織田信長が出した古文書

織田信長が出した古文書

現存する織田信長最古の古文書 そこから見えてくるものとは?

当時16歳の織田信長が熱田社に出した制札を解読します。現存する中では信長が発給した最古の古文書です。そこには「藤原信長」と名乗っていますが、その理由とは。今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、難読箇所の解説、さらに当時の時代背景もご紹介します。
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信長が病の家臣を気遣い医者を呼ぶも、既読無視された時の書状

信長が秀吉の妻であるおねを気遣い、書状を送り遣わしたエピソードはあまりにも有名ですよね。実は他にも信長が家臣を気遣った様子が見える古文書が存在します。病に臥していた松井友閑という家臣のために、信長が近江に滞在中の宣教師の医師に宛てた書状なのですが、そこにはどのような面白いことが記されているでしょうか。
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緊急事態 信長と将軍・足利義昭が不和 仲直りの為に信長が出した条件とは

信長が足利義昭に突き付けた殿中御掟の第三段目をついに記事にしました。あの有名な「天下の事は信長に一任」という文書はこれです。そこにはどんな面白いことが記されているのか。いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳を載せています。
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【信長包囲網】 明智光秀らの奔走で信長が窮地を脱した書状

今回は信長包囲網により腹背を攻められ、信長が窮地に陥っている時の書状です。比叡山に立て籠った浅井・朝倉両家に信長は苛立ちを隠せません。当時の時代背景とともに釈文と現代語訳、さらに、この書状の解読ポイントも載せています。
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信長包囲網で信長ピンチ!信長は畿内大名の心を繋ぎとめようと必死だった?

「信長が河内高屋城主の畠山昭高に出した書状」を解読。浅井長政の謀反によって畿内の情勢も怪しくなり、阿波へと逃亡していた三好勢も動き出そうとしていた。文面からは、信長が河内守護である畠山昭高の心を繋ぎとめようとする焦りが見て取れる。
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美濃攻略!織田信長の楽市・楽座政策の真相

今回は信長が稲葉山城を攻め落とした直後の時代。稲葉山城下である「加納に出した制札」の解読をします。古文書の読み方と共に、加納に楽市・楽座令が実施されたことによって、どのような影響を与えたのかご説明します。
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【古文書から読み解く】浅井長政討伐に燃える織田信長の決意と意気込み

姉川合戦の約1か月前のこと。信長は浅井・朝倉連合軍との決戦を決意し、領国中から大規模な出陣動員令を下す。この時の書状が、美濃の国人である遠藤慶隆、胤俊宛てで残っており、そこから決戦への信長の決意と意気込みが読み取れる。
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信長が上杉輝虎(謙信)に養子を出そうとしていた事実

織田信長が美濃攻略中に、上杉輝虎(謙信)へ養子を送ろうとしていたことはご存じだろうか。今回は古文書から読み解く当時の情勢や養子の件の顛末、そして様々な疑問について考察する。