戦国時代の鉄砲のレシピ書?上杉謙信が将軍義輝から賜った古文書を解読

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戦国時代の鉄砲のレシピ書?上杉謙信が将軍義輝から賜った古文書を解読
らいそくちゃん
らいそくちゃん

こんばんはー。
今回の記事は、前回の「上杉七免許? 足利義輝が上杉謙信に宛てた書状から見えるものとは」とほぼ同時期のことで、上杉政虎(謙信)が思わぬところから「鉄砲調合のレシピ書」を入手したお話です。

それでは、この書状を入手した経緯からご説明しましょう。

上杉謙信が腫れ物を患い上洛中断?

 永禄2年(1559)6月。
越後の大名で、関東管領かんとうかんれい職の名跡を継いだ上杉政虎(謙信)は、将軍足利義輝の招きに応じて京都に向かっていました。

しかし、その道中で政虎は腫れ物を患ったようで、しばらく近江国坂本に逗留していました。
これを聞いた足利義輝は政虎の病状を気遣い、見舞いの御内書ごないしょを出しています。

その時の書状がこちらです。

足利義輝が上杉謙信の病状を見舞った書状

永禄二年六月二十九日付足利義輝御内書

永禄二年六月二十九日付足利義輝御内書

釈文)

永々在坂本事候、其後
腫物い可ゝ候や、無心元候、為其
左衛門佐遣候、委曲晴光可申候也、

 六月廿九日  (足利義輝花押)

    長尾弾正少弼とのへ

せっかくですし、この書状を朗読させてみました。

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

長尾殿の腫物の具合はどうじゃ?
心配なので、大舘おおだち晴光(左衛門佐さえもんのすけ)を遣わすゆえ、詳しいことは彼が述べるであろう。

といった内容です。
坂本から京の都までは、当時でも半日とかからない距離ですが、義輝が政虎を気遣う心が見えるような気がしますね。

上杉謙信が思わぬところで手に入れた鉄砲の調合レシピ書

 実は前述の書状と同じ日付で、足利義輝側近の大舘晴光からこのように記された副状そえじょうが遺されています。

釈文)

就御腫物之儀、被差下
左衛門佐候次、今度大友
新太郎進上銕放殊
藥之方一巻御拝領之候、
御面目候  (闕字)上意之趣委
曲輝氏可申候、恐々謹言、

  六月廿九日 晴光(花押)

 長尾弾正少弼殿

この書状も朗読させてみました。

『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)

あなた様の腫物を義輝様が御心配なされ、このたび私を遣わされました。
九州の大友義鎮(宗麟)から進上された「鉄砲種薬のレシピ書」一巻を、あなた様に差し上げます。
あなた様もさぞかし面目を施されたことでしょう。
詳しいことは大館輝氏が口上するでしょう。
 敬具

 (1559年)6月29日 大館晴光
 上杉政虎殿

といった内容です。

大友宗麟の名ができてきましたね。
彼は当時、大分県を中心に九州一の勢力を誇った大友家の当主で、キリスト教の布教を許可するなど、中学の歴史の教科書にも登場する人物です。

輝氏とは大館おおだち輝氏のことで、大館晴氏の子、または孫にあたります。
将軍義輝の一字を賜っていますね。

なお、鉄砲の「鉄」の字に関しては、”銕”や”鐵”と記された文書も多くあります。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

鉄砲調合のレシピ書とは一体どういうものなのでしょうか。
そのレシピ書がこちらになります。

原文

鉄砲薬之方并調合次第

鉄放薬方並調合次第(てっぽうやくのかたならびにちょうごうのしだい)

いやぁ、長いですね(^^;
これだと読めないと思いますので、今回は3つに分割して解説します。

鉄砲薬之方并調合次第a1

鉄放薬方並調合次第a

鉄砲薬之方并調合次第b1

鉄放薬方並調合次第b

鉄砲薬之方并調合次第c1

鉄放薬方並調合次第c

下の方に現代語訳を載せていますので、煩わしい方は飛ばしてください。

釈文

 今回は仮名文字の傾向が強い文書です。
仮名文字というのは漢字をもとにして日本で作られた文字のことで、現在では平仮名と片仮名のことを指します。
かつてはひらがな・カタカナ以外に、変体仮名も広く用いられていました。

例えば、「は」であれば、
波→ひらがな 八→カタカナ
者・盤→変体仮名(もう使われていない)
となります。

仮名文字について過去に記事にしたことがありますので、詳しくはこちらをご覧ください。

関連記事:【古文書独学】これを覚えるだけで変わる! くずし字でよく出る文字8選

(a)


 鐵放藥之方并調合次㐧

一、ゑんせう 二両二分
一、春見 一分二朱
一、い王う  一分
     又
一、ゑんせう 一両二分
一、春見 一分
一、い王う  三朱
いつ連も上々、

一、者い乃木、河原楸、又者、勝木可然候、あまり尓枯
過多類ハ悪候、四十日五十日程ハ可然候、それより久
なり候へハ、抜口をとり申候也、

一、老木ハ悪候、但若立尓て候へハ、老木の毛不苦候、

一、灰能木を一尺計尓きり、皮をよく気つり、中能
春越能取候て、日丹干候、夏ハ日徒よく候間、十日
十四五日能間尓、よく枯候条、廿日阿まり日尓干して
其後ハ陰干可然候、其後焼様之事、

(b)


一、ふ可さ二尺あまり丹土を本り、其中丹王らを五寸
計丹切、下に敷候て、其上丹者、い乃木を徒ミ、下より
火を付、灰能木よくもへあ可り候時、せう丹奈らさる
やう尓、志けゝゝ(?)と王らを木能上へ可け能屋け候へ者、
下より煙あ可らさ類物尓て候、さ様丹煙あ可り候ハ、寸は
桶をうつむ希手、ふ多にし候て、むし気しに志候也、

一、炭けし候て後、其炭を湯尓ておふ本と煎申候、
其後取あけ、能あふり、能干申候ハゝ、其時調合候也
是ハ藥一段と志川したる時乃拵様尓天候、惣別ハ可様
尓し候ハ年とも不苦候、

一、ゑんせう煎様之事、一斤丹水常能天目九者い
入、其水農(遠?)保さ能分、木を取候て、三分一を煎遍
らし候て、圓さ一尺の桶尓入いせ候て置候、其日登
中を一切見候満し久(?)、翌日に見候て下志類を、別乃
桶へあけ候て、下にゐつき候、ゑんせう一日本と日尓よく
干、さて遍ら尓ておとし、又、日尓能干候也、又、其下
志るを半分丹煎遍らし煎遍り候時、天目尓水
一者い入候て、湯玉乃多川本と又煎候て、如右桶尓ひ(?)や
し申候、三番目右同前、

一、い王うあ可く黄色奈るを用申候、青色奈るハ悪候、白砂
奈とまし里候ハ、それをハよく小刀尓てこそけ落調
合可然候、い王う色さへ能候へハ、あハゝゝとく多け候も不苦候、
堅ハ猶以可然候、

(c)


一、藥硏尓ておろし、灰多ち候ハゝ、薬志めり候ハぬ程尓、ちや
せん尓て水をうち候て、おろし候也、い王う見え候ハ、すハ藥
を板の上にか少置火を付候て、多ちて後、跡尓いつ連も残
候ハ、寸ハ其時帋尓包、其上を布を三重計重て
包て、口を能ゝ留、板の上に置、足尓てい可尓毛堅成候様
尓ふミ可多め、さて其後こ満可尓きさミ申候也、

一、藥こしらへ候、座敷へ少も火を不可入候、火入候へ者、忽
あやまち可有出来(者?)、藥丹火を付て見候時も、近
辺尓藥無之様、可有分別候、藥と火能間二三間候
とも付可申候、不可有油断候、

一、右條々、手間入候様尓候ハん春れとも、藥尓馴候ヘ者、
一向手間不入事候、五斤とも六斤と毛可有調合時ハ、
右藥の分両合可さ年候て、ひとつ丹藥研尓て荒(?)
おろし志候て、藥う春能やふ奈類石能う春尓てつき
あハせ、是又細尓奈り候ハゝ、竹能筒へつきこミ能
か多まり候ハゝ、筒越王り、其藥をきさミ候へく候、
大本此分猶口傳籾井尓申含候也、

   以上

 永禄弐年六月廿九日

原文に釈文を記してみた

鉄砲薬之方并調合次第a2

鉄放薬方並調合次第a+釈文

鉄砲薬之方并調合次第b2

鉄放薬方並調合次第b+釈文

鉄砲薬之方并調合次第c2

鉄放薬方並調合次第c+釈文

補足

(a)
灰の木=ハイノキ。
近畿以西の温暖な地を原産とする常緑樹。
花は4月~5月に咲き、実は8~9月に熟し野鳥が好んで食べる。

ハイノキ(サワフタギ)

ハイノキ科ハイノキ属サワフタギ 出典元:wikipediaより

河原楸=カワラヒサギ(キササゲ)
ノウゼンカズラ科の落葉高木。
日本では古来から自生していたらしく、そこから成る実のことを梓(あずさ)といいます。

ノウゼンカズラ科キササゲ属唐楸(トウキササゲ)

ノウゼンカズラ科キササゲ属唐楸 出典元:wikipediaより

勝木=カツノキ(カチノキ)
ヌルデのこと。ウルシ科の落葉木。
日本では北海道から琉球まで広く自生し、古来から生薬をはじめ、お歯黒、染め料、建材などに用いられました。

カツノキ(ヌルデ)

ウルシ科ヌルデ属ヌルデ 出典元:wikipediaより

い乃木=勉強不足で少しわかりかねますが、その後に火を入れるとあるので、タタミなどで使うい草のことかもしれません。

(b)

ゑんせう=煙硝。硝酸カリウムのこと。
中世日本では硝石のことを煙硝と呼んでいたようです。
日本ではほぼ手に入らない資源で、戦国時代には南蛮からの輸入に頼っていましたが、江戸時代に入って国産化しました。

硫酸カリウムの結晶

硝酸カリウムの結晶 出典元:wikipediaより

い王う=”いわう”と書いていたようですが、硫黄のことです。
黄色のもろい結晶。
燃やすと青白い炎を出して二酸化硫黄(亜硫酸ガス)を発生させます。
中世では火薬の原料となりました。

硫黄

硫黄 出典元:wikipediaより

(c)

藥硏=薬研=やげんとは、薬の材料を磨り潰して汁を作ったりする道具のこと。
太古の昔は木や石でできていましたが、時代が進むにつれて製陶・青銅・鉄・ガラス・プラスチックと進化していきました。

薬研

書き下し文

(a)


 鉄砲薬の方並びに調合の次第

一、煙硝 二両二分
一、炭  一分二朱
一、硫黄   一分
     又
一、煙硝 一両二分
一、炭  一分
一、硫黄   三朱
いずれも上々。

一、灰の木、河原楸または勝木然るべく候。
あまりに枯れすぎたるは悪う候。
四十日五十日程は然るべく候。
それより久なり候えば、抜き口をとり申し候なり。

一、老木は悪う候。
ただし、もし立ちにて候えば、老木のも苦しからず候。

一、灰の木を一尺ばかりに切り、皮をよくけずり、中のすをよく取り候いて、日に干し候。
夏は日強く候間、十日、十四五日の間に、よく枯れ候の条、二十日あまり日に干して、その後は陰干し然るべく候。
その後焼き様の事。

(b)


一、ふかさ二尺あまりに土をほり、その中にわらを五寸
ばかりに切り、下に敷き候いて、その上にはいの木をつみ、下より火を付け、灰の木よく燃え上がり候時、そうにならざる
ようにしけしけ(?)とわらを木の上へかけ、野焼け(?)候えば、下より煙あがらざる物にて候。
左様に煙上がり候はば、すは桶をうつむけてふたにし候いて、蒸し消しにし候なり。

一、炭けし候いて後、その炭を湯にて覆う(?)ほど煎り申し候。
その後取り開け、野炙り、野干し申し候はば、その時調合候なり。
これは薬一段としつしたる時の拵えようにて候。
総別はかようにし候はねども苦しからず候。

一、煙硝煎り様の事。
一斤に水常の天目九盃を入れ、その水の多さ(?)の分、木を取り候いて、三分一を煎えらし候いて、円(まろ)さ一尺の桶に入りいせ候いておき候。
その日と中を一切見候間敷く候。
翌日に見候いて、下しるを別の桶へあけ候いて、下にいつき候。
煙硝一日ほど日によく干し、さて、へらにて落とし、又、日に野干し候なり。
また、その下しるを半分に煎えらし、煎えり候う時、天目に水一盃入り候いて、湯玉の立つほど又、煎り候いて、右の如く桶に冷やし申し候。
三番目も右に同然。

一、硫黄赤く黄色なるを用い候。
青色なるハ悪う候。
白砂などまじり候はば、それをは、よく小刀にてこそげ落とし、相調え然るべく候。
硫黄は色さえ良きに候へば、泡々と砕け候も苦しからずに候。
形は猶もって然るべく候。

(c)


一、薬研にておろし、灰たち候はば、薬しめり候はぬ程に、茶せんにて水をうち候ておろし候なり。
硫黄見え候は、すは薬を板の上に少し置き、火を付け候いて、立ちて後、跡にいずれも残り候は、すはその時紙に包み、その上を布を三重ばかり重ねて包みて、口をよくよく留め、板の上に置き、足にていかにも堅くなり候ように踏み固め、さてその後、こまかにきざみ申し候なり。

一、薬こしらえ候座敷へ、少しも火を入れるべからず候。
火を入れ候えば、忽ちあやまち有るべく出来は、薬に火をつけて見候時も、近辺に薬これ無き様、分別あるべき候。
薬と火の間二・三間に候とも、申すべきに付き候。
油断あるべからず候。

一、右の条々、手間入れ候ように候はんすれども、薬に馴じみ候へば、一向手間を入れず事に候。
五斤とも六斤とも調合あるべく時は、右の薬の分量相かさね候いて、ひとつに薬研にて荒おろしし候て、薬うすのようなる石のうすにてつき合わせ、是れ又細かになり候はば、竹の筒へ突き込みのかたまり候はば、筒をわり、其の薬をきざみ候べく候。
大本此の分、尚、口伝を籾井に申し含め候なり。

   以上

 永禄二年六月二十九日

原文に書き下し文を記してみた

鉄砲薬之方并調合次第a3

鉄放薬方並調合次第a+書き下し文

訂正)右から4行目
正)一、灰の木を一尺ばかりに切り、皮をよくけずり
誤)一、灰の木を一尺ばかりに切り、皮をよくつけり

鉄砲薬之方并調合次第b3

鉄放薬方並調合次第b+書き下し文

鉄砲薬之方并調合次第c3

鉄放薬方並調合次第c+書き下し文

現代語訳

 解釈が難しく、ところどころ分からない部分もあります。
あくまで参考程度に・・・。

(a)


 鉄砲調合のレシピ

・煙硝 2両2分
・炭 1分2朱
・硫黄 1分
または
・硫黄 1両2分
・炭 1分
・硫黄 3朱
どちらでも構わない。

1)ハイノキ、河原鍬(キササゲ)、または勝木(ヌルデ)を使う。
枯れすぎているものはダメ。
伐採して40~50日ほどのものならOK。
それより古いものは、抜き口を取って使った方が良い。

2)老木はダメ。
ただし、まだ立つ力のある老木ならば使っても良い。

3)ハイノキを1尺(約30cm)くらい切り、皮をよく削り、中の木酢液をよく取り除いてから日に干す。
夏は日差しが強いので10~15日で枯れやすいから注意。
20日くらい干して、その後は陰干しにすると良い。
十分に乾燥してから焼く。

(b)


4)深さ2尺(約60cm)くらい土を掘り、その中にワラを5寸(約15cm)くらい下に敷いて、上からこれまで乾燥させてきたハイノキに火をつける。
ハイノキが燃えすぎた場合、湿ったワラを上からかけて調整すると良い。
煙が上がってきたら、桶をかぶせて蒸し消しにする。

5)消化したら、その炭を大量の湯に入れて煎る。
その後取り出して、野炙り・野干しにする。
ここから調合の段階に入る。
(これは薬一段としつしたる時の拵えようにて候。総別はかようにし候はねども苦しからず候。 ココワカラナイ)

6)煙硝(硝酸カリウム)の煎り方。
1斤(約600g)に水(?) 天目茶碗9盃分を入れ、水の多さの分ハイノキを取り除いて、1/3を煎る。
(直径?)1尺(30cm)の桶にそれを入れておく。
その日は絶対に中を見てはダメ。
翌日確認して、液体を別の桶に入れて、(下にゐつき候 ココワカラナイ)
煙硝(硝酸カリウム)を1日ほど日によく干してからヘラで落とし、それからまた野干しする。
また液体を半分煎り、煎った液体を天目茶碗一盃に入れ、沸騰するまで再び煎る。
これらを桶に入れて冷やす。
3回目もこの手順で行う。

7)硫黄は赤や黄色の物を使う。
青色の硫黄はダメ。
白砂などが混じった硫黄は、小刀でこそげ落として使う。
硫黄は色さえよければ、泡々と砕け溶けてもOK。
形もなんでも良い。

(c)


8)薬研やげんですりつぶし灰が出てきたら、湿らない程度に茶せんで水を立てて少し入れる。
硫黄が見えてきたら、薬を板の上に置いて火をつける。
その後、跡に残ったものを紙に包み、その上から布を三重ばかり重ねて包み、口をよく留めて板の上に置く。
そこから足で何度も踏んで固める。
固まったら、これを細かく刻む。

9)薬が出来たら絶対に火を入れてはいけない。
もし火を入れた時には、取り返しのつかないことになる。
薬に火をつけるときも、類火しないように細心の注意を払う。
薬と火の距離が2~3間(3.6~5.4cm)だったとしても危ないので注意。

10)これまで書いたような手順を完璧に守らなくても、薬に馴染みさえしたら、それ以降はあまり手を加えないほうが良い。
一気に5斤(約3kg)も6斤(約3.6kg)も調合するときは、分量を計算して使うこと。
一つの薬研で荒く砕き、これを石うすで細かくつき、完成したら筒を割って、その薬を刻んで完成。

だいたいこんな感じ。
詳しいことは籾井が直接あなたに申し伝える。
以上。

1559年6月29日。

想像するのが難しいものもありまして、現代語訳するのが骨が折れますね。
訳が間違っている部分もあるかと思います。
その場合はご教授いただけたら幸いです…m(__)m

これを見て実際に作ってみようとお考えの方は、まさかいないだろうとは思いますが、当サイトでは面倒なことが起きても一切の責任を負いかねますのでご了承ください。

その後の上杉謙信

 京都滞在半年ばかりで上杉政虎(謙信)は七免許を土産に越後へ帰り、翌年関東地方へ遠征をし、小田原城を取り囲むに至ったのは前回の記事で書いた通りです。

気になるのは、上杉家が鉄砲調合のレシピ書をもらい受けて、その後どのような軍事改革をもたらしたのかです。
鉄砲の集中運用によって武田信玄や北条氏康との戦いで上手く使えたのでしょうか。

残念ながら、謙信はその後、鉄砲のレシピ書を武田や北条との戦いで上手く活かせた形跡がないようです。
レシピ書を手に入れたとしても、肝心な硝石までは調達できなかったのかもしれません。
その点からいえば、堺や九州から遠い越後国は鉄砲に不向きな地域と言えるでしょう。

ただ、歴史家の乃至政彦氏の著書によると、謙信があれだけ合戦で強さを発揮できたのは、他の戦国大名に先駆けて「兵種別編成」を実現できたからではないかとありました。

これまでは各家の国人勢力ごとに、騎馬・徒歩かち足軽・鉄砲をそれぞれ持っていて、彼らが寄り集まって主家を支えていました。
強力な大名による中央集権化が進むにつれて、各家で軍事改革が推し進められたのが戦国時代の特徴です。

その中でもとりわけ上杉謙信は、自らの指図通りに動くシステム作りが上手かったのかもしれませんね。

参考文献:
山田邦明(2004)『上越市史編 別編1 (上杉氏文書集一)』 上越市史
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
乃至政彦(2016)『戦国の陣形』講談社現代新書
河内将芳(2014)『歴史の旅 戦国時代の京都を歩く』吉川弘文館
秀和システム(2008)『図解入門よくわかる最新「薬」の基本としくみ: 薬品が効く仕組みを図解で学ぶ!』
児玉幸多(1970)『くずし字解読辞典普及版』東京堂出版
など

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