永禄11年(1568)戊辰 7月

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凡例

  • 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
  • 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
  • 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
    なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。
  • 文書名は慣用の略称にしたがった。
  • 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
  • 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
  • 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
  • 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
    参考程度に留めていただきたい。
  • 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
  • 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
    なお、その場合は備考欄に記すこととする。
  • 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。

7月

7月1日

[参考] 『言継卿記』永禄十一年七月一日条

早朝勧修寺内日下久右兵衛曲事有之生害、三好日向以下衆沙汰之、

7月5日

六角義治、黒川家からの書状を披見し、返書を認める。『黒川文書』

同名与次兵無出陣理之趣、対三新左両三人並年寄衆折紙加披見候、其方之物言申披通、非偽候旨、得其心候、雖然既信長令上落候、火急至于此表可及行之由注進候、国家案否此刻候、在所之儀留守被申付出陣肝要候、只今□□越通迄候へハ、事不行様分別候、委曲与次兵被申聞候、猶三雲可申候、謹言、
      七月五日   義治(花押)
     黒川蔵人殿
     黒川修理進殿
     黒川甚右衛門尉殿

備考

 (備考)
三雲新左衛門は三雲成持だろう。
年寄衆は老臣や家老衆のこと。
この信長進発の緊迫感が伝わる翻刻は『戦国遺文 佐々木六角氏編』に所収されている。

7月10日

公家の山科言継、自身の被官である早瀬彦二郎の遺領が不当に買得されたことについて、三好長逸(三好日向守殿)に伝えるも、行き違いが生ず。『言継卿記』永禄十一年七月十日条

就早瀬扶持之地之儀、三好日向守所へ調遣之、澤路隼人佑可持罷向之由申遣了、文言如此、

 「先度以書状委申候處、不能御報候間重令啓候、拙者被官人早瀬民部丞去々年死去仕候、其子彦二郎去年叉於田舎罷過候、然者彼跡断絶之事候間、扶持之地為此方申付候処、玉井与申候者令買得之由申、点札之竹拔之切折、今日遣使者候処、尚々狼藉緩怠、沙汰之限候、其後以伊曽与右衛門尉申候間、様体委申分候、然者貴殿へ掠申預御折紙候間、立毛之儀者不及是非候了、彼玉井、自幼少之時早瀬被官分候、其後弟子に罷成、淵底之儀乍存知如此之儀、條々曲事候、総別貴殿諸事頼入存候事候に、不預御尋之條無曲次第候、雖聊之儀我等風情理不盡之儀可申付候哉、扶持之地私に沽却候段、其法可爲如何候哉、以憲法之儀被仰付候者可満足候、尚々委曲澤路隼人佑可申入候、恐々謹言、
 七月十日      言継
   三好日向守殿」

(書き下し文)
早瀬扶持の地の儀に就きて、三好日向守(三好長逸)所へ(「書状」脱カ)これを調え遣す。
澤路隼人佑が罷り向かい持つべしの由を申し遣わしおわんぬ。
文言かくの如し。

 「先度は書状を以って委ね申し候ところ、御報能わず候間重ねて啓せしめ候。
拙者(山科言継)の被官人早瀬民部丞が去々年死去仕り候。
その子彦二郎も去年また田舎に於いて罷り過ぎ候。
然らば、かの跡断絶の事に候間、扶持の地此方として申し付け候のところ、玉井と申し候ものが買得せしむるの由を申す。
点札の竹これを抜き切り折り、今日使者を遣わし候ところ、尚々狼藉・緩怠、沙汰の限りに候。
その後伊曽与右衛門尉を以って申し候間、様体を委ね申分に候。
然らば貴殿へ掠め申す御折紙を預かり候間、立毛の儀は是非に及ばず候おわんぬ。
かの玉井、幼少の時より早瀬の被官分に候。
その後弟子に罷り成り、淵底の儀を存じながらかくの如きの儀、条々曲事に候。
総別は貴殿に諸事を頼み入り存じ候事候に、御尋ね預らずの条、曲がり無きの次第に候。
いささかの儀といえども、我ら風情が理不尽の儀を申し付くるべきに候や。
扶持の地は私に沽却し候段、その法如何たるべきに候や。
憲法の儀を以って仰せ付けられ候はば満足すべく候。
尚々委曲は澤路隼人佑申し入るべく候。恐々謹言。
 七月十日      言継
   三好日向守殿」

※点札(てんさつ)は土地や農作物を差し押さえる旨を記した札のこと。点定(てんじょう)。田札(でんさつ)。
※淵底(えんてい)は物事の奥深いところ。深く。詳しく。語源は淵の底。深い水の底から。
今回の文脈では早瀬と旧知の中でありながら、玉井がこのような暴挙に出たことを指しているのだろう。

備考

この件に関する続報が8月24日条にある。
本記事の主旨とは異なるので、翻刻はタブ内に収めることにした。

橋本伊賀守爲小林入道使両度被来、大原竹座人之事、書状可調與之由被申候間則調遣之、
 「又申候、被官人早瀬に扶持之地、玉井違亂之事、是又無別儀御折紙給候様、御取成所仰候、
岩崎越後守留申候大原座人竹之事、京座人訴訟申候由、驚存候、又岩崎澤路入道に相尋候處、本所之儀入候間敷候、澤路進退之様申候由、言語道斷曲事候、最前貴殿以御馳走補任遣候上者、聊以別儀有間敷候、總別在々所々悉以古今當家進退之事候間、如此間被申付候様、能々向州へ御入魂千萬所仰候、尚可参申候、恐々謹言、
 八月廿四日    言継
   ト隱軒 床下 小林民部少輔入道之事也、」
澤路隼人佑所へ、畠之儀に向州方へ之書状調遣之、早早可申調之由申付了、
 「先度申候被官人早瀬扶持之地、玉井違亂之事、於様體者度々申候間不能詳候、急度御折紙調給候者可爲本望候、恐々謹言、
 八月廿四日    言継
   三好日向守殿」

※「能々向州へ御入魂」
恐らく向州は三好長逸を指すのだろう。

7月12日

足利義昭、越後の上杉輝虎(上杉弾正少弼との)に美濃へ移ることを伝え、馳走を頼む旨の御内書を発給。『上杉家文書』四 (永禄十一)七月十二日付足利義昭御内書

就入洛之儀、信長厳重言上、先至于濃州可被移御座之由申間、近日発足候、義景弥無別儀無二之覚悟候、各申談、馳走偏頼思召候、具智光院可申候也、
     七月十二日        (義昭花押)
      上杉弾正少弼とのへ

(書き下し文)
入洛じゅらくの儀に就きて、信長(織田信長)厳重に言上す。
まず濃州に至りて御座を移さるるべしの由を申すの間、近日発足し候。
義景(朝倉義景)いよいよ別儀無く、無二の覚悟に候。
おのおのへ申し談じ、馳走を偏えに頼む思し召しに候。
つぶさに智光院(頼慶)申すべく候なり。(以下略)

備考

このあたりの政治的な動きは、京都や奈良の文化人の日記より、当事者が発給する一次史料や後世の軍記物の方が詳しい。
主語がないので分かりにくいが、御座を移さるべきと言上したのが信長。
近日に出立するのが義昭である。
さらに、朝倉義景も無二の覚悟であると述べている。

この頃

信長、不破光治(河内守)・村井貞勝(民部)・島田秀満(所之助)を足利義昭を迎える使者として越前へ派遣。『信長公記』巻之上(我自刊我本)

7月16日

信長の迎えを受けた足利義昭(公方様)、越前を発ち近江の浅井館に移る。『多聞院日記』永禄十一年七月二十七日条 『信長公記』

備考

日付については『信長公記』に誤りがある可能性が高い。
詳細は同月22日の項に記載。

この時期に、義昭が朝倉義景へ「この度、越前を退くこととなった。越前滞在中は、大変世話になった。今後とも、そなたの身上を捨てることはないであろう」との御内書を与えたとしているのは『足利季世記』の記述である。

7月22日

足利義昭(公方様)、浅井館を発ち美濃へ移る。『多聞院日記』永禄十一年七月二十七日条 『信長公記』『細川両家記』など

公方様去十六日ニ越前ヨリ江州浅井館へ御座ヲ被移、同廿ニ日ニ濃州へ御座被移了、尾張上總守御入洛御伴可申之由云々、
   『多聞院日記』永禄十一年七月二十七日条

(書き下し文)
公方様(足利義昭)去十六日に越前より江州浅井館へ御座を移され、同二十ニ日に濃州へ御座を移されおわんぬ。
尾張上総守(織田信長)御入洛の御供申すべきの由と云々。

永禄十一年七月廿七日越前へ為御迎和田伊賀守・不破河内守・村井民部・島田所之助被成進上濃州西庄立正寺尓至而公方様御成末席尓庁鳥目千貫積せられ御太刀・御鎧武具・御馬色々進上由され、其外諸侯之御衆是又御馳走不斜、此上者片時も御入洛可有御急と思食・・・
   『信長公記』巻之上(我自刊我本)

(書き下し文)
永禄十一年(1568)七月二十七日越前へ御迎えとして和田伊賀守(和田惟政)・不破河内守(不破光治)・村井民部(村井貞勝)・島田所之助(島田秀満)を進上なさる。
濃州西庄立正寺に至りて、公方様(足利義昭)御成り。
末席に鳥目千貫を積せられ御太刀・御鎧武具・御馬と色々進上され、その他諸侯の御衆これまた御馳走斜めならず。
この上は、片時も御入洛御急ぎ有るべしと思し召し・・・

※鳥目(ちょうもく)は銭の異称。

八月日御所様、一乗院殿を越前敦賀より美濃へ御出、朝倉太郎左衛門御供申候、織田上總介信長御迎に参、國堺にて請取被申由候、同頃近江北の郡へ被越、浅井方一味して被相談と風聞也、
   『細川両家記』

(書き下し文)
八月日御所(足利義昭)様、一乗院殿を越前敦賀より美濃へ御出、朝倉太郎左衛門が御供申し候。
織田上総介御迎えに参る。
国境にて請け取り申さるるの由に候。
同じ頃、近江北の郡へ越され、浅井方一味して相談ぜらると風聞なり。

備考

日付については『信長公記』に誤りがある可能性が高い。
時差や噂の伝達精度を考えると『細川両家記』も同程度の正確さだろう。

『信長公記』にある和田惟政は足利義昭の側近。
不破は信長の馬廻。
村井と島田の両名は信長の文官である。
日付は太田牛一の記憶違いの可能性が高い。
ほかにも入京の日付に誤りがあるなど、この時期の公記の日付は信憑性が低い。

7月27日

[参考] 『言継卿記』永禄十一年七月二十七日条

烏丸へ罷向躍之用意、人數以上五十三人云々、笠、金銀四はかり、唐絲、四方に有之、各一様也、白帷、腰巻、まわりの衆綉□繪、「幟」カ持五六人、中をとりは皆紅梅也、持白帽子、たすきは悉けかちの帯、扇、金銀、繪なし、三躍有之、門之内にて習禮有之、已下刻出門、一品以下公家十三人有之、先伏見殿、次近衛殿、予、冨小路入道令同道先へ参、躍之後各被召御酒賜之、三好日向守以下祗候、庭上以外之群集也、かうかい抜召捕之、事外物忩也、日向守内衆召取了、石成主税助内衆云々、次日向守、次伊勢守、次日野等にて有之、申刻歸宅了、

※唐糸(唐絲=からいと)は中国渡来の糸または織物。
※白帷(しろかたびら)は麻や絹などで織られた白地の単衣ひとえ

7月28日

足利義昭、服部同名中に対し、郡内通行の安全をはかるよう御内書を発給。『記録御用所本古文書』

備考

翻刻未確認。
服部氏は野洲郡服部(現守山市)の住人か。

7月29日

信長、越後の上杉輝虎(弾正少弼殿)に、畿内や濃尾地方の情勢を伝える旨の書状を発給。『志賀槇太郎氏所蔵文書』二

去六日芳問遂拝悦候、畿内並此表之様子、其元□(PCで漢字出ず。「匚」はこがまえに「口」くち)風説之由候付而尋承候、御懇情候、然間始末有姿以一書申候、毛頭無越度之条、可被安賢意候、仍条々御入魂之趣、快然之至候、誠爾来疎遠之様候、所存之外候、甲刕与此方間之事、公方様御入洛供奉之儀肯申之条、隣国除其妨、一和之儀申合候、其以来者駿遠両国間、自他契約子細候、依之不寄除為躰候、雖然万貴辺前々相談族無別条候、度々如申旧候、越甲間属無事互被抛意趣、天下之儀、御馳走所希候、将又越中表一揆蜂起、其方御手前候歟、神保父子間、及鉾楯之旨候、如何之躰ニ候哉、彼父子事於信長も無疎略之条、痛入斗候、随而唐糸五斤紅・豹皮一枚進之候、猶重而可申述候、恐々謹言、
    七月廿九日          信長(花押)
     上杉弾正少弼殿
           進覧之候

(書き下し文)
去六日の芳問、拝悦を遂げ候。
畿内並びにこの表の様子、其元風説かたきの由候につきて尋ね承り候。
御懇情に候。
然る間、始末の有る姿、一書を以て申し候。
毛頭落ち度無きの条、賢意を安んぜらるべく候。
仍って条々御昵懇の趣き、快然の至りに候。
誠に爾来疎遠の様に候。
所存のほかに候。
甲州(武田信玄)と此方(織田信長)間の事、公方様(足利義昭)御入洛の供奉ぐぶの儀、うけかい申すの条、隣国その妨げを除き、一和いっかの儀申し合わせ候。
それ以来は駿遠両国の間、自他の契約の子細に候。
これにより、寄り除かざる体たらくに候。
然りといえども、よろず貴辺と前々相談のやからは、別条無く候。
たびたび申しふり候如く、越(上杉輝虎)甲(武田信玄)の間、無事に属し、互いに意趣をなげうたれ、天下の儀、御馳走乞い願うところに候。
はたまた、越中表で一揆蜂起、その方御手前に候か。
神保(神保長職・長住)父子の間、鉾楯に及ぶの旨に候。
いかがの体に候や。
かの父子の事、信長に於いても疎略無きの条、痛み入るばかりに候。
従って唐糸五斤(紅)・豹皮一枚これを進せ候。
なお、重ねて申し述ぶべく候。恐々謹言(以下略)

語訳)去六日に届いたあなたの書状を拝見しました。畿内やこちらの様子は、貴国では風説がないようなので、一部始終をくまなくお伝えしましょう。決して誤った情報ではありませんので、ご安心ください。いろいろと御懇ろな御心遣い、感謝いたします。久しく無音無沙汰にしてしまいましたが、本意ではありません。さて、甲斐の武田信玄と私との間ですが、足利義昭様を奉じるという一致点がありますので、隣国(国境)などその妨げを除くために和睦しました。駿河・遠江のことは、武田信玄・徳川家康の間で相互に侵略しない(自他の契約)ことを申し合わせているそうです。これにより、両国の間では大きな動きはみせないでしょう。万事、貴方と前々から親交のある者たちも、大きな変わりは見せないでしょう。たびたび申し入れました通り、上杉殿と武田信玄が互いに遺恨を忘れ、和睦をなさることが天下ために何より重要なことです。また、越中国で一揆が蜂起し、神保父子が争っているらしいですが、あなたの御味方でしょうか。どのような様子なのか気になります。かの父子の事は、信長も疎略に考えてはいないので、心を痛めております。従って、唐糸五斤(紅)・豹皮一枚を上杉殿へ贈ります。重ねて申し述べます。

備考

信長の花押の形状と内容から、永禄11年(1568)のものと比定されている。
この文書は写真を見たわけではなく、翻刻のみの確認のため、料紙の質や形状等はわからない。
「其元風説かたきの由候につきて尋ね承り候」など、信長発給の文書にしては他に見ない表現がある。
これまでは直江景綱に宛て、さらに日付よりも上に「謹上 直江大和守殿」としたものが多かったのに、これは直接輝虎に宛て、さらに日付よりも下にしているのが少し気になるところだ。
足利義昭を美濃に招き入れたことが関係しているのだろうか。

なお、文中にある通り、織田-武田間の一和(和睦)は、国境の遠山氏の仲立ちで、信長の養女を信玄子息の武田勝頼に嫁ぐ約束をしたことで成立している。
正確な輿入れの時期は不明。
その間にできた子が、のちの武田信勝である。

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