武士たちが名乗った官職風の名前一覧4 玄蕃・民部・主計・主税編

武士たちが名乗った官職風の名前一覧1 蔵人・修理・中務編
らいそくちゃん
らいそくちゃん

こんばんはー。
玄蕃(げんば)民部(みんぶ)主計(かずえ)主税(ちから)外記(げき)など・・・時代劇風の変った名前を分類してまとめました。
「原田甲斐・大石内蔵助・平賀源内…この変わった名前は何ですか?」の記事で百官名と東百官について説明しましたが、今回はもっと具体的に、どのような官職があって百官名・東百官が出来上がったのか。

また、その官職はもともとどういった役割があったのか、それを名乗っていた人物は誰なのかをまとめました。

この記事はこんな方にオススメです。

  • 官職風の名前の一覧表が見たい
  • 百官名・東百官のパターンを知りたい
  • 玄蕃・民部・主計・主税・外記を名乗っていた人物を知りたい

百官名と東百官とは?

 端的に説明しますと、百官名(ひゃっかんな)とは朝廷から正式な任命を得ずに官職を自称して名乗る名前のことです。
代表的な例では大石内蔵助(くらのすけ)、その子の大石主税(ちから)が百官名となります。

東百官(あずまひゃっかん)とは官職ではないけどちょっとそれに似せた、つまり全く存在しない官職風の名前を指します。
代表的な例では平賀源内、橋本左内などがそれにあたります。

百官名と東百官の意味や成り立ちについては、「原田甲斐・大石内蔵助・平賀源内…この変わった名前は何ですか?」の記事でもう少し詳しく書いていますので、そちらをご参照ください。

平安時代に制定された官職表

 次の図は平安時代中期に編纂された延喜(えんぎ)式制の官職表です。
この中からも百官名の元となった名前が多く発見できます。
(特に組織の下の方)

官職表(中央官制1)

官制表(延喜式制の中央官制a)

※関白・蔵人所・(鎮守府)将軍などは令外官となりますので、厳密にいうと延喜年間に全て定められたものではありません。
令外官の説明はややこしくなるので省かせていただきます(^-^;

今回の記事で紹介する玄蕃寮・民部省・主計寮・主税寮・外記局は、全てこの図の左弁官局に属するものです。

玄蕃寮の玄蕃允(げんばのじょう)は佐久間盛政が名乗っていたことで有名です。
彼は柴田勝家の有力与力として、合戦で抜群の軍功を何度も立てて「鬼玄蕃」の異名を轟かせました。

鬼玄蕃の名を轟かせた佐久間盛政

佐久間盛政 楊斎延一絵

この時代の人々は、諱(いみな=本名)を避けるという日本の文化の元、「佐久間玄蕃允げんばのじょう殿」といった感じで呼ばれていました。

しかしながら、佐久間盛政が正式に朝廷から叙任じょにんされた形跡はありません。
こうした官職を自称した名前のことを「百官名ひゃっかんな」といいます。

官職表(中央官制2)

官制表(延喜式制の中央官制b)

毛利元就は右馬頭(うまのかみ)を名乗っていたことで有名ですが、これはこの表の「右馬寮」の中の長官職ということになります。
毛利家の先祖が右馬頭を補任されていたことから、元就は大内義隆の斡旋で正式に任命されました。

毛利元就肖像

毛利元就肖像(毛利博物館所蔵)

昔の人は「毛利元就殿」とはあまり呼びません。
実名で呼ぶのは大変失礼で憚られる文化だったので、「毛利右馬頭うまのかみ殿」などと呼んでいました。
古文書によっては毛利家の祖先が大江氏だったことから、”大江右馬頭殿”と記されているものもあります。(残太平記など)

続いて地方官制をご覧いただきましょう。

官職表(地方官制)

官制表(延喜式制の地方官制)

戦国時代の武将の名で”〇〇守(〇〇のかみ)”というのは、この表でいうと右上になります。
自称しているケース(百官名)・正式に補任されたケースのどちらも、箔がつくだけで、本当にその国の長官職ではありません。
例えば、織田信長の家臣塙備中守ばんびっちゅうのかみ(直政)も、全く備中国に利害関係がありません。
恐らく足を運んだことすらないでしょう。

しかしながら、”〇〇守”が全く有名無実なものとも言い切れない面もあります。
例えば信長の父、織田信秀が積極的に隣国の三河を攻めていた時期、朝廷から正式に三河守の官職を賜っています。
さらに、今川義元が桶狭間で討たれる数日前には、義元自身が朝廷から三河守の官職を補任されるという話があったそうです。

三河守の官職をこだわった織田信秀と今川義元

三河守コンビ今川義元と織田信秀

このように、直接利害を持つ国の長官職を任命されて、在地の勢力の人心を掴む有効な手段だと考えられてもいたようです。

玄蕃系の百官名

 それでは、先の表を参考に、武士たちが名乗った例が多い百官名を見てみましょう。
私の調べた範囲ですが、その百官名を名乗った武将も載せておきます。
もしかすると、一部に朝廷から正式に任命された、百官名ではない人物が入ってしまっているかもしれません。
その場合は私の勉強不足ですので、申し訳ありませんが参考程度にご覧ください。
(ご指摘いただけると助かります)

官職表(中央官制1)h

玄蕃の意味

 玄蕃(げんば)寮のもともとの仕事は、主に海外文明からの使節をもてなす役割と、宮中で行われる仏事関連の運営・監督でした。
また古代日本では、僧侶は免許制だったため、僧籍の管理も担っていました。

古代中国では、「玄」の字は僧侶を意味し、「蕃」は外国からの賓客という意味だそうです。
日本では宗教関連の官職が他にも神祇官、陰陽寮、斎宮寮、斎院司があって大変面白いですね。

なお、寛平6年(894)の遣唐使廃止以降は、海外文明からの使節が滅多に来なくなりました。

主な官職は
玄蕃頭(げんばのかみ)・・・従五位下くらい
玄蕃助(げんばのすけ)・・・従六位上くらい
玄蕃大允(げんばのたいじょう)・・・正七位下くらい
玄蕃小允(げんばのしょうじょう)・・・従七位下くらい
など

従五位下があるポストは、戦国時代末期の領主たちにはだいたい人気です。

玄蕃の百官名を名乗った人物

「玄蕃」を名乗った主な人物は

 玄蕃(げんば)

蠣崎玄蕃(かきざきげんば)
蠣崎守広の六男、定広のこと。

酒井玄蕃(さかいげんば)
江戸時代の旗本、酒井了次(のりつぐ)のこと。
酒井家次の子。酒井忠次の孫にあたります。

坪内玄蕃(つぼうちげんば)
戦国時代末期の美濃・尾張国境の国人領主、坪内勝定・利定・家定のこと。
織田信長ファンに馴染みの深い坪内さんは利定でしょう。
三代にわたって土岐-斎藤-織田信長-信忠-信雄-豊臣秀吉-徳川家康と優れた情勢判断で家を存続させました。
坪内文書という史料的価値の高い古文書を遺しています。
なお、坪内勝定は玄蕃尉げんばのじょう、坪内利定は玄蕃頭げんばのかみとも名乗っています。

藤堂玄蕃(とうどうげんば)
戦国時代末期の武将、藤堂高虎の従兄弟にあたる藤堂良政と、その子良次のこと。
玄蕃頭と記された文書もあります。

戸田玄蕃(とだげんば)
三河国に根を下ろし、戸田家中興の祖と謳われた戸田宗光の子。

 玄蕃頭(げんばのかみ)

大久保玄蕃頭(おおくぼげんばのかみ)
江戸時代中期から後期の下野烏山藩主、大久保忠成(ただしげ)のこと。

富川玄蕃頭(とがわげんばのかみ)
備前国の国人領主、富川定安のこと。
富川(戸川)秀安の父。
戸川姓を名乗り始めたのは孫の達安からのようです。

細川玄蕃頭(ほそかわげんばのかみ)
細川藤孝の次男、興元のこと。
多くの武功を挙げますが、兄の忠興と反目し、やや不遇な生涯を送りました。
子の興昌が正式に玄蕃頭を補任されていることから、興元も任官されている可能性があります)

蒔田玄蕃頭(まいたげんばのかみ)
備中浅尾藩主蒔田広定の子、定正のこと。
大名として家督を継ぎますが、相続時に1万石を割ったため(弟に所領を分与)、大名ではなくなり寄合旗本となりました。

松平玄蕃頭(まつだいらげんばのかみ)
徳川家康を支えた松平家清とその子忠清のこと。
家清は初代三河吉田藩主、忠清は2代目吉田藩主となりました。
忠清の弟清昌は、徳川秀忠の側近として活躍し、朝廷より正式に玄蕃頭を任官されました。

(有馬豊氏・島津忠紀・細川興昌・松平清昌は正式に叙任されています)

 玄蕃允(げんばのじょう)

織田玄蕃允(おだげんばのじょう)
織田信長の大叔父にあたる織田秀敏のこと。
秀敏が斎藤道三に宛てた文書には、若き織田家当主の信長による領内不統一を嘆いた(訴えた?)書状が遺されています。
そのうち解読記事を出したいところですが、需要があるかどうか・・・(^-^;
桶狭間の戦いの前哨戦で討死。
「寛永諸家系図伝」には玄蕃頭とありますが、実際の文書では確認が取れていないようです。

稲富玄蕃允(いなとみげんばのじょう)
丹後国の国人領主、稲富直秀のこと。
祐直の父、祐秀の子。

八木(垣屋)玄蕃允(かきやげんばのじょう)
但馬国山名氏家臣の垣屋信貞のこと。
八木家へ養子入り。

佐久間玄蕃允(さくまげんばのじょう)
柴田勝家の腹心として多くの武功を挙げた佐久間盛政のこと。
その勇猛さから鬼玄蕃の異名がありました。

肥田玄蕃允(ひだげんばのじょう)
東美濃の国人領主、肥田忠政のこと。
織田信長に降り、可成よしなりの指揮下入ったと考えられます。
宇佐山城の激戦では信長の援軍が到着するまで城を死守しました。
本能寺の変後は織田信孝についたとみられ、森長可ながよしに攻められます。
自らを「玄蕃」と署名した書状も遺されています。

松平玄蕃允(まつだいらげんばのじょう)
三河国竹谷松平家の親善、清善、清宗のこと。
清宗は先に述べた松平家清(玄蕃頭)の父にあたります。
代々玄蕃系を襲名していることから、百官名の可能性が高いでしょう。

 玄蕃助(げんばのすけ)

斎藤玄蕃助(さいとうげんばのすけ)
斎藤道三の子で、弟の利治とともに織田信長の覇業を支えた斎藤利堯(としたか)のこと。
その後も加治田城主の利治と行動を共にしました。
玄蕃允、玄蕃とも呼ばれています。
斎藤利治については過去に記事を書いたことがありますので、ご興味がありましたらどうぞ。
関連記事:武勇に秀でたマムシの子・斎藤利治 信長・信忠を支えた働きはまさに忠勇比類無し(前編)

民部・主計・主税系の百官名と東百官

官職表(中央官制1)i

民部の意味

 民部省(みんぶしょう)のもともとの仕事は、おもに租税の徴収でした。
租庸調そ・よう・ちょうなどの”現物の管理”を担い、下部組織の主計(かずえ)寮、主税(ちから)寮を監督する官職だったと考えられます。

財政の管理は大蔵省と内蔵くら寮も担っていましたが、大蔵省は朝廷内の倉庫の管理と金銭の出納管理。
そして、内蔵寮は金・銀・絹などの高級資源の出納管理がメイン。
民部省が管轄する租庸調が一般的な税収と考えれば、上記2つの機関よりも重要な官職でした。

主な官職は
民部卿(みんぶきょう)・・・正四位下くらい
民部大輔(みんぶのたいふ)・・・正五位下くらい
民部少輔(みんぶのしょうふ)・・・従五位下くらい
民部大丞(みんぶのたいじょう)・・・正六位下くらい
民部少丞(みんぶのしょうじょう)・・・従六位上くらい
など

従五位下じゅごいのげがあるポストは、戦国時代末期の領主たちにはだいたい人気です。

人の名で呼ぶときは、”民部大丞”、”民部少丞”とは言わず「民部丞(みんぶのじょう)」と表す場合も多いです。
民部大夫・民部太夫という官職もありますが、これは民部大輔とは全く別のものです。
民部大夫(太夫)の場合は、民部大丞・小丞といった六位相当の官職に五位の人物が就任している場合に用いられました。
大輔(たいふ)との混同を避けるために、あえて区別して「大夫/太夫(たゆう/だゆう」と呼んでいました。
補足
大輔は”たゆう”と呼んでも間違いではありません。
また、少輔を”しょうゆう”・”しょう”と呼ぶのも間違いではありません。
日本語というものは、時代の移り変わりとともに便利な方へと変化していくものです。

民部の百官名を名乗った人物

「民部」を名乗った主な人物は

 民部(みんぶ)

戸田民部(とだみんぶ)
三河国の国人領主。
織田信秀に味方して幼い頃の徳川家康を誘拐した戸田家は、代々民部を名乗っているようですが詳細は不明です。
今川義元に攻め落とされて一家は離散。
その後、一族は織田家や徳川家などに仕官しました。
一番有名なのは戸田勝隆・勝成兄弟でしょう。
先に述べた戸田玄蕃の子孫です。

下の画像は恐らく豊臣秀吉による島津攻めの時だと思われますが、戸田民部(勝隆)の名が見えます。

『群書類従』合戦部巻23 戸田民部の名が見える

続群書類従 23上(合戦部)より抜粋

 民部卿(みんぶきょう)

前田民部卿法印(まえだみんぶきょうほういん)
織田信忠や豊臣秀吉のもとで奉行を歴任した前田玄以のこと。
彼は朝廷より正式に叙任されている可能性が高いですが、私の調べでは発見できなかったためこちらに載せました。

 民部大輔(みんぶのたいふ)

上杉民部大輔(うえすぎみんぶのたいふ)
関東の山内上杉氏は代々民部大輔を世襲しており、房定、定昌、顕定、房能などの当主は名乗っています。
文書によっては民部大夫(みんぶのたゆう)としているものもあります。
北条氏康に領国を逐われた上杉憲政もその子孫ですが、民部系は名乗っていないようです。

龍造寺民部大輔(りゅうぞうじみんぶのたいふ)
龍造寺隆信嫡男、政家のこと。
家老の鍋島直茂を養子にしますが、実子の高房が自殺未遂をもとで死去し、政家も後を追うように死去しました。

上野民部大輔(うえのみんぶのたいふ)
戦国時代末期の幕府奉公衆の一人、上野信孝のこと。
備中鬼邑(きむら)山城主。

十河民部大輔(そごうみんぶのたいふ)
三好長慶の覇業を支えた十河一存(かずまさ)のこと。
兄を武の面から支え「鬼十河」と恐れられました。
十河家を継いだ養子の存保も民部大輔を名乗っています。
三好ということで叙任されている可能性もあります。

桂民部大輔(かつらみんぶのたいふ)
毛利家家臣の桂広繁のこと。
桂元澄の子。

高橋民部大輔(たかはしみんぶのたいふ)
戦国時代、北条家家臣として名を馳せた高橋氏高・高盛父子のこと。
北条綱高は氏高の兄にあたります。

志賀民部大輔(しがみんぶのたいふ)
大友宗麟家臣の志賀親守・親度(ちかのり)父子のこと。
親度は”民部大夫”と記した文書もあり、こちらも混同されている可能性が高いです。

(立花直次、毛利高政は正式に叙任されています)

 民部少輔(みんぶのしょうふ)

松尾民部少輔(まつおみんぶのしょうふ)
甲斐の戦国大名武田信虎の子、松尾信是(のぶこれ)のこと。

池田民部少輔(いけだみんぶのしょうふ)
戦国時代末期、摂津池田城主の池田勝正のこと。
織田信長に降伏し、摂津三守護の一人として活躍しましたが、家中の反乱により失脚しました。
弟の名は民部丞重成(知正)。

福田民部少輔(ふくだみんぶのしょうふ)
高橋紹運の家臣で岩屋城に立て籠もり、最期まで主君と運命を共にした人物。
実名は不明。

福田民部少輔(ふくだみんぶのしょうふ)
関東の古河公方の家臣。
運輸業を営む商人としての顔もありました。
上の人は同姓同自称官職の別人。

村井民部少輔(むらいみんぶのしょうふ)
織田信長の家臣として天下(京都)所司代として活躍した村井貞勝のこと。
長門守の受領名は有名ですが、こちらは正式に叙任されています。
過去に村井貞勝の記事を書いたことがあるので、ご興味がありましたらご覧ください。
関連記事:村井貞勝 信長だけでなく町人、公家、天皇にまで愛された名奉行

里見民部少輔(さとみみんぶのしょうふ)
出羽の最上義光の腹心。
里見民部とも呼ばれていたようです。

馬場民部少輔(ばばみんぶのしょうふ)
武田信玄家臣の馬場信春・昌房父子のこと。
信春は美濃守の通称の方が有名ですね。

村田民部少輔(むらたみんぶのしょうふ)
奥州の大名、伊達稙宗の五男で稙宗・晴宗・輝宗・政宗と仕えた村田宗稙のこと。

宮崎民部少輔(みやざきみんぶのしょうふ)
奥州大崎家の家臣、宮崎隆親のこと。
大崎一揆の際、伊達政宗の臣浜田景隆を討ち取る奮戦を見せました。

山田民部少輔(やまだみんぶのしょうふ)
薩摩島津氏家臣の山田有信・有栄(ありなが)父子のこと。
有信は耳川の合戦を勝利へ導く立役者として活躍。
その子有栄は関ケ原の合戦で主君義弘をよく支え、帰国の途中立ち寄った村で伝説を生んでいます。

田中民部少輔(たなかみんぶのしょうふ)
田中吉政の子、吉次は民部少輔を名乗り、豊臣秀次、徳川家康に仕えました。
吉次の子も民部と称しました。

山川民部少輔(やまかわみんぶのしょうふ)
関東結城家の家臣、山川朝信(とものぶ)のこと。
下野山川城主。

細萱民部少輔(ほそがやみんぶのしょうふ)
北条氏政家臣の細萱光仲のこと。

横浜民部少輔(よこまはみんぶのしょうふ)
豊臣家家臣の横浜茂勝のこと。
関ケ原の合戦では西軍に属しましたが、その後の消息は不明です。

 民部丞(みんぶのじょう)

池田民部丞(いけだみんぶのじょう)
摂津池田城主の池田勝成(知正)のこと。
兄の勝正が逐われた後に家督を相続しますが、詳細は不明です。
何らかの形で彼も失脚し、家老格の荒木村重が摂津国一国を取り仕切る体制ができました。

塩河(塩川)民部丞(しおかわみんぶのじょう)
摂津国の国人領主、塩川頼敦のこと。
織田信忠に娘を嫁がせ(恐らく側室)、荒木村重に味方した能勢十郎を殺害した塩河長満(塩川国満)と同族かと思われます。
当時の塩河氏の居城には、民部丸と山城丸という名の曲輪があったそうですが、民部丸が頼敦の屋敷だった可能性がありますね。
いつか現地を訪れてみたいものです。

牧野民部丞(まきのみんぶのじょう)
東三河牛久保の国人領主、牧野成勝・貞成・成定のこと。
3代続けて襲名しているため、成勝より前の牧野家も民部丞を称していた可能性があります。

(青木一重は正式に叙任されています)

民部によく似た東百官

 民部によく似た東百官の代表例は「民部之助(みんぶのすけ)」あるいは「民部頭(みんぶのかみ)」でしょうか。
民部大輔、少輔、大丞、少丞はあっても民部助や民部頭はありません。

江戸時代の軍学者で、よく小説などで悪役として登場する由井正雪が民部之助と名乗っています。
江戸幕府に対し乱を起こしたため、出自やその他の史料は意図的に書き換えられた可能性がありますが、彼は実在した人物です。

主計の意味

 主計(かずえ)寮のもともとの仕事は、おもに「調ちょう」の徴収でした。
「調」とは中学校の歴史の授業で習われた方も多いと思いますが、租庸調のあの「調」です。

調というのは、主に衣服などの繊維類を指します。
他にも地方の特産品34品目の租税の量を計算し、検品・監査するのが仕事でした。
数学の知識・技能が必要とされたため、かみすけには必ず大学寮出身の算博士が兼ねていました。(古代日本)

朝廷の”富”に直結する分野なので、古代日本では主計職は非常に重要な官職だったと考えられます。

主な官職は
主計頭(かずえのかみ)・・・従五位上くらい
主計助(かずえのすけ)・・・正六位下くらい
主計大允(かずえのたいじょう)・・・正七位下くらい
主計小允(かずえのしょうじょう)・・・従七位上くらい
など

主計の百官名を名乗った人物

主計の百官名を名乗った人物は

 主計(かずえ)

根岸主計(ねぎしかずえ)
戦国時代末期、関東の上田上野介に仕えた根岸定直のこと。
豊臣秀吉の小田原城攻めの際、松山城から投降したようです。(新編武蔵風土記稿,大里郡巻三,上吉見領甲山村の条)
八王子城に立て籠もる中山家範を死なすのは惜しいと考えた前田利家らが、縁者の関係から根岸定直らを説得の使者に遣わしますが、中山家範は妻子もろとも自刃して果てていたという逸話があります。

野中主計(のなかかずえ)
江戸時代初期の土佐藩士、野中益継のこと。
初代藩主山内一豊の妹を娶りました。

堀主計(ほりかずえ)
江戸時代の武将、堀直倫のこと。
堀直政の孫にあたります。

横山主計(よこやまかずえ)
江戸時代初期の加賀前田藩士、横山康次のこと。
横山長知の孫にあたり、父の康玄(やすはる)は家老を務めておりました。

吉野主計(よしのかずえ)
戦国時代末期の武将、吉野信通のこと。
小田原城が落城の際に浪人となりますが、翌年徳川家康の家臣となったようです。

 主計頭(かずえのかみ)

青木主計頭(あおきかずえのかみ)
甲斐武田家家臣、青木信定のこと。
信玄、勝頼に仕えて鑓奉行として活躍しました。
長篠・設楽原の合戦で討死。

井上主計頭(いのうえかずえのかみ)
江戸時代初期に老中として活躍した井上正就のこと。
徳川秀忠に早くから近侍して出世するも、当時権勢をほしいままにしていた春日局に逆らえず、嫡子の縁組話が原因で同僚に江戸城で殺害されました。

曾我主計頭(そがかずえのかみ)
戦国時代末期に織田信雄、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた曾我尚祐のこと。
幕府奉公衆の曾我助乗の子で、有職故実を兼ね備えた教養人だったと伝わります。
「座右抄」「曾我流書礼」などを記しました。

山岡主計頭(やまおかかずえのかみ)
近江勢多城主山岡景隆の子、景以(かげもち)のこと。
豊臣秀次に仕えますが、その後は幕臣となりました。

佐藤主計頭(さとうかずえのかみ)
美濃出身の豊臣秀吉家臣、佐藤直清のこと。

(平岩親吉・加藤清正は朝廷より正式に叙任されています)

 主計助(かずえのすけ)

米倉主計助(よねくらかずえのすけ)
武田勝頼家臣の米倉忠継のこと。
武田家滅亡後は徳川家康に仕え、武川衆を率いて各地を転戦。
最終的には武蔵鉢形750石を領しました。

主計によく似た東百官

 主計に似た東百官(あずまひゃっかん)は主尾(とのお)主計守(かずえのかみ)主計大夫(かずえのたゆう)主計太夫(かずえのだゆう)あたりでしょうか。

主税の意味

 主税(ちから)省のもともとの仕事は、おもに「」の徴収でした。
先の主計(かずえ)は「調」だと述べましたが、これは租庸調の「祖」です。
祖とは米のことです。
田祖と書いて”ちから”と読みました。

これもまた朝廷の税収に直結する非常に重要なポストでした。
主計寮と同じく数学の知識・技能が必要とされたため、かみすけには必ず大学寮出身の算博士が兼ねていました。(古代日本)

主な官職は
主計頭(ちからのかみ)・・・従五位上くらい
主計助(ちからのすけ)・・・正六位下くらい
主税大允(ちからのたいじょう)・・・正七位下くらい
主税小允(ちからのしょうじょう)・・・従七位上くらい
など

主税の百官名を名乗った人物

「主税」を名乗った主な人物は

 主税助(ちからのすけ)

中沢主税助(なかざわちからのすけ)
戦国時代末期の徳川家家臣、中沢吉政のこと。
関ケ原の合戦の際、徳川家康本陣の使番の一人として参陣。

主税によく似た東百官

主税によく似た東百官(あずまひゃっかん)は、久米(くめ)主税守(ちからのかみ)主税大夫(ちからのたゆう)主税太夫(ちからのだゆう)あたりでしょうか。

外記系の百官名と東百官

官職表(中央官制1)j

外記の意味

 外記(げき)局の仕事は少納言の下部組織として、太政官から天皇に上げる奏文を作成したり、上卿しょうけいの指示に従って宮中の儀式・公事の奉行を執り行ったり、それらの行事が円滑に行われるように、各官職との調整役を担うなど多岐にわたりました。

時代が進むと、内記ないきが行っていた天皇の日々の動静を記す記録を分担するようになり、さらに少納言の職務も外記が担うようになりました。
あまりに職務が煩雑となったので、中務なかつかさ省で大内記だいないきという官職も生まれ、職務を分担するようになりました。(上記の図では左3段目)

職務の煩雑さのわりには大外記(外記の長官職)でも正六位相当と官位が低いため、古代日本では駆け出し中で家柄がイマイチな有能若手官僚が任ぜられていたのかもしれません。(個人的な憶測)

主な官職は
大外記(だいげき)・・・正七位上~正六位上くらい
小外記(しょうげき)・・・従七位上~正七位上くらい
ほか史生召使使部と続きます。

外記の百官名を名乗った人物

 外記の百官名を名乗った人物は

井上外記(いのうえげき)
江戸時代初期の幕臣、井上正継のこと。
徳川秀忠に仕え、大坂の陣では大筒隊を率いて活躍。
井上流(外記流)砲術を編み出しました。

大木外記(おおきげき)
武田勝頼の家臣、大木親忠のこと。
武田家滅亡後は徳川家康に仕え、本領を安堵されましたが、天正壬午の乱の時、信州芦田において討死しました。

岡部外記(おかべげき)
戦国時代末期、関東の松田氏の家臣、岡部忠吉のこと。
松田氏は後北条氏の家臣。

土方外記(ひじかたげき)
豊臣家家臣の土方雄則(かつのり)のこと。
兄が雄氏で、父が雄久となります。

松平外記(まつだいらげき)
五井松平家
忠次(4代目)・伊昌(6)・忠実(7)が外記を名乗っていたため、世襲と見てよいでしょう。
松平家の庶流として清康・広忠・家康・秀忠に忠節を尽くしました。
6代目の伊昌については後述します。

松平外記(まつだいらげき)
戦国時代初期、御油松平家を立てた松平元芳のこと。
本家の安祥松平家に忠節を尽くしました。
名前は何と読むのかはわかりません。情報求ム。

脇坂外記(わきざかげき)
近江国出身の脇坂安景のこと。
仙台の伊達政宗に仕え、大坂夏の陣で奮戦するも討死。
兄は賤ケ岳七本槍の一人、脇坂安治です。

(内藤正重は朝廷より正式に叙任されています)

外記によく似た東百官

 外記によく似た東百官(あずまひゃっかん)は、軍記(ぐんき)清記(せいき)中記(ちゅうき)外記頭(げきのかみ)外記助(げきのすけ)外記允(げきのじょう)外記丞(げきのじょう)あたりでしょうか。

外記局は大外記(だいげき)と小外記(しょうげき)しかないので、外記頭、外記助などは存在しません。

外記頭を名乗った主な人物

松平外記頭(まつだいらげきのかみ)
松平・徳川家の庶流で五井松平家6代目当主、松平伊昌(これまさ)のこと。
徳川家康の養女(酒井忠次の娘)を娶り、生涯忠誠を誓い続けました。
伊昌の家系は代々外記と名乗っていますが、こちらは先述した通りです。

このように江戸時代になる前でも官職の誤用や混同が目立ちます。
松平家以外のさまざまな地域でも、このような東百官が横行しました。

まとめ

 今回は玄蕃寮(げんばりょう)と民部省(みんぶしょう)、主計寮(かずえりょう)、主税寮(ちからりょう)、外記局(げききょく)について書きました。

冒頭でも述べましたが
「この武将は実は朝廷から正式に任命されていて、百官名ではなかった」
ということもあるかもしれませんので、あくまで参考程度に留めて頂けると幸いです。

戦国時代末期になると、「従五位下(じゅごいのげ)」の位がとても人気があったため、式部少輔(しきぶのしょうふ)や治部少輔(じぶのしょうふ)を名乗りたがる武将が特に多かったように見受けられます。
今回の玄蕃頭(げんばのかみ)、民部少輔(みんぶのしょうふ)もかなり多かったですね。

少輔よりも上になると大輔(たいふ)で「正五位下(しょうごいのげ)」となるため、それを自称するのは畏れ多かったのかもしれませんね。

一方、外記(げき)を名乗る人が少ないのは、正六位上~従七位上と低すぎるからでしょうか。
そのあたりは私もまだまだ勉強不足なので、これからの課題としていきたいところです。

さて、次回からは右弁官局に移り、兵部(ひょうぶ)系隼人(はやと)系刑部(ぎょうぶ)系を予定しています。
大谷吉継で有名な刑部少輔などですね。
他にも書きたいことがあるため、このシリーズを完結させるにはもう少し時間がかかりそうです(^^;

次回もよろしければご覧ください^^

このシリーズ

  1. 原田甲斐・大石内蔵助・平賀源内…この変わった名前は何ですか?
  2. 武士たちが名乗った官職風の名前一覧1 蔵人・修理・中務編
  3. 武士たちが名乗った官職風の名前一覧2 縫殿・内蔵・図書・内匠編
  4. 武士たちが名乗った官職風の名前一覧3 式部・大学・治部編
  5. 武士たちが名乗った官職風の名前一覧4 玄蕃・民部・主計・主税編

参考文献:
児玉幸多(1995)『日本史年表・地図』吉川弘文館
斎木一馬,橋本政宣,林亮勝(1997)『寛永諸家系図伝―索引〈2〉』続群書類従完成会
斎木一馬,橋本政宣,林亮勝(1981)『寛永諸家系図伝 4』続群書類従完成会
斎木一馬,橋本政宣,林亮勝(1982)『寛永諸家系図伝 5』続群書類従完成会
斎木一馬,橋本政宣,林亮勝(1987)『寛永諸家系図伝 11』続群書類従完成会
太田藤四郎(1958)『続群書類従 23上(合戦部)』八木書店
多々良一竜(1690)『残太平記』心斎橋通南久宝寺町(大坂), 伊丹屋善兵衛,
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
加藤國光(1997)『尾張群書系図部集』続群書類従完成会
林述斎,間宮士信ら(1830)『新編武蔵風土記稿,大里郡巻三,上吉見領甲山村』昌平坂学問所地理局
など

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