織田信長

3.織田信長の合戦や外交の詳細記事

十四条・軽海合戦 一日二決戦!まさかのダブルヘッダー

永禄4年(1561)。先の森部合戦で勝利した信長は、墨俣城を奪取。大きな損害を受けながらも墨俣城に入り、兵を休まる暇なく痛手を受けた墨俣城の修復に取り掛かっていた。敗れた斎藤軍だが、すぐさま新手の兵を繰り出し、墨俣より北北東6キロの十四条村に布陣。信長もこれを迎え撃つため十九条村に布陣するのだが・・・
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織田信長の年表ちょっと詳しめ 美濃攻略戦

今回は織田信長の年表4回目です。永禄7年(1564)9月後半から永禄10年(1567)9月までとなっております。この間の主な出来事は、上杉輝虎との外交、永禄の政変、加治田城主佐藤父子の内応、鵜沼城の戦い、猿啄城の戦い、加治田城救援戦、堂洞城の戦い、烏峰城の戦い、関城の戦い、武田家との縁組外交、河野島の戦い、北伊勢侵攻、稲葉山城の戦いです。
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森部の戦い 美濃攻略に燃える信長と若き前田利家の武功

桶狭間の戦いに大勝利した信長は、次なる野心を隣国美濃に向ける。美濃は亡き舅の斎藤道三が治めた地であった。永禄3年(1560)。信長は美濃に2度攻めたが、いずれも敗北を喫している。美濃の屈強な侍と、濃尾の国境に流れる3つの大河・・・。何か手を打たねばならぬと考えていた矢先、思いもよらぬ朗報が信長の元にもたらされるのであった。
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織田信長の年表のちょっと詳しめ 桶狭間の戦い~小牧山城移転直後まで

今回は織田信長の年表3回目です。永禄3年5月から永禄7年末までとなっております。この間の主な出来事は、桶狭間の戦い、斎藤義龍の病死、西美濃攻略戦、松平元康との同盟、織田信清謀叛、小牧山城築城、竹中半兵衛の城乗っ取り、犬山城攻略です^^
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浮野の戦い 織田信長の尾張の支配者を賭けた壮絶な合戦

兄弟相克の戦いに勝ち、織田家の権力基盤を固めた織田信長は。かねてより険悪な仲だった岩倉織田家で、御家騒動が勃発。これを好機と見た信長は、犬山織田家と婚姻関係を結び、ついに尾張上四郡の支配者、岩倉織田家に挑むのであった。
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激戦村木城の戦い 若き信長が男泣きをした理由とは

こんにちは~。 今回は信長21歳の時の話、「村木城の戦い」を取り上げます。 現在の地図と照らし合わせて布陣図を描いてみました。合戦の詳細も書いてます。 時は天文23年(1554・年次については諸説あり)1月24日。 家老・林秀貞一党に出陣を拒まれ、万に一つも勝ち目がないとされた中、 信長はなぜ自ら出陣して村木城に攻め込んだのか。
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織田信長の年表のちょっと詳しめ 叔父信光死去~桶狭間の戦い直前まで

今回は織田信長の年表2回目です。天文23年(1554)11月から永禄3年5月までとなっております。この間の主な出来事は、叔父信光の死去、守山城の異変、長良川の戦い、弟信勝謀叛、稲生合戦、岩倉織田家のお家騒動、浮野合戦、信勝謀殺、将軍義輝との謁見、岩倉織田家滅亡です^^
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信長と斎藤道三の知恵比べ?正徳寺の会見

織田信長と斎藤道三の心理戦。「正徳寺」の会見は信長にとって、尾張統一へと踏み出す大きな一歩になったのではないだろうか。様々な説を総合的に見て、ドラマ風に仕立ててみた。
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織田信長の年表のちょっと詳しめ 誕生~叔父信光死去まで

当サイトでは、信長の人生で大きな転換期となった時代時代で、一区切りにしている 他サイトや歴史本、教科書で紹介されている簡単な年表に書いている内容は、赤太文字 年代や日付について諸説ある場合は、年代や日付の個所に黄色いアンダーライン 内容に関して不明確で諸説ある場合は、事績欄に黄色いアンダーライン 当時は数え年であるから、信長の年齢は生まれた瞬間を1歳とする。誕生日についても詳細不明のため、1月1