永禄11年(1568)戊辰 正月~2月

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凡例

  • 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
  • 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
  • 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
    なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。
  • 文書名は慣用の略称にしたがった。
  • 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
  • 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
  • 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
  • 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
    参考程度に留めていただきたい。
  • 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
  • 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
    なお、その場合は備考欄に記すこととする。
  • 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。

正月

1月1日

河内の津田衆らが松永方へ寝返り、河内国で三人衆方と交戦。『多聞院日記』『言継卿記』『細川両家記』

去朔日、津田城多聞山へ裏帰色立了、則河州出口にて及一戦、木澤ノ紀伊守討死了、則首ニ多聞山へ来了、マエサクマト云タル仁也ト、

   『多聞院日記』永禄十一年正月五日条

(書き下し文)
去一日、津田城多聞山へ裏返る色を立ておわんぬ。
則ち河州出口にて一戦に及び、木澤の紀伊守討死しおわんぬ。
則ち首に多聞山へ来たりおわんぬ。
マエサクマト云うたる仁なりと。

烏丸へ罷向、極位珍重之由申之、宰弔之時分云々、申置了、次長橋局へ罷向、理性院、蔭亮等被來、吸物にて酒有之、次竹内殿へ参、暫御雑談有之、河州津田、城州田邊、松永方へ一味云々、仍河内路通路無之云々、

   『言継卿記』永禄十一年正月八日条

同十一月日、伏見の津田、松永方へ一味して、多門より加勢之由也、

   『細川両家記』

 (備考)

津田は河内国交野郡(現枚方市)にある地で、中世期に新興土豪の津田氏が現れ、延徳2年(1490)頃、国見山に城を構えた。『三之宮日記』『津田史』

『角川日本地名大辞典 27 大阪府(1983)』によると、永禄2年(1559)8月20日の交野郡五ヶ郷惣侍中連名帳(三宮神社所蔵文書/枚方市史6)によれば,津田村・藤坂村・杉村・芝村・穂谷村の「侍中」の組織を「別当津田筑後守中原範長」が統制していたとある。

1月2日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年正月五日条より

去二日至堺津三好千鶴殿御渡海了、則従十市も使河権被越了ト、

1月9日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年正月九日条より

今井より多聞へ音信之荷來候間、翌日送て遣了、

1月17日

番替えのため三好長逸(三好日向)・池田衆らが奈良に出陣。『多聞院日記』永禄十一年正月十七日条

西の城番替ニ、三好日向・池田衆以下来了、

この頃

越前朝倉氏と加賀一向宗が和睦か。『多聞院日記』永禄十一年正月十七日条

越前より一切経承仕上了、加賀と越前と和談「畢」カ、上意越州一乗へ被移、於御座被仰調悉以無事也云々、

この頃

三好義継(左京大夫殿)多聞山城を出て河内津田城に入る。『細川両家記』

永禄十一年戊辰年正月日、三好左京大夫殿多門城より津田城へ御入候也、

備考

同文書には詳しい日付までは記述がない。
大きな戦闘が行われた同月1日の後詰として義継が出陣したのか、その後に津田城に入ったのかはわからない。

2月

2月1日

公家の山科言継、宝鏡寺にて足利義栄(今御所)の病状の噂を聞く。『言継卿記』永禄十一年二月一日条より

近衛殿へ御礼に参、御盃被下之、次寶鏡寺殿へ参、今御所尋申之、御腫物は御験気、御気煩御不食云々、

(書き下し文)
近衛殿へ御礼に参る。
御盃これを下さる。
次いで宝鏡寺殿へ参る。
今御所(足利義栄)これを尋ね申す。
御腫物は御験気。
御気煩い・御不食と云々。

2月2日

[参考]『言継卿記』永禄十一年二月二日条より

自頭中将将軍宣下之一通到、
 
追上啓
  将軍宣下事候、同可得其御意候也、
来八日可有宣下事、可令参陣給、者依天気上啓如件、
 二月二日            右中将重通
    謹上 師中納言殿

(書き下し文)
頭中将より将軍宣下の一通到る。

追って上啓す
 将軍宣下の事に候。
同じくその御意を得べく候なり。
来たる八日宣下有るべきの事、可令参陣給わりせしむべし。
てえれば天気により上啓くだんの如し。(以下略)

2月4日

足利義栄の将軍宣下が同年2月8日に行われることが決まり、宮中ではその準備で慌ただしくなる。『言継卿記』永禄十一年二月四日条

勧修寺黄門被来、富田之武家将軍宣下可為来八日、上卿之事内々被示之、尚従奉行可被触之由有之、
烏丸へ罷向、見参、來八日袍借用之事申之、内々同心也、次勧修寺黄門へ罷向、八日之将軍宣下之下行以下之事申談了、雙六有之、次持明院へ罷向、表袴借用之事申之、同心也、次長橋内侍所臺所等へ立寄、次高辻へ罷向、一盞有之、來八日依體笠可借用之由申之、叉念珠之道明寺菩提子等約束之間遣之、次甘露寺へ罷向、來八日に裾之事申之、

(書き下し文)
勧修寺黄門(勧修寺晴右)来たる。
富田の武家(足利義栄)の将軍宣下は来たる八日たるべし。
上卿の事内々にこれを示さる。
なお奉行より触れらるべきの由これ有り。
烏丸(烏丸光康宅)へ罷り向かう。見参。
来たる八日袍借用の事これを申す。
内々に同心なり。
次いで勧修寺黄門(勧修寺晴右)へ罷り向かう。
八日の将軍宣下の下行以下の事申し談じおわんぬ。
雙六これ有り。
次いで持明院(持明院基孝宅)へ罷り向かう。
表袴借用の事これを申す。
同心なり。
次いで長橋内侍所台所等へ立ち寄る。
次いで高辻(高辻長雅宅)へ罷り向かう。
一盞これ有り。
来たる八日の体に依り笠を借用すべしの由これを申す。
また、念珠の道明寺菩提子等へ約束の間これを遣す。
次いで甘露寺(甘露寺経元宅)へ罷り向かう。
来たる八日へ裾の事これを申す。

※袍は束帯・衣冠の時に着る上着
※下行(げぎょう)は下賜する物品。
※一盞は(いっさん)は一杯の盃。

備考

他にも同書は、将軍宣下の日までの準備を克明に記している。
黄門は中納言の唐名。
勧修寺晴秀は昨永禄10年(1567)12月に諱を晴右はるみぎと改めている。

2月8日

信長、越後上杉氏の重臣直江景綱(大和守)へ無音を詫び、進物を贈る旨の書状を発給。『上杉家文書』一 (永禄十一)二月八日付織田信長書状案

態以使者申達候、其以来者、路次無自由故無音、本意之外候、然者雖無見立候、糸毛之腹巻・同毛之甲進覧、誠御音信計ニ候、猶重而可申宣由、可得御意候、恐々謹言、
    二月八日       尾張守信長
  謹上 直江大和守殿

(書き下し文)
わざと使者を以て申し達し候。
それ以来は、路次自由無き故に無音、本意のほかに候。
然らば見立て無く候といえども、糸毛の腹巻・同じく毛の兜を進覧。
誠に御音信のばかりに候。
なお重ねて申し述ぶべきの由、御意を得るべく候。恐々謹言(以下略)

備考

織田信長が「尾張守」を名乗る数少ない文書の一つである。
「尾張守」が最初に見られるのは『多聞院日記』の永禄九年(1566)七月十七日条から。
上洛に向けての軍事行動を活発化させた永禄11年(1568)5月から、信長は「弾正忠」を称しはじめる。
なお、この文書は署名のみあり、花押や印判、脇付はないようである。

同日

足利義栄の将軍宣下の儀が執り行われる。『言継卿記』永禄十一年二月八日条など

今夜将軍宣下、上卿出立要脚、於傳奏三百疋請取之、澤路備前入道遣之、同請取後日遣之、
「請取申上卿出立要脚事、
 合三貫文者
右所請取申如件、
 永禄十一年十二月八日 重延山科家雑掌 判
    勧修寺殿御雑掌」

戌刻高倉へ罷向着束帯、衣文入道に申之、相公沈酔云云、裾石帯玉、布衣之白袴同刀太刀持、借用之、自彼宅参内、供布衣大澤右兵衛大夫、烏帽子着澤路隼人佑、太刀持之、小川與七郎、其外松夜叉丸、小雑色二本、白丁笠持、小物兩人等也、次先予着陣、於宣仁門外官人に刻限間之、午刻と答、不審、次入宣仁門着奥座、四度揖如例、大納言座之程思祝儀、次着端座、四度之揖同前、縿裾揚、次檜扇取出沓直之、次召官人令敷軾、次頭中将吉書持來、置笏取之、付板、次被覧之、如常氣色、次頭中将退入、次以官人召辨、其詞右少辨宣教來、乍持笏以左手付板吉書遣之、辨被覧之、氣色こなたへ、次如元調之退入、次令撤軾、次起座退入、則又入宣仁門着奥座、中納言座、揖縿裾、重通朝臣來仰云、左馬頭源朝臣義ひて宣爲征夷大将軍、兼又可聽着禁色、予微頌、次起座着端座、揖縿裾、次召官人令敷軾、次官人沓直之、次以官人召辨、同前、次宣教來、仰云、左馬頭ヽヽヽ、同前、次辨退入、次以官人召外記、外記召せ、大外記師廉朝臣來、仰云、左馬頭ヽヽヽ可聽着禁色、揖頌、次退入、次召官人令敷軾、次揖出宣仁門、四度之揖悉以如常、次於男末御祝有之、被参之輩中山前大納言、万里小路大納言、予、勧修寺中納言、源中納言、水無瀬宰相、右大辨宰相、重通朝臣、爲仲朝臣、晴豊、宣教、橘以繼等也、入麺有之、次各退出、今夜御警固伊勢守内衆百人計参、畠山安枕斎被見物、御酒被下之云々、見物之貴賤男女驚目者也、

備考

他にも同日条で、言継が諏訪右兵衛大夫と対面し、足利義栄や朝倉義景、飯川信堅らの書状を受け取ったことや、高倉永相の息千菊丸元服の様子も記されている。

早旦山形日野内右衛門大夫來、従越州昨夕爲武家御使諏方神右兵衛尉上洛、忍之間可來之由申候間、則山形所へ罷向、則神右兵衛對顔、當月末早々可罷下之由有之、種々被仰下之様體有之、御内書以下如此、

「就元服之儀、至當國下向候者可悦入候、爲其差上俊郷、於巨細者申含候、猶義景可演説之状如件、
 正月廿三日    御判
   山科殿」

「就御元服之儀、至當國可有下向之由被成御内書候、於御下國者尤可被悦思食之旨、猶相心得可申入之由被仰出候、委細諏訪甚兵衛尉可被申候條不能詳候、恐々謹言、
 正月廿三日    義景判 朝倉左衛門督
   山科殿」

「就御元服之儀被成御内書候、仍義景御副状候、無異儀御下向尤可爲珍重候、爲其被差上俊郷候條委細可被申候、此等之趣可然様御取成所仰候、恐々謹言、
 正月廿六日    信堅 飯川山城守
   山科殿」

「改年吉兆彌可爲御満足候、仍御元服之事、來月可有御座候、就其御装束同御道具等尋申爲可被仰付、被差上同名神兵衛尉候、様體可被仰聞候、将又御下向之儀内々如申談候、奉期候、被成御内書以義景一札被申入候條、早々御下國可然存候、巨細者申含神兵候間、定可申入候、此旨宜預御取成候、恐々謹言、
 正月廿七日    睛長判 諏方信濃守
   澤路殿」

一盞有之、様體懇に被示之、次歸宅了、

従伊勢虎福使横川掃部入道來、對面、就将軍宣下、告使つけっかい出納右京進御倉與奪云々、下向富田、御昇殿と計申之云々、奏者摂津守役也云々、不参之間伊勢守に被仰出之、幼少之間同名可召進之、告使束帯持笏、乍立御昇殿と申之、奏者可畏歟否之由被尋之、於庭上者立か禮也、可爲色立之由返答了、

2月12日

公家の山科言継、足利義秋の元服式に関する件で幕府奉公衆や朝倉義景らに返書を認める。『言継卿記』永禄十一年二月十二日条より

山形右衛門大夫所へ罷向、諏方神右兵衛尉に對顔、條々示合之、一盞有之、御内書以下御返事共手日記等渡之、
「御内書謹致拜見候、就御元服之儀可罷下之由承了、宜然之様可預御取合候、尚委曲神右兵衛尉可被申入候也、恐惶謹言、
 二月十日     言繼
   飯川山城守殿」
「就御元服之儀御内書致拜見候、同芳札委曲承了、宜然之様御取合所仰候、尚々巨細之段諏方神右兵衛尉可有演説候也、恐々謹言、
 二月十日     言繼
   朝倉左衛門督殿」
「就御元服之儀御内書謹承了、同督殿御副状委曲被見申候、軈罷下可申入候、尚々巨細之段神兵に申含候間、可有演説候、可然之様御取成所仰候、恐々謹言、
 二月八日     言繼
   飯川山城守殿」
「誠當年之嘉慶自他不可有休期候、抑就御元服之儀、御装束以下之事存分注付進候、同可罷下之由御内書、督殿御副状等承了、委曲神兵へ申渡候、尚以手日記令申候間、以御分別宜然之様御取成所仰候、何も罷下可申入候、謹言、
 二月八日     言繼
   諏方信濃守殿」
手日記如此、
 一、用意之物二千疋、金銀之間歟、
 一、自然之儀於有之者妻子可召下事、
 一、地行分名字地四ヶ所、其外敷地等御墨付之事、
 一、自坂本自一條路次之調、香取に可被仰付事、
 一、召具之者七八人又者十餘人歟之事、
陽春院へ罷向、笋刀打亂筥櫛手巾請取之、伏見殿へ持参、持明院に相渡之、次高倉相公へ罷向、小袖一、借用、今日富田へ被下向云々、次長橋局へ罷向、一昨日安二位へ御祭料百疋被遣之、忝之由御返事申入了、次内侍所へ立寄了、晩飡急之葉室へ罷向、供大澤右兵衛大夫、小五郎兩人計也、明日富田へ宣下之御禮に可罷下之儀也、

(書き下し文)
山形右衛門大夫所へ罷り向かう。
諏方神右兵衛尉に対顔。
条々これを示し合わせ、一盞これ有り。
御内書以下御返事ともに手日記等これを渡す。
「御内書謹みて拝見致し候。
御元服の儀につきて、罷り下るべきの由を承りおわんぬ。
宜しく然のよう御取り合い預かるべく候。
なお委曲神右兵衛尉申し入らるべく候なり。恐惶謹言
 二月十日     言継
   飯川山城守殿(飯川信堅)」
「御元服の儀につきて御内書拝見致し候。
同芳札で委曲承りおわんぬ。
宜しく然のよう御取り合い仰すところに候。
尚々巨細の段、諏方神右兵衛尉演説有るべく候なり。恐々謹言
 二月十日     言継
   朝倉左衛門督(朝倉義景)殿」
「御元服の儀につきて御内書謹みて承りおわんぬ。
同督(朝倉義景)殿への御副状で委曲被見申し候。
やがて罷り下り申し入るべく候。
尚々巨細の段神兵に申し含め候間、演説有るべく候。
然るべきのよう御取り成し仰すところに候。恐々謹言
 二月八日     言継
   飯川山城守(飯川信堅)殿」
「誠に当年の嘉慶、自他休み有るべからず期に候。
そもそも御元服の儀につきて、御装束以下の事、存分を注付進せ候。
同じく罷り下るべきの由を、御内書・督殿(朝倉義景)御副状等で承りおわんぬ。
委曲神兵へ申し渡し候。
なお以って手日記で申せしめ候間、御分別を以って宜しく然るのよう、御取り成し仰すところに候。
何れも罷り下り申し入るべく候。謹言
 二月八日     言継
   諏方信濃守(諏方晴長)殿」
手日記かくの如し。
 一、用意の物二千疋(金銀の間か)
 一、自然の儀これ有るに於いては、妻子を召し下すべきの事
 一、知行分名字地四ヶ所、そのほか敷地等御墨み付きの事
 一、坂本より一条路次よりの調え、香取に仰せ付けらるべきの事
 一、召し連れの者七・八人または十余人かの事
陽春院へ罷り向かう。
筍刀・打乱箱・櫛・手巾これを受け取る。
伏見殿へ持参。
持明院にこれを相渡す。
次いで高倉相公へ罷り向かう。
小袖(一)借用。
今日富田へ下向せらると云々。
次いで長橋局へ罷り向かう。
一昨日安二位へ御祭料百疋これを遣せらる。
忝きの由を御返事に申し入れおわんぬ。
次いで内侍所へ立ち寄りおわんぬ。
晩飡これを急ぎ葉室(葉室頼房宅)へ罷り向かう。
供は大澤右兵衛大夫(大澤重延)、小五郎両人ばかりなり。
明日富田へ宣下の御礼に罷り下るべきの儀なり。

※一盞(いっさん)は1つのさかずき。1杯の酒を呑むこと。
※名字地(みょうじのち)とは、その家の名字の由来となった土地のこと。伊達氏や三浦氏などが有名だろう。
※笋刀(たこうながたな)=筍刀とは、元服の際に用いる理髪用の小刀。たけのこ形に似ていることから、この名がついたのだろう。
※打亂筥(うちみだりのはこ)=打乱箱とは広蓋ひろぶたのような箱で、もとは櫛笥くしげに添えた手拭い箱であったが、後には化粧道具や所持品なども入れた。
※富田は摂津国富田とんだ。足利義栄の在所である。
※晩飡(ばんそん)は夕餉の意。

2月17日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年二月十七日条

竹下對面、七堂陳取事申候處、可有馳走之由同心了、

2月20日

十市氏の森屋城が陥落。『多聞院日記』永禄十一年二月二十日条

今朝森屋之城十市より取了、首七十計討「取」カ之由、申剋之終ニ兵より注進状在之、田中蔵人佐手負死了、幷福「住」カ内喜右衛門尉死了、田中源一郎手負了、不可有殊儀と云々、先々秋山知行半分通ハ三人衆ニも依同心如此成下了、珍重々々、

(書き下し文)
今朝森屋の城十市より取りおわんぬ。
首七十ばかり討ち取るの由、申刻の終に兵より注進状これ在り。
田中蔵人佐手負いし死におわんぬ。
並びに福住内喜右衛門尉死におわんぬ。
田中源一郎も手負いおわんぬ。
殊有るべからざる儀と云々。
先々秋山知行半分通りは三人衆にも同心によりかくの如く成し下しおわんぬ。珍重珍重。

備考

大和国の森屋城は大和川沿いにあるところで、もとは秋山氏の拠点であった。
この時期は十市遠勝が支配していた。
十市遠勝が三好三人衆と手を結ぶ一方、秋山直国は松永久秀と結び、このたび攻勢に転じてこれを奪還したようだ。

2月

信長、藤八へ安堵状を発給。『中村林一氏所蔵文書』永禄十一年二月日付織田信長朱印状

吾分名田、如前々不可(「有」脱カ)相違之状如件、
  永禄十一
    二月日        (信長朱印)
     藤八

(書き下し文)
吾分(あがぶん)の名田、前々の如く相違有るべからざるの状くだんの如し(以下略)

備考

藤八が誰なのか、どこの領地なのか全くの不明。
『信長公記』に本能寺の変の際に討死した信長の中間衆に藤八の名がみえるが、それだけでは何とも言えない。

2月

信長、伊勢へ出陣か。(出展不明)

備考

後日編集

2月

信長、三男の三七を神戸友盛の養嗣子とし、弟の織田信包を長野家へ、さらに一族の織田(津田)掃部助一安を安濃津の守将として送り込む。

備考

・津田一安
津田一安(掃部助)は織田一族ではあるが、遠い親戚のような扱いである。
信長とどの程度縁遠なのか詳細は不明。
『張州府志』には、日置村の住人織田丹波守の子とある。
「織田丹波守」の名は『言継卿記』や谷宗牧の『東国紀行』に見える。
身分や状況からして一安本人の可能性を感じるが、断定はできない。
また、『織田系図』の中に寛貞の子「掃部助忠寛」の名がある。
事蹟は載っていないので、同一人物なのかは不明。
のちに一安は、北畠具豊(織田信雄)の奉行人として織田家の南伊勢や大湊支配に大きく貢献することになる。

・長野家
長野具藤は北畠具教の次男として生まれ、長野藤定の養嗣子となる。
永禄5年(1562)5月、藤定の死去により家督を継ぐ『勢州軍記』。
六角氏の陣営に与した関氏と三重郡塩浜で戦い、敗北したこともあった『勢州軍記』。
このたびの織田信長の侵攻に際し、一族の細野藤敦は徹底抗戦の姿勢を取り信長と戦うが、その弟の分部光嘉らは降る。
長野家中は、具藤を実家へ逐い、信長の弟である信包を当主として迎え入れた。
そこで故長野藤定の娘を娶り、名を長野信良と改めた『勢州軍記』。

クーデターに近い形での追放劇だったのかもしれないが、南北朝の頃より北畠・長野の両家は長年の宿敵であったため、北畠氏に従属していたとはいえ、長野家中の胸中は穏やかではなかったのかもしれない。
長野氏代々の有力な被官衆は工藤・雲林院・分部・細野・中尾・川北氏らである。
長野氏のもともとの出自が藤原の流れを汲む工藤氏であるため、長野工藤と呼ばれることも多い。
以後、長野信良は、少しずつ被官衆を粛清していき、家中を完全に織田色に染め上げてから名を織田に戻すこととなる。

・神戸家
神戸かんべ家は南近江の六角氏に従う関氏の一族で、ほかに国府・鹿伏兎かぶと・峯氏などが有力な被官として存在する。
応永22年(1415)の足利義持執政期には、六角・長野・雲林院うじい・関・峯・千草家らが共同して挙兵した北畠満雅と戦っている。『木造記(聞書集本)』など
その後、神戸氏は北畠政郷の子である具盛(楽三)が家督を継ぎ、中勢~北勢にかけて北畠氏が影響力を伸ばした時期もあった。『勢州軍記』巻上

このたびの織田信長の侵攻当時、神戸家の当主は具盛(友盛)であった。
彼は六角氏の臣である蒲生定秀の娘を娶っており、将来的に神戸家の当主の座を関盛信の子に譲り渡す約束があったらしい『勢州軍記』『高野家譜』。
(これは具盛が永禄2年(1559)5月に亡くなった兄利盛の家督を継承していたことが関係しているのかもしれない。)

しかしながら、神戸家が織田に降る際、信長の三男である三七を養嗣子として迎え入れることとなった。
高岡城に拠って頑強に織田氏に抵抗したとされる山路弾正は、『勢州兵乱記』に見える神戸氏の重臣である。
永禄10年(1567)に滝川一益を先陣とする大軍の織田勢を追い払ったとする逸話には疑問が残る。
『伊勢国司御一族家諸侍幷寺社記』という文書には、山路玄蕃允という人物が、山路弾正少弼の弟とあるらしい。
『勢州兵乱記』には山路弾正とともに神戸四百八十人衆の大将の1人としてその名がみえる。

その後、養父神戸具盛と三七は不和となり、元亀2年(1571)正月、信長の命により具盛は隠居させられ、三七が新たな当主となった。『勢州軍記』『神戸録』
この際、大幅な家中粛清が行われ、山路弾正忠は切腹。
その他120人におよぶ臣が追放された。
引き続き神戸家に仕えた者は480人と『高野家譜』には記されている。

元亀二辛未かのとひつじ年正月、神戸蔵人友盛公隠居し玉ふ、其子細ハ初神戸家男子なき故、兼而関盛信の子息勝蔵殿を養子にせんと約有しに、引替て三七君を名跡ニ居玉ひ候程に、関も神戸も其趣意有て三七君心よかざる仕方等相聞へける故、信長公憤り、蔵人友盛公年賀を申上ん為安土江参勤有しを留置、国へ帰らしめず、日野蒲生左京太夫秀賢に預らる、則三七君を継目ニ立られ、神戸三七信孝と号す、此節可夕入道に可奉仕よし進メ給へども、年老たりと称じて不奉仕、嫡子五郎右衛門甥の次右衛門を召出されん事を乞ひ、奉仕して使番と成、黄母衣七騎の列と成る、又信孝公は高岡の城を守りし山路弾正に腹切らせ、高岡の城を三七君同母の舎弟小嶋兵部少輔に渡さる、それによりて神戸の諸士、信長公を恨て信孝公に帰服せす、百弐拾人浪人せし也、残りし侍四百八十人衆と言て信孝公へ仕へ諸事一味せり、其侍ニ者城治郎左衛門・川北喜兵衛・太田丹後・太田監物・矢田部掃部・高野五郎右衛門・佐々木隼人・片岡平兵衛・正田助右衛門等なり、

この『高野家譜』の記述には元亀2年(1571)の話にも関わらず、年賀を申上げんと安土へ参勤と記すなど明らかな矛盾も含まれている。
しかしながら家譜の特性上、他書にない事情も述べているので無視できない。
ここにある高野可夕入道は神戸具盛の三男である。
彼は次男の高島政光とともに分家した。
のち、政光の孫が神戸友盛(具盛)の養子となって神戸外記政房と称し、蒲生氏郷に仕える。
後年、神戸政房・良政父子は『勢州四家記』『勢州軍記』を編述している。

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