こんばんは~。
大分間が空いてしまいましたが、石山軍記の10話目です。
今回から第五章「織田信長大軍を率して上洛す 並びに明智十兵衛光秀信長に仕ふ」に入ります。
タイトルは信長上洛ですが、内容はほぼ光秀回です。
終盤にやたらと長い光秀と妻の会話があります(笑)
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- 明智光秀の無名時代が、どのように描かれているのかを見たい
第五章 織田信長大軍を率して上洛す 並びに明智十兵衛光秀信長に仕ふ(1)
本文(29ページ目)
去るほどに、織田上総介平信長は、新公方義昭公に御上洛をさせ奉り、怨敵三好等を誅伐せんと大軍を卒して発向あり。
江州(滋賀県)の ※1佐々木六角入道承禎(は)、公方家の命に従わず。
よって、まず彼を打ち破り、御上洛の道を開かんと、同国小谷の城主、浅井備前守長政としめし合わせて、永禄十一年(1568)九月五日、濃州岐阜を出馬あり。
※1 佐々木六角入道承禎
滋賀県南半分を支配した六角義賢のこと。
足利義昭を奉じて上洛することを公言していた織田信長に、当初は協力的でしたが、三好三人衆らの調略に応じて立場を翻します。
その結果、足利義昭は六角領から出ていかざるを得なくなり、若狭の武田家→越前の朝倉家→美濃の織田家を転々としました。
この時、新公方義昭公の御推挙によって、明智十兵衛光秀を召し出されける。
そもそも、
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本文(30ページ目)
この明智光秀は美濃国(岐阜県)の守護職、土岐(氏)の末流にて、代々濃州明智の城主たり。
足利尊氏天下一統の節、土岐伯耆守頼清(が)忠勤あるをもって、美濃国の守護職となる。
頼清の息(=子)、大膳大夫頼廉(が)家督(を)相続し、次男下野守頼兼は明智の城に居するがゆえに、明智下野守と称す。
頼兼より八代の後胤、明智駿河守光綱、(の)その子(が) ※2十兵衛光秀なり。
光秀幼少の時、父の光綱病死す。
よって、(光綱の)舎弟、兵庫之助光安に家督を譲り、光秀が事を頼み置きしかば、光安(が)美濃国明智の城主と成りしに、光秀幼少といえども、才智仁に優れ、万事につきて器用なりしにぞ、叔父光安(は)、この子(が)成長ののちは、家をも興すべき者なりと、寵愛して育てける。
※2 明智光秀の出自については諸説あり、現在でも議論がされています。
この石山軍記の光秀像は、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀に近いですね。
時に美濃国(岐阜県)は斎藤山城守道三(が)、一国を横領したりしかば、光安も彼が旗下となりしなれども、
斎藤道三は
「明智父子武勇の聞こえあり。殊に土岐の一族なれば、軽んずべきにあらず」
とて、丁寧にもてなしける。
斎藤道三肖像(常在寺蔵)
斎藤道三(利政・長井規秀など) (1494~1556)
美濃一国を主家の土岐家から奪い取った人物。
稀代の策略家として美濃の蝮と恐れられた。
のちに娘を織田信長に娶らせ、強固な同盟関係を築き上げるも、家督を譲った義龍と戦い敗死した。
関連記事:「美濃一国譲り状」斎藤道三が信長に託した古文書を解読
光安父子(は)、その志操を感じ、しばしば忠功を尽くせり。
しかるに道三が嫡子、治部大輔義龍は、 ※3大悪無道の人にて舎弟二人を殺し、父道三とも合戦し、ついに父をも討ち取り、稲葉山の本城を乗っ取りて当国を押領し、国人(領主)幕下の輩、己に従わざる者は片っ端より攻め潰して、威を国中に振るいしかば、父を殺せし悪人なれども、時の権威に恐れ、皆降参して幕下となる中に、明智光安(は)彼が(=の)悪逆を憎みて従わず。
これによって義龍は大いに怒り、大軍を差し向け攻め討たんとす。
※3 大悪無道の人にて
それは一方的な見解でしかないことは皆さんの熟知するところ
光安 ※4入道この由を聞いて、甥の十兵衛光秀を招き
「我は当城を守りて義の為に討死すべし。汝は ※5我が倅や平次光春、次男光忠(の)両人を伴い当城を立ち退き、明智の家を再興してくれよ」
とありければ、光秀曰く
「それがし幼少より親にも勝る大恩を受けながら、今この難儀に臨んで立ち退かんこと(は)武士の恥辱なり。共に討死つかまるべし」
と有を(=道理を)光安(に)さまざまに諫め
「汝もし我が恩を思わば、二人の倅に不便を加え、汝の郎党ともなして役に立つべき者ならば、我が名跡を立てさせ、くれぐれも報恩にはこれに過ぎたることあらじ」
と利害を説いて諭しければ、光秀ついにその理に服し、是非なく叔父の
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※4 入道したとは仏門に帰依したことを意味しますが、その可能性は低いでしょう。単なる光安上げの表現かと思われます。
※5 我が倅
光秀一番の腹心として活躍する明智秀満のことかと思われます。
彼は左馬助(さまのすけ)と名乗り、アクションゲーム「鬼武者」の主人公のモデルとなりました。
本文(31ページ目)
苦戦するを見捨て一族を引き連れ、明智の城を立ち退けり。
後にて光安今は心安しと・・・。
やがて大軍を引き受け苦戦数度におよび、ついに討死をぞなしたりけり。
然るに義龍一族(は)共の死骸の無きによりて、厳しく詮議を為しとかや。
かくて明智十兵衛光秀は城を出てよりしばらく西美濃の片山家に隠れて動静を窺いけるに、落人の吟味(が)厳しければ、同国にいる事かなわず、江州(滋賀県)にさまよいけるうち、用意の金子も使い捨て、今は詮術無く郎党どもには皆々暇を取らせ、譜代の者は重ねてめぐり合うべき約束(を)なして、各々が所緑を求め、皆散り散りに別れたり。
光秀は従者もなく、徒弟二人と我妻を引き連れて、五畿内を彼方此方と流浪するうちだんだん零落に及び、かくては立身叶うまじと二人の徒弟はいまだ若年なれば、京都嵯峨野の奥に田家(=帰農)してある叔父光安が妻の舎弟の方へ預けおき、それより西国筋へ赴かんと思い、妻に向かいて言うる様
「我いまかくの如く流浪の身となり、目的無き旅にさまよう事なれば、汝はしばらく上方に在りていかもして三年の星霜を送るべし。我(は)そのうちには立身を為し、元の如く夫婦とならん。もし三年を過ぎて音信なくば、何処へなりとも嫁して後栄を楽しめよ。その間は暇を遣わすべし」
にと妻聞きて、悲嘆に沈み
「それは御もっともなる仰せなれども、女は一度嫁しては夫に従いて喜び悲しみを共にする(の)が習い。今君に捨てられて、三年の月日を待たんも、若き女の身にて他人の中にならば、野武士山賊に誘われ女の道を破らんも計られず。また、空しく死したらんには、夫の出世に遭うことも叶わじ。何国までも伴い給へ。女ながらも然のみ、君の足手まといには成らまじ。せめては起き臥しのご苦労無き様、互いに憂きを物語りなば、少しは御身の保養ともに相成り候わん。 ※6乞い願わくは、九州の果てまでも相供して給わるべし。」
と申しけるゆえ、光秀もさすがに恩愛の捨て難く
「しからば伴い行くべし」
とて夫婦打ち連れ、武者修行旁々西国の方へ赴き、山陰山陽四国九州路まで、あまねく廻国して利要の地を考え、また、諸大名の剛臆家中の制法を探りてここかしこに逗留し、風俗を見聞…
(次回へ続く)
※6 庶幾(こがねがわく)は=乞い願わくは
ご覧いただきありがとうございます。
ついに明智光秀がでましたね。
ここまでの光秀像は、大体大河ドラマと同じ感じですね。
二人の弟を京都嵯峨野で帰農している光安の妻の弟に預けという文には驚きましたが(^-^;
タイトルは信長の上洛だけど、ほぼ光秀回でしたね。
恐らく次も光秀回になるかと思います。
お楽しみに!
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