

こんばんはー。
今日は岐阜城の古地図を2つご紹介します。
どちらも江戸後期の古地図ですが、戦国時代の名残がぷんぷん漂う非常に興味深い作品です。
さっそくご覧いただきましょう。

岐阜町絵図
岐阜町絵図
作製年:江戸時代後期
作者:不明

この古地図の注目ポイント
- 重臣たちが屋敷を構えた古屋敷
- 東西南北に整然と築かれた町並み
- 各種職業に関りをもつ町名
- 町を取り囲む堀
- 南側からの敵の侵入を防ぐために建立されたり移転させられたりした寺社群
など、この絵図には戦国城下町・岐阜の当時の姿を探る手掛かりが数多く残されて興味深い史料だ。

主要部を拡大した
ほら面白い。
もう一つご覧いただきたい。
岐阜御山附近図
岐阜御山附近図
作製年:江戸時代後期
作者:不明

この古地図の注目ポイント
- 金華山の西麓、戦国城下町時代の重臣の屋敷跡とその周囲を描いた絵図
- 製作時期は不明であるが、正法寺の大仏殿(いわゆる篭カゴ大仏)が描かれていることから、江戸後期のものと考えられる
- この絵図によると、かつて重臣たちの屋敷があった区画(古屋敷と呼ばれていた)は畑となっている
- また、その西側には町人の町並み(木挽町・茶屋町)が発達していた
- 古屋敷を取り囲むように、戦国城下町時代の名残といえる堀や土居が見られる
- なお、金華山の周囲には柵がめぐらされていることから、一般には立ち入りが禁じられていた特別な場所(御山)であったと推測する

主要部を拡大した。
こんな感じになる。
現在の岐阜城周辺の地図


このように、昔の名残がぷんぷんする。
木挽町・茶屋町などにみられる意味ありげな地名
現在でも日本各地に鍛冶屋町、酢屋町など、意味ありげな地名が残っている町がある。
東京都にも佃島があるが、これは豊臣秀吉時代の大坂(大阪)の城下町から、在地の漁師たちを江戸に誘致し、江戸に住まわせたことから、その島が佃島となり、佃煮ができた。
このように、各種職業に関りをもつ町名が存在するのはそのためだ。
なぜ領地の端に寺社を置くのか
寺社仏閣には多少の防御機能がある。
いざ有事があった場合は、ここで敵を食い止める。
こうした城下の配置は全国いたるところでみられた。

これは本能寺の変時の京都本能寺の平面図。
四方に堀を巡らし、内側には土居を築いて木戸を設け、内には仏殿以下客殿その他の殿舎を建て、厩舎(馬の小屋)まで造られていた。
このように、寺社には小城郭とでもいうべき防御機能を持った寺もあった。
なぜ城下町のそばに川や池があるのか
城下町のそばには必ずといって良いほど川や池がある。
これは織田信長が一時居城とした尾張小牧山城。


関連記事:信長が築いた小牧山城を古地図と信長公記から読み解く
川があると周りに堀を巡らせることが容易となる。
その際の普請で掘った土を、土塁にすることもできる。
それだけでなく、川は真水が得られるので、町人達を住まわせるのに必要不可欠な上水設備と下水設備が得られるのだ。

ご覧いただきありがとうございます。
古地図にハマれ。
沼は深いですぞ。