実は今回の上洛は関東管領襲名が目的ではなかった?
これまでの通説では、永禄2年(1559)の上杉政虎2度目の上洛の目的は、上杉憲政から譲られた関東管領職を正式に将軍と天皇に認めてもらうことでした。
しかしながら、近年の研究によれば、”他に目的がある“という論が強くなってきているようです。
これを説明するには、キーマンが2人必要かもしれません。
一人は言うまでもなく将軍足利義輝です。
彼の上洛要請が無ければ、政虎の上洛は実現しなかったからです。
もう一人は意外な人物かもしれませんが、公家で当時関白職に就いていた近衛前嗣(のちの前久)です。
彼はまだ23歳前後と新進気鋭の若き貴公子でした。
かつて細川高国が大内義興を京都に招いた先例に倣い、上杉政虎の武威をもって敵対勢力を抑え込む。
将軍と関白と上杉政虎が協力して、再び太平の世を作らんと画策したのがはじまりでした。
上洛した上杉政虎は足利義輝と再会を果たします。
また、6月初旬から中旬にかけて、近衛前嗣(のちの前久)とも近江坂本で二人で会っていて、どうやらそこで
「たとえ領国を失っても、ひたすら忠節に励む意思がある」旨の発言を政虎本人がしているようです。
上杉政虎はまことに足利義輝と近衛前嗣が望んだ通りの義理堅くて強い御大将だったらしく、この三者の絆はますます深くなっていきました。
しかしながら、それを快く思わない勢力も存在したようです。
この時期、上杉政虎が帰国することを望んでいるという風説が流布されていて、6月16日付けで足利義輝が
「長尾弾正少弼(上杉謙信)が帰国を決意したとの風聞を耳にしたが、すでに領国を捨てることも厭わず、忠節を尽くす覚悟で上洛したはずなのだから、このような風説は一切あり得ない。タチが悪すぎるので取り合うべきではない」
と記した文書が遺されています。
足利義輝の上杉政虎への信頼の厚さを窺える興味深い内容ですね。
歴史家の乃至政彦氏の見解によると、
武田や北条の権威を超えた上杉謙信「七免許」の威力
足利義輝と近衛前嗣の狙いは、上杉政虎が上洛して将軍と朝廷に忠節を誓うと、畿内近隣の諸勢力もそれに倣って上洛し、政虎に続いて戦国の世にピリオドを打つシナリオを思い描いていた。
(中略)
しかし、案に相違して諸勢力は一向に上洛しなかった。
そこで、2人と親しい若き関白・近衛前嗣が介入し、幕府再興のシナリオを書き換えた。
(中略)
しばらく京は平穏であるから、上杉政虎には一旦帰国してもらって、政虎には「最大限の権威」を与えて関東地方を平定させる。
それが達成できた暁には、再び謙信が上洛して、皆がそれに倣うことによって、今度こそ戦国時代に幕を下ろすことができる・・・
ここに「最大限の権威」とありますが、これがどうやら「上杉七免許」といわれるもののようです。
上杉七免許について
さて、足利幕府が与える権限として「七免許」というものがあるようですが、これについては私の知識が乏しいため、歴史家の乃至政彦氏の見解を中心に書かせていただきます。
先に述べた上杉七免許とは、実力はないけれど権力を持つ足利義輝・近衛前嗣が、実力はあれど権威を持たない上杉政虎に与えた言わばバフ効果のようなもので、彼らのお墨付きを得た政虎が、関東地方経略をより実現しやすくさせたものでした。
では、具体的に上杉政虎が与えられた七免許の内訳をご覧いただきましょう。
七免許その1 上杉家の後継者として認められる
実はこれは政虎が2度目の上洛を果たす以前から認められています。
北条家との戦いに破れて没落した上杉憲政を庇護し、自らがその後継者として上杉姓を名乗ったのがその証です。
七免許その2 関東管領職の名跡
これもその1と重複する部分があって以前から認められているものです。
長尾景虎は、関東管領上杉憲政の養子となり、その家督を継承することで関東管領職を手に入れ、上杉政虎と名乗ったのです。
七免許その3 屋形号の使用許可
戦国時代でいう屋形号とは、名門且つ功績のある大名で、将軍の御為によく尽くした当主にのみ許されたものでした。
当時は「御屋形様(おやかたさま)」と呼ばれることは、大きな格を示すものだったのです。
上杉政虎以前に屋形号を許された家は、細川(京兆)家・畠山(金吾)家・畠山(匠作)家・斯波(武衛)家・今川家など名だたる家格をもった守護大名たちでした。
七免許その4 五七桐紋の使用許可
古代中国では、桐(きり)は鳳凰(ほうおう)が止まる木として神聖化されていました。
それを日本がそっくり取り入れ、朝家の菊紋章に次ぐ格式ある家紋となり、足利尊氏に使用許可を出したという背景があります。
足利幕府は忠孝を尽くした家格のある大名家にのみ使用を許可する傾向にありました。
桐の家紋は主に五七の桐と五三の桐があります。
違いとしては
五七桐と五三桐の違い
このようになります。
五七の桐は現在でも広く用いられている紋章で、内閣総理大臣の紋章にもなっています。
引用元:首相官邸ホームページ
実は皆さんもご存知のあの人物の肖像画にも、五七桐の紋章が入った裃を着用した戦国武将がいます。
紙本著色織田信長像(長興寺蔵)
それがあの織田信長です。
(訂正)織田信長のは五三桐でした。申し訳ありません。
上杉政虎はこれを許されたということになります。
七免許その5 裏書御免
裏書御免(うらがきごめん)とは、文書を包む封紙の裏に書くべき名字と官途名を省略して相手に書状を出す特権のことです。
文にすると難しいかもしれませんが、つまり今回の足利義輝が政虎に宛てた書状がそうです。
(永禄2年6月26日付足利義輝書状+書き下し文)
よく見ると義輝の花押はあるけど、名前は書いてないですね。
本来ならこのようになるのが普通です。
どうやらこれが非常に大きな権威になるらしく、場合によっては関東管領職よりも意味が大きいようです。
政虎以前で裏書御免を許された家は斯波家、細川家、畠山家などです。
私もよく上書き保存するときに上書き御免と(ry
七免許その6 塗輿御免
まず、塗輿(ぬりこし)とは、乗り物の輿の一種で、表面が漆塗りにコーティングされたお高そうな代物のこと。
網代輿(あじろごし)とも呼ばれていました。
輿いろいろ
出典元:日本大百科全書(ニッポニカ)より
今回の政虎は、この網代輿に乗ることを許されたということになります。
これも過去には足利一門と、それに準ずる細川などの名家が使用を許されていました。
七免許その7 白傘袋・毛氈鞍覆の使用許可
毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)は鮮やかな朱塗りの馬の鞍で、白傘袋(しろかさぶくろ)というものに関しては、申し訳ありませんがどういうものなのかわかりません。
実はこの二つは、天文19年(1550)に足利義輝から越後守護を代行するように命じられた際、使用を許可されているものでした。
七免許の効果
七免許の効果はどの程度のものだったのか。
それは、関東の諸侯らが上杉政虎のもとへ続々と参集したことから見ても明らかです。
政虎は京都を5ヶ月ほど滞在した後、永禄2年(1559)10月28日あたりに帰国します。
政虎のもとへは連日のように近隣の豪族たちがお祝いの品を献上しました。
驚いたことに、それから半月も経たずして、甲斐の武田晴信(のちの信玄)に属する島津泰忠・栗田永寿・須田信正・真田幸綱(幸隆)らも祝いに駆けつけています。
翌年の3月には越後から遠い常陸の佐竹義昭も祝儀の太刀を贈っています。
武田晴信と北条氏康は大いに慌てたことだろうと想像できますね。
その後の上杉謙信
永禄3年(1560)5月19日。
七免許を手に入れた上杉政虎(謙信)にまたもや追い風が吹きます。
織田信長が桶狭間の合戦で街道一の弓取りと謳われる今川義元を討ち取ったのです。
機は熟したとばかりに政虎は関東への大遠征を決意。
関東の諸侯たちは続々と政虎の陣営に馳せ参じます。
そしてまた、思いもよらぬ援軍が政虎に加わります。
驚いたことに・・・それが関白近衛前嗣(のちの前久)です。
公家らしからぬあまりの破天荒さゆえ、当時の世相も大いに騒いだことでしょう。
彼ははるばる京都から越後へ渡り、政虎がすでに出陣したと知ると、関東まで大移動してきたのです。
関白までも味方につけた上杉陣営は大いに士気が上がったことでしょう。
上杉軍は瞬く間に関東の諸城を攻め降し、翌年の3月には北条家の本拠地、小田原城を取り囲むに至りました。
ご覧いただきありがとうございました!
この時期の上杉謙信は波にのっていますね。
次の記事は上杉謙信が上洛時に、思わぬところで手に入れた「鉄砲火薬の調合書(鉄放薬之方并調合次第)」についてです。
お楽しみに!
参考文献:
山田邦明(2004)『上越市史編 別編1 (上杉氏文書集一)』 上越市史
柴辻俊六(2017)『戦国文書調査マニュアル』戒光祥出版
乃至政彦『武田や北条の権威を超えた上杉謙信「七免許」の威力』(JBpress)
丸山和洋(2013)『戦国時代の外交』講談社選書メチエ
児玉幸多(1970)『くずし字解読辞典普及版』東京堂出版
平山優(2011)『真田三代』PHP研究所
首相官邸ホームページ
など