実際に解読をした記事

織田信長が出した古文書

義昭挙兵!信長が細川藤孝に宛てた書状から見える意外な一面とは!?

将軍・足利義昭が信長に対して兵を挙げた時に、織田信長が幕臣である細川藤孝に宛てた書状の解読をします。この時期の信長は意外にも将軍とは和平を望んでいて、人質も信長の方が差し出すと交渉しています。信長と細川藤孝の真意とは・・・。いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、さらに時代背景も入れてご説明します。
織田信長が出した古文書

現存する織田信長最古の古文書 そこから見えてくるものとは?

当時16歳の織田信長が熱田社に出した制札を解読します。現存する中では信長が発給した最古の古文書です。そこには「藤原信長」と名乗っていますが、その理由とは。今回もいつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、難読箇所の解説、さらに当時の時代背景もご紹介します。
信長家臣団が出した古文書

功に焦り!?信忠が信雄に宛てた書状の意味するものとは?

天正元年(1573)17歳の若き織田信忠が弟の信雄に宛てた書状を解読します。本状には尚々書(追而書)の部分が存在し、もしかするとここが織田信忠の直筆かもしれないです。織田信忠の現存する書状自体が非常に希少なものです。さあ今回はどのような面白いことが記されているでしょうか。いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳も載せてます。
織田信長が出した古文書

信長が病の家臣を気遣い医者を呼ぶも、既読無視された時の書状

信長が秀吉の妻であるおねを気遣い、書状を送り遣わしたエピソードはあまりにも有名ですよね。実は他にも信長が家臣を気遣った様子が見える古文書が存在します。病に臥していた松井友閑という家臣のために、信長が近江に滞在中の宣教師の医師に宛てた書状なのですが、そこにはどのような面白いことが記されているでしょうか。
織田信秀が出した古文書

織田信秀が足利将軍家へ宛てた書状 そこから見えてくるものとは!?

今回は織田信秀が足利幕府へ宛てた書状の解読をします。現存する織田信秀の書状自体、非常にレアです。朝廷への接近ばかりが強調される信秀ですが、ここにはどのようなことが記されているでしょうか。当記事もいつものように原文に釈文、書き下し文、現代語訳を載せています。
斎藤家が出した古文書

「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読

斎藤道三が記した「美濃一国譲り状」の古文書の解読をします。1.美濃一国譲り状の信憑性について 2.美濃一国譲り状(弘治二年四月十九日付け斎藤道三遺言状) 原文と釈文、書き下し文、現代語訳 3.この書状の時代背景 4.美濃一国譲り状は複数存在する? 5.斎藤道三の死による信長への影響 など
織田信長が出した古文書

緊急事態 信長と将軍・足利義昭が不和 仲直りの為に信長が出した条件とは

信長が足利義昭に突き付けた殿中御掟の第三段目をついに記事にしました。あの有名な「天下の事は信長に一任」という文書はこれです。そこにはどんな面白いことが記されているのか。いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳を載せています。
天皇・朝廷が出した古文書

【古文書講座】太政大臣か関白か将軍か 天下人信長が選択した道は

太政大臣か関白か将軍か。天正10年(1582)5月。織田信長の最晩年。信長は好きな役職に就くことができた。そこで信長が採った選択肢とは?今回は誠仁親王直筆書状から当時を読み解きます。
武田信玄・上杉謙信が出した古文書

山本勘助は実在した!?武田信玄が出した書状からその根拠を読み解く

山本勘助は実在したのか・・・現在でも様々な議論がされているそうですが、今回は武田信玄が出した書状に「山本勘助」が登場する興味深い古文書を解読します。 いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳を入れています。実在したかどうかは私にはわかりかねます。
明智光秀が出した古文書

「麒麟がくる」の明智光秀が細川藤孝に宛てたあまり有名でない方の書状

明智光秀が細川藤孝に打診した直筆の書状を解読します。今回の書状は難易度が低めなので、古文書解読初心者に易しいはずです。いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、時代背景を。さらにこの書状を解読するポイントを載せています。