こんばんは~。
今回は斎藤道三が織田秀敏(玄蕃允)に宛てた書状を解読します。
信長が家督相続して間もない時期を示す数少ない古文書で、大変史料的価値の高いものです。
そこには家督を相続して間もない信長を、道三がどのように見ていたのかが窺える興味深いことが記されています。
なぜ斎藤道三は織田秀敏(玄蕃允)に書状を送ったのか
斎藤道三と織田信長は舅と婿の関係です。
道三は娘を信長に嫁ぐことによって盟友関係となりました。
斎藤道三(利政・長井規秀) (1494~1556)
美濃国の戦国大名。
権謀術数を用いて数々の敵を葬り去った智将。
その優れた謀略手腕は主家の土岐家にまで及んだ。
しかし、その後は美濃国衆の統率に手を焼き、朝倉・織田家の侵略に苦しんだ。
晩年は織田信秀・信長と同盟するも、実の息子によって討たれた。
天文22年(1553)4月下旬、道三は若き戦国大名織田信長と会談し、両家の同盟関係は強固なものとなりました。
しかしながら、信長の奇矯な振る舞いが収まらなかったのか、織田家一番の長老である織田秀敏(玄蕃允)は道三に、信長家中の不統一を訴えたようです。
秀敏は信長の大叔父にあたり、外交交渉の取次役(奏者)として斎藤家との交渉を担当していたと考えられています。
今回の文書は、この秀敏の訴えに対する斎藤道三の返書です。
そこからは、道三が織田家をどのように見ていたかや、秀敏に対する思い。
また、信長に対する思いが見えてきます。
それではご覧いただきましょう。
斎藤道三が織田秀敏(玄蕃允)に宛てた書状を解読
原文
年次不明六月二十二日付斎藤道三書状
(名古屋市博物館所蔵熱田浅井家文書)
年次不明としていますが、概ね天文22年(1553)の書状と見て良いでしょう。
釈文
御札拝覧申候、御家中之体、
如仰外聞不可然次第候、於此方令
迷惑候、不寄退候間、共々不被捨置、
可被仰談事可然候、何篇重而
以使者御存分可承候、三郎殿様御
若年之義候、万端御苦労可為
尤候、猶々期来音候、恐惶謹言、
六月廿二日 道三(花押)
織田玄蕃允殿
御報
この書状を朗読させてみました。
再生ボタンを押すと音声が流れます。(スマホも可)
『VOICEROID+ 結月ゆかり EX』(株式会社AHS)
原文に釈文を記してみた
年次不明(1553?)6月22日付斎藤道三書状+釈文
補足
御札(ぎょさつ)・・・(他人を敬った意味で)手紙・書状のこと。
外聞(がいぶん)・・・外からの評判。
三郎の殿様・・・織田信長のこと。織田弾正忠家の代々の仮名(通称名)が三郎といい、父が名乗った三郎を自らも名乗ることで、内外に織田弾正忠家の正統な後継者であることをアピールしていました。
来音(らいいん)・・・尋ねてくること。来訪のこと。
恐惶謹言(きょうこうきんげん)・・・書き留め文言で現在の敬具にあたる部分。詳しくは後述します。
織田玄蕃允殿(おだげんばのじょうどの)・・・冒頭にも述べましたが、織田信長の大叔父にあたる織田秀敏のことです。
なぜ「織田秀敏殿」とせずに、このような書き方をするのかについては、下記の記事で詳しく書いていますので、よろしければこちらをご覧ください。
関連記事:武士たちが名乗った官職風の名前一覧4 玄蕃・民部・主計・主税編
書き下し文
御札拝覧申し候。
御家中の体、仰せの如く外聞然るべからざる次第に候。
この方においても迷惑せしめ候。
寄り退かず候間、共々捨て置かれず、仰せ談ぜらるべき事然るべく候。
何篇でも重ねて使者を以て、御存分に承るべく候。
三郎の殿様御若年の儀に候。
万端御苦労尤もたるべく候。
尚々、御来音を期し候。
恐惶謹言
六月二十二日 道三(花押)
織田玄蕃允殿
御報
原文に書き下し文を記してみた
年次不明(1553?)6月22日付斎藤道三書状+書き下し文
現代語訳
お手紙を拝読しました。
織田家ご家中のことについては我々斎藤家も聞き及んでおり、深い懸念を抱いております。
当家としては困惑していますが、付いたり離れたりしない覚悟だから、お互い放置しないで、よく連絡を取り合っていきましょう。
これからも何度でも、私のもとへ使者を遣わしてくれて構いません。
三郎の殿様(織田信長のこと)もまだご若年で遊びたい盛りのお年頃なので、あなたも御苦労が多いこととお察しします。
追伸)またお会いしましょう。
敬具
1553(?)年6月22日 斎藤道三
あまりにも丁重すぎる手紙の謎
今回はこのような内容の文書でした。
道三は「三郎の殿様(織田信長のこと)もまだご若年で遊びたい盛りのお年頃なので、あなたも御苦労が多いこととお察しします。」
と秀敏を慰めつつ、「自分としても困惑しているが、付いたり離れたりしない覚悟だから、お互い放置しないでよく連絡を取り合っていきましょう」
としているのが面白いですね。
書き留め文言にあたる「恐惶謹言(きょうこうきんげん)」の部分は、現在の敬具にあたります。
恐惶謹言とは、”恐々謹言“をより丁寧にした書き方で、恐れ謹んで申し上げますという意味です。
斎藤道三の方が当主で身分が上なのに、斯波氏の一被官の、そのまた家来の重臣の立場である織田秀敏(玄蕃允)に、このように丁重な手紙を送るのは極めて稀な事例です。
それともう一つ。
「織田玄蕃允殿」と記されている部分にご注目ください。
年次不明(1553?)6月22日付斎藤道三書状+書き下し文
日付より上に宛名がきていることがお分かりになりますか?
これは通常、目上の人物に宛てた書札礼(しょさつれい)です。
書札礼とは、書状の形式・文言に関する礼儀という意味です。
これもまた、あまりにもへりくだりすぎて不可解な点ですね。
関連記事:戦国時代の外交文書のルールとしきたり ポイントは礼儀の厚薄にあり
余談ですが、「恐惶謹言」の”恐”の字が上という漢字に見えるような書き方をするのは、どうもこの時代の常識だったようで、同時代の織田信秀(信長の父)も、似たような書き方をした文書が遺されています。
頻出するキーワードほどくずしが強くなるものですね。
織田信秀が足利義晴に宛てた書状より抜粋
関連記事:織田信秀が足利将軍家へ宛てた書状 そこから見えてくるものとは!?
斎藤道三はいつ隠居したのか?
ここで、一つ謎が残るのは、「斎藤道三はいつ隠居したのか」です。
この時道三は家督を息子の義龍に譲り、隠居して一線を退いていたのでしょうか。
定説とされているのは、
wikipediaより抜粋
天文23年(1554年)2月22日から3月10日の間に、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
という記述です。
天文23年(1554)2月に剃髪して道三と号したとありますが、今回の記事の文書は天文22年(1553)の可能性が高いと考えられていることから、いささか矛盾を感じざるを得ません。
もちろん、この文書が天文22年のものではないとの考え方もできます。
しかしながら、道三が鷺山城を隠居城にしたとする話は一次史料には存在せず、江戸時代の軍記物が初出で、信用性の低い文書です。
当主の義龍が病と偽り、弟二人を殺害したのが弘治元年(1555)11月22日頃。
道三と義龍の対立がついにいくさに発展し、長良川で討ち取られたのが弘治2年(1556)4月20日です。
関連記事:「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読
もし、今回の文書が天文22年(1553)6月22日のものだとすると、この時すでに道三は隠居していたと見た方が、丁重な書札礼(手紙の書き方)なのは理解ができます。
少し飛躍的な考えをすると、この当時すでに親子の仲が悪く、道三は信長と合力して義龍を排斥する意図があったとするならば、信長に媚びる書き方をするのは自然なことではないでしょうか。
ただ、この時代の信頼できる史料があまりにも少ないので、なんとも言えない部分がありますが。
私もまだ調べている段階なので、詳しくは分かりかねますが、『大村家盛参詣道中日記』が興味深いです。
大村家盛は、ちょうどこの当時に東海道を下って関東巡礼の旅をしていた人物のようです。
なんでも天文年間末期の美濃・尾張・三河あたりの情勢が旅人の視点から記されているのだとか。
いつか読んでみたいものです。
参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書 東日本編』柏書房
奥野高廣(1969)『織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
村岡幹生(2010)『≪論文≫今川氏の尾張進出と弘治年間前後の織田信長・織田信勝』愛知県史研究 15(0), 1-23, 2011
太田牛一(1881)『信長公記. 巻之上』甫喜山景雄
丸山和洋(2013)『戦国時代の外交』講談社選書メチエ
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
児玉幸多(1970)『くずし字解読辞典普及版』東京堂出版
など