上杉謙信が武田信玄の悪行の数々を書いた書状がヤバい

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上杉謙信が武田信玄の悪行の数々を書いた書状がヤバい
らいそくちゃん
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こんばんは~。お久しぶりです。
今回は「武田晴信悪行の事」と題し、全7ヶ条からなる上杉謙信の古文書解読記事です。
「誓紙をもって和睦したのに翌日すぐにそれを破った」や、「晴信は父信虎を追放した親不孝者だから、神の御心に適うはずがない」
など激しい罵りが列挙されている興味深い内容となっております。
面白いので是非ご覧ください^^

上杉謙信はなぜ武田信玄を罵る書状を書いたのか

 まずはじめに、この書状は誰に宛てたのか。
実はこの書状の宛先は人ではなく、神仏です。
この文書は永禄7年(1564)6月24日付けで上杉謙信が、直筆で弥彦神社に納めた願文です。

上杉謙信肖像

 上杉謙信 (1530~1578)

通称越後の龍。
兄の隠居により家督を相続し、見事な軍略で越後一国を統一。
関東管領上杉憲政の名跡を継ぎ、上杉政虎、ついで輝虎と名乗った。
武田信玄や北条氏康らと幾度となく戦い、軍神と恐れられた。
その一方で青苧(あおそ)の生産を奨励し、それを北陸の海路で流通させるなど経営の才能もあった。

これはあまり知られていないことですが、謙信は武略に長けただけではなく、和歌や書を嗜む教養人としての素養がありました。
彼は幼い頃から僧侶になるための修業をさせられていました。
林泉寺で天室光育から禅を学び、上洛した際には近衛稙家から和歌の奥義を伝授され、また、青蓮院流の書の心得もあったのです。

上杉謙信の水茎(筆跡)

上杉謙信の水茎の跡(別の文書)

今回の書状は「たけ田はるのふあくきやうの事」と題し、全7ヶ条からなるもので、青蓮院流の妙手らしく、実に見事な水茎の跡です。
画質を落としてしまったのが申し訳ないくらいです。

永禄7年(1564)というと、頼山陽の「鞭声粛々夜渡河べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる」の詩で有名な4回目の川中島の合戦から3年が経過しています。
関東で北条方に寝返った小田氏治を常陸国の山王堂の戦いで攻め破り、小田城を落としたのも束の間、武田信玄に呼応した会津の蘆名盛氏を打ち破ったりと、大忙しの時期でした。

この武田信玄の悪行を連ねた書状は、そうした背景のもとで記されたものです。
それでは、早速書状を見てみましょう。

上杉謙信が武田信玄の悪行の数々を書いた書状の解読

原文

上杉謙信が武田信玄の悪行を列挙した書状

永禄7年6月24日付上杉輝虎直筆願文

なんだかひらがながいっぱいですね(^^;
よく見ると、ひらがな以外の変体仮名も含まれているようです。
今回は少しだけ文が長いため、画像を二つに分けてご紹介します。

上杉謙信が武田信玄の悪行を列挙した書状a1

永禄7年6月24日付上杉輝虎直筆願文a

上杉謙信が武田信玄の悪行を列挙した書状b1

永禄7年6月24日付上杉輝虎直筆願文b

釈文

(a)


  たけ田はるのふあくきやう能事

一、い徒な、と可くし、こ春けたいてん、ふつくとう三やう、そなへさる事、

一、徒可者らちん能とき、寿るか能あつ可いをも川て、ふし、春て二

しん里よを於とろ可し、せいしをもって申あ王せ、よく
ち川比る可へ春事、

一、しんせう二お(?)ゐて、ちしやちん里やうそく可多二、これをい堂し、

ふ川本うはめ川能事、

一、たけ田よしミなきなきところ尓、里んせう里んくん江能そミ、

を可け、ふたうのあ川可い由へ、てきミ可多とも、たうしやふ川
たうやきうし奈ふこと、これはるのふあやま里由への事、

(b)


一、しんせう能ふ川ちん、うちこ、あるいハめ川者う、あるいハらう
たうこ川しきにをよ(?)比候ところ、こ能多(?)比、ふ川里きをそ
へられさるニ於ゐてハ、多れ可しん里よをた川とむへき事、

一、春てに、ちき能をや、たけ田のふとら、久尓をおいいたし、らう

たうこ川しきにをよ者せ、かうきをうしなふこと、これふ川
ちん能奈いせう尓、か奈ふ遍可らさる事、

一、たうあきちう、たけ田はる能ふたいち、てるとら本んい

尓た川春る尓於ゐてハ、ちしや、ちん里やう、たうしやふ川
たう、せんゝゝ能ことく、こころ尓をよふと越り、あい可せき申
つけへきものなり、仍如件、

   永禄七年六月廿四日 上杦輝虎(花押)
 御かんきん所
   佛前

原文に釈文を記してみた

上杉謙信が武田信玄の悪行を列挙した書状a2

(永禄7年6月24日付上杉輝虎直筆願文a+釈文)

上杉謙信が武田信玄の悪行を列挙した書状a3

(永禄7年6月24日付上杉輝虎直筆願文b+釈文)

書き下し文

(a)


  武田晴信悪行の事

一、飯綱、戸隠、小菅退転、仏供灯明、備えざる事。


一、塚原陣の時、駿河の扱いをもって、無事すでに神慮を驚かし、誓紙をもって申し合わせ、翌日翻す事。


一、信州に於いて寺社、神領、俗方にこれを出し、仏法破滅の事


一、武田よしみ無きところに、隣州隣郡へ望みをかけ、無道の扱いゆえ、敵味方とも、堂舎、仏堂焼き失うこと。これ晴信誤りゆえの事。

(b)


一、信州の仏神、氏子、あるいは滅亡、あるいは流道乞食におよび候のところ、このたび仏力を添えられざるに於いては、誰か神慮にたっとむべき事。

一、すでに直の親武田信虎、国を追い出し、流道乞食におよばせ、孝義を失うこと、これ仏神の内証に叶うべからざる事。

一、当秋中、武田晴信退治、輝虎本意に達するに於いては、寺社、神領、堂舎、仏堂前々のごとく、心に及ぶとおり相稼ぎ申しつけべきものなり。 仍って件の如し

  永禄七年(1564)六月二十四日 上杉輝虎(花押)
  御看経所
   仏前

原文に書き下し文を記してみた

上杉謙信が武田信玄の悪行を列挙した書状b2

(永禄7年6月24日付上杉輝虎直筆願文a+書き下し文)

上杉謙信が武田信玄の悪行を列挙した書状b3

(永禄7年6月24日付上杉輝虎直筆願文b+書き下し文)

aの1行目の「飯綱」・「戸隠」・「小菅」はいずれも信濃国(長野県)の北部にある地名です。

右から3行目の「扱い」は、”和睦”を指します。
和睦周旋の使者のことを、「扱いの使い」などと呼んでいました。
一方、左から2行目の「扱い」は、我々がよく用いる”待遇”を指します。
はい、とてもややこしいですね(^^;

「誓紙」とは起請文きしょうもんのことです。
過去に起請文について記事にしたことがありますので、ご興味のある方はこちらをご参照ください。

関連記事:戦国時代の起請文とは 意味や定番の書き方は

解読のポイント

 今回の書状は、戦国時代の外交文書でよくある漢文スタイルというよりは、かな文字の傾向が強いものです。
かな文字というのは、漢字をもとにして日本で作られた文字のことで、現在では平仮名と片仮名のことを指します。
かつてはひらがな・カタカナ以外に、変体仮名も広く用いられていました。

な行た行さ行か行あ行
奈・那 太・多・堂 左・佐加・可 安・阿
仁・爾(尓)・丹・耳知・遅之・志畿・起以・伊
奴・怒川・徒・津寸・春・須・寿久・具
年・祢天・帝・亭世・勢計・介(个)・希・遣・気江・衣
乃・農・能止・登曽・楚己・古
わ~んら行や行ま行は行
和・王良・羅也・屋末・満・万波・八・者・盤
為・井利・里・梨美・見比・飛
恵・衛留・流・類・累由・遊武・無・尤不・婦・布
遠・越禮・連・礼免・女部・遍
呂・路与・餘毛・裳保・本

例えば、「は」であれば、
波→ひらがな 八→カタカナ
者・盤→変体仮名(もう使われていない)
となります。

今回の上杉謙信の願文は、
か→「可」、す→「春」、は→「者」、の→「能」
つ→「川」、り→「里」、に→「尓」
と書く傾向が多いように見受けられます。

ちなみに川の字が崩れてひらがなの”つ”となりました。
その他の字は変体仮名となります。

昔の人は「は」だからといって”波”しか書いてはいけないわけではなく、”者”でも”盤”でも好きに使ってよかったのです。
この字の次はこれじゃないとダメというルールも、特になかったように思えます。
くずし字の特性上、「この字の次はこの字を書いた方が便利!」ということは当然あったと思いますが。

関連記事:【古文書独学】これを覚えるだけで変わる! くずし字でよく出る文字8選

このようなかな文字まじりの文も注目して見てみると、その武将のクセを見ることができてなかなか面白いですよ。(直筆に限る)

現代語訳


    武田晴信悪行の事

1)信濃国(長野県)の飯綱、戸隠、小菅の三社を衰退させ、仏供・灯明さえしないこと。

2)塚原の陣のとき、駿河の今川義元の扱い(仲介)で和議を結び、誓紙(起請文)を交わして堅い約束をしておきながら、その翌日には早くもこれを破棄したこと。

3)信濃では寺社・神領を世俗の者どもに分け与え、そのために仏法を破滅させてしまったこと。

4)晴信は何の縁故もないのに、隣国・隣郡へ野心をもって無道の侵略をしたため、敵味方の争いとなり、堂舎・仏堂が焼けてしまったが、これは晴信が間違っているためであること。

5)信濃の神社、仏寺の氏子たちは、滅亡、あるいは流浪乞食にまでなって苦しんでいるが、これらの者たちに仏力による加護を与えないでは、今後は誰も神慮を尊ぶ者がいなくなってしまうであろうこと。

6)すでに晴信は実父である武田信虎を追放し、流浪乞食をさせるような親不孝者であるが、これは全く神仏の御心に叶わないであろうこと。

7)この秋中に武田晴信を退治し、輝虎の本望が達成されるならば、寺社・神領・堂舎・仏堂を前々のように、出来る限り復興することをお約束します。


   1564年6月24日  上杉輝虎(花押)
  
御看経所ごかんきんしょ
    仏前

5)については、以前武田信玄の侵略によって大きな被害を受けた上野国(群馬県)の寺について書いた記事がありますので、ご興味がありましたらご覧ください。

関連記事:武田信玄の侵略からたった一人で寺を守りきった住職の苦労とは!?

上杉謙信の求道心

 上杉謙信は神仏を崇拝することきわめて篤く、ついに妻帯することなく、生涯不犯であったという話は極めて有名な話です。
他にも謙信は弘治3年(1557)1月20日にも更科八幡宮にこのような願文を納めていることからも、概ね世間の謙信の人物像は間違っていないように感じます。
謙信女性説に関しては同意しかねますが(^^;

しかし、神仏の加護を祈り供養するというのは、なにも謙信に限ったことではありません。
むしろ当時の武将たちの誰もが行った常套手段だったのではないかと考えます。

ただ、7歳にして仏門に預けられ、名僧と謳われる天室光育に養育された謙信の神仏へ篤い思いは、他の武将たちのような功利的なものではなかったでしょう。

一方、罵られた武田信玄も、神仏への思いは負けてはいませんでした。
まず、数年後に出家して「信玄」と号しています。
これは、嫡男義信の廃嫡と、関東甲信越地方を襲った大災害がきっかけだったのではないかとする説があるようです。
つまり晴信は、自ら出家することによって家臣領民の不満を抑えようとしたということです。

ちょうど同じ時期に、相模の北条氏康も隠居して家督を氏政に譲っていますが、これも大災害や相次ぐいくさ続きで、不満を抑える目的があったのではないかと考えられています。

また信玄は、永禄元年(1558)8月付で
「信濃国12郡が自分のものとなるか占わせたところ、必ず得られるとの結果が出た。」
「占いの結果、越後の上杉との和を破って戦いを始めた方が良いと出た。」
といった内容の願文を直筆で戸隠神社に奉納しています。

武田晴信(信玄)が永禄元年(1558)8月に戸隠山中院に奉納した願文(戸隠神社所蔵文書)

武田晴信(信玄)が永禄元年(1558)8月に戸隠山中院に奉納した願文(戸隠神社所蔵文書)

信玄も負けじと実に信心深いですね^^
(功利的な匂いしかしませんが 笑)

その後の上杉謙信と武田信玄

 上杉謙信はこの後も関東での戦いに明け暮れます。
この翌年、北条氏康との第一次関宿合戦を皮切りに、上野国で武田信玄と倉賀野城一帯でも争うなど、休む暇もないほどでした。

武田信玄はこの「武田信玄悪行の事」が出された数か月後に、第五次川中島の戦いで上杉勢と対峙しますが、決戦を避けたためか激戦には至りませんでした。
信玄はこの後、外交路線の大転換を図り、父の代からの同盟国である駿河の今川家を攻めます。

関連記事:武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(1)

今川家に娘を嫁いでいた北条家は武田信玄と戦うことを決意。
ここにきて関東の外交情勢に大きな変化をもたらします。
北条家は長年の宿敵だった上杉謙信と同盟を結び、元亀の大乱を迎えるのでした。

永禄12年(1569)頃の関東甲信越地方の外交情勢

永禄12年(1569)頃の関東甲信越地方の外交情勢

上杉氏と武田氏は、その後は大きな戦いが起きることはありませんでしたが、信玄が死去するまで緊張状態が続きました。
信玄死去の報に接した謙信は、越後春日山城で食事中だったらしく、箸を捨て飯を吐き出して
「さてさて残り多き大将を殺したるものかな。英雄・人傑とは、この信玄をこそ言わめ。関東の弓矢柱なくなり惜しきことなり」
と言うや、はらはらと涙を流したと伝えられていますが、真偽のほどは不明です。『古老物語』

らいそくちゃん
らいそくちゃん

ご覧いただきありがとうございました。
上杉謙信の文書を本格的に見るのは初めてでしたので、とても勉強になりました。
上杉七免許? 足利義輝が上杉謙信に宛てた書状から見えるものとは」も書きましたので、ぜひご覧ください~。

参考文献:
岡本良一(1970)『戦国武将25人の手紙』朝日新聞社
戸隠神社文書
山田邦明(2004)『上越市史編 別編1 (上杉氏文書集一)』 上越市史
児玉幸多(1970)『くずし字解読辞典普及版』東京堂出版
丸山和洋(2013)『戦国時代の外交』講談社選書メチエ
など

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