凡例
- 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
- 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
- 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。 - 文書名は慣用の略称にしたがった。
- 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
- 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
- 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
- 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
参考程度に留めていただきたい。 - 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
- 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
なお、その場合は備考欄に記すこととする。 - 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。
9月
9月1日
公家の山科言継、信濃国を逐われ三好氏の庇護を受ける小笠原氏と参会。 『言継卿記』永禄十一年九月一日条
今日礼に罷出、路次次第、宝鏡寺殿、新御所御盃賜之、次入江殿御盃賜之、次近衛殿御盃賜之、次武者小路廣大妾かヽ所へ罷向、酒有之、信乃国小笠原牢人、三好方頼之住芥川、子源三郎参会、次岡殿、次竹内殿、次伏見殿、次大祥寺殿、次内侍所等へ参了、
(書き下し文)
今日礼に罷り出る。
路次次第に宝鏡寺殿、新御所の御盃これを賜る。
次いで入江殿の御盃これを賜る。
次いで近衛殿の御盃これを賜る。
次いで武者小路広大妾かか所へ罷り向かう。
酒これ有り。
信濃国小笠原牢人、三好方これを頼り芥川に住む子源三郎と参会。
次いで岡殿、次いで竹内殿、次いで伏見殿、次いで大祥寺殿、次いで内侍所等へ参りおわんぬ。
同日
[参考]『言継卿記』永禄十一年九月一日条
橋本伊賀守被来、小林使也、就大原竹之事に、書状可書与之由被申、則調遣之、
「度々申候大原竹座人之事、三向貴所迄一札可被参旨何共無分別候、京座人申掠候被賞、本所之申分御疑与相聞候、如何候哉、併貴殿懇に不被仰分与推量申候、今日明日之内三向下向之由承及候條、急度折紙被仰調可給候、澤路に相尋候処に、本所之補任口入旨、且以不申由候間、能々御分別候而御調干要候、恐々謹言、
八月廿九日 言継
ト隠軒 床下」
備考
翻刻難読により読み下しは先送り。
「三向」は三好長逸だろう。
宛所は小林ト隠斎か。
9月2日
三好康長(三好山城)、3000余の兵で西京辺りへ移動し、各所に布陣。『多聞院日記』永禄十一年九月二日条
三好山城人数三千余、西京辺へ打越了、何事共シレス、奈良中陳取ハ寺門ヨリ届ニテ無之、
(書き下し文)
三好山城人数三千余、西京辺りへ打ち越しおわんぬ。
何事とも知れず。
奈良中陣取りは寺門より届けにてこれ無し。
9月3日
三好康長、奈良宿を放火。
これに呼応して筒井勢(筒衆)は多聞山の東側に布陣する。『多聞院日記』永禄十一年九月三日条
人数多聞山西北へ打寄、ナラ宿放火了、筒衆ハ東へ寄了、無殊儀打入了、仙学房上之間条々申遣之、
(書き下し文)
人数多聞山の西北へ打ち寄せ、奈良宿を放火しおわんぬ。
筒(筒井)衆は東へ寄せおわんぬ。
事無きの儀打ち入れおわんぬ。
仙学房上の間へ条々これを申し遣す。
同日
公家の山科言継、三好長逸(三好日向守所)へ書状を発給か。『言継卿記』永禄十一年九月三日条
三好日向守所へ書状遣之、関之儀申事有之、
(書き下し文)
三好日向守所へ書状を遣わす。
関の儀申す事これ有り。
9月4日
三好康長に呼応して河内勢も東大寺近辺に出陣。
午後7時~午後11時頃にカヰノツサカ郷を焼き払い、さらに西京を攻める。
多聞院、陣中の見舞いとして三好康長・筒井氏・河内勢に樽代20疋を贈る。『多聞院日記』永禄十一年九月四日条
河州衆東大寺邊ニ打寄、戌亥・カヰノツサカ郷焼沸、無殊儀、又西京へ打入了、三備へ樽代廿疋遣之、
(書き下し文)
河州衆東大寺辺に打ち寄せ、戌亥・カヰノツサカ郷を焼き払う。
殊無きの儀。
また西京へ打ち入れおわんぬ。
三備へ樽代二十疋を遣す。
備考
東大寺は昨年10月10日の戦いで、既に大仏殿以下が灰燼に帰している。
樽代は酒肴代のことで、進物や祝儀の進物として定番の品。
「〇種〇荷」(〇に数字が入る)なども同じ意。
9月5日
禁裏で日月不蝕が問題化か。
陰陽師の土御門有脩・在高の責任が追及される。『言継卿記』永禄十一年九月五日条
一昨日従禁裏被仰下日月不蝕候儀、如何之由御尋也、算勘之面相違之段、致蝕書之本書不所持之間、有脩朝臣、在高等に被仰出令拝見校合仕度候、不然者来年之蝕之有無可被御覧候、若於相違暦道令斟酌、一身可相果覚悟之由、可然之様可申入之由有之、
(書き下し文)
一昨日禁裏より仰せ下さる日月不蝕の候儀、いかがの由かの御尋ねなり。
算勘の面相違の段、これを書き蝕み致す本書を所持せざるの間、有脩朝臣、在高等に仰せ出され拝見せしめ校合を仕りたく候。
然らずんば、来年の蝕の有無を御覧せらるべく候。
もし相違に於いては暦道を斟酌せしめ、一身を相果たすべきの覚悟の由、然るべきのようを申し入るべきの由これ有り。
※算勘(さんかん)は占いなどをして勘定すること。数を数えること。
※校合(きょうごう)は基準とする本文に照らして、本文の異同を確かめること。
※不然者(しからずは)はそうでなければ。促音化して「しからずば」や「しからずんば」と発音されることもある。
※斟酌(しんしゃく)は相手の事情や心情を汲み取り、手心を加えること。遠慮すること。言動を控えること。
同日
河内勢帰陣。『多聞院日記』永禄十一年九月五日条
河州人数帰陣了、長賢房神事トテ下了、
9月7日
信長、足利義昭と会見し、上洛の決意を述べる。『信長公記』
9月8日
信長、美濃・尾張・伊勢3ヶ国の兵を率いて近江国高宮に着陣。
先陣は平尾付近に陣を敷く。『信長公記』
9月9日
信長、同地に滞在。『信長公記』
9月10日
石成友通、近江国坂本へ出陣。『言継卿記』永禄十一年九月十日条
自尾州織田上総介、江州中郡へ出張云々、仍今朝石成主税助坂本迄罷下了、
(書き下し文)
尾州より織田上総介(織田信長)、江州中郡へ出張し云々。
仍って今朝石成主税助(石成友通)坂本まで罷り下りおわんぬ。
9月11日
信長、愛知川付近を放火し、同地で野営を張る。『信長公記』
同日
近江国で両軍が交戦か。
石成友通(石成主税助)は帰京する。『言継卿記』永禄十一年九月十一日条
於江州合戦有之云々、左右方討死云々、但上総介先国へ打帰云々如何、申刻石成主税助先打帰了、
(書き下し文)
江州に於いて合戦これ有ると云々。
左右方討死と云々。
ただし、上総介(織田信長)は先国へ打帰り云々。如何。
申の刻み、石成主税助(石成友通)は先に打帰りおわんぬ。
9月12日
織田の臣森可成(森三左衛門尉)・坂井政尚(坂井右近将監)ら、威力偵察のため箕作山城へ兵を出す。
六角勢と城外で交戦し、敵80余りを討ちこれを破る。
浅井勢の力を借りるために佐々成政(佐々内蔵助)・福富秀勝(平左衛門尉)を遣わすが、浅井長政(浅井備前守)はこれを拒否。
坂井久蔵(坂井政尚嫡子)が武功を立て、足利義昭から感状を賜る。『信長公記』『言継卿記』永禄十一年九月十三日条
備考
以下は『信長公記』巻一 信長卿御入洛並坂井久蔵感状事の記述である。
同年9月7日の足利義昭への謁見から12日箕作山夜戦前までの様子をまとめて引用した。
信長卿御入洛幷坂井久蔵感状事
永禄戊辰九月七日、義昭公へ御暇申給ひて近江國攻傾、やがて御迎を奉るべしと被仰上、翌日美濃・尾張・伊勢三箇國之軍勢を相具し打立給ふ、先陣は早江州平尾近邊に充満せしかば、後陣は垂井・赤坂邊に控たり、信長卿も高宮に著給ひて、両日人馬の息をやすめ、同日十一日愛智川近邊を放火し、其夜は野陣をかけらる、片邊の小城ともをば屑もし給はずして、同十二日佐々木左京太夫入道抜關齋承禎が居城観音寺並に箕作山の城へ押寄んとて手分を定めて、其朝先信長卿箕作山の様體見渡さるべしとて森三左衛門尉・坂井右近将監其外小姓馬廻五百騎計にて打出らるゝ處に、敵よりも足軽少々出しけるに、森・坂井手勢引分馬を懸入、東西北南に懸やぶり、追散し城中へ追こみ、敵八十餘討捕時を噇と上たりけり、角て宣ひけるは道途はよし先懸の勢をば悉愛知河表へ引取、観音寺に向て鶴翼に陣を取せ候へと柴田に被仰付けるが、各衆徒人々を被召て何様出張の験なくしては不可叶、箕作城を責べしと思ふは如何に皆々計ひ可申と仰ければ、坂井右近将監進出て、箕作と観音寺の間は少計のやうに見江て候、佐々木父子於目前て争か見捨候べき、先観音寺を押候はん御行候うてこそと申ければ、信長卿幸に浅井備前守自國の事也さぞ案内をも知つらん彼兩城の夾にわり入て押候へ箕作を責られ候はんと使者を遣し候ばやと仰ければ、各尤とこそ申けれ、さらば佐々内蔵助・福富平左衛門尉参て其由申候へと有しかば、兩人急馳向て其旨かくと申ければ、浅井も家老の者共召寄せ評諚ありけるが、何とやらんとかう御返事申煩うたる氣色ならば、兩人頓て心得定て罷成候まじとて馳歸て其旨申上けるに、信長卿もさぞ不快には思召けんなれども、今度浅井と初めての御見参、殊君臣の睦も未うひヽヽしき事なれば、打笑せ給ひて、然らば我勢を以両城の夾へわり入せ、承禎父子を押させ候べし、備前守に箕作を攻候へかしとて重て兩人被遣て云にて宣ひけるは、彼大ぬる者の浅井が所存にては兩條何もやは請候べし、其に究て疾々評議せよと仰けるに、只今せめられ候へと申者もあり、いやヽヽ夜に入責られ可然候はんやと申者もありけり、信長卿内々夜に入ば、責らるべしと思召けるにや日中に責候はゞ城中の兵ども多はもらさしなれど、坂井が申通に同じ候べし、皆々支度を致し、夜に入なば責候べしと軍中へ触させ玉ひけり、斯りける處に、佐々・福冨馳歸て、中々申上るまでも候はず、美濃・尾張の者より外には勇猛の者はいざしらず候と怒て申より外はなければ、信長卿却て兩人が氣色痛り思しけるにや、予亦かく察して早軍伍をば定たるぞ、心安思候へと御心よげにぞ仰ける、斯處に敵足軽を出しけるに、右近が嫡男坂井久藏少年未十三歳なりしが、城の山下掘際まで追詰、鑓を合せ散々につき合しが、遂に頸を捕て信長卿の見参に入ければ、大に感じ玉ひけり、角て其日の様子、義昭公へ注進有し時、久藏が働殊更に申上られければ、義昭公も類なき事なりとや思召けん感状をぞ被下ける、誠に馬に乗る姿さへあやうき程の者として、将軍の御感状に預る事は古き例にも有難かるべしと老若ほめぬ人こそ無りけれ、
同日 夜半
佐久間信盛(右衛門尉)・丹羽長秀(五郎左衛門尉)・木下秀吉(藤吉郎)・浅井新八が箕作山城を夜襲し攻め降す。
和田山城も開城。
これを見た六角父子、夜陰に紛れて観音寺を去る。『信長公記』『言継卿記』永禄十一年九月十三日条 『多聞院日記』永禄十一年九月十四日・十九日条
江州へ尾州之織田上総介入、昨日美作之城責落、同観音寺之城夜半計落云々、自焼云々、同長光寺之城以下十一二落云々、
『言継卿記』永禄十一年九月十三日条
(書き下し文)
江州へ尾州の織田上総介(織田信長)が入り、昨日箕作の城を攻め落とす。
同じく観音寺の城が夜半ばかりに落ちたと云々。
自焼と云々。
同じく長光寺の城以下十一・二が落ち云々。
備考
以下は『信長公記』巻一 箕作城攻落事付観音寺城開退事の記述である。
同月12日の箕作山夜襲から1~2日間に六角の臣18ヶ城が降るところまでの様子をまとめて引用した。
箕作城攻落事 付観音寺城開退事
去程に抜関斎承禎子息右衛門督義弼も兼て家老の共召寄信長當國發向せば、定て街道筋の城々を先攻むべし、然は和田山城は此度の手宛として内々拵置たり、此幸にとて、南都にても事にあうたる兵共をすぐり勝て籠置たり、信長卿當國の繪圖を委細にしつらへ、山野溝洫難易等幷敵の謀所をも賂を入こまゝゝしく間尋られしかば、観音寺和田山へ押寄する様にして和田山には美濃三人衆を押として差向られ、和田山よりは奥なる箕作の方へ勢を押廻し玉へば、佐々木案に相違してぞ見江たる、佐久間右衛門尉・木下藤吉郎・丹羽五郎左衛門尉・浅井新八は、兼て箕作の責手に定られたる事なれば、時を作かけゝゝ攻寄けるに、城の内にも吉田の某建部源八など籠たれば、山下へ人數を下し、一支へ支へんとしけるに、態弱々と會釋て人數をくりよせ、息をも不繼喚叫で攻ける間、不叶して城内へ引取んとしけるを追つめ山の半にしてはや能兵共二百騎計討捕、勇みにいさんだる事なれば、此勢ひをぬかすな懸れや者どもと、四人の大将々々下知しければ、元より望む所なりなじがは少もたゆむべき、皆ひたヽヽと堀際へ付て、旗さし物なんどを投入打入面もふらず込入んとしければ、敵難怺や思けん笠を出して其に詰められたるは誰々やらんと云ければ、佐久間が手に與せし佐久間久六・原田與助、木下が手に與せし竹中半兵衛尉・峰次賀彦右衛門尉・木村隼人正、丹羽が手に與せし林志島などゝ答へければ、是までは持は持て候へども、一命を被助候はゞ、旗を巻鉾を逆にして降るべきと申ける間、即此由四人の大将へ注進しけるに、信長卿も幸彼が手に御座しける間、佐久間進出先城中の者ども一命を助け城を請取可申と存ずるはいかゞ候べきと窺申ければ、兎も角も事の能様に計候へと宜ひし間、箕作を請て勝時を噇とぞ上たりける、佐々木案に相違してこと見江たりけれ、箕作城落去せしに依て、和田山城も其夜開退く、観音寺にも兎やせん角やあらまじ、なんどひしめき騒ぎけるに、三雲新左衛門尉・同三郎左衛門尉申しけるは、是にこたへさせ給ふとも詰ては叶べからず、一先落させ玉ひ、身を全して時莭を待、一度會稽の恥を雪かんと思召さば、疾々我等が居城へ退せられ候へ、乍去家老の面々如何計被存候と聲を放て申ければ、各も内々退たくは有尤をこそ申されけるもの哉、あの鬼がみの様なる信長に、加様に成果中々敵對申事思ひも寄らず候とかうせば、夜も明なんず早とくヽヽと同じければ、數年住馴し所なれば名残をしくはあんなれども、上下共に唯命を助かり度思ければ、自ら執着は切てけり、何の御曹司をば誰圍申ぞ尊丈其は何としたなど云計にて、君臣上下の分もなく上を下へと観音寺坂を下り立て、女子供は聲をばかりに悲みあひて誰かれと呼ふ聲々餘りに分もさだからぬば、聞得て答る人もなし、寔に一年平家の人々都を落させ給ひし形勢も、角やと知れて哀なり、角て観音寺の城落去しければ、所々に楯籠し城々共一日二日の内に十八箇所まで開退、其外味方に降る輩をば人質を取、其まゝ己が居城に置せ給ふもあり、退散したる城々には、宗徒の人々入置けれり、爰に氏家常陸介入道ト全・稲葉伊豫守・伊賀伊賀守彼等三人は元来美濃國守護齋藤右兵衛大夫龍興が家子なりしが、近年は信長卿の幕下に属しぬ、然ば城攻等の先駈をば定て我々にこそ被仰付候はんと兼ては思ひまうけたる處に、御手の衆に攻させら候事事外なる御行哉と思ければ、今夜は先陣を申請て忠勤を抽べしとぞ励ける、誠大将たる人は無親疎遠近之間、慈仁を以先とすべき事樞要也、皆此君の御爲ならば一命をも顧みず忠功を励むべしと其氣日々新た也、抑近江國中の城々将碁倒しをする様に、波羅々々と落去したる事は信長卿の一胸襟より出たる智謀ぞ、和田山なんどに攻懸り玉はゞ、能兵をば失ひながら、加様にはかは行まじきか、兼て敵の謀を能聞召たればこそ角はなりけれ、嗚呼謀略の益たる事挙て申さんもいか計ぞと、浅井が家老に赤尾美作守申たりければ、傍の人聞て未智謀の深事知り給はずや、漢の高祖の終を有しも、臣等には張良三寸の舌を以王者の師と成し事も何故ぞや、全深慮の外あらばこそとてあざ笑て立たりければ、各目ひき鼻ひきいしくも申たる物哉と思入たる氣色は最もかしうぞ見江たりける、
※洫(みぞ)
※怺(こらえる)「堪」に同じ。「敵堪え難き」
※與(くみす・よ)「与」の旧字。「与せし」「原田与助」
※圍(かこむ)「囲」の旧字。
※樞(すう) 「枢」の旧字。
(書き下し文)
「箕作城攻め落とす事 付けたり、観音寺城開退の事」
去程に抜関斎承禎(六角承禎)の子息右衛門督義弼も、かねて家老の共召し寄せ、信長当国へ発向せば、定めて街道筋の城々を先に攻むべし。
然らば和田山城はこたびの手当たりとして内々に拵え置きたり。
この幸いにとて、南都(奈良)にても事にあうたる兵どもをすぐり勝て籠め置きたり。
信長卿当国の絵図を委細に設え、山野溝々の難易等並びに敵の謀所をも賂いを入れ、細々しく間尋ねられしかば、観音寺・和田山へ押し寄せする様にして、和田山には美濃三人衆を抑えとして差し向けられ、和田山よりは奥なる箕作の方へ、勢を押し廻し給へば、佐々木(六角父子)案に相違してぞ見えたる。
佐久間右衛門尉(佐久間信盛)・木下藤吉郎(木下秀吉)・丹羽五郎左衛門尉(丹羽長秀)・浅井新八は、かねて箕作の攻め手に定められたる事なれば、時を作かけかけ攻め寄せけるに、城の内にも吉田の某建部源八など籠もりたれば、山下へ人数を下し、一支へ支えんとしけるに、わざと弱々と会釈(解釈)して、人数をくりよせ、息をも継がず喚き叫びて攻めける間、叶わずして城内へ引き取らんとしけるを追いつめ、山の半ばにして、はや能兵ども二百騎ばかりを討ち捕り、勇みにいさんだる事なれば、「この勢いをぬかすな。懸かれや者ども」と、四人の大将大将下知しければ、元より望む所なり。なじがは少しもたゆむべき。皆ひたひたと堀際へ付きて、旗さし物などを投げ入れ、打ち入る面もふらず込み入らんとしければ、敵堪え難きや思けん笠を出して、それに詰められたるは誰々やらんと云いければ、佐久間が手に与せし佐久間久六・原田与助、木下が手に与せし竹中半兵衛尉(竹中重治)・蜂須賀彦右衛門尉(蜂須賀正勝)・木村隼人正、丹羽が手に与せし林志島などと答へければ、是までは持は持て候へども、一命を助けられ候はば、旗を巻鉾を逆にして降るべきと申しける間、即ちこの由四人の大将へ注進しけるに、信長卿も幸い彼が手に御座しける間、佐久間が先ず進み出て、「城中の者ども、一命を助け城を請け取り申すべしと存ずるはいかがに候べき」と窺い申しければ、「兎も角も事の良きように計らい候へ」と宜ひし間、箕作を請て勝鬨を「どう」とぞ上げたりける。
佐々木案に相違してこと見えたりけれ、箕作城落居せしによりて、和田山城もその夜開け退く。
「観音寺にも兎やせん斯くやあらまじ」などひしめき騒ぎけるに、三雲新左衛門尉(三雲成持)・同三郎左衛門尉(三雲定持)申しけるは、「これに堪えさせ給うとも、詰めては(籠城したままでは)叶うべからず。ひとまずは落させ給い、身を全うして時節を待ち、一度会稽の恥をそそがんと思し召さば、早々と我らが居城(三雲城)へ退かせられ候へ」
去りながら、家老の面々いかばかり存ぜられ候と声を放ちて申しければ、「各々も内々退たくば、尤も有をこそ申されけるものかな。あの鬼神の様なる信長に、斯様に成り果て中々敵対申す事思いも寄らず候と抗せば、「夜も明けなんず早とくとくと同じければ、数年住み馴れし所なれば、名残り惜しくはあんなれども、上下共に唯命を助かりたく思いければ、自ら執着は切りてけり。何の御曹司をば誰囲み申すぞ尊丈(そんじょう)其は何とした」
など云うばかりにて、君臣上下の分もなく、上を下へと観音寺の坂を下り立て、女子供は声をばかりに悲しみ哀いて誰かれと呼ぶ声々余りに分もさだからぬば、聞き得て答える人もなし。
誠に一年平家の人々、都を落させ給ひし形勢も、斯やと知れて哀れなり。
斯くて観音寺の城落去しければ、所々に立て籠もりし城々ども、一日~二日の内に十八箇所まで開き退く。
そのほか味方に降るともがらをば人質を取り、そのまま己が居城(岐阜)に置かせ給うもあり。
退散したる城々には、宗徒の人々入れ置けれり。
ここに氏家常陸介入道ト全・稲葉伊予守(稲葉良通)・伊賀伊賀守(安藤守就)彼等三人は、元来美濃国守護斎藤右兵衛大夫龍興が家子なりしが、近年は信長卿の幕下に属しぬ。
然らば城攻ぜ等の先駆けをば、定めて「我々にこそ仰せ付けられ候はん」とかねては思いもうけたるところに、御手の衆に攻めさせら候事、殊のほかなる御てだてかなと思いければ、今夜は先陣を申し請けて、忠勤を抜きんでるべしとぞ励みける。
まこと大将たる人は親疎無く遠近の間、慈仁を以って先とすべき事枢要なり。(以下割愛)
9月13日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月十三日条
一、一坂へ毛見ニ等春ヲ雇、少太郎付下了、近日ニ木津へ給人松浦可有働之由雑説半也、いかゝ、及晩三千ほとにて入了、兩人カセ山へニケ入了、
一、上意御入洛近々相調之由、諸方より多聞山へ注進在之云々、
備考
松浦氏の大方の説明は本年5月8日の項に記載。
9月13~14日
南近江に籠城する六角氏の臣、開城して降伏。
合わせて18ヶ城が降り、信長に人質を差し出す。
これらの城々に氏家ト全(常陸介入道ト全)・稲葉良通(伊予守)・安藤守就(伊賀伊賀守)を入れ置く。『信長公記』
備考
日野城主蒲生賢秀もこの時信長に降った一人。
賢秀は徹底抗戦を貫く決意であったが、すでに信長に降っていた妹婿の神戸具盛(神戸蔵人)の説得により、城を明け渡して降伏。
嫡子の鶴千代を質に出した。
9月14日
信長、観音寺山に登り陣を敷く。
不破光治(不破河内)を迎えの使者として立正寺にある足利義昭のもとへ派遣。『信長公記』巻之上(我自刊我本)
備考
この様子は同年9月23日の足利義昭、観音寺城下の桑実寺に到着の備考にまとめて載せた。
同日
正親町天皇、信長に禁中の警護と、京都市中における軍勢の乱暴狼藉の禁止を命じる。『経元卿御教書案』
入洛之由既達叡聞、就其京都之儀、諸勢無乱逆之様可被加下知、於禁中陣下者、可令召進警固之旨、依天気執達如件、
九月十四日 左中弁経元
織田弾正忠殿
(書き下し文)
入洛の由すでに叡聞に達す。
それに就きて京都の儀、諸勢乱逆無きの様に下知を加えらるべし。
禁中陣下に於いては、警固を召し進らしむべきの旨、天気に依って執達くだんの如し。(以下略)
備考
この綸旨の発給者は甘露寺経元。
叡聞(えいぶん)は天皇がお聞きになることを指す。
禁中は皇居のこと。禁裏ともいう。
陣下(じんげ)は政務を執る場所のこと。
甘露寺家は勧修寺流に属す公家で中御門・万里小路家と同門の家格で、正二位・権大納言を極位極官とする。
同日
大納言の万里小路惟房、織田信長と明院良政に禁中の警固を求める旨の書状を発給。『立入宗継文書』
御出張珍重候、就其被成綸旨、京都之儀、禁中御警固以下堅固被申付候者、可被悦思食之旨被仰下候、猶明院可被申候、巨細磯谷両人仰含候也、謹言、
九月十四日 惟房
織田弾正忠殿
(書き下し文)
御出張珍重に候。
それに就きて綸旨を成され、京都の儀、禁中御警固以下を堅固に申し付けられ候はば、悦び思し食さるべきの旨を仰せ下され候。
なお明院(明院良政)申さるべく候。
巨細は磯谷(磯谷久次)両人に仰せ含め候なり。謹言(以下略)
就霜台出張之儀、被成綸旨候、諸勢堅被申付、京都之儀、無別儀之様肝要候、禁中可被召進御堅固候者、可然之旨被仰進、御馳走所仰候、猶磯谷両人可申候也、謹言、
九月十四日 惟房
明院御房
(書き下し文)
霜台出張の儀に就きて、綸旨を成され候。
諸勢に堅く申し付けられ、京都の儀、別儀無きのように肝要に候。
禁中に御堅固を召し進らせらるべく候はば、然るべきの旨を仰せ進らせられ、御馳走仰する所に候。
なお磯谷(磯谷久次)両人申すべく候なり。謹言。(以下略)
備考
明院とは信長側近の一人である明院良政。
磯谷氏は近江甲賀郡の山中の領主で、久次の女が宮中を出入りする御倉職の立入宗継に嫁している。
磯谷両人とは久次・宗継のことだろう。
霜台(そうたい)は 弾正台の唐名で織田信長のことである。
万里小路家は藤原北家の流れをくむ公家で、極官を大納言とする家格であったが、稀に内大臣まで昇進を遂げる者もいた。
なお、惟房と正親町天皇は従兄弟同士である。
同日
京中大騒動となる。『言継卿記』永禄十一年九月十四日条
六角入道紹貞城落云云、江州悉焼云々、後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、久里七人、敵同心云々、京中邊大騒動也、此方大概之物内侍所へ遣之、
自禁裏御庚申に可参之由有之間暮々参内、然處從方々注進、尾州衆明曉出京必定云云、倉部、薄等遣、相殘雑具内侍所台所等へ巳刻取寄了、今夜於御三間御碁、若宮御方、晴豊被遊之、出御、伏見院宸筆往来講私記被一覽、予讀之、今夜当番持明院宰相、橘以継雅英代、其外予、晴豊計也、台物又柿栗被出御酒賜之、音曲有之、夜半鐘以後退出了、晴豊御添番云々、終夜京中騒動、不可說々々々、江州悉落居故云々、
(書き下し文)
六角入道承禎の城が落ち云々。
江州悉く焼けると云々。
後藤、長田、進藤、永原、池田、平井、久里の七人、敵へ同心と云々。
京中辺り大騒動なり。
こなた大概の物、内侍所へこれを遣る。
禁裏より御庚申に参るべきの由これ有るの間、暮々に参内。
然るところ方々の注進より、尾州衆明暁に出京は必定と云云。
倉部、薄等を遣わし、相残る雑具を内侍所・台所等へ巳刻に取り寄せおわんぬ。
今夜御三間に於いて御碁を若宮御方(誠仁親王)、晴豊(勧修寺晴豊)が遊ばる。
御を出、伏見院、宸筆の往来講私記を一覧せらる。
予もこれを読む。
今夜の当番は持明院宰相(持明院基孝カ)、橘以継(雅英の代わり)、そのほか予、晴豊ばかりなり。
台の物はまた柿栗を出され御酒を賜る。
音曲これ有り。
夜半の鐘以後に退出しおわんぬ。
晴豊は御添番し云々。
終夜京中騒動。
不可説不可説。
江州悉く落居ゆえに云々。
備考
当時の庚申日は、当番の公家が宮中に呼ばれ、一夜を宿直するのが習わしであった。
本年の9月14日は、その庚申日にあたる。
倉部は言継側近として同文書で頻繁に登場する人物。
薄は橘以継のことで、言継の次男として薄家の養子となった人物。
宸筆は天皇御自らが記したものである。
同日
奈良では三好宗渭(釣閑斎)と香西氏が3000の兵で木津ノ平城に入城。
鹿背山城下の里で田畠の薙ぎ払いが行われる。『多聞院日記』永禄十一年九月十四日条
今日於江州合戦在之云々、両方勝負は不聞、
一、昨日釣閑斎・香西以下三千ほとにて木津ノ平城へ入候、毛見ニ下處やうゝゝ鹿山城へ逃入了、里ノ近邊ハ苅田沙汰之、今日雨下、
(書き下し文)
今日江州に於いて合戦これ在り云々。
両方勝ち負けは聞かず。
一、昨日釣閑斎・香西以下三千ほどにて木津の平城へ入り候。
毛見に下るところ、ようよう鹿山城へ逃げ入りおわんぬ。
里の近辺は刈り田これに沙汰す。今日雨下る。
備考
江州合戦の記述は、伝聞と時差の点を考慮しなければならない。
木津の平城の詳細は不明。
市街地に埋没しているためか、遺構はほとんど遺っていないそうだ。
鹿背山城は木津近辺にあった城で、当時は松永方であった。
戦況が不利にも関わらず、久秀がここまで持ち堪えたのは、多聞山・信貴山・鹿背山など強固な城郭をいくつも拵えていた点もあったのかもしれない。
なお、信貴山は同年6月29日にすでに陥落している。『多聞院日記』永禄十一年六月二十九日条
9月16日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月十六日条
及晩木津へ立衆引退、西京へ陳取了、
9月17日
織田勢、蒲生郡鏡山村の薬師勝手神社を襲う。『鏡山村薬師勝手神社棟札』
右前之御本者、尾張国織田信長、当国乱入時、彼党輩、永禄十一年丁辰九月十七日当所乱入、僧坊在家放火之余炎、当社吹懸、七社之御宝殿、並拝殿、七間御供所、宝蔵、鐘楼、如法経堂、庵室、薬師堂悉焼失畢、
(書き下し文)
右前の御本者、尾張国織田信長、当国乱入時、かの党輩、永禄十一年丁辰(1568)九月十七日に当所へ乱入。
僧坊在家放火の余炎、当社に吹き懸かり、七社の御宝殿、並びに拝殿・七間御供所・宝蔵・鐘楼・如法経堂・庵室・薬師堂が悉く焼失しおわんぬ。
備考
鏡山村薬師(くずし)村は竜王町にある。
集落の東寄りを県道春日竜王線が南北に通り、祖父川が南北に流れている。
『角川日本地名大辞典25滋賀(1979)』によると、他にも
“当時延暦寺の支配下にあった箱石山雲冠寺・星宿山西光寺の壮大な堂舎伽藍が焼滅され廃墟と化したが,今日その跡がしのばれる。”
とあるが詳細は不明。
同日
観音寺を落ち延びた六角父子、甲賀に移って望月氏の庇護をうけるも、信長の追撃を警戒し伊賀へ移動を開始。『甲賀郡南杣村木村政延氏文書』
今度宿之儀頼入候処、別而入魂難忘候、仍郡内之儀、織田可有行之由候而物忩之間、至于伊賀打越候、雖勿論之儀候、出張之刻、必当屋敷え可入城候間、不相易馳走可為喜悦候、猶高野瀬備前守、狛修理亮可申候、恐々謹言、
九月十七日 義治(花押)
望月吉棟殿
(書き下し文)
この度宿の儀を頼み入り候ところ、別して昵懇忘れ難く候。
仍って郡内の儀、織田のてだて有るべくの由候て物騒の間、伊賀に至りて打ち越し候。
勿論の儀に候えども、出張の刻み、必ず当屋敷へ入城すべきに候間、相易しからず馳走喜悦たるべく候。
なお高野瀬備前守・狛修理亮申すべく候。恐々謹言(以下略)
同日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月十七日条
少太郎一坂へ下了、坊領一本も不苅取、先以珍重々々、併神力也、
9月18日
信長、勅使を観音寺城に迎え、正親町天皇の綸旨と万里小路惟房からの副状を受け取る。
さらに正親町天皇と夫人御作の台物と唐墨を拝領し、勧修寺大納言に返書を認める。『安土村総見寺所蔵文書』『近江蒲生郡志』巻十
就当国在陣被立勅使候、殊 (欠字)御作台物、並唐墨従御両所様拝領、即頂戴忝存候、此表之趣、自是雖可致言上候上揆之類還如何遠慮仕候、然而被仰下之條、無冥加之次第ニ候、此等之旨、宜被達叡聞事、可為大慶候、恐々謹言、
九月十八日 信長(朱印)
勧修寺大納言殿
(書き下し文)
当国在陣に就きて勅使を立てられ候。
殊に (欠字)御作の台物、並びに唐墨を御両所様より拝領。
即ち頂戴忝く存じ候。
この表の趣き、これより言上致すべき候といえども、上揆の類還如何遠慮仕り候。
然して仰せ下さるるの条、冥加無きの次第に候。
これらの旨、宜しく叡聞に達せらるる事、大慶たるべく候。恐々謹言(以下略)
備考
欠字は一字分スペースを空けることによって、貴人に対して敬意を払うことである。
本状において敬意をはらうべき対象は、正親町天皇である。
宛所の勧修寺大納言は勧修寺晴右。
なお『近江蒲生郡志』は大正11年(1922)に初版が出され、昭和47(1972)年と同55年(1980)に復刻版が出版されている。
同日
足利義昭奉公衆の細川藤孝、西養坊に先規の通りに参陣するよう要請。『富田仙助氏所蔵文書』二
来廿四日御入洛候、如先規御参陣、不可有御断之由、被仰出候、恐々謹言、
□月十八日 細川兵部大輔
藤孝(花押)
西養坊
(書き下し文)
来たる二十四日御入洛候。
先規の如くに御参陣、御油断有るべからざるの由を仰せ出され候。恐々謹言(以下略)
備考
宛所の西養坊は不明。
文脈から本年9月18日付と見て間違いはないだろう。
9月19日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月十九日条
江州之様篇々沙汰之大略六角方負歟、
9月20日
[参考]『言継卿記』永禄十一年九月二十日条
織田明朝出張必定之由有之、騒動以外及暁天也、
9月21日
信長、越後の上杉輝虎への返書として、近況を伝える旨の書状を発給。『蕪木文書』『越佐史料』四
芳翰之趣本望存候、仍去七日御入洛、至江南令着陣候、国々之儀平均ニ申付候、然者来廿四日可為御渡海候、弥被任御本意候、此等之通可得御意候、恐々謹言、
九月廿一日
直江大和守殿 信長
(書き下し文)
芳翰の趣き本望に存じ候。
仍って去七日御入洛、江南に至りて着陣せしめ候。
国々の儀平均に申し付け候。
然らば来たる二十四日に御渡海たるべく候。
いよいよ御本意に任せられ候。
これらの通り御意を得べく候。恐々謹言(以下略)
備考
芳翰(ほうかん)は輝虎の書状を敬った表現である。
他に「珍翰」・「珍札」・「貴札」などがある。
「去七日御入洛」とあるのは、9月7日に信長が足利義昭と会見し、上洛の決意を述べたことであろう。『信長公記』
本状からはこれから三好勢との決戦に臨む信長の意気込みが感じられる。
同日
伊賀に逃れた六角父子、伊賀国武士の友田氏の庇護を受け、音羽郷(音波)に移る。
承禎は友田氏(友田山内殿)に気遣いを謝する書状を発給。『川合文書』『三国地志』
今度於音波相越候之処、路次送並種々機遣、其懇意段不可忘候、殊更切々見舞尤祝着候、弥入魂肝要候、猶繁岡可申候、恐々謹言、
九月廿一日 承禎(花押)
友田山内殿
(書き下し文)
この度音波に於いて相越し候のところ、路次の送りならびに種々の気遣い、その懇意の段忘るべからず候。
殊さら切々に見舞もっとも祝着に候。
いよいよ昵懇肝要に候。
なお繁岡申すべく候。恐々謹言(以下略)
備考
『戦国遺文 佐々木六角氏編』によると、この文書は写のようだ。
上記の翻刻は『近江蒲生郡志』巻十によるもの。
『戦国遺文』は「路次送幷種々機遣、其懇意段不可忘候、」のところを「路次送幷種々機遣共懇意段、可可相忘候、」としている。
同日
足利義昭、西庄を立ち、近江国坂田郡柏原の成菩提院に泊まる。『信長公記』巻之上(我自刊我本)『近江蒲生郡志』巻十
備考
この時期の『信長公記』の日付については慎重に扱う必要がある。
同日
[参考]『言継卿記』永禄十一年九月二十一日条
今日之出張延引云々、来廿四日必定云々、
9月22日
信長、百済寺に3ヶ条からなる条書を発給。『百済寺文書』
条々 百済寺
一、当寺諸事寺法之儀、可為如前々、寺領之内へ臨時之課役等、一切不可申懸之事、
一、惣寺物、所務以下散在ニ有之諸知行分、如前々不可相違、尚以当寺知行方不可付給人、並山林・竹木伐採儀、不可有之事、
一、当寺之儀、此方為祈願所之条、自何方も非分族雖申懸輩、不可有承引事、
永禄十一
九月廿ニ日 弾正忠(朱印)
(書き下し文)
条々 百済寺
一、当寺の諸事寺法の儀、前々の如くたるべし。
寺領の内へ臨時の課役等、一切申し懸くべからざるの事。
一、総寺の物、所務以下散在にこれ有る諸知行分、前々の如くに相違すべからず。
なお以って当寺の知行方は、給人を付すべからず。
並びに山林・竹木伐採の儀これ有るべからざるの事。
一、当寺の儀、此方祈願所たるの条、何れ方よりも非分のやから申し懸くるともがらといえども、承引有るべからざるの事。(以下略)
(備考)
百済寺(ひゃくさいじ)は愛知郡(現東近江市百済寺町)に存在する天台宗の寺。
現在も湖東三山の一として有名である。
寺伝によれば、推古天皇14年(606)に聖徳太子が建立し、百済の僧恵聡・道欣・勧勒らが来住したことが名の由来とある。
勅願所となり、一山僧坊600を数えるほど栄えるも、明応7年(1498)の火災で本堂などが焼け、文亀3年(1503)には六角氏とその有力被官である伊庭貞隆の争いで多くが焼失した。
信長の祈願所とあるのが意外である。
というのは、この後六角氏が近辺の鯰江城に立て籠もった際、同寺は六角氏に味方して織田信長の焼き討ちを受けて灰燼に帰したからだ。
大方の語訳は以下の通り。
1.百済寺の諸事に関する寺法はこれまで通り認めるものであり、臨時の課役等は一切求めない。
2.百済寺の雑具や各地に散在している知行地、年貢の徴収権等は、これまで通り保証する。
なお、百済寺所有の知行地を、給人(知行人)につけてはならない。
並びに竹木や山林を伐採してはならない。
3.百済寺は信長の祈願所であるため、例え誰からの圧力があっても不当な要求を受け入れてはならない。

