永禄11年(1568)戊辰 3月~

この記事は約10分で読めます。

凡例

  • 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
  • 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
  • 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
    なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。
  • 文書名は慣用の略称にしたがった。
  • 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
  • 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
  • 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
  • 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
    参考程度に留めていただきたい。
  • 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
  • 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
    なお、その場合は備考欄に記すこととする。
  • 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。

3月

3月6日

足利義秋、上杉輝虎(上杉弾正少弼との)へ甲斐武田・相模北条氏と和睦し、上洛を促す旨の書状を発給。『上杉家文書』

備考

翻刻は後日に載せるが、本文書の分末尾には「猶義景申すべく候也」としている。

3月8日

足利義秋、朝倉義景生母の光徳院を従二位に任ず。
その御礼として義秋を光徳院の屋敷へ招き終夜まで盛大な酒宴が催される。(出展不明)

3月11日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年三月十一日条より

十市ト三好山城並篠原弾正ト制帋令取替、則明日十二日兵少筆元見ニ兩三人使衆越由被申了、

3月21日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年三月二十一日条より

西陳へ番替ニ高屋衆三好備中守・遊佐安藝守・大嶋助兵衛・加地六郎兵衛、三鬼鎰助・カヰノ庄助丞・木村宗也以下人數千五百ほと越了、

※陳は陣のこと。

3月25日

公家の山科言継、清水太郎左衛門に違乱された山城国宇治郡の木幡率分所の返還を三好長逸(三好日向守殿)、石成友通(石成主税助殿)、坂本大炊助に要求する。『言継卿記』永禄十一年三月二十五日条

澤路筑後入道来、明日南方へ可罷下、木幡口之率分違乱有之云々、乃書状共調遣之、

「就御料所内蔵寮領率分木幡口役所之儀、御折紙被見候、此儀者至天文十八年於石田立置候、然者今度以御馳走木幡に申付候處、清水太郎左衛門令違乱、於先年之所可取之由申候條於石田申付候、然處只今又新儀之由申掠候段沙汰限候、如有来無別儀様被仰付候者可為祝着候、尚委曲筑後入道可申候、恐恐謹言、
 三月廿三日       言継
   三好日向守殿」

「當年御慶珍重候、早々可申候處、御在陣之由候間、于今延引慮外候、仍雖軽微至候、表祝儀計百疋進入候、尚委曲澤路入道可申候、恐々謹言、
 三月廿三日       言継
   石成主税助殿」

「就御料所内蔵寮領率分役所之儀、種々以御馳走被相調、祝着至候、以面御禮可申心中候處、于今延引背本意候、仍木幡口之儀、清水太郎左衛門尉及度々違乱、失面目候、於此儀者是非共に彌以御馳走、向州無別儀様可被仰調候、千萬頼入候、謹言、
 三月廿三日       言継
   坂本大炊助殿」

(書き下し文)
澤路筑後入道来たる。
明日南方へ罷り下るべく、木幡口の率分りつぶん違乱これ有り云々。
則ち書状ともにこれを調え遣す。

「御料所内蔵寮領率分木幡こわた口役所の儀につきて、御折紙を被見し候。
この儀は天文十八年(1549)に至りて石田を於いて立て置き候。
然らばこの度御馳走を以て木幡に申し付け候ところ、清水太郎左衛門違乱せしめ、先年の所に於いて取るべきの由を申し候条、石田に於いて申し付け候。
然るところ、ただ今また新儀の由を掠め申し候段、沙汰の限りに候。
有り来たりの如く別儀無きの様、仰せ付けられ候はば祝着たるべく候。
なお委曲筑後入道申すべく候。恐恐謹言
 三月二十三日       言継
   三好日向守(三好長逸)殿」

「当年の御慶珍重に候。
早々に申すべきに候ところ、御在陣の由に候間、今に延引、慮外し候。
仍って軽微の至りに候といえども、祝儀を表すばかり百疋を進せ入り候。
なお委曲は澤路入道申すべく候。恐々謹言
 三月二十三日       言継
   石成主税助ちからのすけ(石成友通)殿」

「御料所内蔵寮領率分役所の儀につきて、種々御馳走を以て相調えられ、祝着の至りに候。
面を以て御礼申すべき心中に候ところ、今に延引、本意に背き候。
仍って木幡口の儀、清水太郎左衛門尉たびたび違乱に及び、面目を失い候。
この儀に於いては、是非共にいよいよ御馳走を以って、向州(三好長逸)に別儀無きのよう、仰せ調えらるべく候。
千万頼み入り候。謹言
 三月二十三日       言継
   坂本大炊助殿」

備考

このうち、石成友通へ宛てた書状の返書が、同年四月一日付で言継のもとに届いている。『言継卿記』永禄十一年四月五日条

同日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年三月二十五日条より

今晩刁ノ初點ニ氷室城自焼了、寺内悉以開了、一宇モ不焼、無比類仕合也、寺僧衆社頭ニ心懸テ内々少々在之衆一番ニ入了、河州衆・筒衆一人も不入、内々此間申噯故也、珍重々々、上下万人歓喜無類也、朱雀院以下ハシロノ分ハ皆以自焼了、左京大夫令同道、金吾・竹下伴田へ被越了ト云々、定説ハ不知者也、火難必定ノ處、先段立願故歟、併神慮御計迄也、軈而果遂ノ催可在之、日中後大雨下、キヨメノ雨ト見タリ、

備考

難読のため読み下しは先送り。

3月30日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年四月一日条より

昨日超昇寺西陳へ礼ニ出了、人数二百五十ほと在之、筒井ヘハ不出と、

3月

越前一乗谷に逗留中の足利義秋、上杉輝虎に対し、武田信玄と北条氏康が輝虎と講和する旨の請文が届いたことを報せ、急ぎ上洛の軍に参加するよう要請する。『上杉家文書』

備考

後日追記予定

3月下旬

朝倉義景、南陽寺に足利義秋とその供衆を招き、遊宴と歌会が催される。(出展失念)

備考

賦物は糸桜か。
もろ共に月も忘るな糸桜年の緒長き契りと思はゞ(義秋)
君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこきけふのことの葉(義景)
のやり取りで知られるこの歌会であるが、歌について後日書きたい。

南陽寺は現在も臨済宗相国寺派の寺として存在する。
当時は義景屋形の北東にあった。
応永12年(1405)以後に代々朝倉氏の子女が入寺する尼寺として機能し、多くの史料に登場する。

4月

4月8日

信長、甲賀の土豪たちからの音信を謝し、今後とも昵懇に願う旨の書状を発給。『山中文書』七 (永禄十一)四月八日付織田信長朱印状

先度為使者被差上富野候、殊太刀・馬祝着候、猶和田伊賀守可有演説候、恐々謹言、
    卯月八日        信長(朱印)
     甲賀
       諸侍御中

(書き下し文)
先度は使者として富野を差し上せられ候。
殊に太刀・馬祝着に候。
なお和田伊賀守(和田惟政)演説有るべく候。恐々謹言(以下略)

備考

和田惟政は近江甲賀郡和田村の出身である。
その人脈を生かして、甲賀地方の懐柔を行ったのだろう。
足利義輝の執政期にあたる『永禄六年諸役人付』には、御供衆の項に
大舘伊豫守晴忠・一色式部少輔藤長・細川兵部大輔藤孝・上野陸奥守信忠・上野大蔵大輔豪孝・武田刑部大輔信實・佐々木治部大輔信堅といった面々の中に和田伊賀守の名がある。
足利義秋が大和から脱出した際も、惟政は自領にこれを迎え入れている。

4月15日

越前一乗谷に逗留中の足利義秋の元服の儀が執り行われ、名を義昭と改める。
加冠役は朝倉義景。
京都からは前関白二条晴良が招かれた。『言継卿記』『越州軍記』

備考

公家の山科言継もこの式典に招かれている。
本年2月12日条の『言継卿記』に記されたものがこの件に関する内容である。
なお、言継も当初は前向きに検討していたものの、結局は参加を見送っている。

なお、この式の日程が予定より少し遅れた4月21日とする説もあるようだが、こちらは出典がわからない。後日確認次第追記する。

同日

三好三人衆方に捕らえられていた朝山日乗が、勅命によって釈放される。『言継卿記』永禄十一年三月二十五日条・『耶蘇通信』

朝山日乗上人去年以来攝州に籠者也、不慮之至也、依勅諚遁之、今日上洛云々、

(書き下し文)
朝山日乗上人、去年以来摂州に籠もるものなり。
不慮の至りなり。
勅諚によりこれを逃る。
今日上洛し云々。

備考

朝山日乗は昨永禄10年(1567)に毛利氏と松永久秀を繋ぐ工作をしていたところを捕らえられ、摂津の牢に捕らえられていたようだ。
彼の半生は定かではない。
『朝山系図』によると彼の諱は「善茂」。
後奈良天皇の信任厚く、「日乗上人」の号も後奈良天皇より与えられたとある。

『耶蘇通信』や『太閤記』には、もとは出雲尼子氏の臣で毛利元就を頼り、僧となって上洛。
禁裏と繋がりを持ち、荒廃した御所の修理に貢献があったとされている。

良質な史料でないにせよ、同年中に織田信長が上洛すると、さっそくこれと接点を持ち、内裏-足利義昭・織田信長-毛利元就との間を取り持つ懸け橋となっていたことは間違いないようだ。

なお「日」の名が付くところから、日蓮宗系の僧とされているが、京の妙顕寺に本山を置く法華宗との関係性は不明。
このたび政治的中立の立場を少し越えて、正親町天皇が勅諚を出した理由も不明である。

4月16日

朝山日乗、お礼のために参内。
朝廷に物を献上する。『御湯殿上日記』

同日

日乗、山科言継邸の宿を訪れるが留守で会えず。『言継卿記』永禄十一年四月十六日条

朝山日乗上人旅宿丹波屋判田入道所云々、錫携之罷向之處、他行云々、申置了、軈使僧正覺坊禮に來、出納右京進重弘相副了、

(書き下し文)
朝山日乗上人の旅宿は丹波屋判田入道所と云々。
すずこれを携え罷り向かうのところ、他行と云々。
申し置きおわんぬ。
やがて使僧の正覚坊が礼に来たる。
出納右京進重弘を相添えおわんぬ。

また、同月19日条にも日乗本人が鵝眼ががん銭二十疋を手に言継宅を訪れている。

4月27日

信長、甲賀の佐治為次(美作守)へ知行を与える旨の朱印状を発給。『佐治家乗』

 扶助分之事
一、市子庄
一、羽田庄
一、河井跡職
一、馬淵源左衛門跡職
一、楢崎跡職
右分御知行不可有相違者也、仍状如件、
 「(追筆)永禄十一」
    四月廿七日      織田尾張守
                 信長(朱印)
     佐治美作守殿

(書き下し文)
 扶助分の事
一、市子庄
一、羽田庄
一、河井跡職
一、馬淵源左衛門跡職
一、楢崎跡職
右の分、御知行相違有るべからざるものなり。仍って状くだんの如し(以下略)

備考

佐治氏は甲賀郡小佐治こさじ郷を領する土豪。
南北朝期の康安元年(1361)5月、南近江の守護大名である六角氏頼は、小佐路(治)郷地頭職のうち、辻孫太郎跡地を料所として佐路弾正忠に預け置いた『蒲生文書』。
甲賀21家中北山9家の1つといわれる佐治氏は、もと小佐治氏あるいは大原小佐治氏と名乗り、六角氏や足利幕府にのために働いている。

この朱印状は、佐治秀寿氏が編した『佐治家乗』に東京市の佐治仲太郎氏所蔵の文書を写真版にして収めてある。

文中にある「市子庄いちこのしょう」は蒲生郡蒲生町にかつてあった荘園。『角川日本地名大辞典』25滋賀県

「羽田庄(荘)」は八日市市に存在し、戦国期には日吉社と広橋大納言家の所領があった。
ところが「文亀二壬戌年九月十六日」と記された東大寺領古絵図と大安寺古絵図によれば、羽田荘は興福寺領内官務殿惣領所とあり、興福寺政所があったようだ。『角川日本地名大辞典』25滋賀県

河井跡職(あとしき)は蒲生郡川合(現東近江市)を領していた河井氏の旧領、馬淵源左衛門跡職は蒲生郡馬淵町(現近江八幡市)を領していた馬渕源左衛門、楢崎跡職は犬上郡多賀町にあった楢崎である。

このうち、馬淵と楢崎の一族は、六角氏の重臣を勤めている。
詳しいことはわかりかねるが、信長はすでに六角氏と対決することを念頭に戦略を練っていたのかもしれない。

同日

信長、野洲郡の永原重康(越前守)へ3ヶ条からなる条書を発給。『教王護国寺文書』永禄十一年四月二十七日付織田信長条書

一、深重入魂之上、向後不可有表裏・抜公事之事、
一、知行方之儀、去年遣候如書付之、不可有相違事、
一、御進退之儀、向後見放申間敷事、
  永禄十一年四月廿七日     織田尾張守
                    信長(花押)
     永原越前守殿

(書き下し文)
一、深重に入魂の上、向後は表裏・抜け公事これ有るべからざる事。
一、知行方の儀、去年遣わし候書付の如く、相違有るべからざる事。
一、御進退の儀、向後見放し申す間敷き事。(以下略)

語訳)①深重に親しい関係になった上は、今後は命令に背いたり、欺いたりしないこと。②知行は去年遣わした目録の通りで相違ないこと。③そなたの身の上のことは、今後も見放さないことをここに約束する。

備考

永原氏は近江野洲郡永原を本拠とする。
重康(越前守)はその分家筋である。
両細川の乱時代から六角義賢の執政期にかけて、永原本家は六角氏の奉行人として活躍し、室町将軍から御判(花押)の御内書を与えられるほどの存在であった。『保坂潤治氏所蔵文書』『古簡雑纂』五 『筆陳』一・二
文中にある「去年遣わした書付」についてはわからない。
同年9月に足利義昭を奉じる織田信長が六角氏を攻撃した際、重康は約束の通りに主家を見限り、後藤氏らとともにこれに味方している『言継卿記』。

なお、『信長公記』には越前守も重康も見当たらず、永原筑前守の名が登場する。
ほかの文書では重康を筑前守としているものが見当たらないが、彼のことではないかと考える。

4月29日

山科七郷衆と醍醐衆が数日争い、この日に戦いが終わる。『言継卿記』永禄十一年四月二十九日条

山科七郷與醍醐数日取合云々、今日醍醐衆三千人計敗軍云々、十七八人討死、手負六七十人有之云々、生捕数多放之云々、山科郷衆も六七十人討死云々、手負廿人計有之云々、

(書き下し文)
山科七郷と醍醐数日取り合い云々。
今日醍醐衆(三千人ばかり)敗軍し云々。
十七~八人討死。
手負い六七十人これ有ると云々。
生け捕りは数多これを放つと云々。
山科郷衆も六七十人討死云々。
手負い二十人ばかりこれ有り云々。

備考

宇治郡醍醐村には真言宗醍醐派の総本山である醍醐寺がある。
山科盆地南東部に位置し、山科言継の名字地の隣にあたる。
醍醐寺三宝院は幕府との繋がりが強く、山科七郷にも強い影響力を持っていた。
山科郷民と醍醐郷民の争いは貞和二年(1346)にはすでに起きおり、以後も争いの絶えない地域であった。

タイトルとURLをコピーしました