おはようございます。
ブログを初めて3か月ちょっと。
今回で100回目の投稿になります。
本当にありがとうございます!
記念すべき100回目は「小牧山城」の謎に迫りたいと思います。
信長は何を考えてここに城を築いたのか。
尾張の中心地である清州から引っ越してまでここに城を築いたのは何のためだったのか・・・。
当時の情勢
織田信長が今川義元を桶狭間で討ち取り、東からの脅威はなくなった。
信長は舅である亡き斎藤道三の仇を取るという大義名分のもと、美濃への出陣を重ねる。
しかし、斎藤龍興を主君と仰ぐ美濃勢の結束は強く、信長の美濃併合は思うように進まなかった。
そんな時、信長の従兄弟にあたる犬山城主の織田信清が謀叛。
斎藤家と手を結んだことによって、信長は美濃攻略どころか尾張の信長領国が危うくなったのである。
信長は犬山城を裸城にするべく尾張小口城を攻めるが、有能な近習・岩室長門守が討死するなど大敗を喫した。
そこで目を付けたのが小牧山への居城移転である。
小牧山城築城に至った経緯を信長公記から読み解く
信長公記で小口城攻略失敗の次に「二宮山御こしあるべきの事」という話がある。
そこには以下のことが記されている。
一、上総介信長奇特なる御巧みこれあり。
清州と云ふ所は国中、真中にて、富貴の地なり。
或る時、御内衆悉く召列ねられ、山中、高山、二の宮山へ御あがりなされ、此の山にて御要害仰せ付けられ候はんと上意にて、皆々、家宅引き越し候へと御掟候て、爰(ここ)の嶺、かしこの谷合を、誰々こしらへ候へと、御屋敷下され、其の日御帰り、又、急ぎ御出であつて、弥(いよいよ)、右の趣御掟候。
此の山中へ清州の家宅引き越すべき事、難儀の仕合せなりと、上下迷惑大形(方)ならず。
左候(さそうら)ところ、後に小牧山へ御越し候はんと仰せ出され候。
小真木山(小牧山)へは、ふもとまで川つゞきにて、資材雑具取り候に自由の地にて候なり焜と悦んで罷り越し候ひしなり。
是れも始めより仰せ出され候はゞ、爰(ここ)も迷惑同然たるべし。
小真木山(小牧山)、並びに、御敵城お久地(小口城のこと)と申し候て、廿町(20町=約2.2km)計り隔てこれある御要害、ひた(欠字)と出来候を、見申し候て、御城下の事に候へば、拘へ難く存知、渡し進上候て、御敵城犬山へ一城に楯籠もり(立て籠もり)候なり。
とある。
つまり美濃攻略を狙う信長は最初、二宮山に城を築き、そこに家臣ともども引っ越して素早い軍事行動を取れるようにしようと言い出したが、あのような不便なところは嫌だと家臣たちは反対したようだ。
信長は「それでは二宮山は諦めよう。その代わり小牧山に居城を移す」と言ったら、家臣たちはすんなりと承諾した。
(著者の太田牛一が考えるには)恐らく最初に信長が小牧山に引っ越すと言い出せば、家臣たちは同じように反対したのではないか。
あれは信長の策略で、すんなりと小牧山へ居城を移動できるように謀ったのではないかと。
ここにある「二宮山」はどうやら現在はないらしい。
というより、昔とは呼び名が変わっただけなのか。
研究者の見解では「二宮山」は犬山城のすぐ近くにある山なのではないかということだ。
小牧山を選んだ理由
恐らく信長は美濃攻略への足掛かりとしてだけでなく、犬山城の織田信清と斎藤龍興との連絡を遮断し、犬山織田氏を無力化しようという考えもあったのではないかと思う。
事実、小牧山城の築城が完了し、居城の移転が完了したと思われる時期に黒田城と小口城は戦わずして相次いで開城しているのだ。
この居城移転はかなり大規模なものだったらしい。
家臣団やその家族、郎党だけでなく、清州城下に住む職人たちも移住しているようなのだ。
このように現在でも職人たちが住んでいたであろう痕跡が、通りの名前からわかる。
他の例では鹿児島県などに鍛冶屋町という名前の地名があったり、京都や長崎などに油屋町という名前の地名があったりする。
それは昔にそれに関連した職人たちが住んでいた可能性が高いのだ。
小牧山城の規模を古地図から見る
それでは小牧山城はどのような縄張りで、防御機能はどうだったのか。
小牧山は標高86mの小高い山。
山というより丘に近い。
これは江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された「尾張名所図会」の小牧山の絵である。
こちらが小牧山城の古地図
いつ描かれたのかはわからないが、かなり具体的に記されている。
そしてこちらが平成10年(1998)12月の測量図を基に作成された地図。
美濃攻略の為に急造で創られた臨時の城かと思いきや、意外としっかりとしたなかなか堅そうな造りである。
天然の川を利用してそこから水を引いて堀を作り、その際に掘れた土を土塁としてあらゆるところに築かれている。
小牧山城の地図を自作してみた
これでは少しわかりにくいので、google マップの上からお絵かきして作ってみた。
推定の部分も多くあるので参考程度に・・・。
元地図がこれ。
小牧山のすぐ東を流れる合瀬川というのが鍵になりそうだ。
古地図を参照しつつ川と道とをまず描いてみる。
南側が大手門で北側の道はどうやら搦め手のようだ。
恐らくもっと道はあるだろうが、とりあえず主な道はこんなものか。
わかりやすくするために川に色を塗った
虎口があったとされる場所を入れる。
虎口とは城の出入り口のことで、狭い道あるいは狭い口という意味だ。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」という故事から虎口という名がついたのだろう。
それだけ攻め手に危険の多い場所ということだ。
曲輪があったとされる場所を追加。
虎口に門があったはずなので、そこを超えると曲輪に遭遇する。
その曲輪内に物見櫓や鉄砲狭間もあったはずだ。
土塁を追加。
堀を掘ったりすると土が大量に出る。
その堀った土を利用し、防御を強くする意味で視界を遮ったり、射撃をしやすくしたりする意味で土塁が作られた。
いろいろ細かいところを加えて完成。
こうしてみると、道が曲がりくねっているので攻め手は遠回りせざるを得ず、その間に上から矢や鉄砲弾、石、熱湯、糞尿などが無数に降ってくる。
おおよそ力攻めをする際には当時の常識で、守り手の3倍以上の兵力が必要だった。
入口の時点で堀があって道が狭いので、門を壊すのにも時間がかかりそうだ。
戦時となると橋(オレンジの部分)はあらかじめ焼き落としていたであろう。
この城の左端の部分。
これはもしかしたら馬出だったのではないか。
寄せ手が攻めあぐねている間に別の出口から密かに馬を出して、敵の背後を襲う目的で造られることもあった。
しかし、ここが屋敷跡と描かれていたので、これが馬出に変化したのは小牧・長久手合戦の際に徳川家康が作り変えたのかもしれない。
たかが標高86mの丘だと思って攻めると、思わぬ損害を出す要塞だった可能性が高い。
信長は天守閣に住んでいたわけではない
多くの方が勘違いしている点かもしれないが、山にある城の場合は、城主は普段の生活をてっぺんの本丸で暮らしているケースは少なかった。
普段はもっと麓に御殿を造ってそこで生活していた。
岐阜城を居城にしていた時期の信長も同じであった。
本丸に住むようになったのは、戦国時代の末期、城が山から平地に築かれるようになってからだと考えられる。
なぜ南からの防御がこんなに堅そうなのか
当時の信長の敵は北の斎藤家と犬山城のはずなのに、なぜ南の防御がこんなに堅いのだろうか。
北から攻められることを想定しているなら、北の方により櫓を土塁を築くはずだ。
恐らくその理由は南からの防御が不安だったためだろう。
敵が北から攻めてきたからといって、いきなりすぐに攻めてくることはあまりない。
敵が城まで来ると、とりあえずは城全体を包囲して、そこから一気に力攻めしてくるケースが多いのだ。
ご覧いただきありがとうございます。
この時代の織田信長の年表はこちらです。