永禄11年(1568)戊辰 9月16日~30日

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凡例

  • 信長の直状(書状・判物・朱印状・黒印状・消息)・起請文・条書・禁制・制札・請取状・覚・銘文に加え、側近・部将・奉行等の書状、『信長公記』・寺社の日記・公家の日記・後世の軍記物の記述をなるべく時系列順に記す。
  • 信長には直接関係ないが、情勢を理解するための参考として[参考]欄も加える。
  • 用字は原則として常用漢字を用い、原文書が判読困難な場合は、その状態に従い□・□□・□□□(文字数不明)をもって記す。
    なお、難読難解な場合は字体をそのまま表示する。
  • 文書名は慣用の略称にしたがった。
  • 文書の封の形式・ウハ書は、(捻封ウハ書)・(切封ウハ書)・(折封ウハ書)などと註記し、封の墨引は(墨引)の記号を用いるが、料紙の紙質・形状については註記を省略する。
  • 花押・印章は、(花押)・(朱印)・(黒印)とし、写しの場合はその都度注釈を加える。
  • 日付・差出書・花押(印章)・宛書の位置は、字数を見積もって適当に定めるが、記事の設定や各デバイス上で横幅限界設定が異なるため、参考程度に留めていただきたい。
  • 翻刻の後ろに書き下し文を記すが、当方の判読技術が未熟のため、読みや解釈が誤りである場合がある。
    参考程度に留めていただきたい。
  • 可能な限り出典元を記すものとし、必要に応じて当方が補足を加える。
  • 資料翻刻の表記は、出典元の通りに記すが、一部適切でないと判断した場合は、当方が訂正する場合もある。
    なお、その場合は備考欄に記すこととする。
  • 年代や日付について諸説ある場合や、内容に関して不明確な場合は黄色いアンダーラインを挿入している。

9月

9月16日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月十六日条

及晩木津へ立衆引退、西京へ陳取了、

9月17日

織田勢、蒲生郡鏡山村の薬師勝手神社を襲う。『鏡山村薬師勝手神社棟札』

右前之御本者、尾張国織田信長、当国乱入時、彼党輩、永禄十一年丁辰九月十七日当所乱入、僧坊在家放火之余炎、当社吹懸、七社之御宝殿、並拝殿、七間御供所、宝蔵、鐘楼、如法経堂、庵室、薬師堂悉焼失畢、

(書き下し文)
右前の御本者、尾張国織田信長、当国乱入時、かの党輩、永禄十一年丁辰(1568)九月十七日に当所へ乱入。
僧坊在家放火の余炎、当社に吹き懸かり、七社の御宝殿、並びに拝殿・七間御供所・宝蔵・鐘楼・如法経堂・庵室・薬師堂が悉く焼失しおわんぬ。

備考

鏡山村薬師(くずし)村は竜王町にある。
集落の東寄りを県道春日竜王線が南北に通り、祖父川が南北に流れている。
『角川日本地名大辞典25滋賀(1979)』によると、他にも
“当時延暦寺の支配下にあった箱石山雲冠寺・星宿山西光寺の壮大な堂舎伽藍が焼滅され廃墟と化したが,今日その跡がしのばれる。”
とあるが詳細は不明。

同日

観音寺を落ち延びた六角父子、甲賀に移って望月氏の庇護をうけるも、信長の追撃を警戒し伊賀へ移動を開始。『甲賀郡南杣村木村政延氏文書』

今度宿之儀頼入候処、別而入魂難忘候、仍郡内之儀、織田可有行之由候而物忩之間、至于伊賀打越候、雖勿論之儀候、出張之刻、必当屋敷え可入城候間、不相易馳走可為喜悦候、猶高野瀬備前守、狛修理亮可申候、恐々謹言、
 九月十七日      義治(花押)
    望月吉棟殿

(書き下し文)
この度宿の儀を頼み入り候ところ、別して昵懇忘れ難く候。
仍って郡内の儀、織田のてだて有るべくの由候て物騒の間、伊賀に至りて打ち越し候。
勿論の儀に候えども、出張の刻み、必ず当屋敷へ入城すべきに候間、相易しからず馳走喜悦たるべく候。
なお高野瀬備前守・狛修理亮申すべく候。恐々謹言(以下略)

同日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月十七日条

少太郎一坂へ下了、坊領一本も不苅取、先以珍重々々、併神力也、

9月18日

信長、勅使を観音寺城に迎え、正親町天皇の綸旨と万里小路惟房からの副状を受け取る。
さらに正親町天皇と夫人御作の台物と唐墨を拝領し、勧修寺大納言に返書を認める。『安土村総見寺所蔵文書』『近江蒲生郡志』巻十

就当国在陣被立勅使候、殊 御作台物、並唐墨従御両所様拝領、即頂戴忝存候、此表之趣、自是雖可致言上候上揆之類還如何遠慮仕候、然而被仰下之條、無冥加之次第ニ候、此等之旨、宜被達叡聞事、可為大慶候、恐々謹言、
 九月十八日        信長(朱印)
   勧修寺大納言殿

(書き下し文)
当国在陣に就きて勅使を立てられ候。
殊に (欠字)御作の台物、並びに唐墨を御両所様より拝領。
即ち頂戴忝く存じ候。
この表の趣き、これより言上致すべき候といえども、上揆の類還如何遠慮仕り候。
然して仰せ下さるるの条、冥加無きの次第に候。
これらの旨、宜しく叡聞に達せらるる事、大慶たるべく候。恐々謹言(以下略)

備考

欠字は一字分スペースを空けることによって、貴人に対して敬意を払うことである。
本状において敬意をはらうべき対象は、正親町天皇である。
宛所の勧修寺大納言は勧修寺晴右。
なお『近江蒲生郡志』は大正11年(1922)に初版が出され、昭和47(1972)年と同55年(1980)に復刻版が出版されている。

同日

足利義昭奉公衆の細川藤孝、西養坊に先規の通りに参陣するよう要請。『富田仙助氏所蔵文書』二

来廿四日御入洛候、如先規御参陣、不可有御断「油」脱カ之由、被仰出候、恐々謹言、
    □月十八日      細川兵部大輔
                   藤孝(花押)
     西養坊

(書き下し文)
来たる二十四日御入洛候。
先規の如くに御参陣、御油断有るべからざるの由を仰せ出され候。恐々謹言(以下略)

備考

宛所の西養坊は不明。
文脈から本年9月18日付と見て間違いはないだろう。

9月19日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月十九日条

江州之様篇々沙汰之大略六角方負歟、

9月20日

[参考]『言継卿記』永禄十一年九月二十日条

織田明朝出張必定之由有之、騒動以外及暁天也、

9月21日

信長、越後の上杉輝虎への返書として、近況を伝える旨の書状を発給。『蕪木文書』『越佐史料』四

芳翰之趣本望存候、仍去七日御入洛、至江南令着陣候、国々之儀平均ニ申付候、然者来廿四日可為御渡海候、弥被任御本意候、此等之通可得御意候、恐々謹言、
    九月廿一日
     直江大和守殿      信長

(書き下し文)
芳翰ほうかんの趣き本望に存じ候。
仍って去七日御入洛、江南に至りて着陣せしめ候。
国々の儀平均に申し付け候。
然らば来たる二十四日に御渡海たるべく候。
いよいよ御本意に任せられ候。
これらの通り御意をべく候。恐々謹言(以下略)

備考

芳翰(ほうかん)は輝虎の書状を敬った表現である。
他に「珍翰ちんかん」・「珍札」・「貴札」などがある。

「去七日御入洛」とあるのは、9月7日に信長が足利義昭と会見し、上洛の決意を述べたことであろう。『信長公記』
本状からはこれから三好勢との決戦に臨む信長の意気込みが感じられる。

同日

伊賀に逃れた六角父子、伊賀国武士の友田氏の庇護を受け、音羽郷(音波)に移る。
承禎は友田氏(友田山内殿)に気遣いを謝する書状を発給。『川合文書』『三国地志』

今度於音波相越候之処、路次送並種々機遣、其懇意段不可忘候、殊更切々見舞尤祝着候、弥入魂肝要候、猶繁岡可申候、恐々謹言、
 九月廿一日          承禎(花押)
    友田山内殿

(書き下し文)
この度音波に於いて相越し候のところ、路次の送りならびに種々の気遣い、その懇意の段忘るべからず候。
殊さら切々に見舞もっとも祝着に候。
いよいよ昵懇肝要に候。
なお繁岡申すべく候。恐々謹言(以下略)

備考

『戦国遺文 佐々木六角氏編』によると、この文書は写のようだ。
上記の翻刻は『近江蒲生郡志』巻十によるもの。
『戦国遺文』は「路次送幷種々機遣、其懇意段不可忘候、」のところを「路次送幷種々機遣共懇意段、可可(ママ)相忘候、」としている。

同日

足利義昭、西庄を立ち、近江国坂田郡柏原の成菩提院に泊まる。『信長公記』巻之上(我自刊我本)『近江蒲生郡志』巻十

備考

この時期の『信長公記』の日付については慎重に扱う必要がある。

同日

[参考]『言継卿記』永禄十一年九月二十一日条

今日之出張延引云々、来廿四日必定云々、

9月22日

信長、百済寺に3ヶ条からなる条書を発給。『百済寺文書』

   条々        百済寺
一、当寺諸事寺法之儀、可為如前々、寺領之内へ臨時之課役等、一切不可申懸之事、
一、惣寺物、所務以下散在ニ有之諸知行分、如前々不可相違、尚以当寺知行方不可付給人、並山林・竹木伐採儀、不可有之事、
一、当寺之儀、此方為祈願所之条、自何方も非分族雖申懸輩、不可有承引事、
 永禄十一
   九月廿ニ日        弾正忠(朱印)

(書き下し文)
 条々 百済寺
一、当寺の諸事寺法の儀、前々の如くたるべし。
寺領の内へ臨時の課役等、一切申し懸くべからざるの事。
一、総寺の物、所務以下散在にこれ有る諸知行分、前々の如くに相違すべからず。
なお以って当寺の知行方は、給人を付すべからず。
並びに山林・竹木伐採の儀これ有るべからざるの事。
一、当寺の儀、此方祈願所たるの条、何れ方よりも非分のやから申し懸くるともがらといえども、承引有るべからざるの事。(以下略)

備考

百済寺(ひゃくさいじ)は愛知えち郡(現東近江市百済寺町)に存在する天台宗の寺。
現在も湖東三山の一として有名である。
寺伝によれば、推古天皇14年(606)に聖徳太子が建立し、百済の僧恵聡・道欣・勧勒らが来住したことが名の由来とある。
勅願所となり、一山僧坊600を数えるほど栄えるも、明応7年(1498)の火災で本堂などが焼け、文亀3年(1503)には六角氏とその有力被官である伊庭貞隆の争いで多くが焼失した。

信長の祈願所とあるのが意外である。
というのは、この後六角氏が近辺の鯰江城に立て籠もった際、同寺は六角氏に味方して織田信長の焼き討ちを受けて灰燼に帰したからだ。

大方の語訳は以下の通り。
1.百済寺の諸事に関する寺法はこれまで通り認めるものであり、臨時の課役等は一切求めない。
2.百済寺の雑具や各地に散在している知行地、年貢の徴収権等は、これまで通り保証する。
なお、百済寺所有の知行地を、給人(知行人)につけてはならない。
並びに竹木や山林を伐採してはならない。
3.百済寺は信長の祈願所であるため、例え誰からの圧力があっても不当な要求を受け入れてはならない。

同日

足利義昭、観音寺城下の桑実寺に到着。
正覚院を陣所とし、信長の戦功を労う。
さらに、正覚院へ寺領を安堵する旨の書状を発給。『安土村豊浦東南寺文書』『信長公記』巻之上(我自刊我本)『近江蒲生郡志』巻十

就今度出張当寺
被居御座訖、然者
寺領等之儀、弥不可
有異儀候、猶藤孝
可申者也、
 九月廿二日 (足利義昭花押)
    正覚院

(書き下し文)
この度出張に就きて当寺に御座を居られおわんぬ。
然らば寺領等の儀、いよいよ異儀有るべからず候。
なお藤孝(細川藤孝)申すべきものなり。(以下略)

備考

蒲生郡の桑実寺くわのみでら(現近江八幡市安土町)は現在も当地に存在する天台宗の寺院。
天智天皇の勅願寺として開山し、日本で初めて桑の木が生えたことが名の由来である。
中世では佐々木六角氏の手厚い保護を受け、のちに織田信長が天正4年(1576)に安土に入った時期に堂舎が再建され、山林8町・寺領415石の寄進を受けている。
子院に正寿院・千光院・宝泉寺がある。

この文書の写真が『近江蒲生郡志』巻十に所収されている。
現在は国立国会図書館デジタルコレクションからも閲覧が可能である。

観音寺山乗取御上り候、依之残党致降参候之間、人質を執固、元の如く被立置、一国平均候者、公方様へ御堅約之為御迎不破河内十四日尓濃州西庄立正寺へさしつかハされ、廿一日既被進御馬柏原上菩提院御着座、廿二日桑実寺へ御成、廿四日信長守山まて御働、翌日志那勢田之舟さし相御逗留被成、
   『信長公記』巻之上(我自刊我本)

(書き下し文)
(信長が)観音寺山乗取り御上り候、これにより残党降参致し候の間、人質を取り固め、元の如く立て置かれ、一国平均に候はば、公方様(足利義昭)へ御堅約の御迎えとして、不破河内(不破光治)十四日に濃州西庄立正寺へさしつかわされ、二十一日既に御馬を進められ柏原上菩提院に御着座。
二十二日桑実寺へ御成り、二十四日信長守山まで御働き、翌日志那勢田の舟さし相御逗留成され・・・

備考

この時期の『信長公記』の日付は他の文書と整合性の取れない箇所が多い。

同日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月二十二日条

木津迄南花院送下了、以次御なへ見廻処、今日既逃帰了、先々珍重々々、

9月23日

織田勢と足利義昭勢、京都山科七郷に布陣。
信長は近江三井寺で陣を張る。『言継卿記』永禄十一年九月二十三日条 『多聞院日記』永禄十一年九月二十三日条 『信長公記』

織田弾正忠今日三井寺へ出張云々、先勢山科七郷へ陣取云々、
深草之寺本成戌刻自焼也、
 『言継卿記』永禄十一年九月二十三日条

(書き下し文)
織田弾正忠今日三井寺へ出張し云々。
先勢は山科七郷へ陣取り云々。
深草の寺本成戌刻に自焼なり。

今日京邊土へ細川兵部大輔、和多「甲賀」伊賀守大将にて江州裏帰衆召具、一万余にて上洛了、
  『多聞院日記』永禄十一年九月二十三日条

(書き下し文)
今日京辺土へ、細川兵部大輔(細川藤孝)、和田伊賀守(和田惟政)大将にて江州裏帰衆を召し連れ、一万余にて上洛おわんぬ。

備考

深草は伏見近くの鳥羽街道にあり、山科からはわずか山一つ隔てた位置にある。
『信長公記』はこの日を9月26日としているが誤りであろう。
『多聞院日記』には「上洛」とあるが、恐らく山科あたりで一夜を明かしたのだろう。
奈良であるという情報伝達の精度を考慮しなければならない。

同日

足利義昭側近の飯尾貞遙・諏訪晴長が、連署で賀茂荘の地侍らを懐柔する旨の奉書を発給。『山城加茂郷文書』永禄十一年九月二十三日付足利義昭奉行人奉書

就今度御入洛各可致忠節云々、被思食神妙訖、早存其旨可被抽戦功之由、被仰出候也、仍執達如件、
 永禄十一
    九月廿三日      貞遙(花押)
               晴長(花押)
     城州
      賀茂郷諸侍中

(書き下し文)
この度の御入洛に就きて、各々忠節致すべき云々を思し食され神妙におわんぬ。
早くその旨を存じ、戦功抜きんでらるべきの由を仰せ出され候なり。
仍って執達くだんの如し。(以下略)

備考

当地は京都南部にあたる相楽郡の賀茂。
山城国賀茂荘は賀茂郷の故地である。
ここには春日社領も存在する。

9月24日

西院の小泉島介・九條和久・壱岐守らが居城を焼き南方へ落ち延びる。
丹波から足利義昭の味方として柳本氏が出陣し、嵯峨・川端・太秦を放火。
大将軍に布陣する。『言継卿記』永禄十一年九月二十四日条

西院之小泉島介、九條和久壱岐守等城早旦自焼、南方へ加云々、自丹州柳本出張、嵯峨川端太秦等放火、大将軍迄来云々、

(書き下し文)
西院の小泉島介、九條和久壹岐守等、城を早旦に自焼。
南方へ加わり云々。
丹州より柳本出張。
嵯峨・川端・太秦等を放火。
大将軍まで来たり云々。

備考

西院の小泉氏や九條氏についてはよくわからない。
嵯峨・川端・太秦の地はいずれも丹波街道にある西京都の地。
大将軍は北野天満宮あたりにあり、御所は目と鼻の先である。
また、西院も近い。

同日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月二十四日条

尾張ノ上総守大津迄出了、藤六上了、

9月25日

織田勢の先陣が上洛か。『言継卿記』永禄十一年九月二十五日条

尾州之足軽二三騎近所迄来、禁裏御近所之儀堅申付之由申理云々、東之田中之在所少放火云々、

(書き下し文)
尾州の足軽二・三騎近所まで来たる。
禁裏御近所の儀を堅く申し付くるの由のことわりを申し云々。
東の田中の在所を少し放火し云々。

備考

田中は北白川や東山慈照寺付近で、現在の出町柳附近である。
織田の将兵が田中近辺を焼き、言継が皇居付近は乱暴するなと説いたのだろう。

同日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月二十五日条

一日雨下了、上意大津迄御出張、上総ハ清水寺迄出了、爰元物忩、

9月26日

織田勢、山科郷より軍を分ける。
織田信長は東寺に陣を敷く。
足利義昭(武家)は清水寺に布陣。
山科郷から直進して北白川へ向かう街道では栗田口を放火。
細川藤孝(細川兵部大輔)・明院良政(明院)は御所の北門へ向かい、禁裏と折衝を行う。『言継卿記』永禄十一年九月二十六日条

同日

久我で両軍が衝突。
激しい戦いの末、石成友通が勝龍寺城へ退却か。『言継卿記』永禄十一年九月二十六日条

自早旦尾州衆出張、自山科郷南方へ通了、従北白川同出人數有之、細川兵部大輔、明院等北門迄参、今日武家清水寺迄被移御座云々、織田弾正忠信長東寺迄進發云々、山科郷栗田口西院方々放火、於久我軍有之云々、左右方多討死云々、石成主税助友通城於勝龍寺同合戦有之云々、

(書き下し文)
早旦より尾州衆出張。
山科郷より南方へ通りおわんぬ。
北白川より同じく人数を出しこれ有り。
細川兵部大輔、明院等北門まで参る。
今日武家清水寺まで御座を移られ云々。
織田弾正忠信長は東寺まで進発し云々。
山科郷栗田口西院方々を放火。
久我に於いていくさこれ有り云々。
左右方そうほう多く討死云々。
石成主税助友通城勝龍寺に於いて同じく合戦これ有り云々。

備考

栗田口は御所から鴨川を挟んだ二条通り沿いにある。
清水寺の北。吉田社の南にあたる。
御所へ向かった細川藤孝は義昭の奉公衆、明院良政みょういんりょうせいは信長の文官である。
信長が布陣した東寺は現在の京都駅すぐ南にある寺で、信長発給禁制をはじめ、現在でも多くの権力者からの文書を所蔵している。
足利義昭が陣した清水寺は東山にあり、まだ山科から一山越えたに過ぎない。
久我こがは京都から大坂に向かう桂川沿いにある地で、川沿いを少し下った先に勝龍寺城がある。

なお、『信長公記』はこの日を9月28日としており、陣を敷いた場所も「東寺」ではなく「東福寺」としている。
牛一の記録ミス、記憶違いだろうか。

同日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月二十六日条

西剋井順慶・マメ山三好新丞各引退了、多聞山ヨリ奈良中・寺門厳重ニ乱妨停止了、先代未聞ノ事、右往左往之処各々安堵了、南花院被帰了、
一、昨日箸尾ヨリ出、十市郷五ヶ所焼了、井戸堂・吉田・九條・備前・長柄、
一、成身院・常如院・吉祥院・蓮成院各々法隆寺邊へ離了、先段多聞山ヨリ懸銭以下彼是気遣之故也、

9月27日

北近江の高島衆ら、約8000の兵で神楽岡に陣取る。
淀・勝龍寺・西岡あたりで両軍が激しく衝突。
足利義昭は清水寺から東寺に移陣。
織田勢は柴田勝家(日向守?)、蜂屋頼隆(兵庫頭)・森可成(三左衛門)・坂井政尚(右近)を先陣として石成友通(岩成主税頭)の籠もる勝龍寺城を攻める。『言継卿記』永禄十一年九月二十七日条 『多聞院日記』永禄十一年九月二十七日条 『信長公記』『細川両家記』など

同九月日、一乗院殿御供申、織田上総介江州北の郡浅井方と相談一味して同国南郡六角方へ切懸候処に、彼方の衆過半一乗院殿へ参る上は、六角方難堪して、則伊賀国へ被引退也、然ば江州を切取、一乗院殿御供申則御入洛候也、御大慶無申計候、
   『細川両家記』

(書き下し文)
同九月日、一乗院殿(足利義昭)に御供申し、織田上総介、江州北の郡浅井方と相談じ、一味して同国南郡の六角方へ切り懸け候ところに、彼方の衆過半は一乗院殿へ参る上は、六角方堪え難くして、則ち伊賀国へ引き退かるなり。
然らば江州を切り取り、一乗院殿御供申し則ち御入洛に候なり。
御大慶は申すばかりに無し候。

備考

この時期の『信長公記』は日付に誤りがある可能性が高い。
勝龍寺を攻めた織田勢の中で、ほかの3大将の面子を見る限り、柴田日向守とあるのは勝家であろう。
同月29日条に詳述する。

同日夜

足利義昭、西岡の寂勝院に陣を移す。
諸勢は山崎天神馬場付近に陣を構える。『言継卿記』永禄十一年九月二十七日条

早旦禁中参、御見舞如日々、江州北郡衆高島衆八千計神楽岡陣取、又南方へ越了、武家御所自清水寺東寺江被移御座、又西岡向へ被移御座云々、西岡方々所々、吉祥院、淀、鳥羽、河州、樟葉以下放火也、今夜武家西岡寺土之寂勝院に陣取云々、諸勢山崎天神馬場迄陣取云々、勝隆寺之城堅固云々、但和睦之調有之云々、
 『言継卿記』永禄十一年九月二十七日条

(書き下し文)
早旦に禁中へ参る。
御見舞は日々の如し。
江州北郡衆高島衆八千ばかり神楽岡に陣取る。
また南方へ越しおわんぬ。
武家御所(足利義昭)清水寺より東寺へ御座を移さる。
また西岡向へ御座を移られ云々。
西岡の方々所々、吉祥院・淀・鳥羽・河州・樟葉以下を放火なり。
今夜、武家西岡寺土の寂勝院に陣取り云々。
諸勢山崎天神馬場まで陣取り云々。
勝龍寺の城堅固に云々。
但し和睦の調いこれ有りと云々。

備考

神楽岡は吉田社の北。慈照寺の近くにある。
西岡(にしのおか)は長岡や勝龍寺の辺り。
方々所々は所々方々と同義で、あちらこちらという意味。

「鳥羽・河州・樟葉以下放火」とあるのは、淀川の南を走る街道で、今日の伏見から石清水八幡宮を経由し、大坂へ下るルートが焼かれたのだろう。
現在は京阪電鉄の沿線となっている。

公家や僧侶の日記等では「武家」は将軍その人を指すことが多い。
従って本来なら「武家」と記されるべきは足利義栄である。
しかし、この日の夜に寂勝院に陣取ったのは足利義昭だろう。
『言継卿記』は義昭が出陣以来、足利義昭のことを「武家」や「公方様」と一貫して記している。

この時期の足利義栄が病により臥せっている様子は『言継卿記』をはじめ、様々な史料から判然としている。
数日後に彼が没した事実を考えると、とても出陣できる状態ではなかっただろう。

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月二十七日条

「廿」カ七日、京都西岡勝龍寺城石成大将ニて五百余たて籠了、責切悉以討死了ト、實否ハ慥ニ不知、ウソ也、十市郷ヘハ箸尾ヨリ秋山龍王より出、散々ニ苅田放火果切了、

9月28日

阿波三好勢ら、山崎で敗れて退却。
西岡あたりで放火・略奪が続く。
織田勢らは芥川城下の市場を放火。
足利義昭は竹内邸に宿泊。『言継卿記』永禄十一年九月二十八日条

自早旦度々禁中見舞申、油小路迄中山以下七八人見物に罷出、二條迄下、山崎破之由申、取物共繁多也、西岡邊悉尚放火、武家御所山崎竹内左兵衛亭江被移御座云々、先勢芥川之市場放火云々、

(書き下し文)
早旦よりたびたび禁中を見舞申す。
油小路まで中山以下七八人見物に罷り出で、二条まで下る。
山崎破れるの由を申す。
取る者ども繁多なり。
西岡辺り悉くなお放火。
武家御所(足利義昭)山崎竹内左兵衛(竹内長治)亭へ御座を移られ云々。
先勢芥川の市場放火し云々。

備考

『信長公記』『永禄記』によると、この時芥川山城に籠城したのが細川六郎(のちの昭元)・三好長逸(三好日向守)のようだ。
山崎竹内左兵衛亭とあるのは、山崎に居住する竹内長治邸のことだろう。
山科言継とは親しく交際している様子が彼の日記から散見される。
竹内氏は公卿久我家の家司であったが、竹内季治の代から昇殿を許されるほどに家名を挙げた。
永禄10年(1567)11月4日条の『言継卿記』には「山崎に於いて竹内左兵衛佐長治朝臣所」に一泊したとある。
永禄11年(1567)10月4日条の『多聞院日記』で松永久通(松右)とともに上洛した竹内秀勝(竹下)は一族親類だろうか。

なお主家にあたる久我こが通俊はこの永禄11年(1568)に正親町天皇の勘気を蒙り失脚する。

9月29日

織田勢、芥川山城を焼き討ちにし攻め降す。
石成友通籠もる勝龍寺城が降伏。
河内国でも各所で放火。
足利義昭(武家御所)は天神之馬場に兵を進める。『言継卿記』永禄十一年九月二十九日条・三十日条 『細川両家記』

今日武家御所天神之馬場迄御進発云々、先勢芥川之麓焼之責云々、其外河州方々放火云々、
   『言継卿記』永禄十一年九月二十九日条

(書き下し文)
今日武家御所天神の馬場まで御進発し云々。
先勢芥川の麓を焼き攻め云々。
そのほか河州方々を放火し云々。

三好三人衆方石成主税助は、山城國西岡勝蔵寺と云處に籠城候、然に則九月廿六日猛勢を以て押よせ、一責攻てくつろげ、噯に成て石成方退城候也、
   『細川両家記』

(書き下し文)
三好三人衆方石成主税助(石成友通)は、山城国西岡勝蔵寺(勝龍寺カ)と云うところに籠城し候。
然るに則ち九月二十六日、猛勢を以て押よせ、一攻めに攻めてくつろげ、扱いに成りて石成方退城し候なり。

備考

両家記にはそれ以上の記述がない。
この文脈だと同月26日に石成友通が開城を受け入れたように見える。
しかしながら、猛攻を受けたのが26日で、その数日後に城を明け渡したとも読めなくはない。

『信長公記』による芥川城攻略の様子は同年10月2日の項を参照のこと。

同日

[参考]『多聞院日記』永禄十一年九月二十九日条

新二郎于キ・七上了、十市郷ノ式悉はて切了、無足迄也、
一、昨今摂州之方大焼也ト申、いかゝ、
一、昨日松少より人質ニ、広橋殿ノムスメ号祝言京へ被上了、尾張守へ被遣之了、
一、常如院・吉祥院へ敵へ同心〆寺門ヲ被開間、坊領可有欠所由、松少より被申遣了云々、咲止々々、
一、松右より銀屋与三郎使トシテ俵十一半預リ了、和喜坊方地子也、

備考

『多聞院日記』の常如院・吉祥院はともに興福寺の子院である。
過去に三好三人衆ら(敵)に同心し、寺門を開いたことが咎められたのだろう。
情勢が一変した今、興福寺でも関係者の仕置きが行われたのだろう。
両院の坊領は没収とされたようだ。
広橋娘についてはよくわからない。

『信長公記』巻之上(我自刊我本)の本年9月27日~石成友通が降伏する29日までの記述は以下の通りである。
なお、このあたりの太田牛一の日付は、記憶違いの可能性がある。
ほかの3大将の面子を見る限り、柴田日向守とあるのは勝家であろう。

三井寺極楽院尓被懸御陣諸勢大津馬場松本陣取、廿七日公方様御渡海尓て同三井寺光浄院御陣宿、廿八日信長東福寺へ被移御陣、柴田日向守・蜂屋兵庫頭・森三左衛門・坂井右近此四人尓先陣被仰付、則か徒ら川打越御敵城岩成主税頭(ママ)楯籠正立表手遣御敵も足軽を出し候、右四人之衆見合馬を乗込、頸五十余討捕、東福寺尓て信長へ被懸御目、公方様同日に清水御動座、廿九日青龍寺表被寄御馬、寺戸寂照御陣取、依之岩成主税頭降参仕・・・

※「見合馬」は見栄えのする名馬か

(書き下し文)
(足利義昭は)三井寺極樂院に御陣を懸けられ、諸勢は大津・馬場・松本を陣取る。
二十七日公方様(足利義昭)御渡海にて同三井寺光浄院に御陣宿とす。
二十八日信長東福寺へ御陣を移され、柴田日向守(柴田勝家カ)・蜂屋兵庫頭(蜂屋頼隆)・森三左衛門(森可成)・坂井右近(坂井政尚)この四人に先陣を仰せ付けられ、すなわち、桂川へ打ち越し、御敵城岩成主税頭(石成友通)の立て籠もる正立表手遣い、御敵も足軽を出し候。
右四人の衆見合馬を乗り込め、首五十余を討ち取る。
東福寺にて信長へ御目に懸けられ、公方様も同日に清水に御動座。
二十九日勝龍寺表へ御馬を寄せられ、寺戸寂照に御陣取る。
これにより岩成主税頭降参仕る・・・

この時期

摂津の伊丹衆、足利義昭(一乗院殿)に降る。『細川両家記』

摂州伊丹方は一乗院殿越前敦賀に御座の時より連々調儀共有、所領三万石給、此時色を立、摂州河邊武庫両郡、同廿九日に放火の條、阿州方城々摂州芥川城、河内の飯盛の城、同高屋城悉被明候上は、是非なき次第也、
   『細川両家記』

(書き下し文)
摂州伊丹方は一乗院殿(足利義昭)越前敦賀に御座の時より連々の調儀を共有す。
所領三万石を給わり、この時色を立つる。
摂州の河辺武庫両郡、同二十九日に放火の条、阿州方の城々、摂州芥川城・河内の飯盛の城、同じく高屋城は悉く開けら候の上は、是非なき次第なり。

備考

伊丹を根城とする伊丹親興は元々足利義昭を奉じる松永久秀方であった。
永禄9年(1566)5月末に堺起きた戦いでも、伊丹は松永方として参陣し、池田勝正に所領を焼かれている。
しかしながら、周辺の味方勢力が次々と降伏する中、伊丹も同年8月17日頃に阿波勢に降っている。『細川両家記』

このような流れの中、伊丹家の棟梁は親興から忠親へと代替わりする。

9月30日

三好三人衆方の城々が降伏。
郡山道場が落ち、富田寺(普門寺カ)も降伏寸前となる。
織田勢、池田城を攻撃。『言継卿記』永禄十一年九月三十日条 『細川両家記』など

同日

戦乱により河内高屋城周辺が焼ける。
超昇寺が足利義昭に付き西京を放火。
箸尾氏らも足利義昭に付き、筒井氏の七条を焼く。『多聞院日記』永禄十一年九月三十日条

今日武家芥川へ被移御座云々、勝隆寺・芥川等之城昨夕渡之、郡山道場今日破之、富田寺外破之、寺内調有之、池田へ取懸云々、
 『言継卿記』永禄十一年九月三十日条

(書き下し文)
今日武家芥川へ御座を移られ云々。
勝龍寺・芥川等の城昨夕これを渡す。
郡山道場今日これを破る。
富田寺外も破る。
寺内にて調いこれ有り。
池田へ取り懸かり云々。

今井道具彼是之用長賢房南へ下了、神人掃部・新二郎付下、神人ハ夕部上了、
一、摂州悉焼沸、河州高屋迄今日ハ焼了、藉?八妻昨夜退城了、城州・摂州・河州開隙、急度当国へ人數可越歟、安否之巷也、今日超昇寺ハ上意へ色立トテ西京少々焼了、
スカタハ箸尾へ一味、則色立ニ筒井ノ七条ヲ焼了ト、万一一時乱了、抑寺社頓滅之基、いかゝ、面々殊悪行浅猿々々、眼前相果迄也、今生如此、來世弥々無所憑、アヽ、
  『多聞院日記』永禄十一年九月三十日条

(書き下し文)
今井の道具かれこれの用長賢房南へ下しおわんぬ。
神人掃部・新二郎を付け下し、神人は夕部上げおわんぬ。
一、摂州悉く焼き払い、河州高屋まで今日は焼きおわんぬ。
藉?八妻昨夜退城おわんぬ。
城州・摂州・河州がひま開くと、急度当国へ人数を越すべくか。
安否の巷(巷説)なり。
今日超昇寺は上意へ色立とて西京を少々焼きおわんぬ。
スカタハ箸尾へ一味、則ち色立に筒井の七条を焼きおわんぬと、万一一時乱了。
そも寺社頓滅の基、いかが。
面々殊に悪行浅まし浅まし。
眼前相果つるまでなり。
今生はかくの如し。
来世はいよいよ頼みどころ無し。嗚呼。

備考

『言継卿記』に見える郡山道場は、恐らく摂津国島下しましも郡(現茨木市)だろう。
普門寺城は数日前まで足利義栄がいた場所である。
『多聞院日記』に見える超昇寺は興福寺系の寺院。
「上意へ色立」とは足利義昭方へ付くと旗幟を鮮明にしたと解釈してよいだろう。
「スカタハ」については分かり次第後日に加筆したい。

同日

大和高田城を攻撃していた十市・箸尾ら、足利義昭の調停により兵を布方まで退く。『多聞院日記』

昨日高田城ノ責衆、布方悉以退散了、従上意様十市・箸尾へ被成御下知被追拂了、十「兵」カ之儀将軍付、近日噯ニ新縫助参之間其調歟、大慶不及是非者也、但雑説ハ不知、
   『多聞院日記』永禄十一年十月一日条

(書き下し文)
昨日高田城の攻め衆、布方へ悉く以て退散しおわんぬ。
上意様(足利義昭)より十市・箸尾へ御下知を成され追い払われおわんぬ。
十兵?の儀、将軍に付き、近日扱いに新縫助ぬいのすけ参るの間、その調べか。
大慶是非に及ばずものなり。
但し雑説は知れず。

備考

籠城の衆は恐らく筒井方だろうが、この時誰が籠もっていたのかわからない。
この時扱いが入り、恐らく開城したのだろう。

十市は十市常陸介のことか。
箸尾は箸尾宮内少輔(為綱)のことか。
『重修譜』によると、箸尾為綱は筒井順昭の娘を娶っているため、心中は複雑だったのかもしれない。

(推定永禄11)同日

六角義治、山中新三郎へ書状を発給。『山中文書』

就当国江相越、毎事可令馳走之由、以岡本申候、尤祝着候、仍進藤配当分如当知行為給恩申付候条、領地不可有相違候、猶狛理亮可申候、謹言、
     九月晦日   義治(花押)
     山中新三郎殿

(書き下し文)
当国へ相越すに就きて、毎事馳走せしむべきの由、岡本を以て申し候。
もっとも祝着に候。
仍って進藤配当分、当知行の如く給恩として申し付くるの候条、領地相違有るべからず候。
なお狛修理亮申すべく候。謹言(以下略)

備考

『戦国遺文 佐々木六角氏編』は、年次を(永禄十一年カ)としている。

9月

信長、岐阜城下の加納市場に3ヶ条からなる制札を発給。『円徳寺文書』永禄十一年九月日付織田信長制札

   定           加納
一、当市場越居之輩、分国往還煩有へ
から須、並借銭・借米・さ可り銭・敷地年貢、
門奈ミ諸役免許せしめ訖、譜代相伝能
者たりといふと毛、違乱春へ可ら佐流事、
一、楽市・楽座之上、諸商買すへ畿事、
一、をしかひ・狼藉・喧嘩・口論、使入邊可ら須、並
宿をとり、非分申かくへ可らさ流事、
右条々、於違背之族者、可加成敗者也、仍下知如件、
  永禄十一年九月 日 (信長花押)

(書き下し文)
 定め 加納
一、当市場に越居(おっきょ)のともがら、分国往還の煩い有るべからず。
並びに借銭・借米・さがり銭・敷地年貢、門なみ諸役免許せしめおわんぬ。
譜代相伝の者たりというとも、違乱すべからざるの事。
一、楽市・楽座の上、諸商買すべき事。
一、おしかい・狼藉・喧嘩・口論、使つかい入るべからず。
並びに宿をとり、非分を申しかくべからざる事。
右の条々、違背のやからに於いては、成敗を加うるべきものなり。
仍って下知くだんの如し。(以下略)

語訳)①加納市場への移住者は、織田領内での往還の自由を保証する。並びに借銭・借米・悪銭・敷地の年貢、門ごとにかける諸役を免除する。例え織田の古くからの家臣であっても、違乱してはならない。②楽市・楽座であるから、これを承知のうえで商売せよ。③不法(強引)な買い入れを行ったり、狼藉・喧嘩・口論を行ったり、使者を遣わしてはならない。加えて、宿を取り、不当な要求をしてはならない。(以下略)

備考

この檜板の制札は円徳寺が所蔵するもので、大きさは35.9cm×33.9cm、厚さ1.0cmとなる。
信長が加納いちに出した現存する制札の中では2番目に古いものだ。

1条目のさがり銭は、貨幣の摩耗や劣化により価値が下落した悪銭のこと。
3条目の「使入るべからず」は、使者を派遣しての不当な介入が横行したのだろう。

これが、いわゆる「楽市・楽座」政策であり、後年さまざまな議論を呼ぶものである。

内容的には信長が前回発給した永禄10年(1567)10月日付の制札とほぼ変わりはない。
しかしながら、前回分には「楽市場」とあったものが、このたび発給された制札には楽市に加えて「楽座」の語彙が追加されている。
これにはどのような意図があったのだろうか。

断定はできないが、還住(げんじゅう)が進まないことによる治安の悪化や、税収の低下を憂い、頭を悩ませた信長がとった苦肉の策ではないかと考える。
還住とは、戦乱により他所へ避難した住民たちを呼び戻すことである。
というのも、信長はその後も、同地に対して複数回制札を出しているが、次第に借銭・借米などを免除する要素が減っていき、逆に権利者(債権者)の権利を保障する内容が増えていくからだ。

つまり、本制札では住民に特典を与えることで還住を促すのが狙いであって、「楽市・楽座」という抽象的な表現を使って、良いイメージを付けたに過ぎないのではないだろうか。

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