3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

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戦国の古文書解読辞典「え」

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戦国の古文書解読辞典「う」

裏返・裏帰・・・うらがえる意味味方が敵に変わる。裏切る。寝返ること。「返忠(かえりちゅう)」と同じ意。例文去朔日、津田城多聞山へ裏帰色立了、則河州出口にて及一戦、木澤ノ紀伊守討死了、 『多聞院日記』永禄十一年正月五日条(書き下し文)去一日、津田城、多聞山へ裏返る色を立ておわんぬ。則ち河州出口にて一戦に及び、木澤の紀伊守討死しおわんぬ。
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戦国の古文書解読辞典「い」

揖・・・いうす・いう(意味)挨拶すること。または会釈すること。雖・・・いえども(意味)逆説の接続詞。前の文脈から類推される結果とは逆の事がらが後に続く。~だけど、~だと、それなのに、にもかかわらず。(備考)「雖然」は「しかれども」。「雖若年」は「若年といえども」。「雖未申通候」は「いまだ申し通せず候といえども」。例1)『大乗院寺社雑事記』文正二年正月二十日条細川・京極入道等、兼ハ可合力之由雖申之、望其期而違反、一向失弓矢之道之由・・・ (細川(細川勝元)・京極入道(京極持清)等、かねては合力すべしの由と申すといえども、その期に臨みて違反、一向弓矢の道を失うの由・・・)例2)『(天正元)十月二日...
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永禄3年(1560) 庚申

正月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
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永禄11年(1568)戊辰

正月1月1日河内の津田衆らが松永方へ寝返り、河内国で三人衆方と交戦。『多聞院日記』『言継卿記』『細川両家記』去朔日、津田城多聞山へ裏帰色立了、則河州出口にて及一戦、木澤ノ紀伊守討死了、則首ニ多聞山へ来了、マエサクマト云タル仁也ト、   『多聞院日記』永禄十一年正月五日条(書き下し文)去一日、津田城多聞山へ裏返る色を立ておわんぬ。則ち河州出口にて一戦に及び、木澤の紀伊守討死しおわんぬ。則ち首に多聞山へ来たりおわんぬ。マエサクマト云うたる仁なりと。烏丸へ罷向、極位珍重之由申之、宰弔之時分云々、申置了、次長橋局へ罷向、理性院、蔭亮等被來、吸物にて酒有之、次竹内殿へ参、暫御雑談有之、河州津田、城州田邊...
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信玄西上!息子を人質に取られた信長が、上杉謙信に送った決意とは(3)

元亀3年(1572)冬に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状を解読します。最終回となる今回は、武田家の視点からこの史料と時代背景を紹介します。信玄一流の外交はどの程度実を結んだのでしょうか。当ブログは古文書を解読し、当時の人々の生き様を紹介するサイトです。
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信玄西上!息子を人質に取られた信長が、上杉謙信に送った決意とは(2)

元亀3年(1572)冬に織田信長が上杉謙信へ宛てた書状を解読します。第2回目の今回は、上杉家の視点からこの史料を紹介します。謙信を取り巻く当時の外交情勢は、どのようなものだったでしょうか。当ブログは古文書を解読し、当時の人々の生き様を紹介するサイトです。
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織田信長の清州城攻略戦 父をも成し得なかった大事件を「信長公記」から考える

若き織田信長による清州城攻略。それを示す史料はそう多くはない。今回は当時の信長の行動が最も詳細に記されている「信長公記」から見てみようと思う。どのような経緯があって信長は主家を滅ぼし、さらにその主家である斯波家を傀儡化することができたのか。
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姉川の合戦 番外編 それぞれの武将のエピソード

姉川の合戦の武将エピソード集です。両陣営の華々しく散っていった武将や感動秘話を中心にご紹介します。主な逸話は1.竹中重治(半兵衛)の調略工作 2.樋口直房から聞かされた浅井長政の葛藤 3.勇将名高い真柄直隆と向坂式部の一騎打ち 4.浅井雅楽助とその弟・斎宮助の逸話 6.若武者・坂井尚恒の奮戦 7.遠藤直経の最期と竹中重
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姉川の合戦 後半 合戦の詳細と通説以外の説

姉川の合戦の詳細記事後半です。諸説さまざまな姉川の合戦、軍議、姉川の地形、姉川合戦の陣立て、姉川の合戦 開戦、姉川の合戦 浅井軍の猛攻、信長危うし 13段の備のうち実に11段まで破られる、形勢逆転 徳川軍の反撃、追撃掃討戦、姉川の合戦 終結する、通説ではない姉川の合戦 実は苦戦していなかった?などです。