越前合戦~姉川合戦 信長打倒に燃える朝倉義景が浅井長政へ宛てた書状を解読

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公家の日記から見る近江の情勢の変化

 織田信長が越前征伐に失敗し、わずか10人ばかりの家臣を従えて京都へ逃げ帰ったのが元亀元年(1570)4月30日のこと。
信長は分断された近江の支配と岐阜への連絡通路を取り戻そうと、有力な諸将を南近江に配置します。

峠越えの最中に狙撃されて負傷しながらもなんとか岐阜へと帰陣し、姉川の合戦へ至るまでの記録を1日単位で公家の山科言継ときつぐが遺しています。

以下に載せているものは、山科言継が記した『言継卿記』で、信長や近江の情勢に関係の深そうなものを抜粋したものです。
元亀元年(1570)五月十三日条から姉川合戦までの記述をご覧ください。

(史料1)『言継卿記』より抜粋


五月十三日 庚辰、天晴、未刻より雨降
信長今日江州永原城へ移られ云々。

五月十八日 乙酉、天晴
今朝、日乗上人江州永原城へ織田弾正忠に見舞の為下向云々。
(日乗とは朝山日乗のことで、京都に住む日蓮宗の僧。中立的な立場で織田信長と足利義昭の間を取り持った)
(織田弾正忠とは信長のこと)


五月十九日 丙戌、天晴 午戌時小雨
江州より日乗上人、村井民部少輔等上洛云々。
六角和与の事、相調わず云々。
仍って、今日弾正忠濃州へ下向云々。
(村井民部少輔(みんぶのしょうふ)とは村井貞勝のことで、織田家の吏僚)
(和平交渉に失敗したという意味ですね)


五月二十日 丁亥、雨降
摂州江州等の注進共にこれあり。
六角入道、同右衛門督うえもんのかみ等、一昨日か、甲賀の石部城へ出られ云々。
二万ばかり云々。
織田弾正忠こうづはたにて、鉄砲四丁にて山中よりこれ射云々。
但し当たらず、笠の柄これ打ち折れ云々。
不可説不可説ふかせつふかせつ
(これが有名な杉谷善住坊による信長暗殺未遂事件です)
(六角が2万もの兵を擁していた。これはさすがに多すぎではないかと思いますが、現場を見ていない言継が聞いた風聞ではそうあります。
六角は多数の兵を持っていた。だからこそこのタイミングで兵を挙げ、和平交渉も決裂したのかもしれません)


六月四日 庚子、天晴
江州に於いて小浜合戦午時にこれあり云々。
六角左京大夫入道紹貞(六角承禎)、同右衛門督(六角義弼)以上二三千人討死。
敗軍云々。
申刻武家へ方々より注進これあり云々。
織田弾正忠信長の内、佐久間右衛門尉、柴田修理亮、江州衆進藤、永原等勝軍云々。珍重々々。
(いわゆる落窪合戦、あるいは野洲川の戦いと呼ばれる合戦です。佐久間信盛柴田勝家進藤賢盛永原重虎あるいは重康が活躍しました)

六月十四日 庚戌、天晴
日乗上人通玄寺殿に於いて、去る四日の江州合戦、首注文一巻これを見らる。
三百余りなり。

六月十六日 壬子、天晴、八専入、申刻小雨
村井民部少輔(貞勝)宿へ罷り向い、小川与七郎宿地子の儀申し分これあり。
次いで日乗上人に同じく申し含めおわんぬ。

六月十九日 乙卯、天晴、八専
明日武家江州へ御動座延引云々。
摂州池田内破云々。
其の外なお別心の衆が出て来たと風聞の由。
また、阿州讃州の衆三好三人衆、明日出張するべくの由、注進共にこれあり云々。
(摂津国池田城で政変が発生し、足利義昭・織田信長陣営に属する勝正が、阿波三好氏を支持する者たちに追放された事件です。野田・福島の合戦の前哨戦ともいえるかもしれません。)

六月二十日 丙辰、天晴
武家へ参り、摂州池田二十一人衆、四人衆のうち、同名豊後守、同周防守両人が昨日生害せしめ云々。
総領筑後守(池田勝正)は刀禰山へ落ち行き、次いで大坂へ落ち行き、小姓両人、小者両人ばかり、観世三郎供云々。
御前へ参り、様躰申し入れおわんぬ。
次いで上野中務大輔(上野清信?)五百ばかり、細川兵部大輔(細川藤孝)二百ばかり、一色紀伊守(一色藤長?)、織田三郎五郎(織田信広)百余り、都合二千ばかり、山崎まで打ち廻り云々。
かの方より注進、三好左京大夫(三好義継)の使いとして金山駿河守竹内新助らが参り、種々御談合ともにこれあり。

六月二十六日 壬戌、天晴、未下刻夕立ち雷鳴
摂州池田筑後守(池田勝正)に三好左京大夫(三好義継)同道せしめ上洛云々。
池田の城へ三好日向守(三好長逸)、石成主税助(岩成友通)らこれに入る由の風聞。

六月二十七日 癸亥、天晴、土用、八専終
今日武家御動座延引云々、江州北郡に軍これあり云云。

六月二十八日 甲子、天晴、七月節
江州北郡の軍これあり、浅井討死、其の外昨日巳刻七千ばかり討死云々。
磯野丹波守(磯野員昌)も同じく。
昨日摂州吹田へ敵上云々。
昨日江州北郡合戦、北郡衆、越前以下九千六百人討死云々、越前衆五千余り討死、前波以下云々。
(姉川の合戦のことです。浅井長政と磯野員昌が討死とありますが、実際は生きています。情報が錯綜していたのでしょう。)

言継の日記には越前衆の動向を伝える記述が一切ありませんね。
これは言継自身がそうした噂を耳にする機会が無く、また、朝倉義景は京都に何かしらの使者を派遣していなかったと見ることができるのかもしれません。

近江や摂津の情勢について書かれていましたが、これだけではわかりづらいかもしれません。
その穴埋めを、この文書に担ってもらいましょう。

『信長公記』に記されていること

 信長の足跡を知る上で、もっとも史料的価値の高いとされる『信長公記』です。
この文書は信長の側近く仕えた太田牛一が記したもので、天正元年(1573)以降はほぼ一日単位で信長の行動を詳しく書いています。

今回はこの文書で越前撤退から姉川合戦に至るまでを見ていきましょう。
(※意味が難しくて通じにくいだろう思ったところは、独自の解釈で文字を変えた部分もあります。)

(史料2)『信長公記 巻三』より

越前手筒山攻落されの事

 五月六日、(丹羽長秀明智光秀は)はりはた越えにて(京都へ)罷り上り、右の様子(信長公へ)言上仕り、然る間江州路次通りの為、御警護稲葉伊予(稲葉良通)父子三人、斎藤蔵人佐(斎藤利三)が、江州守山の町に置かれたところ、すでに一揆蜂起せしめ、その村に火煙が守山の南の町口より焼き入りしこと、稲葉は諸口を支えて追い崩し、数多切り捨て、手前の働き働き比類なし。

去りて京付近等の大名の人質を取り固め、公方様へ御成りなされて御進上し、天下の御大事これある時は、時を移さず御入洛あるべくの旨を仰せられ、五月九日に御下り、志賀郡に宇佐山城を拵え、そこに森三左衛門(森可成)置かせられ、十二日に永原まで御出、永原城に佐久間右衛門(佐久間信盛)を置かれ、長光寺城に柴田修理亮(柴田勝家)を、安土城に中川八郎右衛門(中川重政)を御人数残し置かせらる。

元亀元年(1570)織田陣営の主な軍事行動

信長元亀元年(1570)の軍事行動早見表

千草峠にて鉄砲打ち申すの事

 五月十九日(岐阜へ)御下りのところ、浅井備前(浅井長政)、鯰江の城へ人数を入れ、市原の郷へ一揆を催し、通路を止め行うべく仕り、然れども、日野の蒲生右兵衛大輔(蒲生賢秀)、布施藤九郎(布施公保)が協力して、香津畑から千草越えにて岐阜へ帰る道を信長公へ言上する。

そこで杉谷善住坊と申す者、佐々木左京太夫承禎(六角義賢)に頼まれ、千草山中道筋に鉄砲を相構え、十二~三間隔てたところから信長公を差し付け、ニつ玉にて撃ちけれども、天道照覧にて御身に少しかすったのみで、鰐口御退かれて、目出度く五月二十一日に濃州岐阜へ御帰陣なさる。

落窪合戦の事

 六月四日 佐々木承禎(六角義賢)父子は、江州南郡の所々に一揆を催し、野洲川表へ人数を出し、柴田修理(柴田勝家)、佐久間右衛門(佐久間信盛)が懸け向かい、やす川にて足軽に引き付け、落窪の郷にて取り合い、一戦に及びて切り崩して討ち取り、この時挙げた首は三雲父子、高野瀬、水原、伊賀甲賀衆の屈強の侍七百八十人等を討ち取り、江州過半は相鎮まりける。

たけくらべかりやす取出の事

 去る程に、浅井備前(浅井長政)は越前衆(朝倉家)を呼び越し、たけくらべ、かりやすの両所に要害を構えるも、信長公は御調略をもって堀(堀秀村)、樋口(樋口直房)の両名を降伏させ、忠節を仕るべくの旨御請い也。

六月十九日 信長公御馬を出され、堀、樋口謀叛の由承り、たけくらべ、かりやす砦の城兵は取るものもとりあえず退散なり。

信長公はたけくらべ城に一両日御逗留なさる。

このように、先の『言継卿記』とだいぶ一致した部分が多いですね。
『信長公記』もまた、朝倉勢の動向についてほぼ記述が無いのが残念なところです。

私は朝倉家のことについてはあまり調べてこなかったので、越前の様子は全く詳しくありません。
これから示すいくつかの史料は、信長が宛てたもので朝倉義景とはあまり関係ありません。
しかしながら、信長がこのような書状を出すということは、反信長陣営でなんらかの行動があり、信長は彼らの心を繋ぎとめるために以下の書状を発したという見方もできるのではないかと考えます。

さまざまな史料から見える近江国衆の懐柔に腐心する信長の姿

 のちに天下人になった信長ですが、足利義昭と協調路線を歩んでいるこの元亀元年(1570)ですら、伸るか反るかの大勝負をしていました。
浅井長政の裏切りを皮切りに、甲賀からは六角家が南近江を奪い返さんと兵を挙げ、阿波へ逃れた三好勢も摂津池田城を調略して反撃の機会を窺っていました。

支配下に収めたばかりの南近江の国人衆も、人質を信長に出してはいますが、去就に迷う者も少なくなかったのではないかと考えられます。

これから示す史料は、そうした情勢の中で、信長が南近江の国人、永原飛騨守に宛てた書状です。
永原氏は近江国長原、今の滋賀県野洲郡野洲町永原にあたる地区の土豪です。

(史料3)五月八日付織田信長書状『武家雲箋』


其の表の儀に付きて、度々注進の趣き、祝着に候。
殊に家中の者共、少々別心候と雖も、同越一途どうえついちずの覚悟、忠節比類無く候。
併せて其の方の才覚の故に候。
五人衆の事、これまた別儀無きの由、大切に候。
各々見参を遂げ、一礼に及ぶべく候。
金前(=金ヶ崎)に於いて委細を申され候間、守備は相違せず候。
いよいよ心懸けられ、馳走肝要に候。
即時に本意に任すべき事、案の内に候間、是非とも褒美を加うべく候。
なお、福富申すべく候。
恐々謹言

    五月八日   信長(花押)
     永原飛騨守殿

どうやら宛名となっている永原飛騨守も、信長の越前征伐に従軍していたようですね。
金ヶ崎城で周辺の状況について信長に詳細な報告をしていて、帰国後も現地の報告を何度もしていたようです。

部下のうちに反乱者が出たようであるが、五人衆の忠誠を保てているのは、そなたの才覚あってのことであると褒めています。
今後も五人衆が志を同じくし(=同越一途)、覚悟を定めたことを激励し、引見して一礼に及ぶという内容です。
最後に褒美をちらつかせているのも面白いですね。
福富とは信長の側近として、赤母衣衆という馬廻りとして活躍した福富秀勝ふくずみひでかつのことです。

永原氏は、この文書から約1か月後の6月4日に、落窪の合戦で柴田勝家や佐久間信盛らの与力として出陣し、武功を挙げたことが言継卿記には記されています。

なお、信長はこれと似たような内容の文書を、同じく近江国人の永田景弘(刑部少輔)や久徳左近兵衛尉らにも出しています。

続いて同時期に信長が実際に近江の国人領主に知行を加増させた文書です。

(史料4)蒲生賢秀・同賦秀父子宛元亀元年五月十五日付信長安堵状案(『隠心帖』松下幸之助氏所蔵文書)

其の方当知行分の内、寺庵方、其の方諸事前々の如くたるべし。
たとい新儀の課役は国並(くになみ)たりと雖も、其の方の分領に於いては、相除くの状件の如し。
  元亀元年(1570)五月十五日    (信長朱印)

     蒲生左兵衛大夫殿
     同忠三郎殿

蒲生左兵衛大夫(賢秀)は近江国日野一帯を支配する大身の領主で、少し前までは六角氏の重臣でした。
永禄11年(1568)9月の信長上洛軍に最後まで抵抗した末に人質を出して降伏しました。
その人質が「蒲生が子息目付常ならず、只者にては有るべからず。」と信長に言わしめた鶴千代で、信長は自らの娘を娶らせて「忠三郎賦秀」と名乗らせます。
のちに会津120万石の大名に出世した蒲生氏郷のことです。

信長はこの父子に領地を加増して心をつなぎとめたのみならず、新参の衆でも斯くのごとく忠節を励めば厚遇してくれるという宣伝効果もあったのかもしれませんね。

もう一つ蒲生関連の史料をご覧いただきましょう。
少し史料的には信憑性に疑問が残るものですので、参考程度に留めておいてください。

(史料5)蒲生文武記(二 上略)


浅井一党ニ佐々木カ残兵トモ加リ蜂起シテ、近江ノ通路ヲ差塞ノ由聞ヘケレハ、信長公先(まず)江州ヘ発向アリ、国中ノ城々ヘ仕置ヲ被為仰付(仰せつけられ)、守リノ人数ヲ残シ置レ、今度ノ忠節ヲ尽セシ輩ニハ、本領ニ御加増ノ地ヲ給リケル、蒲生父子ニモ御加増ノ領知ヲ給(たまわり)テ、本領日野城ヘ被残置(残し置かれ)ケル、佐々木カ一族愛智郡鯰江ノ城ニ楯篭り、市原近辺ノ者トモヲ集テ一揆ヲ催シ、美濃国ヨリ京都ヘ通路ヲ差塞カントスレトモ蒲生賢秀打出(打ち出でて)追散(追い散ら)シケレハ、自由ニ不能働(うごくことあたわず)、信長公モ無恙(つつがなく)千種越ヲ下向アリケルトナリ、ステニ岐阜ニ御着有テ、蒲生領分ノ内ヘハ軍役ヲ御免アリケル

(以下略)

大体お分かりいただけたでしょうか。
先に述べた言継卿記と信長公記の内容とも一致する部分が多いですね。

このように複数の史料からも、信長が臣下に加えて間もない近江国衆の心を繋ぎとめるのに腐心する様子が窺えて大変興味深いです。

近江を中心に繰り広げられた知られざる両陣営の調略合戦

 姉川の合戦は歴史の教科書にも登場するほど有名な合戦の一つとなっていますが、実際には合戦が始まる前から戦いが始まっていました。
すなわち、調略合戦です。

今回の記事は、最後に3点の史料を紹介して終わりにしたいと思います。
これまで見ていただいたように、信長も決して天下人へと一直線へ上り詰めたわけではなく、伸るか反るかの危ない綱渡りの連続でした。

まずは朝倉義景の影響下にあった若狭国の大名、武田氏に宛てた信長の書状からご覧いただきましょう。

(史料6)若狭武田信方宛六月六日付信長朱印状『尊経閣文庫文書』


来たる二十八日江州北郡に至りててだてに及ぶべく候。
其れに就きて高島郡に御動座たるべきの旨に候。
此の時に候条、参陣を遂げられ、御馳走おんちそう肝要に候。
恐々謹言。

    六月六日    信長(朱印)
     武田彦五郎殿

宛名となった武田彦五郎とは、朝倉義景の庇護を受けて越前一乗谷にいる武田元明の一族かと思われます。
この当時の若狭国は揺れに揺れていて、以前は武田氏の臣下だった逸見氏と粟屋氏は信長・足利義昭に属していました。
一方で主家の武田氏は朝倉義景の影響下にありました。

信長はその武田氏に対し、われらに味方して近江の高島郡へ出陣し、浅井・朝倉軍を牽制せよというのがこの書状の内容です。
弱小勢力の武田氏にとっては信長・義昭につくか朝倉につくかで大きく揺れたことでしょう。

しかし、結果としては武田氏は動きませんでした。
これは推測の域を出ませんが、朝倉義景もまた味方を増やそうと書状を乱発していたのではないかと思います。

(史料7)近江修理大夫某宛書状写『士林證文』


今十八日、浅井郡へ着陣せしめ候。
貴国も早々かの表に在陣尤もに候。

一、当四日承禎(六角義賢)父子、諸牢人ヲとりあつめ候て、野次郡(=野洲?)へうち出、相働候所ニ、柴田(勝家)佐久間(信盛)所ニありあい候よしニて馳せ向かい、勝利を得候て、くび数岐阜へ到来、斜めならず候事。

一、同十日所々一揆共ヲ催し、貴国の居城近辺へ逆徒相働き候ところ、早速跡敷、その上承禎父子いけ取ニ致された事、誠ニ是ハ江州の御手柄共候事、

一、承禎父子の事、宮の御聞き候て、助命あり度の事、これも貴国ノ御心みこころ次第候。

くはしくは織田金左衛門口上申し含め候。

恐々謹言

  六月十九日
   近江修理大夫殿    (信長花押)
           人々御中

こちらの史料は信長が近江修理大夫に宛てて、我らに味方するようにといった内容の書状です。
6月28日が姉川の合戦なので、少しでも味方を増やさんと書状を出しまくっている信長の姿が思い浮かびます。

近江修理大夫なる人物に関しては不明な点が多く、はっきりしたことはわかっていません。
今日の時点でもっとも有力な説は、六角承禎の縁者で南近江に所領のあった人物で、六角義秀という人物です。
しかしながら、彼の没年についても永禄12年(1569)説もあり、この文書が元亀元年(1570)のものなので説明がつきません。

この文書が発給された6月19日時点で参陣を迫る書状があるということは、この時点で参陣していないことを意味しているのではないかと考えます。
恐らく去就に迷っていたのでしょう。

文中に六角父子を生け捕りにしたとありますが、現在の研究ではこれは真っ赤な偽りであることが明らかになっています。
先述した山科言継の日記には、六角承禎が討死したと記されていますので、情報が錯綜していたのかもしれません。

最後の条を要約すると、承禎父子のことを宮様が聞いて、助命したいとの仰せであるが、これも貴国の意思次第である。

つまり、承禎の命運はそなたが我が陣に参陣するか、しないかで決まる。
情報が錯綜していることを信長が利用し、とにかくこちらへ呼びたいという意図だったのかもしれません。
不明な点が多いので結論は出せませんが、両陣営による調略合戦の末に情報が錯綜し、京都では真偽取り混ぜてさまざまな風説が流された結果、公家の山科言継も事実でないことを記したのかもしれませんね。

なお、「宮」とは正親町天皇のことではなく、その弟で比叡山延暦寺門跡もんぜきとなっていた覚恕(かくじょ)のことです。
この翌年、覚恕は信長の比叡山焼き討ちにより、甲斐国へと亡命します。

まとめ

 本記事最後の史料です。

(史料8)六月二十八日付細川藤孝宛信長書状案『津田文書』


今日の時、越前衆並びに浅井備前守(浅井長政)、横山後詰の為に、野村と申す所まで執り出し、両所の備えの人数、越前衆壱万五千ばかり、浅井衆五、六千もこれあるべく候か。

同じきざみ、此の方より切り懸け、両口一統に合戦を遂げ、大利を得候。

首の事は更に校量(きょうりょう=くらべ考えること)を知らず候間、注するに及ばず候。

野も田畠でんぱたも死骸ばかりに候。

誠に天下の為に大慶これに過ぎず候。

小谷の城は攻め崩すべしといえども、山景(=山岳地帯のこと?)の由に候間、先ず相抱え(=包囲して持久戦)候。

屈強落居ほどあるべからず候。

横山に立て籠もり候とも、種々詫言しゅしゅわびごとを申し候へども、打ち果たすべき覚悟に候。

今明日の間たるべく候。

即ち佐和山の儀を申付け、じきに上洛致すべく候。

これらの趣き、御披露あるべく候。

恐々謹言。

   六月二十八日   織田弾正忠信長
    細川兵部大輔殿


 (猶々書き部分)
今度このたび岡崎家康(徳川家康)出陣、我等手廻りの者ども、一番合戦の儀を論ずるの間、家康に申付けられ候。

池田勝三郎(池田恒興)、丹羽五郎左衛門(丹羽長秀)相加え、越前衆に懸かり候て、切り崩し候。

浅井衆には手廻の者どもに、其の外相加わり、相果たし候。

何れももって粉骨を抜きんで候。

御察しに過ぎ候。

以上。

これは申すまでもなく、6月28日に起きた姉川の合戦を示す書状です。
6月28日その日のうちに、信長が幕府奉公衆の細川藤孝に宛てていますね。
興味深いことに、山科言継の日記には、6月28日その日にこの合戦の記述をしています。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

大変長い文章をご覧いただきありがとうございました。
信長側からの史料ばかりで心苦しい限りですが、これを裏返せば反信長陣営がどのように動いたかを間接的に推察することもできます。

らいそくちゃん
らいそくちゃん

合戦は数ではなく士気や統率力であるとはよく言いますが、実際には双方ともに味方の数を増やさんと、必死に書状を書き送っていました。
関ケ原の合戦前夜の徳川家康もそのような感じでしたね。
これも古文書として現存しているから家康が必死に手紙を書いてたと分かるわけで、実際には石田三成らも同様に書状を乱発していたと考えられます。

つまり、いくさは兵の数が重要です(^-^;

参考文献:
山本博文,堀新,曽根勇二(2013)『戦国大名の古文書 東日本編』柏書房
山科言継(1915)『言継卿記,第四』国書刊行会
太田牛一(1881)『信長公記.巻之上』甫喜山景雄
松原信之(1996)『越前 朝倉一族』新人物往来社
水藤真(1981)『朝倉義景 (人物叢書)』吉川弘文館
奥野高廣(1988)『増訂 織田信長文書の研究 上巻』吉川弘文館
谷口克広(1995)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館
鶴﨑裕雄,瀬戸祐規(2007) 論文『『蒲生文武記』 : 軍記と和歌の接合』関西大学国文学会 ISSN: 零3898628
林秀夫(1999)『音訓引 古文書大字叢』柏書房
中田祝男(1984)『新選古語辞典』小学館
鈴木一雄,外山映次,伊藤博,小池清治(2007)『全訳読解古語辞典 第三版』三省堂
など

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