「絵本石山軍記」の解読(3) 実如から証如へ 天文の錯乱・天文法華の乱を招く

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【古文書入門】 明治時代の「絵本 石山軍記」の解読に挑戦(1)
来世ちゃん
来世ちゃん

こんばんは~。
石山軍記の3話目です。
戦国初期の加賀一向一揆が成功するところから、畿内の動乱に本願寺が介入し、六角定頼と法華宗に山科本願寺の焼き討ちされるところまでです!

来世ちゃん
来世ちゃん

私の解読が間違えている部分もあると思います。
参考程度にご覧ください。
間違いは指摘して頂けると有難いです。

石山軍記表紙
この記事はこんな方にオススメです。

  • 古文書解読初心者です!
  • 古文書解読の腕試し
  • 軍記物を読んでみたい
  • 石山合戦を本願寺側の視点で読みたい
  • 江戸時代の名残が残った文章が好き
  • 戦国時代初期の実如と証如の活動を知りたい

第一章 摂州石山本願寺縁起(三)

本文(10ページ目)

石山軍記6

な。
我、元来(は)露ほどもこのことを知らず、事すでにここに至れり。
今さらいかんともせん術なし。
何にまずこのところに住みし難しとて、にわかに舟に召され、若狭の小浜(福井県小浜市)に落ち(延び)させ給う。

これはこれ、文明七年(1475)乙未(きのとひつじ=干支)八月二十一日の夜なりけり。
この時
※1下間安芸は思い設けぬ逆寄せに遭い、行方知れず(に)落ち失せり。
程なく
※2富樫介政親軍勢を引き具(引き連れること)して寄せ来たるに、寺中の男女落ち去りて人影も見えざれば、ますます怒りて寺境(寺と境内)を放火し、堂宇を残らず焼き尽くし、直ちに藤島の※3超勝寺に攻め寄せ、これも同じく火を放ちて焼き滅ぼし、※4勝鬨(を)挙げて引き取りけり。

※1 下間安芸(蓮崇)の略歴は前回の記事をご参照いただきたい。

※2 富樫介政親の略歴は前回の記事をご参照いただきたい。

※3 超勝寺についても軽い説明を前回の記事でしたのでご参照いただきたい。

※4 勝鬨を挙げて (かちどきをあげて)とは、「えいえいおー!」というアレ。

これよりして加賀・能登・越前(石川県全域と福井県の大半)におよび、あるいは討ち、または討たれ、勝負いまだ決せざりしが、ここに灰原藤太夫、今枝大膳というる浪人(が)一揆に加わり、北国七州の門徒を催し集め、自ら大将となって指揮するほどに、富樫ついに敗軍し、切腹してぞ死したりける。

門徒一揆の勢いかくの如く国主をさえ攻めほふれば、ましてや郡代・庄屋などはものの数ともせず。
よって、法令立たずその村は我が支配なり、この一郡はそれがしが領分なりと互いに争論に及び、後には同士いくさと有りけるにぞ、大人しき者らはこれを憂い、かくては国中静謐(せいひつ=平和になること)なる事あるべからず。
門徒ら一党にもっともと
どうじ、これより加賀・能登両国は全て本願寺の領分になれり。

さてまた蓮如上人は ※5若狭より丹波路を経て摂津国富田の荘にしばらく留まり、文明九年(1477)山城国山科の郷(京都府の山科)に本寺を建立あるべしとて、かしこに赴かせ給い森道西杯(意味不明?)力を合わせ、九年を経て文明十七年(1485)、造営全く調い、大津近松寺より御真影を遷し、これを守護し、ここに住まわせ給うこと十二年。
これを山科の御堂と稱(称)す。

※5 若狭より丹波路を経て摂津国富田の荘に 恐らく福井県小浜から鯖街道で丹波の山を越え、大阪高槻市の富田(とんだ)に入ったのだろう。

延徳元年(1489)、当寺を八男・ 実如上人に譲り給い、明応五年(1496)泉州堺(大阪府堺市)へ下向あり、摂州 ※6東生郡生玉の荘石山を御巡覧ありて、それ勝地(景色がいいこと)なるを
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※6 東生郡生玉の荘 (ひがしなりごおり いくたましょう いしやま)と読み、現在の大阪府大阪市生野区鶴橋のあたり

本願寺法主・実如
実如肖像画

 実如(じつにょ) (1458~1525)

蓮如の第8子で本願寺派第9世宗主。
足利幕府が本願寺討伐令を下そうとした際、当時日本一の実力者だった細川政元が強く反対し撤回させたことから、実如は政元に強い恩義を受ける。
その後は畿内や北陸の戦乱に積極的に介入し、戦国初期の畿内の動乱をよりドラマチックなものとした。

関連記事:戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(1)

本文(11ページ目)

石山軍記7

賞し給い、ここに一宇を建立す。
これを石山の御堂と稱(称)す。

その後明応八年(1499)三月二十五日、山科の御坊において蓮如上人(が)遷化し給う時に、御年(おんとし)八十五歳なり。

よって、実如上人第九代を相承し給う。
然るに、人皇百五代 御柏原院、文亀元年(1501)
※7践祚ののち二十年を過ぎるといえども、応仁の兵乱以来朝廷(は)衰微し、天下の諸侯もまたその料(領地)を調進する者無きゆえ、未だ御即位の大礼を行われず。

※7 践祚  (せんそ)天皇の地位を受け継ぐこと

ここにおいて ※8西三条前内府逍遥院堯空執奏をもって、御即位の料を本願寺実如上人より調進し奉れり。
よって大永元年(1521)正月二十二日改めて御即位の大礼を行わる。
この賞として実如上人に
※9御門跡の号を勅許(ちょっきょ=天皇の許可)せられ、ならびに菊桐の御紋と香衣を給う。

※8 西三条前内府逍遥院堯空 (にしさんじょう さきのないふ しょうよういん ぎょうくう)といい、三条西, 実隆(1455-1537)のことで和学者、日本の香道家の始祖として知られる。

※9 門跡 (もんぜき)とは皇子や貴族の子弟が住職となっている寺院のことを指す。

大永五年(1525)二月二日、実如上人御年(おんとし)六十八にして遷化あり
よって証如上人十歳にして相承し給う。

本願寺法主・証如
証如肖像画

 証如(しょうにょ) (1516~1554)

実如の孫で本願寺派第10世宗主。
10歳で宗主を継承するが、若年のため一門の蓮淳が後見人として職務を代行した。
当時の実力者・細川晴元の要請を受け、三好元長を攻め立てて敗死させるが、門徒の暴走を食い止められず、晴元と六角定頼がけしかけた日蓮宗に山科本願寺を焼かれた。
その後は晴元の養女を娶って石山本願寺に拠点を移し、やがて大坂の本願寺は繁栄の時を迎えた。

関連記事:戦国の幕開け 名門細川家のややこしい権力争いを和歌の面から見る(2)

ゆえに家老(の)※10下間筑後兄弟ほしいままに執事して上を恐れず、我意に募り加賀国(石川県)に下向し、知行所の坊主門徒を駆り集め、近国近在を乱暴し、地頭を殺し群主を追い討ち、切り取る土地おびただしければ、北国の騒動大方ならず。

※10 下間筑後 (しもつまちくご)という人物は詳細不明。下間頼照とは恐らく別人。

時に天文元年(1532)証如上人(が)御年(おんとし)十七歳の八月、不慮の禍いできけり。
その起こりしが定頼(六角定頼)は日蓮宗にてありければ、本願寺の繁栄なるを常々妬みけるゆえ、今度日蓮宗の僧徒を数多語らい、その勢(手勢)三千(人)ばかり(で)不意に起こって山科の御堂へ押し寄せ、八方より取り囲み火を放って寺中へ乱入す。

 六角定頼 (1495~1552)

南近江の守護大名。
畿内の動乱では足利将軍家を保護し、細川高国や三好長慶などと戦った。
いくさや調略で近隣の勢力を味方に付ける一方、城割、楽市楽座など画期的な経営手腕で六角家の全盛期を築き上げた。

本願寺の僧徒大いに驚き、防ぎ支えんとすれども、多勢の寄せ手と云い(?)ことさら風激しく堂宇一円に燃え上がれば、慌てふためき逃げ行く道さえわきまえず、煙にむせび手足を焼き、あるいは敵に斬り倒され、わめき叫ぶ。

形勢は目も当てられぬことなり。
しる所に証如上人の近臣・下間上野法橋頼慶(下間頼慶)という者あり。
一族の非道に□ず智勇兼備忠臣無二の士なりけるが、このていを見て急ぎ上人の御前に到り、今は早御堂に火掛かり支え難く候ほどに、一先石山へ御退去ありて然るべしと甲斐甲斐しく上人を馬に乗せ参らせ、高祖聖人の真影・・・

(次回につづく)

来世ちゃん
来世ちゃん

ご覧くださりありがとうございます。
それにしても、まーた不都合な点は家来が勝手にやったで済ますのか(呆れ)

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