こんばんは~。
平馬・源内・伊織など・・・時代劇風の変った名前を分類してまとめました。
前回の記事で百官名と東百官について説明しましたが、今回はもっと具体的に、どのような官職があって百官名・東百官が出来上がったのか。
また、その官職はもともとどういった役割があったのか、それを名乗っていた人物は誰なのかをまとめました。
- 官職風の名前の一覧表が見たい
- 百官名・東百官のパターンを知りたい
- 蔵人・修理・中務を名乗っていた人物を知りたい
百官名と東百官とは?
端的に説明しますと、百官名(ひゃっかんな)とは朝廷から正式な任命を得ずに官職を自称して名乗る名前のことです。
代表的な例では大石内蔵助、その子の大石主税が百官名となります。
東百官(あずまひゃっかん)とは官職ではないけどそれにちょっと似せた、つまり全く存在しない官職風の名前を指します。
代表的な例では平賀源内、橋本左内などがそれにあたります。
百官名と東百官の意味や成り立ちについては、前回の記事でもう少し詳しく書いていますので、そちらをご参照ください。
平安時代に制定された官職表
次の図は平安時代中期に編纂された延喜式制の官職表です。
この中からも百官名の元となった名前が多く発見できます。
(特に組織の下の方)
官制表(延喜式制の中央官制a)
※関白・蔵人所(くろうどところ)・(鎮守府)将軍などは令外官(りょうげのかん)となりますので、厳密にいうと延喜年間に全て定められたものではありません。
令外官の説明はややこしくなるので省かせていただきます(^-^;
官制表(延喜式制の中央官制b)
武田信玄の弟の武田信繁は左馬助(さまのすけ)を名乗っていたことで有名です。
左馬助は唐名で「典厩(てんきゅう)」というため、武田典厩、あるいは典厩信繁という名でも知られています。
その子信豊も同じ典厩を名乗っていたので、恐らくこれは百官名に当たるでしょう。
また、鎌倉時代以降の将軍は左/右近衛大将か中将に任官されるケースが多いです。
宮中を守るという意味では、近衛大将という性質上、当然と言えるでしょう。
中国でもヨーロッパでも日本と同じように、近衛将軍という役職が存在したことからも、軍事指揮権を担う元帥のような役割があったのではないでしょうか。
なお、近衛大将のことを唐名で「幕府」といいます。
余談ですが、織田信長が将軍足利義昭を追放した直後から急速に官位官職の昇進が進み、2年後には右近衛大将となります。
戦国という時代を大いに盛り上げた足利義昭と織田信長
これは将軍を追放してからも、信長が天下に指図する正当性を得るために、足利義昭よりも高い官位が必要だったからではないかと考えられています。
続いて地方官制をご覧いただきましょう。
官制表(延喜式制の地方官制)
織田信長が名乗っていた上総介(かずさのすけ)、尾張守(おわりのかみ)はここの百官名にあたります。
(一番右の諸国の守・介)
この二つは朝廷に正式に認可されたものではないので、自称となり、百官名と見てよいでしょう。
蔵人系・修理系の百官名と東百官
それでは、先の表を参考に、武士たちが名乗った例が多い百官名を見てみましょう。
私の思い出せる範囲ですが、その百官名を名乗った武将も載せておきます。
もしかすると、一部に朝廷から正式に任命された、百官名ではない人物が入ってしまっているかもしれません。
その場合は私の勉強不足ですので、申し訳ありませんが参考程度にご覧ください。(ご指摘いただけると助かります)
蔵人・蔵人頭・蔵人佐
蔵人はもともと「くろうど」という官職でしたが、時代と共に変化し、百官名でこの名がついた人物を呼ぶときは「くらんど」と呼びました。
元々は天皇の秘書のような役割で、唐名では侍中(じちゅう)といいます。
主な官職は
蔵人別当(くろうどのべっとう)・・・正二位くらい
蔵人頭(くろうどのとう)・・・従四位下くらい
五位蔵人(ごいのくろうど)・・・正五位下くらい
六位蔵人(ろくいのくろうど)・・・従六位下くらい
など
寺島蔵人(てらしまくらんど)
江戸時代中期に加賀藩で藩の財政を取り仕切った人物。
本名は競。
吉川蔵人頭(きっかわくろうどのかみ)
毛利輝元家臣の吉川広家のこと。
津々木蔵人(つづきくらんど)
信長の実弟にあたる織田信勝の家臣。
平林蔵人佐(ひらばやしくろうどのすけ)
戦国時代に武田・上杉両氏に仕えた平林正恒のこと。
丸目蔵人佐(まるめくろうどのすけ)
戦国時代の剣豪。
肥後相良家に仕えた丸目長恵(ながよし)のこと。
丸目蔵人と称していたため、「くらんど」と認識している人も多いようです。
蔵人系の東百官
蔵人系によく似た東百官(あずまひゃっかん)は
蔵主(くろうず)
三位(さんみ)
織田三位(おださんみ)、平田三位(ひらたさんみ)
など。
修理系
修理(しゅり)職はもともと内裏の修理修繕を行う役職でした。
木工寮(もくりょう)が本来はその役割を担っていたのですが、仕事が手一杯になっていた時代があったため、臨時に修理職が設置されました。
このように、本来はなかったけど、臨時で置かれた職のことを「令下官(りょうげのかん)」といいます。
他にも関白・摂政・内大臣・蔵人所なども令下官でした。
重要ポストとなったためか、一旦消えてもすぐに復活した例が多かったです(^^;)
画像に入れるのを忘れましたが、修理職には
修理大夫(しゅりのたいぶ)・・・従四位下くらい
修理亮(しゅりのすけ)・・・従五位下くらい
修理大進(しゅりのだいしん)・・・従六位上くらい
修理少進(しゅりのしょうじん)・・・従六位下くらい
などがありました。
大夫と大輔の違いとは?
※これは非常にややこしくて省こうと考えていたことなので、細かい官職の規則に興味のない方は飛ばしてください。
修理大夫
蘆名修理大夫(あしなしゅりのたいぶ)
戦国時代に奥州で伊達家と肩を並べるほどの勢力を築き上げた蘆名盛氏のこと。
蘆名家は代々修理大夫を世襲しています。
(先祖が賜った官位を子孫がそのまま用いるケースも自称となります)
2020年5月22日追記)「歴名土代」によると、盛氏は天文8年に正式に修理大夫に補任されているとのコメントをいただきました。
畠山修理大夫(はたけやましゅりのたいぶ)
畠山政国(尾州)
二本松(畠山)政国・村国・義氏・義国(奥州)
それに加え、能登の畠山氏も修理大夫を世襲していたため、同じ時期に様々な地方で「畠山修理大夫殿」と記されてた古文書が存在します。
これはもうわけわかんねぇな?
ちなみに修理大夫は唐名で「匠作大尹(しょうさくたいいん)」といいます。
その関係から能登畠山家は畠山匠作家と呼ばれています。
伊東修理大夫(いとうしゅりのたいぶ)
日向国の戦国大名伊東義祐とその孫の祐慶のこと。
京極修理大夫(きょうごくしゅりのたいぶ)
戦国大名の京極高知・高三父子のこと。
那須修理大夫(なすしゅりのたいぶ)
下野国の戦国大名那須高資、資胤、資晴は3代続けて修理大夫を襲名していましたが、正式に任官されていたかは不明です。
多賀谷修理大夫(たがやしゅりのたいぶ)
戦国時代に常陸国下妻を根拠にした多賀谷重政・重経のこと。
色部修理大夫(いろべしゅりのたいぶ)
越後の上杉謙信・景勝に仕えた色部長実のこと。
(尼子晴久・有馬晴純・相良義陽・島津貴久・土岐頼武・頼芸・三好長慶らも修理大夫を名乗っていますが、これは本人の代に正式に任官されたものです)
修理亮
三村修理亮(みむらしゅりのすけ)
備中国の戦国大名三村家親のこと。
山口修理亮(やまぐちしゅりのすけ)
常陸牛久藩主。
初代の山口重政から弘隆・重定・・・と修理亮を襲名しました。
色部修理亮(いろべしゅりのすけ)
上杉謙信の家臣色部顕長のこと。
朝倉修理亮(あさくらしゅりのすけ)
越前国の戦国大名朝倉家を支えた朝倉景冬・景嘉(かげよし)のこと。
内藤修理亮(ないとうしゅりのすけ)
武田信玄家臣の内藤昌秀・昌月(まさあき)父子のこと。
(柴田勝家・青山宗勝・内藤清成らも修理亮を名乗っていますが、これは本人の代に正式に任官されたものです)
修理
多治見修理(たじみしゅり)
戦国時代に美濃国猿啄城を守備し、織田信長と戦った武将。
修理亮なのか修理大夫なのかは定かではないです。
中務系の百官名と東百官
左弁官局の中務(なかつかさ)省はもともと、天皇の補佐や、天皇が発する声明を伝える役割でした。
また、他家への官位官職を任命する役割など、朝廷における職務の中核を担った役職でした。
唐名では中書(ちゅうしょ)といったことから、中書殿と呼ばれる例もありました。
主な役職は
中務卿(なかつかさきょう)・・・正四位上くらい
中務大輔(なかつかさのたいふ)・・・正五位上くらい
中務少輔(なかつかさしょうふ)・・・従五位上くらい
中務大丞(なかつかさのだいじょう)・・・正六位上くらい
中務少丞(なかつかさしょうじょう)・・・従六位上くらい
など。
中務大輔
結城中務大輔(ゆうきなかつかさのたいふ)
下総国の戦国大名結城晴朝のこと。
徳川家康の次男を養子に迎え入れ、家名を残しました。
山名中務大輔(やまなつかさのたいふ)
但馬国の戦国大名山名豊国のこと。
小野寺中務大輔(おのでらなかつかさのたいふ)
出羽の戦国大名小野寺晴道のこと。
木曾中務大輔(きそなかつかさのたいふ)
信濃の国人領主木曾義康のこと。
佐竹中務大輔(さたけつかさのたいふ)
常陸の戦国大名佐竹家の佐竹(佐竹東)義久のこと。
朝倉中務大輔(あさくらなかつかさのたいふ)
越前の戦国大名朝倉家の朝倉景恒のこと。
本多中務大輔(ほんだなかつかさのたいふ)
徳川家康家臣の本多忠勝のこと。
簗田中務大輔(やなだなかつかさのたいふ)
下総国の関宿城を根城にする簗田高助・晴助・持助が3代続けて襲名。
田丸中務大輔(たまるなかつかさのたいふ)
戦国時代末期を駆け抜けた田丸直昌のこと。
彼は中務少輔も名乗っています。
壬生中務大輔(みぶなかつかさのたいふ)
下野の戦国大名宇都宮家の家臣壬生綱雄のこと。
ちなみに父の綱房は中務少輔を名乗っています。
陶中務権大輔(ゆうきなかつかさごんのたいふ)
周防国の戦国大名大内家家臣の陶晴賢(隆房)のこと。
中務少輔
山名中務少輔(やまななかつかさのしょうふ)
但馬国の大名山名豊定のこと。
京極中務少輔(きょうごくなかつかさのしょうふ)
主に京極高清・高吉父子のこと。
他にも京極家は中務少輔を名乗っている人が多いです。(名乗っていない人も多い)
有馬中務少輔(ありまなかつかさのしょうふ)
播磨国の国人領主有馬則頼のこと。
駒井中務少輔(こまいなかつかさのしょうふ)
豊臣秀吉の下で奉行を歴任した駒井重勝のこと。
「駒井日記」を記した人物。
脇坂中務少輔(わきざかなかつかさのしょうふ)
豊臣秀吉家臣の脇坂安治のこと。
彼は正式に任官されていた可能性もあります。
中務大丞・少丞・監物
平手中務丞(ひらてなかつかさのじょう)
織田信秀・信長父子に仕えた平手政秀のこと。
平手に限らず、大/少を省いて「中務丞」とだけ記されている例も多くあります。
彼は監物と名乗っていた時期もありました。
津田監物(つだけんもつ)
戦国時代に紀州根来の頭領を務めた津田算長・算正父子のこと。
斎藤監物(さいとうけんもつ)
幕末を生きた水戸藩士。桜田門外の変に参加。
平手監物(ひらてけんもつ)
織田信長に仕えた平手政秀と孫の汎秀のこと。
(相良武任の中務大丞は正式に補任されています)
中務系の東百官
中務系の東百官は
中(あたる)、中記(ちゅうき)
あたり。
中務職の上位にあたる左弁官局、右弁官局に似せた東百官は
右中(うちゅう)、右内(うない)、左中(さちゅう)、左内(さない)
あたりでしょうか。
なお、美濃の国人領主に氏家ト全(うじいえぼくぜん)という人物がいますが、ト全の名は剃髪して仏門に入った時に用いる法名にあたるので、神祇官(じんぎかん)の「ト部」の東百官とはいえないでしょう。
まとめ
今回は蔵人所(くろうどところ)と修理職(しゅりしき)と中務省の百官名およびそれに似た東百官について書きました。
冒頭でも述べましたが
「この武将は実は朝廷から正式に任命されていて、百官名ではなかった」
ということもあるかもしれませんので、あくまで参考程度に留めて頂けると幸いです。
個人的には神祇官の所に「陰陽寮」が入らず、中務省の管轄になるのが驚きでした。
上記の図にあるように、百官名で神祇官系・太政官系・検非違使庁系・少納言局系を自称する例が極端に少ない点が興味深いですね。
「私は大野太政大臣です。」
と自称するのは、さすがにやりすぎだったのでしょうか(^-^;
一方、東百官は左弁官局に似せた名前で左中(さちゅう)、左内(さない)などを用いるケースがたびたび見受けられます。
存在しないはずの三位(さんみ)を名乗る例があったのも興味深いです。
さて、しばらくはこのような形で百官名一覧のような記事を続けさせていきます。
次回は中務省の下部組織にあたる縫殿(ぬいどの)系・図書(ずしょ)系・内匠(たくみ)系を予定しています。
もしよろしければ次回もご覧ください^^
このシリーズ
- 原田甲斐・大石内蔵助・平賀源内…この変わった名前は何ですか?
- 武士たちが名乗った官職風の名前一覧1 蔵人・修理・中務編
- 武士たちが名乗った官職風の名前一覧2 縫殿・内蔵・図書・内匠編
- 武士たちが名乗った官職風の名前一覧3 式部・大学・治部編
- 武士たちが名乗った官職風の名前一覧4 玄蕃・民部・主計・主税編
参考文献:
児玉幸多, 日本史年表・地図, 吉川弘文館, 1995
田沼睦, 筑波大学,石清水八幡宮文書外,八木書店,1999
小和田哲男,図録中世文書の基礎知識,柏書房,1979
甫喜山景雄,太田牛一,信長公記,甫喜山景雄,1881
太田藤四郎,塙保己一,群書系図部集 第3,続群書類従完成会,1985
など