今日はちょっとした小話を。
元亀元年(1570)織田信長が大坂を攻めた第一次石山合戦での出来事です。
毛利秀頼(河内守)を3行で
毛利長秀のこと
当時は信長の馬廻りで赤母衣衆のひとり
のちに信濃飯田城主となった
兼松正吉(又四郎)を3行で
信長の馬廻り
朝倉義景討滅戦でも功があり伝説を残す
のちに徳川義直に仕え、尾張徳川家臣となった
第一次石山合戦でのエピソード
当時信長は大坂を攻めていたが、突然石山本願寺が挙兵し、信長本陣めがけて襲い掛かった。
それを懸命に防いだのが佐々成政(内蔵助)、前田利家(又左衛門)、中野忠利(又兵衛)、野村越中守(足利義昭の家臣)、湯浅直宗(甚助)、毛利秀頼(河内守)、兼松正吉(又四郎)ら信長の馬廻りだった。
馬廻りとは親衛隊のことである。
敵味方入り乱れての大乱戦だったらしく、一番手、黒母衣衆の佐々成政が負傷して後退。
二番手、赤母衣衆の前田利家が果敢に突っ込み、右手から中野忠利が、左手から野村越中守、湯浅直宗、毛利秀頼、兼松正吉らが敵に切り込み、戦況を押し戻した。
そこで本願寺方の下間丹後の重臣・長末新七郎を同時につき伏せたのが毛利秀頼と兼松正吉であった。
毛利秀頼が言った。
「早う首を取り候え!」
すると兼松正吉はこう返した。
「それがしはただの手伝いにござる。お手前こそ早う取り候え!」
譲り合いである。
今日でも電車で空いてる席があると「あ、どうぞどうぞ。」
「いえいえ、僕次の駅で降りるんで、どうぞどうぞ^^」
というのと大差ない。
しかし、この時は譲り合いがなぜか熱い口論に発展してしまった。
戦場でケンカするなよ・・・。
しかも首の取り合いじゃなくて譲り合いって・・・w
そうこうするうちに戦況は再び本願寺側に流れ、織田軍は押されて退却を始めた。
馬廻りは総大将の織田信長を守るのが仕事なので、彼らも退かざるを得なかった。
そう、おいしい敵の侍大将の首を取らずに・・・。
譲り合い大事だからシカタナイネ!
ご覧いただきありがとうございます。
この時期の信長の年表と野田・福島の戦いはこちらです。