永禄

3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

信長暗殺 遠藤直経と浅井長政 お市が人生で最も幸せだった7日間

これは信長の妹・小谷御前(お市)を浅井長政へ嫁ぎ、近江佐和山にて信長と浅井長政が初対面を果たした時のお話です。悲劇の姫であるお市が人生で最も幸せだった7日間。それと忍び寄る信長暗殺の影。その後に待ち受ける3人の運命。天はなぜこうも残酷なのか
織田信長が出した古文書

美濃攻略!織田信長の楽市・楽座政策の真相

今回は信長が稲葉山城を攻め落とした直後の時代。稲葉山城下である「加納に出した制札」の解読をします。古文書の読み方と共に、加納に楽市・楽座令が実施されたことによって、どのような影響を与えたのかご説明します。
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 血戦 姉川の戦い

永禄13年(1570.1)から元亀元年(1570.7)までとなっております。この間の主な出来事は、五ヶ条の条書、浅井長政謀反、金ケ崎撤退戦、信長狙撃事件、落窪合戦、姉川の合戦などです。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

堂洞城の戦い 戦の功名と八重緑の悲劇

織田信長が進める美濃攻略の大きな契機となった堂洞城の戦い。あまり有名な戦いではないが、中濃で一番の激戦が繰り広げられ、鉄の結束を誇ってきた斎藤家は、これ以後衰退の一途をたどるのである。
織田信長が出した古文書

信長が上杉輝虎(謙信)に養子を出そうとしていた事実

織田信長が美濃攻略中に、上杉輝虎(謙信)へ養子を送ろうとしていたことはご存じだろうか。今回は古文書から読み解く当時の情勢や養子の件の顛末、そして様々な疑問について考察する。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

箕作城の戦い 六角氏の立てた戦略VS織田信長の戦略

美濃を攻略し、北伊勢にも勢力を拡大した信長は、ついに足利義昭を奉じての上洛を決断する。信長は大軍を率いて愛知川に布陣。六角承禎・義治父子も万全の態勢で信長を迎え打つ。今回は両者がとった戦術と戦略にクローズアップ
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 覇王上洛

今回は織田信長の年表5回目です。永禄10年(1567)から永禄11年(1568)までとなっております。この間の主な出来事は、岐阜城改名と居城移転、天下布武の印判使用、浅井長政と婚姻同盟、南近江攻略、足利義昭を奉じて上洛、将軍宣下、六条本圀寺の戦い、二条御新造の建設、伊勢北畠家討伐戦、突然の帰国です。
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

桶狭間の戦い 忠臣岡部元信と去就をはっきりさせない水野一族

今回は桶狭間の合戦を古文書から見る。知多半島から三河国境にかけて勢力を持つ水野家に焦点を絞り、どのようにしてこの難局を切り抜けたのかを調べた。織田信長と今川義元の間に揺れる弱小国人領主、水野一族の生き残り策とは
3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー

永禄4年(1561)。先の森部合戦で勝利した信長は、墨俣城を奪取。大きな損害を受けながらも墨俣城に入り、兵を休まる暇なく痛手を受けた墨俣城の修復に取り掛かっていた。敗れた斎藤軍だが、すぐさま新手の兵を繰り出し、墨俣より北北東6キロの十四条村に布陣。信長もこれを迎え撃つため十九条村に布陣するのだが・・・
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 美濃攻略戦

今回は織田信長の年表4回目です。永禄7年(1564)9月後半から永禄10年(1567)9月までとなっております。この間の主な出来事は、上杉輝虎との外交、永禄の政変、加治田城主佐藤父子の内応、鵜沼城の戦い、猿啄城の戦い、加治田城救援戦、堂洞城の戦い、烏峰城の戦い、関城の戦い、武田家との縁組外交、河野島の戦い、北伊勢侵攻、稲葉山城の戦いです。