こんばんはー。
今回は武田信玄の家臣にはなぜ「昌」の字がつく人物が多いのかを考えます。
武田二十四将と「昌」がつく武田家の有名な家来たち
武田信玄は今の世でも大変人気だ。
信玄も人気だが「武田二十四将」といわれるように、その家臣団も有名な武将が多い。
武田二十四将の中でも昌の字がつく武将は、
高坂昌信をはじめ、内藤昌秀(昌豊)、飯富虎昌、山県昌景、小幡昌盛、土屋昌次、原昌胤、甘利昌忠(信忠)、小山田昌辰、真田昌輝、真田昌幸、曽根昌世、曽根昌清などたくさんいる。
これは一体なぜだろうか?
家臣にとって最高の栄誉は領地の加増
当時の戦国武将にとって最高のご褒美といえば、領地をもらうことだった。
領地のことを当時の用語では「知行(ちぎょう)」といい、
「知行を加増される」ことは非常に大きなことだったのだ。
知行が増えれば収入が増える⇒その分浪人を雇うなどして兵力を増やせる⇒次の合戦で活躍しやすくなる。
といった具合だ。
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家臣にとって一字拝領もまた大変な栄誉
いくさで戦功をたくさん重ねたり、老臣として長年主家に仕えた功労者には、大名の名前の一字を与えるということもよくあることだった。
例えば豊臣秀吉家臣の大谷吉継
徳川家康家臣の榊原康政
などだ。
また、蒲生氏郷が元服の際、織田信長は「織田弾正忠信長」から一字を与え、「蒲生忠三郎賦秀」と名乗らせている。
足利幕府などの権力者から、大名やその嫡男に一字を与えられることも大変名誉であり、自身の権威を内外にアピールすることができた。
例えば毛利元就の孫・毛利輝元は室町幕府第13代将軍・足利義輝の一字を賜ったもの。(毛利家からの献金は十分だったため、より一層箔がつく「義」の字を与え、毛利義元となる予定だったが、輝元がそれを嫌ったという説も)
武田晴信(信玄)も、実は将軍・足利義晴の一字から賜ったもの。
このように、一字を賜るということも大変に名誉なことなのだ。
これと武田家でやたらと「昌」の字がつく家臣が多いこととは関係があるのか?
一字を与えるならば「晴」か「信」の字を与えるのが普通なのではないか?
私はその謎をこう考える。
武田信玄の曽祖父・武田信昌の存在
武田晴信(信玄)の曽祖父に武田信昌という甲斐武田家当主がいる。
戦国時代に入ると、守護大名の甲斐武田家も求心力が低下し、守護代(家臣)の跡部明海、景家父子が逆に力を持ち、命令に従わないことが多くなった。
甲斐の国でも下克上の嵐が吹き荒れていたのである。
また、国外の勢力とも激しく争い、内憂外患な状況であったが、戦乱に次ぐ戦乱で武田信昌はついに守護代の跡部氏の排斥に成功し、甲斐武田家は守護大名から戦国大名への脱皮を遂げた。
その後御家騒動があったりと武田信昌の評価は必ずしていいことばかりではないのだが、甲斐では武田家中興の祖として信昌を評価していたようだ。(諸説あり)
信玄はなぜ「昌」の一字を家臣たちに与えたのか
これを答えるためには、まず「晴」か「信」の一字をなぜ与えなかったのかを書かなければならない。
まず「晴」であるが、これは12代将軍・足利義晴から賜った一字であるため、これを家臣に授けることはいろいろと問題が出てくる。
なので却下したと思われる。
次に「信」であるが、これは甲斐武田家代々の通字である。
通字というのは、その家が代々襲名している名前のこと。
例えば織田信長の家系では
織田良信-織田信定-織田信秀-織田信長-織田信忠-織田秀信
と代々「信」を通字にしていることがわかる。
後北条家ならば
伊勢長氏(北条早雲)-北条氏綱-北条氏康-北条氏政-北条氏直
と代々「氏」を通字にしている。
甲斐武田家なら
武田信重–武田信守–武田信昌–武田信縄–武田信虎–武田晴信(信玄)–武田信勝
と「信」を通字にしている。
信玄の後を継いだのは武田勝頼だというのは実は誤りで、勝頼は名代として武田信勝が成人するまで、代わりに政務を執り行うという存在であった。
※ちなみに勝頼という名は諏訪家の通字である「頼」と、信玄の幼名である「勝千代」からとったと思われる。
なぜ「信」を与えなかったか。
それは「信」を名乗らせるに値する家格を持つ家臣がいなかったからではないか。
そのため、通字の「信」を与えるに値しない家臣には別の字を与えることになる。
そこで信玄が選んだのが、武田家中興の祖である曽祖父・武田信昌の「昌」の字や、自身の幼名である勝千代の「勝」の字であった。
「信」の名が少ないのは家格が問題?
板垣信方など「信」の字の武将もいるではないか
という意見もあるだろう。
板垣家は跡部氏失脚後、家宰に登り詰めた武田家では数少ない名家である。
信玄の父・武田信虎の代には宿老として武田を支えた。
従って、既に「信」の一字を与えられているため、これ以上一字を与えることはかえって信頼を失わせるものだったのだ。
板垣家と両翼をなす名家として甘利家もある。
甘利家当主・甘利虎泰が有名である。
この甘利虎泰も、武田信虎から「虎」の一字を賜っている。
板垣信方の死後は家中のバランスをとるために甘利昌忠を引き上げる
武田晴信が信濃攻めで村上義清と争った上田原の合戦で、宿老の板垣信方は討死した。
板垣家は子の信憲が継いだのだが、板垣信憲は晴信からだんだんと疎まれるようになり、のちに失脚してしまう。
単に反りが合わないからというのもあったと思うが、今までの板垣氏の権力があまりにも大きすぎたために、これを機に武田家中の序列を調整したものと思われる。
それとは対照的に家格が引き上げられたのが甘利氏であった。
甘利虎泰も上田原の合戦で板垣信方とともに討死したため、家督は子の甘利昌忠が継いでいた。
昌忠は晴信の覚えめでたく、やがて武田家中でトップの家格となった。
そして昌忠からグレードアップして、武田家の通字である「信」の一字を与えられて甘利信忠と名乗る。
しかし、甘利信忠は早逝してしまう。
信忠の子もまだ幼かったので、やがて晴信の側近だった山県昌景や高坂昌信、内藤昌豊などの若手が武田家中で大きな存在を示すようになった。
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