こんばんはー。
石山軍記の7話目です。
第三章「正親町天皇御即位」に入ります。
正親町天皇の即位式の際、献金をして躍進を狙う本願寺は、どのようにしてその資金を捻出したのでしょうか。
毛利元就との意外な接点とは?
今回はそんなお話です。
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第三章 正親町天皇御即位
本文(20ページ目)
さても永禄三年正月(1560年1月)本願寺顕如上人は御一族家老等を集められて仰せるは、今四海一統に戦国となり、修羅の闘争止む時なく、王位をも恐れず将軍をも尊まず。
農民は国主を軽んじ、家臣は主を侮り、 ※1五常の道絶え、果てしは嘆き、さてもなお余りあり、殊に天皇ご即位に就かせ給えども、その式礼さえも行われず。
そもそも 迹門(しゃくもん=本門の対)の家に生まれ、出家の身と成りし上は、祖師の御跡を継ぎ、凡愚の衆生を済度し、今生未来の苦患を救うことは、その身の役なり。
※1五常の道 (ごじょうのみち)とは、儒教で説く仁・義・礼・智・信のこと。
いわんや一点の ※2至尊に於いてをやさるを、王土に生まれ浅き様(?)なれば、御即位の御式なりとも調え奉らんと思えども、 ※3南都北嶺をはじめ、 ※4勅願の大寺敷多なるに、当寺のみこの事に預かりなば、偏執強気(=偏った考え)の ※5四箇の法師ら祖師上人以来、当寺を妬むこと今に変わらざるゆえ、またまた偏執をなし、世上の動乱を幸い、我が宗門を破滅させんと企つべきか。
然あらばかえって騒動の基とならん。
※2至尊 (しそん)とは、もっとも尊いこと。ここでは天皇を指す。
※3南都北嶺 (なんとほくれい)
南都は奈良を指し、北嶺は比叡山延暦寺を指す。
よく対比として用いられる。
※4「勅願の大寺敷多なるに、当寺のみ・・・」 私は仏界用語の知識はあまりないのだが、文脈から察するに、奈良や京都には数多の寺社仏閣があるが、天皇の即位式の費用を用立てたのは本願寺だけと言いたいのだろうか。
※5四箇の法師 (しかのほうし)恐らく日蓮宗か法華宗のこと
これゆえに、いずれなりとも大身の諸侯をすすめ、共に事を計らいなば、万事全く整わんと思うなり。
それにつけては中国(地方)の毛利家は無双の大名と言い、我が宗(に)帰依の檀越ならば、この旨を申し遣わさんに、よもや否とは申さまじ。
毛利家(は)このことを預かりて、助力せば他宗の誹謗も無からんか、おのおのいかが思わ
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本文(21ページ目)
るるやと仰せければ、皆上人の深慮を感じ、この儀しかるべし。
急ぎ御使者を立て給えとぞ申しけるゆえ、しからばとて顕如上人(の)直筆にて書簡をしたため、使者を仕立て芸州(げいしゅう=広島県)へ下しければ、毛利元就(は)書簡を得て大いに感じ、顕如上人は出家の身にて、天子(=天皇)の御沈落を嘆き、かくまで心を砕くは神明の至りなり。
武将は天使の下司なるに、諸国の大名(は)朝恩を忘れ、京都の困窮をよそに見なせり。
我も余(=私)もこのことは心に係れば上洛を遂げ、万分一の国恩を報じ奉らんと思いしかども、自国の戦いにいとましく、打ち過ぎしは緩怠と言いつべし。
毛利元就肖像(毛利博物館蔵)
毛利元就 (1497~1571)
安芸吉田郡山の大名。
大内・尼子の二大勢力に翻弄されながらも弱小の毛利家を成長させた名将。
近隣の諸豪族を懐柔し、時に自らの血縁を送り込んで味方を増やした。
厳島の合戦に勝利して戦国大名としての基盤を確立すると、西国一の勢力へとのし上がった。
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片時も早く上洛なさんと嫡子・隆元同道にて正月(1月)八日芸州(広島県)を立て、京都へ赴かれ、まず顕如上人の親切を礼謝に及ばんとて石山本願寺へ立ち寄りければ、顕如上人も大いに喜ばれ、様々(に)饗応し給いて、京都大坂ともに衰微の物語あり。
天子御即位の御儀式(に)志しを合わせ調え奉らんがため、使者をもって申し入れしに、ご来臨あられ、かたじけなき由、申されければ、毛利元就も上人若年にして朝恩を思われ、且は思慮深き御心底感じ入りたり。
まことに上人の仰せの如く、世の盛衰とは申しながら、一天下の御主、 ※6宸襟を悩まさるるをも顧みず、応仁以来八十年間四海一統に干戈を動かし、今に至りて合戦止まず。
※6宸襟 (しんきん)とは天皇のお心の意。
毛利隆元肖像(常栄寺蔵)
毛利隆元 (1523~1563)
毛利元就の嫡男で輝元の父。
若年の頃は大内家の人質として多感な時期を過ごす。
誠実な人柄で将来を嘱望されるが、若くして謎の死を遂げた。
父の悲しみは大きかったという。
他の領分を犯しかすめ、おのれの栄燿をなすといえども、天恩報謝の心なきは浅ましき次第なり。
しかしながら、なにがしとても合戦のみに月日を送ること、利欲に迷い、 ※1五常の道をわきまえぬ者と上人の思し召し有らんなれども、当時、播備作の三州(が)(播州備州美州=兵庫県西~岡山県あたり)(毛利氏に)帰伏いたし、道筋開けしゆえ、上洛なさんと思う思う所に、斗(もと?自信なし)らずも上人の御報せに預かり、すぐさま発足して今日到着致し、上人の御心底を承って感心致せしなり。
まことに御即位御式礼の儀、仰せ合わされんとは殊勝の御志しにて候。
しかる上は上人と力を合わせ、疾く朝恩報謝の計らいを致すべしと最懇切に申されければ、顕如上人も元就の誠心を感じられ、一刻も早く上洛ありてこの由 ※7奏聞の遂げ給えと有りしかば、元就父子は上人と共に京都に至り
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※7奏聞 (そうもん)とは天皇に申し上げること。奏上の意。
本文(22ページ目)
(光?)将軍・足利義輝公に中国(地方)平定の旨を言上なし、(毛利元就)父子(は)御即位・御延引の儀は、将軍の御威光なきに似たれば、即時に御式礼を執り行われたき、その料物(=金)は元就父子並びに顕如(の)助力をもって献上仕りたき旨、言上ありしかば、将軍(は)喜悦斜めならず。
即時にこの儀を奏聞し給いければ、帝を始め諸卿一同元就父子この事についてはるばるの上洛神妙に思し召し、且つ本願寺顕如上人(が)まず先立って、先帝(せんてい=後奈良天皇のこと)御葬送の料(=金)を献し、今また元就を勧め力を合わせて御即位の料を奉らんとの志し、これまた御満足に思し召さるる旨、 ※8勅諚ありて、かくのごとくなれば、片時も早く御儀式執り行わるべしとて、将軍の御所へも勅使を立てられ、いよいよ当正月廿七日(=1月27日)と定まりければ、元就隆元父子持参せし数万の黄金を出し、まず天子の御賄料(おんまかないりょう=費用)として献上し、また公卿方の困窮をも救わんと摂家大臣悪し(様?自信なし)宰相に至るまで、官禄に応じて進上しける。
事実、元就は正親町天皇の即位料・御服費用として総額2059貫400文を献上し、正親町天皇は毛利家に褒美として従四位下・陸奥守の官位を授け、菊桐の御紋を毛利家の家紋に付け足すことを許可している。
しかし、この時元就・隆元父子が直々に上洛している事実は確認できない。
さてまた本願寺顕如上人は禁中の御沙汰として、このたび毛利元就父子に助力して朝恩を思わるること神妙に思し召さるる旨の勅諚にて、 ※9法眼に叙し、権大僧都に任ぜらる。
よってますます宗門(は)繁昌に及べり。
これよりして毛利家は本願寺といよいよ懇
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※9法眼 (ほうげん)とは法眼和尚位の略で、法印に次ぐ僧位。
本文(23ページ目)
意を通じ、音信互いに怠ることなし。
しからばこののち、織田信長と本願寺と合戦の時も、中国(地方)より兵糧(を)運送し力を助け、また、足利義昭公(は)信長のために京都を開き、御流浪ありしが、顕如上人の緑をもって中国(地方)に至り給うこと、皆毛利元就(が)本願寺と昵懇なりしゆえなりとかや。
(次回へ続く)
ご覧いただきありがとうございます!
やたらと朝廷プッシュなのは明治時代に書かれた本だからですかね?(笑)
次回からは第四章「三好松永将軍義輝公を弑す。並びに義昭公所々御動座」です。