こんばんは!
今日は「三職推任問題」といいまして、織田信長が太政大臣か関白か将軍か、好きな役職についても良いと正親町天皇から打診があったとする説を取り上げます。
まずはじめに誠仁親王(さねひとしんのう)が信長に宛てた書状をご覧いただきます。
誠仁親王とは何者かを簡単に
誠仁親王(陽光院) (1552~1586)
正親町天皇の子で皇太子。
禁裏では資金難により元服が延び延びだったが、信長からの資金援助で元服でき、信長から二条新御所を献上されるなど、信長との関係は非常に良好。
彼が皇位継承するために三職推任問題が発生したと思われる。
秀吉の世になりつつある1586年に死去したため、息子の後陽成天皇が皇位を継承した。
誠仁親王が信長に宛てた三職推任を記した書状
原文
釈文
申候 萬御上洛
へく候、 の時
あなかしく、
天下弥静謐に
申付られ候奇特、
日を経てハ猶際限
なき 朝家の御
満足、古今無比類
事候へハ、いか様の
官にも任せられ、
無由断馳走申
され候ハん事
肝要候、
餘りにめてたさ
のまゝ、御乳をも
さし
くたし候、此一包
見参に入候、
前右府とのへ (誠仁親王花押)
原文に釈文を記してみた
書き下し文
天下弥(いよいよ)静謐(せいひつ)に申し付けられ候奇特、
日を経ては猶(なお)際限なき朝家の御満足、
古今比類無き事に候えば、
いか様の官にも任ぜられ
油断なく馳走申され候わん事肝要に候。
余りにめでたさのまま、
御乳(おち)をもさし下し候。
この一包見参(けんざん)に入れ候。
万(よろず)御上洛の時申し候べく候。
あなかしく。
前(さきの)右府殿(織田信長)へ (誠仁親王花押)
現代語訳
あなた(織田信長)がいよいよ天下を平和にしていることは奇特な事であり、それが日を経ることで正親町天皇はよりいっそう満足されており、これは古今に比類のないことですので、天皇はあなたをどのような官職にでも叙任されて、あなたは油断なく朝廷の為に尽力されることが望ましいです。
あまりにおめでたいことなので、御乳人を安土へ下します。
この一包みの贈り物をお受け取りください。
すべてはあなたが上洛されたときにお話しします。
穴賢。
この書状の解読ポイント
※この書状は「天下弥静謐に」から読み始めることに注意。
尚々書(なおなおがき)といい、書状は袖(右端)を2~3行分空けて書き、尚々書は袖に書くのが一般的だった。
袖に書ききれない場合は、袖の上部や本文の行間に書いた。
尚々書は追而書(おってがき)ともいい、現在の追伸にあたる。
4行目の「弥」は「いよいよ」と読み、
「静謐」は「せいひつ」と読む。
世の中が穏やかに治まっていることを意味する。
8行目の「無比類」は「ひるいなき」と読む。
「有る」「無い」「多い」「少ない」はだいたい返読文字となる。
14行目の「餘りにめてたさ」は「余りにめでたさ」と読む。
余りにと同じ。
15行目の「御乳」は「おち」と読み、
御乳人(おちのと)=誠仁親王の乳母である「あこ」のこと。
最後の「前右府とのへ」は「さきのうふどのへ」と読み、
右府=右大臣。
信長が数年前まで右大臣に任官されていたので、「さきのうふどの」と呼ばれていた。
3行目の「あなかしく、」は「穴賢」が変化した形。
もともとは「畏れ多く存じます」という意味で、相手に敬意を表す決まり文句。
この書状の時代背景
安土城を根城にし、天下人となっていた織田信長。
武田勝頼を攻め滅ぼし、関東の雄・北条氏政をも従属させた信長に、もはや敵はいなかった。
天正10年(1582)5月4日。
朝廷側は安土城の織田信長のもとへ勅使を派遣した。
この時皇太子である誠仁親王も大御乳人を使者として送った。
これらの女房衆に、武家伝奏である勧修寺晴豊が付き添った。
この史料はこの時に、大御乳人が持参した誠仁親王の直筆書状だと考えられる。
ここには今日でもさまざまな議論を呼んでいる三職推任問題の「いか様の官にも任せられ」との文言が記されている。
この数日前に当たる4月25日に京都所司代の村井貞勝が勧修寺晴豊を訪れ、安土城に女房衆を派遣して、信長を「太政大臣か関白か将軍か」に推任することが提案されている。
つまり、「いか様の官にも任せられ」とは「太政大臣か関白か将軍か」である。
この提案が信長側からなのか、朝廷側からなのか、それとも村井貞勝の勇み足なのかが議論されている。
晴豊公記に記された三職推任のくだり
ここでもう一つ、別の書状をご覧いただきたい。
晴豊公記とは公家の勧修寺晴豊(かじゅうじはれとよ)の日記で、武家伝奏という立場から織田信長や豊臣秀吉との関りが深かったことから、事細かに当時の情勢を書き記された古文書である。
釈文にすると、
廿五日(25日)、天晴、村井所(村井貞勝)へ参候、
安土へ女はうしゆ(女房衆)御く(下)し候て、
太政大臣か關白(関白)か将軍か御すいにん(推任)候て、
可然(しかるべく)候よし(由)被申(もうされ)候、
その由申入候、
晴豊公記 天正十年四月二十五日条
とある。
三職推任に対し信長がとった行動は
この朝廷からのアクションに対し、信長は速やかに上洛し、何らかの返事をしなければならない。
信長は安土城は発ち、同年5月29日に上洛した。
ここで当然、誠仁親王と面会したのだが、実はこの時信長が何を話し、正親町天皇にどのような回答をしたのかはわかっていない。
信長の右筆のひとりである楠木正虎(長諳)の発言に
「御返事申入候ハて御目かゝり申候儀、いかゝにて御座候」
を根拠に、信長は三職推任に対して回答をしなかったとする説が強い。
本能寺の変
このわずか3日後の6月2日。
信長宿所の本能寺と信忠宿所の妙覚寺は、突然明智光秀の軍勢に攻められた。
未曽有の出来事で信長、信忠父子は成すすべなく自害する。
それから勧修寺晴豊の日記にもその他の公家衆の日記にも、三職推任の文言は一切現れない。
まるで真実を隠すため、意図的に何かを切り取ったかのように・・・。