こんばんは~。
石山軍記の6話目です。
応仁・文明の乱が終結し、将軍・足利義尚が病死したあたりからはじまります。
それから細川政元の天下を経て時代は両細川の乱へ・・・
今回はそうした時代の話です。
中盤に三好長慶、終盤に本願寺のことが記されています。
第二章は今回で終わり、次回からは第三章へ移ります。
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- 石山合戦を本願寺側の視点で読みたい
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- 応仁の乱から三好長慶までの流れを知りたい
第二章 足利将軍家盛衰並びに顕如上人門跡に任ぜらる(二)
本文(18ページ目)
(前回からの続き 長享元年(1487)江州佐々木高頼が)
将軍家に背くがゆえに、義煕公(初め義尚)征伐あらん ※1とて、江州に(?難読すぎて私には読解不能。おそらく下向と同じような意味かと)ありて合戦年を越えれども、平かず(=平定できず)。
延徳元年正月廿六日(1489年1月26日)義煕公(が)江州(=滋賀県)の陣中に於いて薨じ給う。
※1迚=とて
よって義政公の舎弟義視の嫡子・ ※2義材を養子とせられ、家督を継がしめ給う。
翌年正月(1月)七日、義政公薨去し慈照院殿と号す。
同年七月、義材公(が)征夷大将軍に任ぜらる。
※2義材 この軍記には義村と書いているが、正しくは義材(よしき)である。
しかるに応仁の乱より ※3管領四職のともがら、共に威を争い、その上に立たんことを志して両細川再び不和となり、明応二年(1493)の冬時の管領細川左京大夫政元の計らいとして義材公を退け、慈照院義政公の舎弟・伊豆公方政知の嫡男を取り立て、将軍と仰ぎ、これを義澄公と号す。
※3管領四職 (かんれいししょく)とは、室町幕府の軍事指揮と京都市中の警察・徴税等を司る守護大名の赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏の4氏のこと。
細川政元 (1466~1507)
細川勝元の嫡男として細川京兆家を相続。
8代将軍・足利義政、9代将軍・足利義尚と良好な関係を維持し、実権を掌握する。
足利義材が10代将軍に就任すると、しだいに幕府と距離を置き始める。
足利義政の妻である日野富子らと組み、明応の政変を引き起こして復権を果たし、細川京兆政治を確立させた。
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しかるに前将軍・義材公を中国(地方)に下向ありて、義尹と改められ、防州(山口県)の ※4大内義隆を頼み上洛の儀を企てらるるに、 ※4義隆これを受けがい、義尹を守り立て、義兵を挙げて永正五年(1508)(に)京都に攻め上り、将軍義澄公を追い出して、義尹を再び将軍となし奉り、義尹再び改名ありて義稙と号す。
※4ここには大内義隆とあるが、正しくはその父にあたる大内義興である。
前将軍・義澄公は、江州(滋賀県)を没落す。
そのみぎり、二人の御子を細川左京大夫政元と、播州(兵庫県)の赤松とに預け置くる時に、細川右京大夫高国(は)赤松が方より義澄の長男を迎え、京都に入って義稙将軍を淡路へ退け、義澄公の長男を将軍とし、これを義晴と号す。
大永元年(1521)十二月(に)征夷大将軍に任ぜらる。
しかるに細川政元に預けられし若君・義維は阿波国(徳島県)におわせしゆえに、阿波の御所と申す。
この君・天下の主に成らんことを思い、細川の家臣・三好海雲(=元長)、同じく三好長慶の両人に委細を頼みければ、三好海雲大軍にて京都に攻め上り、将軍義晴公を江州朽木(滋賀県)へ追い退けたりしに、細川高国再び軍勢を催し、三好を追い払い、義晴公を京都へ帰せり。
細川高国 (1484~1531)
細川政春の子。政元の養子。
長きにわたる細川家の権力闘争に勝利して天下を掌握。
しかし、いくさに勝ったり負けたりと安定はしなかった。
細川澄元の子・晴元と天王寺で戦い敗北。
最期は潜伏先の尼崎で自害した。
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その後、三好長慶また攻め上りて義晴公を再び江州に退去なさめしゆえ、義晴公なにとぞして長慶を亡ぼさんとおぼさけれども、(長慶は)武勇智謀の者にて戦うたびに義晴公利を失い、いよいよ無念に思し召されしが、諸国動乱の際にて ※5御味方する者なく、天文十九年(1550)五月四日、義晴公ついに恨みを含んで江州穴太に薨去し給い、万
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※5御味方する者なくとあるが、南近江の大名・六角定頼が最大のバックスポンサーだったはずだが・・・。
三好長慶 (1522~1564)
細川家家臣。
父が細川晴元に討たれたのち、和睦して晴元に仕える。
晴元が覇権を握る上で欠かせない存在となるが、政敵であり父を死に追いやった同族の三好政長と対立。
その後細川氏綱陣営に鞍替えし、 晴元に反旗を翻す。
摂津国江口城の戦いの勝利により主君・細川晴元を追放し、政治の実権を握った。
しかし、嫡男と兄弟の相次ぐ死により心身に支障をきたし、若くして病死した。
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本文(19ページ目)
松院殿と号す。
ここにおいて御嫡子・義藤(が)征夷大将軍に備わり給い、義輝公と改められ、やがて三好と御和睦の上、御帰洛ありて室町の御所へ入らせ給いしかば、これより五畿内しばらく平定とはなりたるなり。
しかれどもかくの如く代々の将軍、あるいは、衰えまたは栄え、四海戦地(に)ならざる無きゆえに、京都の困窮大方ならず。
主上(=天皇のこと)を始め奉り、公卿殿上人も安座し給うことあたわず。
しかれば禁中の式礼も行われず、内裏大破に及べども、御造営の御沙汰もなし。
また、 ※6摂家大臣の館も荒れ果て、狐狸の住家に均しかりしは、浅ましき世の有り様なり。
※6摂家 (せっけ)とは藤原氏嫡流の5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。
大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。
大臣とは太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣のこと。
この文脈で見ると、かつては権勢をふるった公家と守護大名といったところか。
しかるに弘治三年(1557)九月五日。
後奈良院崩御あらせられしによって、泉涌寺に御葬送し奉るべきところ、その御営みさえも調わず、将軍はあれども名のみにて物事自由にし給うことあたわず。
このとき、大坂石山寺の顕如上人は、天子(=後奈良天皇)の崩御を御悔やみの為、上洛ありしが、この趣を聞き給い大いに嘆かれ如何に戦国なれば ※1とて、主上御葬送の御営みの料を奉る程の者なきとは、諸国の武士等、王土に住み国郡を掠め領しながら、もったいなき事なりいで、本願寺より数多の金銀米穀を調進し、これをもって御葬送を仕り遂げんとて、やがて万端を整え事故なく相済後の御法事等まで営まれけり。
その翌永禄元年(1558)、正親町院(が) ※7践祚ありて顕如上人、先帝御葬式の料(を)奉進ぜし事神妙なりと ※8叡感もっとも浅からず。
※7践祚 (せんそ)とは、皇嗣(こうし)が天皇の地位をうけつぐこと。
※8叡感 (えいかん)とは天皇が感心・感動なさること。
翌二年十二月十五日、顕如上人(は)年十七歳にして、初めて ※9門跡に任ぜらる。
これ本願寺 ※9門跡の最初なり宗祖親鸞上人より、今顕如上人まで十一代の間官は大僧正、位は法院までに任ずといえども、 ※9門跡の号は免許なかりしに、当上人御若年にして門跡にならるること ※10宗旨の繁昌たるべき ※11瑞相なりと門徒のともがら悦びて、各々これをぞ賀しにける。
※9門跡 (もんぜき)とは皇子や貴族の子弟が住職となっている寺院のことを指すが、この文脈では浄土真宗の真の継承者を指すのだろう。
※10宗旨 (しゅうし)とは宗教の流派や宗門のこと。
※11瑞相 (ずいそう)とはめでたい事が起こるしるし。
吉兆のこと。
顕如上人は証如上人の嫡男にして本願寺十一代目の住職になられ、 ※12御台所は細川左京大夫晴元の養女なり。
(のちに教覚院如春と号す。これ教如上人・准如上人の母公なり)
さても正親町院 ※7践祚し給うといえども、御即位の
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※12御台所 (みだいどころ)とは当主の奥方という意味。
本文(20ページ目)
御儀式(は)行われず、これまた軽からざる事なれども、当時これを執り行わるる事あたわず。
ついに永禄三年(1560)の春に至るまで御即位の御沙汰なきを顕如上人なおまたこれを嘆かれ、なにとぞ御儀式の料を調進せんとおぼされけれども、領分の収納少なく、これは加賀・能登・越中(石川県と富山県)の農民等 ※10宗旨を表に立て、おのれおのれが私欲を専一となすゆえに、本寺の役人を軽んじ、事を左右に寄せ上納せず。
よって本願寺には当時貯蓄の財賓少なければ、上人も詮術(せんすべ)なく様々に心を苦しめられけり。
(次回へ続く)
ご覧いただきありがとうございます!
諸大名だけでなく、とうとう本願寺の領民が悪いと言い出しました(笑)
次回からは第三章「正親町院御即位」です。