![信長をやっつけろ!武田勝頼の快進撃に再起を賭ける六角承禎の覚悟とは](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/040_top01.jpg)
![らいそくちゃん](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/08/fukidashi_raisetyan002.png)
信長を倒し旧領を取り戻すのが悲願だった元大名の六角氏。
山奥へと追いやられ、最後に期待を賭けたのが長篠城へと進撃する武田勝頼でした。
![らいそくちゃん](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/08/fukidashi_raisetyan007.png)
この時六角家隠居の承禎(じょうてい)が、何を思ってこの書状を託したのかを想像しながら読み進めていくと面白いかもしれませんね。
読むのが煩わしい方は、当記事の真ん中あたりに現代語訳を載せていますので、そちらをご覧ください。
この書状の時代背景
永禄11年(1568)9月。
足利義昭を奉じて上洛軍を組織した織田信長は、南近江の佐々木六角氏を攻撃します。
織田軍の勢いはすさまじく、強固な防衛線を敷いていた箕作城がわずか1日で陥落。
旗色悪しと見た六角承禎(義賢)、義弼(義治)父子は居城の観音寺城を放棄して甲賀へ敗走しました。
![信長のとった戦術](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/07/battle_of_kannonji006.jpg)
関連記事:箕作城の戦い 六角氏の立てた戦略VS織田信長の戦略
かねてより団結力に不安のあった六角家臣団の多くは、人質を出して信長に臣従します。
その中には蒲生氏郷の父である賢秀の姿もありました。
甲賀へ逃れた六角氏でしたが、その後幾度となく再起を図り兵を挙げています。
しかしながら、思うように旧領を取り返すことができず、7年の歳月が流れてしまいました。
その間に甲斐の戦国大名武田信玄が病死、将軍足利義昭も京より追放され、時代は信長の天下へと移りつつありました。
再起を賭ける六角承禎の書状
今回の書状はまさにそうした時期のものです。
時代の流れは信長へと移りつつあっても、六角父子は再起をあきらめてはいませんでした。
そんな六角父子がもっとも頼りにしたのが、甲斐の武田勝頼でした。
勝頼は武田信玄の四男にして、事実上武田家を指揮するリーダーとして、この当時もっとも織田信長に対抗できる勢力だったのかもしれません。
詳しい解説はまた後で述べるとして、まずは書状をご覧いただきたいと思います。
原文
![長篠前夜に六角義賢が武田勝頼へ宛てた書状](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkakujoutei001.jpg)
(推定天正三年)五月四日付六角承禎書状
(長浜城歴史博物館所蔵)
推定としていますが、書状の内容から見て天正3年(1575)のものと見て間違いないでしょう。
今回は少しだけ長いので2枚に分けて解説します。
(a)
![長篠前夜に六角義賢が武田勝頼へ宛てた書状a](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkakujoutei001_a01.jpg)
(b)
![長篠前夜に六角義賢が武田勝頼へ宛てた書状b](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkakujoutei001_b01.jpg)
さあ、今回はどんな面白いことが書かれているでしょうか。
釈文
(a)
自是可申覚悟候処、
幸便之条染筆候、至于
三州表、有御出馬諸城
被攻落旨、御高名之至
珍重存候、弥可為御本意候
間、御行無油断、才覚可
為肝要候、随而中務太輔
差下候処、御入魂之旨、別而
芳情不浅候、猶以毎事
(b)
無隔心、御指南専一候、切々
可申処、路次不合期故、無音
所存之外候、南方之躰此仁
淵底候間、不能再筆候、
猶高盛 落合八郎左衛門尉可申候、
恐々謹言
五月四日 承禎(花押)
武田玄蕃頭殿
進之候
この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)
『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
原文に釈文を記してみた
![長篠前夜に六角義賢が武田勝頼へ宛てた書状a+釈文](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkakujoutei001_a02.jpg)
五月四日付六角承禎書状+釈文a
![長篠前夜に六角義賢が武田勝頼へ宛てた書状b+釈文](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkakujoutei001_b02.jpg)
五月四日付六角承禎書状+釈文b
補足
この当時の外交文書の多くは漢文形式で記されていることが多いです。
従って返読文字として、文字を返って読む場合があります。
私たちが中学や高校で習ったレ点や一二点ですね。
当時の教養のある人たちは、そのようなものがなくても読めていました。
私たち現代人は慣れていないので、読むのが難しいかもしれませんが、おおよそ返って読む文字は決まっています。
すなわち
動詞っぽい単語
可・・・ベク・ベキ ~すべき
被・・・ラレ・ラル ~される (受け身)
令・・・シム・セシメ (命令形)
遣・・・ツカワス・ツカワシ 派遣する
尽・・・ツクス・ツクシ 尽力する
など
有り 無し 多い 少ない 肯定 打ち消し
有・・・アリ・アル 有る
無・・・ナシ・ナク 無い
不・・・フ・ス・ズ ~にあらず(否定形)
多・・・オオイ・オオク・オオキ 多い
少・・・スクナク・スクナキ 少ない
など
前置きに用いる単語・文と文を繋ぐ単語
従・・・ヨッテ 従って
然而・・・シカシテ しかし
以・・・モッテ ~をもって(前提を示す)
若・・・モシ 仮に
尤・・・モットモ 道理に、ただし
剰・・・アマツサエ その上、それだけでなく
為・・・タメ、ナス、ナシ、タル ~のため、~となす
雖・・・イエドモ ~だけども
など
関連記事:古文書解読の基本的な事 返読文字によくある傾向を実際の古文書を例に説明
書き下し文
(a)
是より申すべき覚悟に候ところ、幸便の条染筆し候。
三州表に至り、御出馬有りて諸城攻め落とさるの旨、御高名の至り珍重と存じ候。
いよいよ御本意たるべく候間、御行油断無く、才覚肝要たるべく候。
従って中務太輔差し下し候ところ、御昵懇の旨、別して芳情浅からず候。
(b)
なお以て毎事隔心無く、御指南専一に候。
切々申すべきところ、路次合期せざるの故、無音所存の外に候。
南方の体はこの仁淵底に候間、再筆能わず候。
なお、高盛 落合八郎左衛門尉申すべく候。
恐々謹言
五月四日 承禎(花押)
武田玄蕃頭殿
進之候
原文に書き下し文を記してみた
![長篠前夜に六角義賢が武田勝頼へ宛てた書状a+書き下し文](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkakujoutei001_a03.jpg)
五月四日付六角承禎書状+書き下し文a
![長篠前夜に六角義賢が武田勝頼へ宛てた書状b+書き下し文](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkakujoutei001_b03.jpg)
五月四日付六角承禎書状+書き下し文b
現代語訳
幸いにもそちらに赴く者がおりますので、これより申すべき覚悟のほどを、その者に託して筆を執ることにいたします。
武田殿御自らが三河国へ兵を繰り出され、諸城を攻め落としていらっしゃるとのこと、まことに素晴らしい限りです。
あなた様の本望を遂げられますよう、ゆめゆめ御油断なきように用心することが肝要と存じます。
書状は中務太夫に託しましたので、どうぞよしなにお願い申し上げます。
なお、われら佐々木六角は二心なく、あなた様のご指南を仰ぐ所存にござります。
我が六角家の現状はお察しの通りの有り様ですので、織田家の出方次第では、音信が途絶えることになるやもしれません。
このような次第で、再び筆を執るのも恥ずかしい限りです。
高盛・落合八郎左衛門尉の副状も、重ねてご覧いただければと存じます。
敬具
(1575年)5月4日 六角承禎(花押)
武田玄蕃頭(穴山信君)殿
(幸いにもそちらに赴く者がおりますので・・・というのもおかしな話ですが、それだけ六角氏の連絡通路が遮断されて苦境に立たされていたのかもしれませんね)
武田勝頼の快進撃
天正3年(1575)4月中旬。
事実上甲斐武田氏を率いる武田勝頼は、徳川家康を攻めるべく侵攻を開始しました。
4月15日には先遣隊の山県昌景らが三河国足助城を取り囲み、同城は19日に陥落。
これにより、浅谷・八桑・阿摺・大沼・田代などの諸城も武田家の手に落ちます。
同月下旬に勝頼本隊が作手に着陣し、都合1万5000もの大軍が集結しました。
武田軍はさらに南下して、4月29日には二連木城を攻略。
続いて徳川家康が籠る吉田城を取り囲みます。
岡崎城の内応に失敗すると、武田軍は作戦を変えて奥三河の奥平氏が籠る長篠城を取り囲みました。
![](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/03/sengoku_sozai0125.jpg)
一方信長はこの時、大軍を率いて大坂にいました。
遠里小野を攻め、高屋城の三好康長を降伏させたところでした。
徳川家康からの援軍要請を受けた信長は、京で数日間政務を執り行った後、4月27日に岐阜へ帰陣し軍を再編成します。
六角承禎(じょうてい)が今回の書状をしたためたのは5月4日のこと。
まさに信長が武田勝頼と決戦すべく出陣しようとしていたときなのです。
六角承禎の波乱に満ちた生涯
六角承禎(じょうてい)は南近江の戦国大名六角定頼の子として生まれ、名を義賢といいました。
彼は足利将軍家を庇護する父の外交路線をそのまま継承し、三好氏とたびたび争いました。
しかし、年を追うごとに旗色が悪くなり、永禄2年(1559)に嫡男義弼(義治)に早々と家督を譲り、隠居して承禎と号しています。
しかしながら、依然実権は承禎が握っており、父子の間で外交路線を巡って激しく対立していたようです。
そんな中、従属していた北近江の浅井氏が挙兵し、決戦に敗れます。
さらに、承禎の側近として力を奮っていた家臣の後藤氏を、義弼が殺害するという事件(観音寺騒動)が起き、家臣の離反を招いて家運が大きく傾きました。
それを抑えてなんとか妥協点を探ったのが「六角氏式目」という分国法です。
六角家はこの後も対外的な外交で揺れに揺れ、美濃を手中に収めた織田信長に攻められて甲賀へと敗走します。
その後もなんとか所領を奪い返さんと兵を挙げますが、織田信長は年が経つにつれて権力基盤が強固となり、目的を果たせませんでした。
晩年は豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)となり、78年の波乱に満ちた生涯を閉じました。
弓術と馬術に長けた人物だったようです。
![六角義賢肖像画](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/rokkaku_yoshitaka001.jpg)
六角承禎肖像 (落合芳幾画)
六角氏がいかに武田勝頼に期待していたか
今回の古文書と同時期のものと考えられるもので、六角氏がいかに武田軍に期待していたかを物語る面白い書状が遺されています。
それがこちらです。
大和本善寺宛六角義堯書状(本善寺文書)
(折封ウハ書)
「本善寺 進覧之候、 義堯」
大坂表へ織田行に及ぶの由、其の聞こえ候。
御手前かれこれ承るべきため、本須を差し越し候。
様躰(ようてい)具(つぶさ)に示し給い候ハバ本望に候。
仍って東国の人数三州に至って相働く旨、追々注進候。
此の方より使僧差し下し候条、慥(たし)かの儀は申すべく候。
委曲口上に申し含むる間、詳(つばひらか)に能わず候。
恐々謹言
卯月(4月)廿一(21)日 義堯(花押)
本善寺
進覧之候
文中の内容から推察して、これは同時期のものと見てほぼ間違いないでしょう。
諸説あるようですが、義堯(よしたか)とは六角承禎の嫡男にして当主である六角義弼(義治)のことだと考えられています。
東国の人数とは武田勢を意味しています。
つまり、武田勝頼が三河国へ攻め込んだというわけですね。
「信長公記」によると信長はこの年の4月12日から大坂を攻めていますが、義堯はこれを聞き、大和国吉野郡の本善寺(浄土真宗本願寺派)に、この書状を使者に持たせたのでしょう。
まとめ
さて、長篠城を取り囲み、兵糧庫を焼いて落城寸前へと追い詰めた武田勝頼。
信長の領国であった東美濃もすでに手中に収め、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
この当時の武田軍の強さを物語る面白い戯れ歌があります。
天正2年(1574)1月『甲陽軍鑑』
「信長はいまみあてらやいひはざま 城をあけちとつげのくし原」
(今見、阿寺、飯狭間、明知、つげのくし原 いずれも東美濃の織田方の要塞。
この時期、18もの城砦を落とした武田勝頼の武威を示している)
将軍を追放し、浅井・朝倉両家を攻め滅ぼして波に乗る織田信長と、父の武名に劣らぬ活躍を見せる武田勝頼。
両者の決戦は今始まろうとしています。
![武田勝頼と織田信長](https://raisoku.com/wp-content/uploads/2020/09/katsuyori_nobunaga001.jpg)
関連記事:長篠の戦い前夜 徳川家康が織田信長への感謝の意を示した書状を解読
![らいそくちゃん](http://raisoku.com/wp-content/uploads/2019/08/fukidashi_raisetyan004.png)
ご覧くださりありがとうございました!
六角氏面白いですね。
調べれば調べるほど興味深い史料が出てきます(笑)
参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書 西日本編』柏書房
太田牛一(1881)『信長公記.巻之下』甫喜山景雄
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 下巻』吉川弘文館
林秀夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
丸山和洋(2013)『戦国時代の外交』講談社選書メチエ
木村靖(1975)『六角氏式目制定の目的と背景』鷹陵史学 1, 85-96
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
など