上杉七免許? 足利義輝が上杉謙信に宛てた書状から見えるものとは

上杉七免許? 足利義輝が上杉謙信に宛てた書状から見えるものとは
らいそくちゃん
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こんばんは~。
前回の記事では上杉謙信が武田信玄を強く罵る古文書の解読をしましたが、今回はそれより5年ほどさかのぼり、謙信が2度目の上洛を果たした時のお話です。

らいそくちゃん
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足利義輝が何を考え若き謙信を京都に呼び寄せたのか・・・。
今回はその謎に迫ります。

上杉謙信が2度目の上洛 将軍義輝と再開を果たす

 前回の記事で上杉謙信が武田信玄の悪行の数々を書いた古文書をご紹介しましたが、今回はそれよりもう少し時代がさかのぼった永禄2年(1559)6月あたりのお話です。
永禄2年といえば、あの有名な桶狭間の合戦で織田信長が街道一の弓取りと謳われた今川義元を討つちょうど1年前のことです。

この当時の謙信は、いくさに敗れて落ち延びた関東管領かんれい職、上杉憲政の名跡を継いで”上杉政虎“と名乗っていました。

隣国北信濃の村上義清を始めとする諸豪族たちも、武田晴信(信玄)に敗れて政虎の武威にすがりつき、それを助けんと政虎が兵を起こして川中島で既に3度戦っています。

そんな中、政虎の武名と義理堅さをよく知っている人物が、会いたいと使いを寄こしてきました。
それが他ならぬ室町幕府13代目将軍、足利義輝です。
実は政虎は5年前にも上洛していて、将軍義輝とは旧知の仲だったのです。

足利義輝肖像

足利義輝肖像(国立歴史民俗博物館蔵)


 足利義輝(義藤) (1536~1565)

室町幕府第13代征夷大将軍。
父・義晴の元でたびたび細川晴元・三好長慶らと戦い、近江への敗走と京への復帰を繰り返す。
わずか11歳で将軍職を継ぐものの、かつての権力を取り戻すことは叶わなかった。
三好長慶の死後、空中分解した三好家の内紛に巻き込まれて殺された。
剣豪の塚原卜伝から指導を受けた剣豪としても知られている。

政虎は領内の統治に不安を覚えながらもこれを承諾。
翌年上洛する旨を伝えます。
時に政虎29歳。最も脂が乗っている時期でした。

景虎はたび重なる将軍足利義輝からの上洛要請があり、翌永禄2年(1559)5月24日ついに上洛。
正親町天皇と将軍義輝に謁見し、相伴衆しょうばんしゅうに任ぜられました。

今回の足利義輝の文書は、こうした時期のものです。
それでは、早速書状をご覧いただきましょう。

足利義輝による謙信に期待を込めた古文書

 今回は文字が大きくて見やすく、字数も多くはないため、古文書解読初心者には都合の良い文書かもしれません。

原文

足利義輝が上杉政虎へ宛てた書状

永禄2年6月26日付足利義輝書状

釈文


関東上杉五郎進退
事、向後代景虎以
分別令、可取見計事
簡要(?)候、猶晴光可申候也、


 六月廿六日 (足利義輝花押)


      長尾弾正少弼とのへ

せっかくですし、この書状を朗読させてみました。

『VOICEROID+ 東北きりたん EX』(株式会社AHS)

原文に釈文を記してみた

足利義輝が上杉政虎へ宛てた書状(釈文)

(永禄2年6月26日付足利義輝書状+釈文)

書き下し文


関東上杉五郎進退の事、
向後景虎が代わりもって分別せしめ、
取り見計らうべき事肝要に候。
猶晴光申すべく候なり。

 六月二十六日 (足利義輝花押)

      長尾弾正少弼とのへ

原文に書き下し文を記してみた

足利義輝が上杉政虎へ宛てた書状(書き下し文)

(永禄2年6月26日付足利義輝書状+書き下し文)

解読のポイント

 1行目の「上杉五郎」は、前述した前関東管領かんれい、上杉憲政のことです。

中盤の「晴光」も人名で、大館おおだち晴光という足利義輝の側近。つまり幕臣です。
晴光は当時、どうやら上杉政虎の外交取次ぎとして接待役を任されていたようです。

「杦」は杉の異体字となります。

他の「東」、「五」、「事」、「進」、「分」、「正」は基本的なくずし方で、出る頻度も高いため覚えておいて損はないでしょう。

現代語訳


(元)関東管領、上杉憲政の進退については、景虎(上杉謙信)の裁量で判断しても良いこと。
なお、詳しいことは大館晴光が直接そなたに口上するであろう。


 1559年6月26日 (足利義輝花押)

      長尾景虎(上杉謙信)殿へ

この文書は厚礼か非礼か

 例え古文書が読めなくても、厚礼か非礼かは判別することができます。
今回の足利義輝が上杉政虎に宛てた書状はどちらになると思いますか?

答えは非礼です。
理由は下記の図のとおりです。

足利義輝が上杉政虎へ宛てた書状から礼儀の厚薄を見る

足利義輝が上杉政虎へ宛てた書状から礼儀の厚薄を見る

①の書き留め文言は「恐々謹言きょうきょうきんげん」や「謹言」といった、現在の「敬具」にあたる部分です。

②の脇付けは「人々御中ひとびとおんちゅう」などです。

③の日付よりはるかに下がった宛名というのは、目下に宛てて送るという当時の暗黙のルールがありました。
逆に上に書けば目上の人物に書いているということになります。

④の「とのへ」と記されているのも非礼にあたります。

なぜこのような非礼な書き方をするのかといいますと、武家の棟梁である征夷大将軍という特性上、相手を下に下げることによって、自らの権威を高める狙いがあるものと考えられます。

どうやらどの足利将軍も、公的な文書を発給するときは、どれも似たようなスタイルのようです。
このように、あまり古文書がわからないうちも、礼儀の厚薄の観点から見ることはできるのでなかなか面白いものですよ。

関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり

らいそくちゃん
らいそくちゃん

いかがでしたか?
今回の古文書は文字数がさほど多くはなく、どちらかというと事務的な内容ですが、この文書の解釈によって微妙に意味合いが違ってくるのです。

さて、ここから先は専門性の強い・・・少しマニアックな内容となります。
「足利義輝がどのように上杉謙信を見ていたか」あるいは、「謙信の上洛の真の目的は一体何なのか!?」
ご興味のある方は是非ご覧ください^^

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