こんばんは~。
今回は長篠の合戦の少し前に、織田家から送り届けられた大量の兵糧を受け取った徳川家康が、信長へ感謝の意を示した書状を解読します。
ほんの数行の文章でも、当時の情勢と織田家との関係性が見えてきて面白いですよ。
ぜひご覧ください!
徳川家を取り巻く当時の情勢
元亀4年(1573)春。
甲斐国を中心に勢力を伸ばし、徳川家康を大いに苦しめた武田信玄が死去しました。
織田信長は信玄の退陣を知るや否や、信長打倒の旗幟を鮮明にしていた将軍足利義昭のいる京都へ攻め上ります。
同じ年の夏には将軍が追放され、朝倉義景、浅井長政も相次いで滅ぼされました。
徳川家康はその頃、長篠城の奥平氏を帰順させたものの、遠江まで勢力を伸ばした武田家の対応に四苦八苦している状況でした。
信玄が病死したとはいえ、武田家の影響力はいまだ強大で、前年の三方ヶ原の合戦の敗戦から立ち直っていない徳川家は苦しい立場に立たされていました。
徳川家康三方ヶ原戦役画像(徳川美術館所蔵)
そんな中、武田勝頼率いる武田軍が、奥三河の長篠城を攻めようと準備しているとの情報が飛び込んできたのです。
武田勝頼肖像(高野山持明院蔵)
家康はすぐに織田信長に援軍の派遣を依頼。
長篠城の奥平定能(おくだいらさだよし)・貞昌父子には籠城の準備をさせ、持久戦に持ち込む狙いでした。
今回の天正3年3月13日付徳川家康発給文書は、そうした情勢の中で徳川家康が織田信長に宛てたものです。
それでは、早速ご覧いただきましょう。
長篠の戦いの少し前に徳川家康が織田信長に宛てた書状
原文
(天正三年三月十三日付徳川家康発給文書)
釈文
今度御兵粮過分被仰
付候、外聞實儀敵国覚、
旁以恐悦不及是非候、殊
諸城為御見舞、佐久間被
為差越候、是亦過当至極候、
此表様子具右衛門可被申上候、
猶従是以使者可得御意候、
恐惶謹言
三月十三日 家康(花押)
岐阜殿 人々御中
原文に釈文を記してみた
(天正三年三月十三日付徳川家康発給文書+釈文)
書き下し文
このたび御兵糧過分に仰せ付けられ候。
外聞実儀敵国の覚え、
かたがたもって恐悦是非に及ばず候。
殊に諸城御見舞いとして、佐久間を
差し越させられ候。これまた過当至極に候。
この表の様子、つぶさに右衛門申し上げらるべく候。
なお、これより使者をもって御意を得るべく候。
恐惶謹言。
三月十三日 家康(花押)
岐阜殿 人々御中
原文に書き下し文を記してみた
(天正三年三月十三日付徳川家康発給文書+書き下し文)
現代語訳
このたび過分なる兵糧を受け取りました。
外聞、現実、また、敵の反応を考えましても、これ以上のありがたいことはありません。
とりわけ、(徳川陣営の)諸城の御見舞いとして、佐久間信盛を派遣していただきましたが、これもまたこの上のない喜びでございます。
こちらの情勢については、佐久間信盛が詳しく申し上げるはずです。
なお、改めてこちらからお伺いの使者を差し向けます。
恐惶謹言。
(1575年)3月13日 家康(花押)
織田信長殿 人々御中
古文書が読めなくても礼儀の厚い薄いはわかる
たとえ古文書が読めなくても、礼儀の厚い薄いは分かります。
こうした権力者の公的な文書には、ある一定のルールに基づいて記されていることが多いです。
これを「書札礼(しょさつれい)」というのですが、以下の4つのポイントを抑えるだけで、礼儀の厚薄を判別することができます。
掻い摘んで説明すると、
①の書き留め文言については、「仍って件の如し」や「恐々謹言」という、文章の最後につける決まり文句の事です。
「恐惶謹言」は恐れ謹んで申し上げるという意味で、書き留め文言の中では最上級の表現となります。
②の日付よりも上に宛名を書く場合は、自分よりも目上の人物に手紙を出したということです。
これはほぼ紙の最上段に書かれていますので、まるで将軍や天皇に宛てたものみたいですね。
これ一つ見るだけで、当時の織田家と徳川家の力関係が分かる気がします。
③の脇付けに関しては、「人々御中」という表現が脇付けの中でも最上級のものです。
④の「殿」という字も、崩されれば崩されるだけ、礼儀が薄くなります。
「とのへ」と、完全に「殿」の字が崩されてひらがなに近い字で書かれると、完全に見下されているということになります。
これはしっかりと書かれていますので、やはり礼儀が厚いですね。
今回は書札礼に関しての記事ではないので、詳しくお知りになりたい方は以下の記事をご参照ください。
関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり
過去に書いた記事ですが、例えばこのような図で解説しています^^
脇付について
なぜ佐久間信盛の名があるのか
この当時、武田信玄亡き後も東海地方での武田家の影響力はすさまじく、家康単独ではどうしてもこれに対抗することができませんでした。
家康からしてみれば、嫌でも信長の支援を頼らねばならない状況に置かれていたのです。
織田家と徳川家が盟友関係であっても、実質は信長に対してほぼ主従関係に近いといってもよいでしょう。
それは今回の書状の書札礼(しょさつれい)を見るだけでも十分に窺えます。
文書に記されている「佐久間」と「右衛門」とあるのは同一人物で、これを合わせると「佐久間右衛門尉」となり、織田信長の重臣佐久間信盛となります。
なぜ佐久間信盛の名があるかというと、それは徳川家との外交取次や交渉をする担当者だったことからでしょう。
信盛はかつて信長の娘、徳姫が家康の嫡子信康に嫁ぐとき、嘉儀の使者として家康のもとへ行った人物で、三方ヶ原合戦の際には、援軍の将として浜松へ派遣されたりして、家康とは以前から懇意だったと考えられます。
さらに、家康の母方の実家が水野家で、同家を与力にしているのが佐久間信盛でした。
そのような関係があって、今回家康のもとへ大量の兵糧を届ける役目は、信盛にとってうってつけの役割だったのです。
長篠の合戦にも参陣した佐久間信盛
実はこの書状よりも1年ほどさかのぼった天正2年(1574)6月に、武田勝頼率いる武田軍が、徳川方の高天神城を包囲しました。
この時は信長自らが大軍を率いて遠江国の今切の渡しまで来たのですが、間に合わずに城は陥落。
信長はそのまま兵を引き上げています。
家康としては、これ以上味方の救援をせずに見殺しにしたのでは、従属する国人衆たちへ面子が保てません。
今度は是が非でも信長が救援に駆けつけてくれないとなりません。
そのためにはあらゆる手段を尽くして信長の機嫌を取る必要があったのだと考えられます。
いざ、長篠の合戦へ
この文書は、天正3年(1575)時点ですでに家康が最大限の敬意をもって信長に対しているのであって、当時の両者の関係を示す重要な史料の一つといえるでしょう。
この文書から約2か月後の5月に武田軍が三河長篠城を包囲します。
これを聞いた信長も数万の大軍を編成して三河へ出陣。
徳川家康と合流し、鳥居強右衛門からの報告を聞きます。
5月18日に織田・徳川連合軍は設楽原に着陣。
長篠城は目と鼻の先でした。
そこからどういうわけか、武田勝頼は長篠城を包囲したまま、同月21日に織田・徳川勢へと切り込み、世に有名な長篠・設楽原の合戦が始まるのですが、合戦の詳細と経緯は後日別の記事で書かせていただきます。
長篠合戦図屏風(徳川美術館蔵)
余談 家康の花押と印判
家康の花押は生涯を通してあまり大きな変化はなく、基本的には画像のような形状でした。
この家康の花押のように、花押の上下が一線によって画されている形式のものを、古文書学の世界では明朝体、あるいは徳川判といいます。
明朝体というのは、中国の明の太祖がこれを始めたことから、その名がついたのですが、家康の花押はその明の書式形状を真似て用いたことから、徳川判とも呼ばれています。
徳川家康の花押
以後、江戸時代には武家はもとより一般にも明朝体の花押が大流行しました。
そのため、これまでいろいろな花押のパターンがあったのが、明朝体に画一化されたことにより、面白みがなくなったというのが個人的な感想です。
ちなみに家康が用いた印判の方は
永禄12年(1569)~文禄2年(1594) 丸形で「福徳」の印
文禄元年(1593)~慶長3年(1598) 壷形で「無悔無損」の印
慶長3年(1598)~慶長5年(1600) 楕円形で「忠恕」の印
慶長7年(1602)~慶長12年(1607) 楕円形で「源家康」の印
慶長11年(1606)から死去するまで 楕円形で「恕家康」の印
と重複期間はありますが、大きく分けて以上の5通りあります。
どれも儒学に通ずる印文で、いかにも家康って感じですね(笑)
徳川家康の印判
今回もご覧いただきありがとうございます。
徳川家康の文書を記事にするのは実はこれが2回目です。
前回は北条氏政との間で交わした起請文でした。
ご興味がございましたらぜひ~
関連記事:戦国時代の起請文とは 意味や定番の書き方は
参考文献:
岡田正人,織田信長総合事典,雄山閣出版,1999
谷口克広,織田信長家臣人名辞典 第2版,吉川弘文館,2010
岡本良一,戦国武将25人の手紙,朝日新聞社,1970
くずし字解読辞典普及版 児玉幸多
甫喜山景雄,太田牛一,信長公記,甫喜山景雄,1881
瀬野精一郎, 花押・印章図典,吉川弘文館,2018
など