![【古文書講座】猿の出世は早かった!? 秀吉が出した最古の書状から見えるもの](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/010_top01.jpg)
![来世ちゃん](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/08/fukidashi_raisetyan002.png)
こんばんは~。
今回は秀吉が発給した文書の中で最古のものとされる知行宛行の連署状の解読に挑戦します。
知行宛行とは何か。連署状とは何か。
今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、さらに当時の時代背景もご紹介します。
木下秀吉が発給した最古の書状
早速だがまず原文をご覧いただきたい。
今回は上下折り重なる文書のため、二つに分けた。
原文
![永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/hideyoshi_eiroku_10_06_10_001.jpg)
![永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状a](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/hideyoshi_eiroku_10_06_10_a01.jpg)
![永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状b](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/hideyoshi_eiroku_10_06_10_b01.jpg)
釈文
(a)
河野嶋之内
弐拾弐貫文
伏屋与次右衛門分
四貫四百四十文
一色之藤四郎引得
壱貫文 同新七引得
三貫文 伏屋十兵衛
分、合三拾貫文
渡申候、
木下藤吉郎
六月十日 秀吉(花押)
(b)
丹羽五郎左衛門
嶋田所助
秀順(花押)
村井民部丞
明院
佐々平太殿
兼松又四郎殿
まいる
人々御中
原文に釈文を記してみた
![永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状a+釈文](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/hideyoshi_eiroku_10_06_10_a02.jpg)
![永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状b+釈文](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/hideyoshi_eiroku_10_06_10_b02.jpg)
書き下し文
(a)
河野島のうち、
二十二貫文を
伏屋与次右衛門分
四貫四百四十文を
一色之藤四郎が引得。
一貫文を同新七が引得。
三貫文を伏屋十兵衛
分、合わせて三十貫文を
申し渡し候。
木下藤吉郎
六月十日 秀吉(花押)
(b)
丹羽五郎左衛門
嶋田所助
秀順(花押)
村井民部丞
明院
佐々平太殿
兼松又四郎殿
まいる
人々御中
原文に書き下し文を記してみた
![永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状a+書き下し文](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/hideyoshi_eiroku_10_06_10_a03.jpg)
![永禄十年六月十日付木下秀吉ほか四名連署状b+書き下し文](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/hideyoshi_eiroku_10_06_10_b03.jpg)
難読箇所や留意点の解説
河野島・・・(こうのしま)美濃国内の地名。
岐阜県各務原市大佐野町にあるようだ。
信長はこの文書が発給される1年前、同地で斎藤龍興相手に手痛い敗北を喫している。=河野島の戦い
貫・文・・・(かん・もん)当時の貨幣の単位。
詳しいことは後述する。
引得・・・(いんとく)引き受ける、受諾すること。
これは知行宛行状なので、〇〇の土地を与えると捉えても良いだろう。
知行宛行状・・・(ちぎょうあてがいじょう)土地(知行)を与えたり、安堵する際、主君から家臣や寺社に発給される文書のこと。
この文書で正式に認められたことになるので、大切に保管されて今日まで存在している例も少なくない。
知行充行状(ちぎょうあておこないじょう)ともいう。
多くの場合は結びに大名や領主の花押(かおう)が捺されるものだが、この文書は珍しく信長の花押がなく、代わりに家臣5名の連署となっている。
渡申候・・・(申し渡しそうろう)~することを命ずる。
「渡す」といったような動詞形の単語は返り文字になる場合が多い。
英語もそうだろう。
そういう意味では英語と中国語は似ている。
関連記事:古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明
まいる・人々御中・・・(まいる・ひとびとおんちゅう)これは当時の文書における脇付けにあたるもの。
礼儀ある書状には宛所の左下脇に「参(まいる)」や「進之候(しんじそうろう)」、「人々御中」、「御宿所(みしゅくしょ)」といった言葉が書き添えられている。
これを脇付けという。
ちなみに「参」、「進之候」は「お手紙を差し上げます」。
「人々御中」、「御宿所」というのは、「あなた様の側近の人たちへ」という意味。
![原文に釈文を記してみたB](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/09/akechi_mitsuhide_monjo002_a.jpg)
これは明智光秀が岡本一族に宛てた書状。
ここでは「御宿人々」が脇付けにあたる。
関連記事:【古文書講座】「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に宛てた直筆書状を解読
今回は現代語訳の必要はないだろう。
書き下し文を参照していただきたい。
豊臣秀吉の立身出世
本状は所在が確認できる秀吉発給文書の中では、もっとも古い文書である。
年号が記されていないが(珍しいことではない)、信長が稲葉山城を攻め落とす直前の永禄10年(1567)の可能性が高い。
信用のできる一次史料から木下秀吉の名が出てくるのはこの時期からである。
翌年秀吉は信長の上洛軍に従軍し、そのまま京に残って丹羽長秀らとともに政務を担当していることから考えると、この時期から織田家の”部将格“として頭角を現し始めたと考えられる。
関連記事:戦国大名と旗本、部将(侍大将)の違い
この当時の織田家の代表的な部将格として有力な武将は林秀貞、佐久間信盛、柴田勝家、森可成、丹羽長秀、滝川一益。
そして新たに家臣団に加わった稲葉一鉄、氏家ト全、安藤守就であろう。
秀吉はこの時点で既にこれらの人物と肩を並べるほどの力量と知行を有していたと考えられる。
戦国時代のお金の単位について
この文書内には「貫(かん)」と「文(もん)」という単位が登場するが、これは中世日本の貨幣の単位だ。
他に「両(りょう)」という単位もあるのだが、これは信長の時代にはまだ浸透していなかった。
当時の貨幣の価値を現在の「円」に換算するのは難しい。
戦国初期と末期でも大きく価値が異なるので、参考程度で留めていただきたい。
1貫文は10石にあたるとすれば、 (1貫文=1000文)
10貫文=100石
100貫文=1000石
1000貫文=1万石
1万貫文=10万石
ということになる。
貫高や石高で動員兵力を換算すると(天文年間あたり)
天文年間は西暦(1532~1555)
これで計算すると
7貫文で1人 (70石)
70貫文で10人 (700石)
700貫文で100人 (7000石)
7000貫文で1000人 (7万石)
7万貫文で1万人 (70万石)
が天文年間あたりの動員兵力ということになる。
しかし、他者のサイトや文献によって大きな差異があるため、当サイトの内容が正しいとは限らない。
知行を宛行われた佐々平太と兼松又四郎が30貫文分の所領を得たということになるが、これは馬廻の身分らしく、非常に小禄になるだろう。
佐々平太と兼松又四郎とは何者なのか
佐々平太(さっさへいた)
「武功夜話」によると、丹羽氏勝(長秀とは別人)の子で、当時信長の馬廻を務めていた佐々成政(さっさなりまさ)の郎党(?)となり、後に成政の北陸平定軍にも付いていったようだ。
決して30貫文の知行は裕福とはいえないので、当時の平太は一騎駆けの若侍だったのかもしれない。
兼松又四郎
信長の馬廻として活躍した武将。
朝倉家との刀根坂の合戦などで活躍。
本能寺の変後は織田信雄、豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康、松平忠吉、徳川義直に仕えた。
元亀元年(1570)の野田・福島の戦いの際、敵の名のある侍大将を討ち取ったが、その首を巡って同僚と口論になり、信長が陣を後退させたために首を取らずそのまま退却するという面白いエピソードが残されている(信長公記)
関連記事:【悲報】信長の馬廻り、倒した敵の首を巡って口論になり、首を取らずにそのまま退却
最近は信長の野望にも登場するようになった。
なお能力はいかにも馬廻といった感じだ。
なぜ信長の名がなく、家臣5名の連署なのか
なぜ信長の名がなく、家臣5名の連署なのか・・・。
申し訳ないが、これは私の勉強不足でわからない。
秀吉と共に名が記されているのは丹羽長秀、島田秀順(秀満)、村井貞勝、明院良政(みょういんりょうせい)。
このうち丹羽は部将格として一軍を率いる大将だ。
島田と村井は部将というよりもむしろ吏僚として奉行を担当することの多い人物。
明院は当時の信長の右筆(ゆうひつ=書記)であり、側近のような性質で奉行も務めていた人物である。
興味深いことに本状には秀吉と島田のみが花押を据えている。
これは何らかの事情により、丹羽と村井、明院は花押を据えれなかったのだろうが、秀吉と島田の花押のみでも本状は機能していたと考えられる。
この文書が発給される永禄10年(1567)6月10日は、滝川一益が大将として北伊勢に侵攻している時期だ。
数日前の5月27日には娘の五徳を三河の徳川家康の嫡男・竹千代に嫁がせていて(神君御年譜)、流浪中の足利義昭の呼びかけに応じて上洛することを公言していた信長は、畿内の諸勢力への懐柔に努めていた多忙を極めた時期である。
そうした時期に本状は発給されているのだ。
関連記事:織田信長の年表ちょっと詳しめ 4.美濃攻略戦
同年の8月になると信長自らが兵を率いて北伊勢に出陣。
北伊勢の楠城を攻略し、山路氏の籠る高岡城を攻めあぐねている時に美濃三人衆が信長に降ったという報を聞いてすぐさま兵を返している。
そして9月上旬に美濃稲葉山城を攻め落とし、斎藤氏を攻め滅ぼした。
![](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/01/sengoku_sozai056.jpg)
変化していく秀吉の花押
興味深いことに、秀吉の花押は本能寺の変以前と以後で変化がみられる。
秀吉の花押は「秀吉」の反切(はんせつ=字の発音を示す伝統的な方法のひとつ。2つの漢字を用い、一方の声母と、他方の韻母および声調を組み合わせて、その漢字の音を表す)にあたる「悉(じつ)」をデザイン化したものだ。
このように永禄年中(1558~1570)の秀吉の花押は基底部分が途切れ途切れだが、京や近江横山城などで政務をこなすうちに、しだいに一本の線で繋がっていき、本能寺の変直後あたりから花押自体が太く力強く、そして大きくなっていく特徴がある。
![秀吉の花押 天正11年(1583)](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/02/010.jpg)
本能寺の変前と変後で、秀吉に何か心境の変化があったのだろうか。
高貴な身の上の人物ならば公的な文章は右筆(ゆうひつ=書記)が書くので、我々が直筆の書状にお目にかかる機会はそう多くはない。
しかし、花押だけはその武将だけしか捺すことができないので(花押は偽造防止のためにある)、年代と花押を注意深く観察するのも面白いかもしれない。
関連記事:戦国時代の古文書 判物とは何か 書き方のルールは?
![来世ちゃん](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/08/fukidashi_raisetyan004.png)
ご覧いただきありがとうございました。
内容自体は単なる知行宛行状なので大したことは書いてませんが、注意深く観察しているとなかなか面白いものがあります。