甲斐武田氏

織田信長が出した古文書

義昭挙兵!信長が細川藤孝に宛てた書状から見える意外な一面とは!?

将軍・足利義昭が信長に対して兵を挙げた時に、織田信長が幕臣である細川藤孝に宛てた書状の解読をします。この時期の信長は意外にも将軍とは和平を望んでいて、人質も信長の方が差し出すと交渉しています。信長と細川藤孝の真意とは・・・。いつものように原文と釈文、書き下し文、現代語訳、さらに時代背景も入れてご説明します。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(最終回)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事で、甲相駿三国同盟の最終回です。河越夜戦後、今川・北条・武田の三家がどのような行動を取ったのかをご説明します。小豆坂合戦、東南海大地震、山内上杉氏の滅亡、上田原の合戦、塩尻峠の合戦、戸石崩れ、長尾景虎との対決などがあった末に三国同盟へと至りました。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(5)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその5回目。北条氏康の危機を救ったのは武田晴信でした。晴信は今川義元と交渉し、北条家が河東地域から完全に手を引くという条件で合意にこぎつけます。残るは関東の敵8万余騎。のちに河越夜戦とよばれる戦いは日本三大奇襲の一つとして有名です。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(4)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその4回目。北条氏綱の代に河東地域を奪われた今川義元は、ついに奪還へと動きます。義元は甲斐の武田晴信だけでなく、山内上杉氏、扇谷上杉氏、さらに古河公方足利氏とも連携し、北条大包囲網を敷きます。絶体絶命の北条氏康。この難局をどう切り抜けたのか。
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武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(3)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその3回目。氏綱包囲網が敷かれて北条家が大ピンチの中、当主の氏綱が病死。家督を氏康が継ぎます。一方、甲斐では武田晴信がクーデターを起こして当主となります。これにより、武田-北条間で急速に関係の改善が模索され、甲相駿の外交関係は新たな局面を迎えます。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(2)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。当記事はその2回目。今川義元-武田信虎間での同盟の成立から北条氏綱が駿河へ攻め立てた第一次河東一乱までです。宿敵ともいえる三大名がどのような苦難を乗り越えて同盟へと至ったのでしょうか。
6.信長以外の歴史系記事

武田北条今川 甲相駿三国同盟が結ばれた経緯をわかりやすく解説(1)

今回はVOICEROIDによる解説動画と連動した記事になっています。今川家と武田家、後北条家による甲相駿三国同盟がどのような経緯を辿って結ばれたかを、天文5年(1536)あたりからわかりやすく解説します。さあ、宿敵ともいえる三大名がどのような苦難を乗り越えて同盟へと至ったのでしょうか。
6.信長以外の歴史系記事

「手切之一札」 戦国時代にも同盟破棄を宣言する場合があった

戦国時代の同盟破棄のルール「手切之一札」についてご説明します。「てぎれのいっさつ」といいまして、同盟を破棄する際は双方からこれを送り合い、正式に国交断絶を宣言しました。目次:1.同盟の不安定さ 2.必殺!手切之一札 3.手切之一札はなぜ一つも現存していないのか 4.手切之一札を送らなかった場合のデメリットなど
2.織田信長の年表ちょっと詳しめ

織田信長の年表ちょっと詳しめ 武田信玄 ついに西上作戦を開始する

信長の年表10回目です。おもな出来事は、将軍に意見十七ヶ条を送りつける、美濃国人・遠藤氏の内通、武田信玄 ついに西上作戦を開始、おつやの方の裏切り 岩村城が武田家の手に渡る、延友信光の忠義、武田信玄 遠江で目覚ましい進撃を見せる、信長包囲網崩壊の序曲 朝倉義景 突然の帰国、三方ヶ原の合戦 徳川・織田連合軍の敗北などです。
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武田信玄の家臣にはなぜ「昌」の字がつく人物が多いのかを考察

武田信玄の家臣にはなぜ「昌」のつく人物が多いのかを考察します。 1.「昌」がつく武田家の有名な家来たち 2.家臣にとって最高の栄誉は領地の加増 3.家臣にとって一字拝領もまた大変な栄誉 4.武田信玄の曽祖父・武田信昌の存在 5.信玄はなぜ「昌」の一字を家臣たちに与えたのか 6.「信」の名が少ないのは家格が問題? 7.板