年(1545)5月2日付け 織田信秀書状+書き下し文

現代語訳

昨年10月のあなた様の書状、拝見いたしました。
上様(室町幕府第十二代将軍・足利義晴)からの御依頼の通り、進士修理進殿が東国へ下向される際、尾張領内における道中の安全は、しかと承りました。
これくらいの事ならば、いつ何時でも御命じくださりませ。
決して粗略にはいたしません。

 敬具

   5月2日 信秀(花押)
 大舘晴光(大舘左衛門佐)殿

この書状の時代背景

織田信秀の家系

 織田信秀とは言うまでもなく織田信長の父である。
信秀のことについては、一度記事にしたことがあるのでご興味があれば・・・。

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織田信秀・信長の家系
織田信秀・信長の家系

織田信秀や信長の家系は織田家の本家筋ではない。
この図で見ると、一番下の清州三奉行の1家、弾正忠家にあたる。

織田信秀とはどんな人物か

織田信秀銅像

 家督を継ぐや、並外れた武勇智略で主家をも凌ぐ尾張のエースに急成長。
莫大な資金を朝廷や伊勢神宮に献上し、その存在感を誇示した。
一方、謀略で那古野城を奪い、さらに三河と美濃へも侵攻。
その好戦的な人柄から、いつしか尾張の虎と恐れられた。
しかし、斎藤道三に大敗を喫して以降は勢いに陰りを見せた。

書状の宛先が大舘左衛門佐とあるが、真の宛所は将軍家

 大舘左衛門佐とは大舘晴光のことで、将軍・足利義晴の御供衆。
つまり幕臣にあたる。

この当時、もっとも丁重とされる書状の出し方は、相手大名に直接書状を送らず、その家臣に宛てて書状を送る方法だった。
これを「披露状(ひろうじょう)」、「付状(つけじょう)」、あるいは「伝奏書(でんそうがき)」などと呼ぶ。

「この書状の内容をあなたの主君にご披露してください。
私は貴方の主君に直接書状を送れるような立場にありません。」
という非常にへり下ったニュアンスが含まれている。

現在でも政府関係者や大企業の社長となると、間に秘書を通して電話や文通のやり取りをするのが普通だ。
実は日本でも昔からそうした文化があったのだ。

従って、信秀は大舘晴光を通じて将軍・義晴へ披露されることを期待していた。

織田信秀が幕府にも礼を尽くしていたという数少ない証拠

 現存する織田信秀の書状自体少ない。
信秀は幕府からの依頼を快諾し、この程度の事ならいつでも協力すると答えている。
朝廷への接近ばかりが強調される信秀であるが、このように幕府に対する目配りも欠かしていなかった。

また、この書状によって信秀が尾張国の実質的な支配者として認識されていることが裏付けられる非常に興味深い史料である。

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