凡例
- 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
- 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
- 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。 - 文書名は慣用の略称にしたがった。
- 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
- 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
- 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
- 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
参考程度に留めていただきたい。 - 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
- 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
なお、その場合は備考欄に記すこととする。 - 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。
正月
1月1日
河内の津田衆らが松永方へ寝返り、河内国で三人衆方と交戦。『多聞院日記』『言継卿記』『細川両家記』
去朔日、津田城多聞山へ裏帰色立了、則河州出口にて及一戦、木澤ノ紀伊守討死了、則首ニ多聞山へ来了、マエサクマト云タル仁也ト、
『多聞院日記』永禄十一年正月五日条
(書き下し文)
去一日、津田城多聞山へ裏返る色を立ておわんぬ。
則ち河州出口にて一戦に及び、木澤の紀伊守討死しおわんぬ。
則ち首に多聞山へ来たりおわんぬ。
マエサクマト云うたる仁なりと。
烏丸へ罷向、極位珍重之由申之、宰弔之時分云々、申置了、次長橋局へ罷向、理性院、蔭亮等被來、吸物にて酒有之、次竹内殿へ参、暫御雑談有之、河州津田、城州田邊、松永方へ一味云々、仍河内路通路無之云々、
『言継卿記』永禄十一年正月八日条
同十一月日、伏見の津田、松永方へ一味して、多門より加勢之由也、
『細川両家記』
(備考)
津田は河内国交野郡(現枚方市)にある地で、中世期に新興土豪の津田氏が現れ、延徳2年(1490)頃、国見山に城を構えた。『三之宮日記』『津田史』
『角川日本地名大辞典 27 大阪府(1983)』によると、永禄2年(1559)8月20日の交野郡五ヶ郷惣侍中連名帳(三宮神社所蔵文書/枚方市史6)によれば,津田村・藤坂村・杉村・芝村・穂谷村の「侍中」の組織を「別当津田筑後守中原範長」が統制していたとある。
1月2日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年正月五日条より
去二日至堺津三好千鶴殿御渡海了、則従十市も使河権被越了ト、
1月9日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年正月九日条より
今井より多聞へ音信之荷來候間、翌日送て遣了、
1月17日
番替えのため三好長逸(三好日向)・池田衆らが奈良に出陣。『多聞院日記』永禄十一年正月十七日条
西の城番替ニ、三好日向・池田衆以下来了、
この頃
越前朝倉氏と加賀一向宗が和睦か。『多聞院日記』永禄十一年正月十七日条
越前より一切経承仕上了、加賀と越前と和談事、上意越州一乗へ被移、於御座被仰調悉以無事也云々、
この頃
三好義継(左京大夫殿)多聞山城を出て河内津田城に入る。『細川両家記』
永禄十一年戊辰年正月日、三好左京大夫殿多門城より津田城へ御入候也、
備考
同文書には詳しい日付までは記述がない。
大きな戦闘が行われた同月1日の後詰として義継が出陣したのか、その後に津田城に入ったのかはわからない。
2月
2月1日
公家の山科言継、宝鏡寺にて足利義栄(今御所)の病状の噂を聞く。『言継卿記』永禄十一年二月一日条より
近衛殿へ御礼に参、御盃被下之、次寶鏡寺殿へ参、今御所尋申之、御腫物は御験気、御気煩御不食云々、
(書き下し文)
近衛殿へ御礼に参る。
御盃これを下さる。
次いで宝鏡寺殿へ参る。
今御所(足利義栄)これを尋ね申す。
御腫物は御験気。
御気煩い・御不食と云々。
2月2日
[参考]『言継卿記』永禄十一年二月二日条より
自頭中将将軍宣下之一通到、
追上啓
将軍宣下事候、同可得其御意候也、
来八日可有宣下事、可令参陣給、者依天気上啓如件、
二月二日 右中将重通
謹上 師中納言殿
(書き下し文)
頭中将より将軍宣下の一通到る。
追って上啓す
将軍宣下の事に候。
同じくその御意を得べく候なり。
来たる八日宣下有るべきの事、可令参陣給わりせしむべし。
てえれば天気により上啓くだんの如し。(以下略)
2月4日
足利義栄の将軍宣下が同年2月8日に行われることが決まり、宮中ではその準備で慌ただしくなる。『言継卿記』永禄十一年二月四日条
勧修寺黄門被来、富田之武家将軍宣下可為来八日、上卿之事内々被示之、尚従奉行可被触之由有之、
烏丸へ罷向、見参、來八日袍借用之事申之、内々同心也、次勧修寺黄門へ罷向、八日之将軍宣下之下行以下之事申談了、雙六有之、次持明院へ罷向、表袴借用之事申之、同心也、次長橋内侍所臺所等へ立寄、次高辻へ罷向、一盞有之、來八日依體笠可借用之由申之、叉念珠之道明寺菩提子等約束之間遣之、次甘露寺へ罷向、來八日に裾之事申之、
(書き下し文)
勧修寺黄門(勧修寺晴右)来たる。
富田の武家(足利義栄)の将軍宣下は来たる八日たるべし。
上卿の事内々にこれを示さる。
なお奉行より触れらるべきの由これ有り。
烏丸(烏丸光康宅)へ罷り向かう。見参。
来たる八日袍借用の事これを申す。
内々に同心なり。
次いで勧修寺黄門(勧修寺晴右)へ罷り向かう。
八日の将軍宣下の下行以下の事申し談じおわんぬ。
雙六これ有り。
次いで持明院(持明院基孝宅)へ罷り向かう。
表袴借用の事これを申す。
同心なり。
次いで長橋内侍所台所等へ立ち寄る。
次いで高辻(高辻長雅宅)へ罷り向かう。
一盞これ有り。
来たる八日の体に依り笠を借用すべしの由これを申す。
また、念珠の道明寺菩提子等へ約束の間これを遣す。
次いで甘露寺(甘露寺経元宅)へ罷り向かう。
来たる八日へ裾の事これを申す。
※袍は束帯・衣冠の時に着る上着
※下行(げぎょう)は下賜する物品。
※一盞は(いっさん)は一杯の盃。
備考
他にも同書は、将軍宣下の日までの準備を克明に記している。
黄門は中納言の唐名。
勧修寺晴秀は昨永禄10年(1567)12月に諱を晴右と改めている。
2月8日
信長、越後上杉氏の重臣直江景綱(大和守)へ無音を詫び、進物を贈る旨の書状を発給。『上杉家文書』一 (永禄十一)二月八日付織田信長書状案
態以使者申達候、其以来者、路次無自由故無音、本意之外候、然者雖無見立候、糸毛之腹巻・同毛之甲進覧、誠御音信計ニ候、猶重而可申宣由、可得御意候、恐々謹言、
二月八日 尾張守信長
謹上 直江大和守殿
(書き下し文)
わざと使者を以て申し達し候。
それ以来は、路次自由無き故に無音、本意のほかに候。
然らば見立て無く候といえども、糸毛の腹巻・同じく毛の兜を進覧。
誠に御音信のばかりに候。
なお重ねて申し述ぶべきの由、御意を得るべく候。恐々謹言(以下略)
備考
織田信長が「尾張守」を名乗る数少ない文書の一つである。
「尾張守」が最初に見られるのは『多聞院日記』の永禄九年(1566)七月十七日条から。
上洛に向けての軍事行動を活発化させた永禄11年(1568)5月から、信長は「弾正忠」を称しはじめる。
なお、この文書は署名のみあり、花押や印判、脇付はないようである。

