こんばんはー!
今回は武田信玄と織田信長。
2人の天才の違いについてお話ししたいと思います。
どちらも紛れもない名将です。
しかしながら、2人は正反対な戦略、思考をしている節があることが多く、非常に興味深いです。
信玄と信長は、違いに極力ぶつかり合うことを避けたという点も、注目したいポイントです。
武田信玄と織田信長 似てる点
2人はどちらも名将の器だ。
両人とも若い頃から努力を怠らなかった。
特に新しい人材の登用を積極的に行ったのも似ている点といえよう。
信玄は兵法と囲碁、女を特に好み、信長は鷹狩りと茶、相撲、水泳、鉄砲、弓を好んだ。
いくさは極力領地の外で行う点も似ているといえば似ている。
2人とも籠城戦(城に立て籠もって防戦すること)はやったことがないのではあるまいか。
基本的には攻められる前に攻める戦略を取っている。
無論、いくさの運び方については真逆な部分もあるのだが、それは後で述べよう。
武田信玄と織田信長 周りの環境の違い
信玄と信長の2人に決定的な環境の違いがあるのは面白い。
それも真逆な点が多く見受けられる。
父からの信頼
信長は早くから父に将来を嘱望されて、どんなに周りからうつけと言われようが、父からの信頼は揺るがなかった。
信玄は父からは年を追うごとに疎まれていった。
正室選びは父・武田信虎が行い、公家の三条家から娶ったのであるから、この時点では世継ぎは晴信(信玄)にと考えていたのであろうが。
信玄の父は自分よりも強い者、賢い者を疎む傾向にあったように見えなくもない。
母からの信頼
信長は母からは嫌われた。
弟の勘十郎信勝に溺愛し、生意気な信長を疎んじた。
兄弟相克の合戦(稲生合戦)で信長は弟と戦うのだが、もしこの時信長が負けていたら、母の土田御前は信長の助命を嘆願しなかったかもしれない。
信玄は母からは好かれた。
父・信虎を駿河へ追放した時は、母は信虎には付いて行かなかった。
兄弟からの信頼
信玄の弟で有名なのが「典厩信繁」であろう。
父・信虎が晴信(信玄)を廃嫡し、信繁に家督を継がせようと企てた。
通常なら禍根を断つため、家督争いに敗れた血縁者は殺される(毛利元就の弟や伊達政宗の弟など)のだが、信繁は兄を尊敬し、忠誠心は強固なものだった。
信長の場合は、年の近い兄弟とは相争う運命にあった。
弟の勘十郎信勝との争いは先に述べたが、同じ時期に実の兄である信広にも裏切られたり(未遂)、守山城主の織田秀孝 ※1 も生きていたら信勝に味方していたであろう。
※1 不審な死に方をしている。記録にはないが叔父の信光と同様に、信長の謀略で殺された可能性がある。最終的に利を得たのは信長だからだ。記録にはないが
女からの信頼
一方、夫婦・血縁関係の女性に悲劇が訪れたのは、信長と信玄に共通している点だ。
信長は妹の小谷御前(お市)が有名だが、それ以外にも犬山城の織田信清に姉を嫁がせ、その数年後に攻め滅ぼしたり、正室である清洲御前(濃姫、帰蝶)とそれを匿う実家を残虐な形で皆殺しにしたりしている※2 のだ。
※2 言継卿記 公家の山科言継が永禄12年(1569)7月27日。岐阜へ下向した際に耳にした噂。
「信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし、国衆大なる衆十七人、女子の男卅余人切腹すべし」
言継卿記
(なお本妻が 清洲御前(濃姫、帰蝶) を指すのかどうかは不明であり、現在でも様々な憶測をよんでいる)
信玄も父の時代に、諏訪頼重に嫁いだ妹である諏訪御前(禰々)を死に追いやったり、相模の北条氏政に嫁いだ実の娘を、失意のうちに間接的に死に追いやったりしているのだ。
要するに、父に疎まれ、家臣に担ぎ上げられたのが信玄。
その真逆が信長であるという点が面白い。
武田信玄と織田信長 内政の違い
「内政」といえば武田信玄なら「信玄堤」、織田信長なら「楽市楽座」を連想する人は多いだろう。
私もそう思う。
信玄の場合は京から遠くて山奥の甲斐の国であるから、人々の往来は少なかった。
無論、甲州街道はあるのだが、関東に人口が集中する江戸時代とは違い、人などほとんどいなかった。
依って、信玄は他の戦国大名と同様に、商業・流通に関してはほとんど無関心だったのかもしれない。
しかし、金山の開発には熱心だった。
当時はまだまだ日本全体では貨幣不足で、金などいくつ採っても足りないという時代だったのだ。
信長は若い頃から商業政策に熱心であった。
尾張という国は京からほど近く、交通の要衝。
祖父の信定も父の信秀も商業からの収入を重要視しており、信長の時代には尾張だけで津島、熱田と二大商業港町を領有している。(当時は津島も熱田も海がすぐ近くにあり、港町だった)
信長は早くから南近江の六角定頼や駿河の今川義元の商業政策を見習っていた節がある。
そこが信長と石高からの収入しか関心がなかった多くの大名とは違う点だ。
信長の時代では一部の重要都市限定ではあるが、座を撤廃して人々の往来を自由にし、一定の場所代さえ払えば誰でも自由に商売ができる政策を取り入れた。
それゆえ商業的に利害が対立して、座を重要視する旧支配層と争うことにもなったのであるが…。
特に利害がぶつかったのが比叡山延暦寺や奈良興福寺などの寺社勢力、堺の今井宗久以外の商人軍団などであろうか。
一方、農業政策を非常に重要視したのが信玄だ。
甲斐国は山岳地帯で耕作地が限られている。
その上、河川は急流が多く、ひとたび洪水に見舞われると死活問題になりかねないのだ。
信玄が「信玄堤」と呼ばれる大規模治水事業を成し遂げたことにより、甲斐国では安定した収穫が可能になったばかりか、耕作地そのものも増えた。
信長の両国である尾張国、美濃国、伊勢国も日本を代表する三大河川が動脈のように流れており、そこから派生する大小さまざまな枝川が無数に存在した。
人口の多さもあってか米の取れ高もすごかったが、洪水頻発地帯という点では日本で1位2位を争うレベルであろう。
しかし、信長はあまり治水には手をつけなかったようだ。
それよりも街道を整備したり橋を架けたりして、軍勢の移動をスムーズに行えるようにした。
濃尾平野の治水工事は江戸時代になってもあまり進まず、仕事を押し付けられた薩摩藩が五十数万両もの莫大な資金を費やして、治水工事(宝暦治水)を行っても、さほど効果が上がらなかった。
このことから見るに、信長が治水に金も労力もかけないという考えも正解だったように思える。
簡単にまとめると、信玄が得意なのは「治水、金山」、信長が得意なのは「商業、街道の整備」という感じだ。
武田信玄と織田信長 上洛志向の違い
信長と信玄。
どちらも天下を目指して上洛を志したという定説については少々疑問だ。
少なくとも武田信玄に関して上洛志向があったのかは、私は疑問に思っている。(最晩年には上洛を目指しての軍事行動を取っているが)
なぜならば、武田信玄が最初から天下取りを目指しているなら、あそこまで上杉謙信とは相争わないと思うからだ。
上杉謙信も信州への領土的野心がなかったようなので、村上義清らにある程度領地を返してやれば、10数年と戦わずに済んだはずだ。
そして、織田信長とは結ばずに斎藤家の美濃を征服したならば、天下取りに他の大名より一歩も二歩もリードできたかもしれなかった。
信玄が最も恐れた相手、戦いたくなかった相手は織田信長だったようにさえ思える。
一方、織田信長の場合は、流浪時代の足利義昭が救いを求めて来てから、明確に上洛を目指した軍事行動、外交を展開している。
この頃から武田信玄としきりに外交をしており、最終的には信長の養女を四郎勝頼に嫁がせている。
他にも越後の上杉謙信には自らの息子を養子に出す寸前まで話を進めており、上洛の際の通り道である北近江の浅井長政との同盟、東海道の要衝である北伊勢の征服などを行なっているのだ。
関連記事:信長が上杉輝虎(謙信)に養子を出そうとしていた事実
信長もまた、最も戦いたくなかった相手が武田信玄だったように見える。
足利義昭を奉じての上洛後も、常に武田家の動向に神経をとがらせており、もし武田が動いた際の保険として、上杉や松平を利用する外交もしていたのだ。
信長が最初から足利義昭を傀儡(おかざりのこと)にするつもりで救いを差し伸べたのかは不明だ。
それについては後日、別の記事で書こうと思う。一応少し触れている記事は書いたことがあるのだが…
関連記事:【古文書講座】信長が出した書状から読める足利義昭との関係性(殿中御掟)
武田信玄と織田信長 謀略・いくさの違い
この両天才の明確な違いは、恐らくここだろう。
二人の性格の違いを面白いくらいに映し出している。
織田信長の場合は、平野部での戦闘が多かったということもあり、少々無茶な采配をしても、兵の士気や武装の面で優位性を保ち、類まれなるカリスマ性と統率力で勝てたのかもしれない。
武田信玄の場合はそうはいかなかった。
あのような山岳地帯でいくさがあると、必ず山のてっぺんに陣を張り、敵の動きを辛抱強く見る必要がある。
先に山を降りると索敵や地形効果で不利になり、負ける可能性が高いからだ。
相手も同じことを考えるため、1度の出陣で数ヶ月かかるというのが当然だったのだ。
信長と信玄。どちらがいくさ上手なのかは甲乙つけがたい。
信長のいくさの凄さ
鉄砲がまず先に思い浮かぶであろうが、その他にも通常の3倍はある超ロングランス(長槍)、それを長時間扱える戦闘のプロである常備兵など、戦国期の合戦に革命をもたらした。
信長は兵の士気にも非常にこだわった武将でもあった。
桶狭間の合戦以降、信長自身が何も告げずに勝手に出陣することも多く、信長に直接仕える親衛隊達は常に神経をとがらせていなけらばならなかったようだ。
電光石火の如く行軍し、敵より早くに陣を張る。
城の力攻め、夜襲の多用など、常識破りな行動で他家を圧倒した。
桶狭間の素早い行軍、敵大名・斎藤義龍の死からわずか2日で美濃へ進軍、六条本圀寺の変を聞いてわずか2日で岐阜〜京都間を走破、浅井・朝倉滅亡の決定打である朝倉義景の撤退を見逃さず、猛追撃した刀根坂の合戦など枚挙にいとまがない。
いくさで活躍をしたら気前よく褒美を与え、荒木村重のような裏切り者 ※3 であっても、重用したという点も見逃せない点だ。
※3 荒木村重は信長に臣従した池田勝正の家臣で一門格だったが、三好三人衆の調略に乗り、池田勝正を追い出して乗っ取った。その後、織田信長に帰参して気に入られ、摂津一国を支配するにまでなっている。なお、また信長を裏切る模様
信玄のいくさの凄さ
信玄の用兵のかけひきの凄さを想像する人も多いだろうが、他にもいくさまでの根回しで既に勝利していた時も多かった。
敵を内部から切り崩す調略、敵の敵と同盟を結び、動きを牽制させて駿河や遠江、三河、美濃へ侵略した晩年など、まさに孫子の兵法通りの行動である。
信長は自分が天才すぎて家臣たちの意見にあまり耳を貸さなかったのに対し、信玄は有能な家臣たちの意見を真田幸隆のような外様の新参であっても耳を傾けた。
信玄の生涯戦闘勝率は9割といわれている。
信長でも7割程度である。
勝率は本当に化け物レベルである。
どちらがすごい?
これはやはり甲乙つけがたい。
生涯勝率9割であっても、人生のほとんどの時間を戦場で、しかも対陣中の山のてっぺんで過ごす信玄。
いくさが長引けば、農兵たちは作物の収穫、田畠の管理ができずに士気が下がる。
一方信長はそれとは真逆だ。
電光石火の速さで戦場に到着し、拙攻を尊ぶ節があった。
城攻めなどでいくさに負けることもあれば、夜襲に失敗して多数の犠牲者を出したこともあった。
しかし、早く家に帰ることができる。
いくさのプロを雇っているから士気が高く、経済力を背景にした武装も充実している。
一長一短な上に、それぞれの国や地方にあった戦い方もある。
もし信長が甲斐に生まれていたならば、あのような戦い方はできなかったであろう。
最後までご覧いただきありがとうございます。
信長公記によると、信玄は信長の家督相続直後から信長の才能に関心を示しています。(織田家家臣の記録なので、どの程度まで信用してよいかは不明ですが)
その他にも積極的な居城移動などもありますが、それはまた別の記事にということで。
コメント
一番上の左の肖像画。
もう20年数年以上前からたけだ信玄とは別人と言うことで決着がついているはずですが、全然浸透しませんね。
そもそも、信玄が肥満体のどっしりしたイメージで固定されちゃったのって結局この肖像画が武田信玄を描いたものと信じられていたからですよね。
信玄を描いた他の肖像画では全然太ってない。
甲府市も駅前に建てた銅像がこの他人の肖像画をモデルにしちゃってるから、引くに引けない状況なのかしら。
>けろざえもん さん
あれ信玄じゃないんですか?( ゚Д゚)
中年になってから太ったのだと思ってました。
そういう議論がされていたことすら知りませんでした。
そうだったんですね。
勉強になります。
ありがとうございました^^
言継卿記の「信長本妻兄弟自害たるべし云々⌋のくだりは、解釈が分かれているようですね。まずこのくだりの前に斎藤家秘蔵の壺のありかを、信長が斎藤家の夫人にたずねているようです。夫人が落城の混乱で紛失したと答えるが、さらに信長が壺の所在をたずねた様子。それに対して、信長本妻が斎藤家夫人を庇い、信長が追及を諦めたという解釈。逆に信長と共に信長本妻も斎藤家夫人を追及したとの解釈。主語を信長だけとすると、まるで信長が本妻もろとも斎藤家の人々を粛清したように読めます。どれが正しいですか?