凡例
- 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
- 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
- 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。 - 文書名は慣用の略称にしたがった。
- 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
- 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
- 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
- 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
参考程度に留めていただきたい。 - 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
- 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
なお、その場合は備考欄に記すこととする。 - 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。
5月
5月8日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年五月八日条より
松浦方使衆ニ付、野田与理祢宜可遣、種々申分了、則松肥へ卅疋、使衆三人へ十疋ツヽ遣之、
備考
和泉国は代々、細川和泉上守護家が支配し、細川宗家を支える上で重要な役割を果たしていた。
しかし、相次ぐ戦乱により当主の元常・晴貞は力を落とし、代わって重臣の松浦氏が三好氏の後援を受けて実力をつけていった。
「松肥」とあるのは松浦肥前守のことで、松浦光あるいは松浦まんみつと呼ばれる人物である。
彼は十河一存の子として生まれ、松浦盛(周防守)の養嗣子となった。
三好家は、十河一存、三好実休、三好義興さらには三好長慶が相次いで亡くなると、大きな内紛が起きる。
この永禄11年(1568)時点では、松浦肥前守は実の兄弟である三好義継に味方しており、ともに足利義昭を支える松永久秀や織田信長と陣営をひとつにしていたと考えられるが、必ずしも松浦分国内の政情は安定していたわけではなかった。
なお、この時期の『多聞院日記』には「今井」の名がたびたび見えるが、今井宗久と松浦肥前守は昵懇の関係であったようだ。
5月17日
足利義昭、朝倉屋形を訪問。『朝倉亭御成記』
備考
義昭の御成りは午刻で、御剣を上野陸奥守が持ち、騎馬衆六人、御走衆六人、同朋・御小人百余人が近臣二十人ほどとともに一刻ばかり前に出立し、義昭は二条晴良に先導されて出御した。
この時の警固役が氏家・真柄・北村・千秋氏のようだ。
5月19日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年五月二十二日条より
去十九日、山城へ津田ヨリ篠原並釣閑斎一万五千ほとにて打廻在之、狛・□八妻モ不仕居、木津噯も不調、無殊儀、今日西京表へ打越陳取了、奈良中ヘハ人数不入、
備考
津田に関しては本記事永禄11年(1568)1月1日項を参照のこと。
篠原と三好宗渭(釣閑斎)はともに足利義栄を支える有力武将で、この後織田信長や足利義昭と激しく争う人物である。
噯(あつかい)は和睦のことで、それが調わなかったのだろう。
5月24日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年五月二十四日条より
釣閑斎同道ニテ篠原右京進社参了、自是八幡へ被参了、
5月25日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年五月二十五日条より
篠原並釣閑筒井へ召請、成身院へ被来、及晩被下了、雨不下、
5月29日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年五月二十九日条より
篠・釣河州へ引退了、少々人数残了、ナラ中家陳ヲ取了、言悟々々、
6月
6月2日
三好長逸が上洛。『言継卿記』永禄十一年六月二日条
同日
筒井氏、河内国石切に要害を築くか。
喜多院家ノ北ノ方石切ノ町ニ、筒井ヨリ城拵了、ヤクラ屏一圓ナラ中へ申懸、人夫以下直カケラレ了、先代未聞之事、珍事ヽヽ、
(書き下し文)
喜多院家の北の方石切の町に、筒井より城拵えおわんぬ。
やぐら・塀一円を奈良中へ申し懸け、人夫以下直しかけられおわんぬ。
前代未聞の事。
珍事珍事。
6月6日
石成友通(石成主税助)や南方衆らが上洛。『言継卿記』永禄十一年六月六日条
石成主税助上洛云々、其外南方衆悉上洛云々、何事可出来乎、不知其故也、
(書き下し文)
石成主税助上洛と云々。
その他南方衆が悉く上洛と云々。
何事かが出来すべきや。
その故は知らずなり。
6月20日
足利義昭、紀伊粉河寺の惣分沙汰所に対し、畠山昭高と相談し、全山挙げて味方するように命じる旨の御内書を発給。『粉河寺文書』
備考
この御内書について一色藤長・細川藤孝が連署で副状を発給している。
翻刻は見つけ次第追記する。
6月24日
甲賀の住人の山中蔵人、三好三人衆方として河内三屋に出陣。
辰の刻に松永久通(松永右衛門佐)がこれを攻め破る。
山中蔵人討死。『言継卿記』『多聞院日記』
去廿三日、於津国表三人衆へへ甲賀衆三百計出テ討果了ト、
『多聞院日記』永禄十一年六月二十六日条
※津国(つのくに)は摂津国の古称
備考
三屋(みつや)は河内国茨田郡にある地。
天文6年(1537)12月24日付の『石清水文書』に「同国交野散在三屋郷等事」とあるほか、『私心記』の永禄3年(1560)7月23日条に「飯守人数出候テ、岡、三屋、出口、地下、中振等」が放火された旨の記述がある。
以下は同年6月23~26日までの『言継卿記』の記述を抜粋したものである。
『言継卿記』永禄十一年六月二十三日条
木幡口関之事、江州甲賀之山中蔵人に宇治郡十一ヶ郷自南方遣之間、可押領之由申、一昨日以人数雖打立、澤路筑後入道不承引于今堪忍之由、昨日注進之間、則三好日向守旅宿へ、以澤路隼人佑書状遣之、
「就木幡口役所之儀、先日対澤路入道、石主御両所無別儀御折紙調給候処、夜前山中蔵人如此両三人折紙相付、以人数令違乱候條、重而対蔵人御折紙調給候者、尤可為祝着候、尚可参申候、委曲澤路隼人佑可申入候、恐々謹言、
六月廿二日 言継
三好日向守殿」
(書き下し文)
木幡口関の事、江州甲賀の山中蔵人に宇治郡十一ヶ郷南方よりこれを遣すの間、押領すべきの由を申す。
一昨日人数を以て打ち立つといえども、澤路筑後入道承引せず、今に堪忍の由、昨日注進の間、則ち三好日向守(三好長逸)の旅宿へ、澤路隼人佑を以て書状これを遣す。
「木幡口役所の儀につきて、先日澤路入道に対し、石主御両所別儀無く御折紙を調い給い候ところ、夜前に山中蔵人かくの如く両三人へ折紙を相付け、人数を以て違乱せしめ候条、重ねて蔵人に対し御折紙調え給い候はば、もっとも祝着たるべく候。
なお参り申すべく候。
委曲澤路隼人佑申し入るべく候。恐々謹言
六月二十二日 言継
三好日向守殿」
『言継卿記』永禄十一年六月二十六日条
山中蔵人廿三日和州へ陣立、河州三屋に陣取、廿四日辰刻松永右衛門佐自身三百計、搦手面は七百計、以上千計にて取懸、山中以下悉討捕云々、五十計逃云々、松尾之邊へ来、具足二両有之、腰刀以下悉捨之云々、
(書き下し文)
山中蔵人二十三日和州へ陣を立て、河州三屋に陣取る。(三百五十人ばかりこれ有ると云々)
二十四日辰刻に松永右衛門佐(松永久通)自身三百計、搦手面は七百ばかり、以上千ばかりにて取り懸かり、山中以下を悉く討ち取り云々。
五十ばかりは逃げ云々。
松尾の辺へ来、具足二両これ有り。
腰刀以下は悉くこれを捨て云々。
6月25日
信長、上杉輝虎側近の直江景綱(大和守殿)に甲斐武田氏との和睦について書状を発給。『歴代古案』一 (永禄十一)六月二十五日付織田信長書状写
去比種々御懇慮不知所謝候、仍自甲州可有和親之旨、度々被申越候、雖然于今無入眼候、随而越・甲御間之儀、和談雖申噯度候、貴辺依難測令遠慮候、併賢意次第可致馳走事候、後御返事様子承届、自是可申入候、委曲佐々一兵衛可申候、恐々謹言、
六月廿五日 織田尾張守
信長
直江大和守殿
(書き下し文)
去る頃、種々の御懇慮謝すところを知らず候。
仍って甲州(武田信玄)より和親有るべきの旨、たびたび申し越され候。
然りといえども、今に入眼無く候。
従って越・甲御間の儀、和談を申し扱いたく候といえども、貴辺測り難きにより遠慮せしめ候。
しかし賢意次第で馳走致すべき事にて候。
後に御返事の様子を承り届け、これより申し入るべく候。
委曲佐々一兵衛(長穐)申すべく候。恐々謹言(以下略)
語訳)日頃から御懇ろな御心遣いをしてくださり、お礼の申しようもありません。
さて、甲州の武田信玄から和平についての交渉をたびたびやりとりしてきました。
しかしながら、貴方の御心中をお察しして、まだ返答できずにいます。
もし、あなたがそのおつもりでしたら、私が然るべきように取り計らい、先方にお伝えしましょう。
委細は佐々長穐が申し述べます。
備考
写のため花押がない。
佐々長穐(さっさながあき)は永禄年間から天正にかけて、上杉氏との交渉を担当した人物である。
佐々成政との関係は不明。
諱は長秋、通称名は権左衛門尉と記されたものもある。
彼が上杉氏と関わった文書の初見は永禄7年(1564)で、信長が直江景綱へ書状を発した際に副状を発給している。『歴代古案』永禄七年九月九日付
北陸方面の外交経験を買われてなのか、のちに長穐は簗田広正や柴田勝家の与力として織田家を陰から支えた。
なお、上杉・武田両家の和平をもっとも実現させたがっていたのは、足利義昭であることは言うまでもないだろう。
6月26日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年七月二十六日条
一、去廿六日、珎蔵院・吉祥院学侶使節トシテ河州へ被越了、烏芋峯一向衆導場可有興行之儀付先段閇門、三好山城守依無別儀、于今不相立之間、 相了、並寺門領押領之届彼是為札入魂也、
一、廿七日入夜十兵平城へ被入移了、近日秋山可働之由沙汰之間此通歟、
6月27日
[参考] 『言継卿記』永禄十一年六月二十七日条
近衛殿近日雑説、三好日向守以下取懸可為御生害之由風聞、仍今日為御見舞参、公家衆以下悉被参云々、御見参、御盃賜之、坊城、祥壽院同参、昨日日向守、石成主税助参、一向不存之由以起請文申入云々、
同日
[参考]『多聞院日記』永禄十一年六月二十八日条より
昨日天満山ノ城開け了、氷室並マメ山へ人数入故歟、
6月29日
細川藤賢(典厩藤賢)の籠もる信貴山城が陥落。
石山本願寺(大坂院家)の調停により、この日城を三好康長(三好山城守)に明け渡す。『多聞院日記』『細川両家記』
成身院講問へ出了、講師鏡禅房、問ヽ延観ヽ、題不顯論宗、夕部為因明講出仕、瓦屋へ成身院鈴被持被出、知足屋へ妙徳院引茶被持被出、水團にて御酒申了、雨下了、信貴城落了、
『多聞院日記』永禄十一年六月二十九日条
松永方信貴城、典厩藤賢御籠城候條、高屋より三好山城守調儀にて取巻、通路無之して、大坂院家より噯にて退城也、大坂へ送り被申候也、六月廿九日城高屋衆へ請取也、
『細川両家記』
(書き下し文)
松永方の信貴城、典厩藤賢(細川藤賢)御籠城に候条、高屋より三好山城守(三好康長)調儀にて取り巻き、通路これ無くして、大坂院家(石山本願寺)より扱いにて退城なり。
大坂へ送り申され候なり。
六月二十九日に城、高屋衆へ請け取りなり。
備考
細川本家(京兆家)の分家に細川典厩家がある。
京兆は左京職・右京職の唐名で、左京大夫・右京大夫を名乗る家の棟梁はこう呼ばれる。
同じように、典厩は左馬頭・右馬頭の唐名であり、この時代にそれを名乗る家の棟梁はこう呼ばれる。
細川藤賢はその典厩家の当主細川尹賢の子である。
兄の細川氏綱が細川高国の養子として家を出たため、典厩家当主となった。
この時期の細川藤賢は足利義昭を奉じる三好義継や松永久秀と行動をともにしているが、旗色は必ずしも良いものではなかった。
(年次不明)6月
信長、近江栗太郡の芦浦観音寺に判物を発給。『蘆浦観音寺文書』(年次不詳)六月日付織田信長判物
あしき三郷欠所方並給人はつれの事、糾明□□□年貢等可納所候、誰々違乱有間敷候、かしく
六月日 信長(花押)
備考
芦浦観音寺は栗太郡芦浦(現草津市)にあり、平安時代末期、天台宗の末寺として建立された。
琵琶湖上の水運管理権の一部を握っていた(志那渡船の支配権)ことから、信長が折衝してきたのかもしれない。
天正8年(1580)9月の『観音寺文書』の「近江蘆浦観音寺領指出目録」によれば、その寺領は近辺の欲賀・杉江・山賀・駒井・長束・出庭・(播カ)持磨田の各郷内に散在していたようだ。
この文書は、信長の花押から永禄9年(1566)~同11年(1568)のものと比定されている。
芦浦三郷の欠所方(没収地)と主から給地を与えられていない者を調査した上で、これを観音寺に与え、年貢などを納めるようにさせる。何人も違乱してはならないとの文意であろう。
未だ信長の影響力が及ばない時期であるが、可能性がもっとも高いのは永禄11年(1568)だろうか。

